市場は、社会より偉いのか――カール・ポランニーが問い直した、経済と民主主義ーー
介護を必要とする人がいるのに、職員が足りず、受け入れる事業所が見つからない。地方のバスは赤字を理由に廃止され、車を運転できない人が病院や買い物へ行けなくなる。働いても雇用は安定せず、家賃や教育費のために、将来の選択肢を小さくして暮らす人がいます。
経済の言葉では、人手不足、採算性、需給、労働移動と説明されます。どれも社会を理解するために必要な言葉です。けれど、その数字の内側で失われているのは、一人ひとりが生きられる暮らしではないでしょうか。
市場で利益を生まないものは、本当に価値が低いのでしょうか。「市場に任せる」とは、政治が何もせず、自然な成り行きに委ねることなのでしょうか。カール・ポランニーが残した最も大切な問いは、市場をなくすべきかどうかではありません。市場は誰によって作られ、何を商品として扱い、その利益と危険を誰へ配るのか。その境界を民主主義によって決められるのか、という問いでした。
二つの戦争とファシズムを見た思想家
ポランニーは1886年にウィーンで生まれ、ブダペストで育ちました。法律を学び、第一次世界大戦への従軍後は、ウィーンの経済・金融誌で国際問題を担当します。1933年、ファシズムの台頭によって英国へ移り、労働者教育に携わりました。その後、米国で執筆した『大転換』は1944年に刊行され、1947年からはコロンビア大学で経済史と経済人類学の研究を進めました。
彼は、価格や景気を数式で説明する狭義の経済学者というより、経済史、政治、社会学、人類学を横断する政治経済思想家でした。『大転換』が考えたのは、19世紀に形成された市場社会が、なぜ社会を不安定にし、自由主義的な国際秩序の崩壊、二つの世界大戦、ファシズムへ至ったのかという問題です。
戦争や独裁を、指導者の異常な人格や民族的性質だけで説明しない。その背後で、人間の生活を市場の変動へ従わせた社会が、どのような反発を生んだのかを見る。ここにポランニーの独自性があります。
「市場に任せる」ことも政治である
市場が動くには、所有権、契約、通貨、会社制度、裁判、警察、交通網が必要です。人が労働者として移動し、土地が売買され、企業が債権を回収できる条件も、法律と行政によって整えられています。自由市場は、国家が存在しない場所に自然発生した秩序ではありません。国家が特定の権利と制度を作り、それを強制することによって初めて成立します。
したがって、「市場に任せる」という政策も、政治の不在ではありません。何を売買の対象にするか、企業と労働者のどちらに強い交渉力を与えるか、利益を私的に帰属させる一方で、損失を個人や社会へ負わせるのか。そうしたルールを選ぶ、政治的な決定です。
本当の対立は、市場か国家かではないのでしょう。国家が作る市場を誰が支配し、誰が利益を得て、誰が危険を引き受けるのか。市場のルールを市民が変更できるのか、という民主主義の問題です。
国家が関与すれば、自動的に公正になるわけでもありません。国家が大企業、金融機関、地主に有利な市場を作ることもある。だから必要なのは「政府に任せる」ことではなく、市場と政府の双方を、民主的な統制と公開された議論の中へ置くことです。
経済を社会から切り離すという実験
ポランニーは、近代以前の経済活動が、家族、地域、宗教、慣習、政治などの社会関係の中に「埋め込まれていた」と考えました。市場や交易がなかったという意味ではありません。市場交換だけが、人間の行動と社会の価値を決める唯一の原理ではなかったということです。
人々の生活は、交換だけでなく、互いに贈り合い支え合う互酬、共同体や国家が財を集めて配る再分配、家族や地域の中で必要を満たす営みによっても維持されてきました。ポランニーは、経済を利益最大化の問題だけでなく、人間が自然や他者との関係を通じて生活を維持する過程として捉え直しました。
近代の自己調整的市場は、この関係を逆転させます。経済を社会の中へ置くのではなく、社会全体を価格、競争、収益性の論理へ従わせようとする。経済を社会から独立した領域として扱う思想そのものが、歴史的に作られたものだという指摘は、日本のポランニー研究でも重視されています。
ただし、ここで昔の共同体を美化してはいけません。伝統社会には相互扶助と同時に、身分制、家父長制、閉鎖性、少数者への抑圧がありました。市場を共同体へ戻せばよいのではない。市場を、人権、民主主義、福祉、地域、自然という現代の規範の中へ置き直さなければならないのです。
人間と自然を「商品」として扱えるのか
ポランニーは、労働、土地、貨幣を「擬制商品」と呼びました。商品とは本来、販売を目的に生産されたものです。けれど労働は、販売するために製造された品物ではありません。それは働く人の身体、時間、感情、人生です。
土地も人間が生産したものではなく、自然であり、住宅や地域、生態系の基盤です。貨幣も通常の商品とは異なり、国家制度、金融制度、社会的信用によって成り立っています。それでも、労働、土地、貨幣を普通の商品と同じように価格の変動へ委ねれば、傷つくのは抽象的な生産要素ではありません。
「労働力が余った」という言葉の陰で、職と所得、社会とのつながりを失う人がいる。「土地の資産価値が上がった」という数字の陰で、住民が住み慣れた地域から押し出される。金融市場の混乱は、預金、雇用、企業、年金、公共財政を通じて、取引へ直接参加していなかった人の暮らしまで揺さぶります。ポランニーは、これらを全面的に市場へ委ねれば、人間、自然、経済社会そのものを破壊しかねないと考えました。
介護職員を、削減可能な人件費としてしか扱わない制度を考えてみます。配置人数や賃金を抑えれば、一時的には支出を減らせるでしょう。しかし、働く人が疲弊して離職し、支援される人の生活も守れなくなれば、制度は続きません。労働を安く買える商品としてだけ扱えば、最後には、その労働を担う人間そのものを失います。
土地も同じです。住宅は資産であると同時に、人が安心して眠り、家族や地域との関係を築く場所です。森林や農地、河川は収益を生む資源である前に、人間と他の生物が生きる環境です。価格は大切ですが、人がそこで生きてきた時間や、失えば取り戻せない自然の価値まで、完全には表せません。
社会を守る力は、福祉にも排外主義にもなる
市場化によって人の生活と地域が不安定になれば、社会は自分を守ろうとします。労働法、最低賃金、社会保険、公営住宅、金融規制、環境規制、公共サービスは、市場の力を制限し、人間の生活を守ろうとする制度です。ポランニーは、市場を拡大しようとする動きと、社会を市場の破壊から守ろうとする動きのせめぎ合いを「二重運動」として捉えました。
しかし、社会の自己防衛が、必ず福祉や民主主義へ向かうとは限りません。雇用や医療、介護、住宅を支える制度へ進むこともある。一方で、外国人、少数者、生活保護受給者などを共同体から排除し、「自分たちだけを守れ」と要求する政治へ向かうこともあります。
市場から社会を守る代わりに、社会から誰かを追い出すことで、守られたような感覚を作る。右派ポピュリズムは、しばしばこの方法を使います。
排外主義の原因を、経済的不安だけへ還元することはできません。歴史的な差別や文化的対立、政治家やメディアによる意図的な扇動もあります。けれど、雇用が不安定になり、公共サービスが失われ、将来を見通せなくなった人が「社会に守られたい」と願うこと自体は理解できます。
中道・リベラル・左派が、その願いを生活へ届く制度に翻訳できなければ、右派が別の答えを差し出すでしょう。問題を作った市場の制度ではなく、身近な少数者を敵にして不満を処理する答えです。市場化への不安を理解することは、排外主義への迎合ではありません。生活の不安を排外主義へ渡さないためにこそ、必要なのです。
市場から人間を守るために、人間同士を敵にしてはならない。
これが、ポランニーを現代政治で読むときの、最も大切な教訓だと思います。
ポランニーは政策を直接作ったのか
ポランニーの思想が、ニューディール、戦後福祉国家、ブレトンウッズ体制を生んだ、と書くのは正確ではありません。社会保障や労働者保護の制度は、『大転換』以前から形成されていました。彼自身も、今日の政策立案者のように制度設計へ直接参加したわけではありません。
ポランニーの影響は、政策を発明したことよりも、すでに起きていた制度変化の意味を説明し、その後の政治学や経済社会学へ共通の言葉を与えたことにあります。
国際政治学者ジョン・ラギーは、戦後国際経済秩序を「埋め込まれた自由主義」と呼びました。国際貿易を開放しながら、各国政府には完全雇用、社会保障、産業政策などによって国内社会を安定させる余地を残す妥協です。この議論は、戦後国際政治経済を理解する代表的な枠組みになりました。
ここで問われるのは、自由貿易か福祉国家かという二択ではありません。国際市場への参加によって利益を得ながら、産業転換や輸入競争の負担を受ける労働者や地域を、所得保障、再訓練、公共投資によってどう支えるかです。自由化の利益は全国で受けるのに、失業や地域衰退の損失だけを特定の地域へ負わせれば、国際化への反発は排外主義や保護主義へ向かいやすくなります。
もう一つ、現代的な接点が、社会的連帯経済です。協同組合、労働者協同組合、NPO、社会的企業、共済などは、市場の利益と国家による再分配だけではなく、互酬、民主的参加、地域の必要を経済活動へ組み込もうとします。
社会的連帯経済には、ポランニー以外にも多くの思想的源流があります。それでも、市場交換、再分配、互酬という複数の経済原理から社会を捉えるポランニーの議論は、この分野を理解する重要な理論の一つになっています。ILOは2022年、社会的連帯経済についての国際的な定義と決議を採択し、国連総会も2023年、持続可能な開発のための社会的連帯経済を促進する決議を採択しました。
これはポランニーの直接的な成果ではありません。けれど、経済を市場と国家だけでなく、連帯と参加を含む多元的な仕組みとして捉える問題意識が、国際政策の中でも重みを持ち始めた例とはいえるでしょう。
日本に残した、対抗的な経済思想
日本では、玉野井芳郎、平野健一郎らの編訳による『経済の文明史』が1975年に刊行され、ポランニーの主要な論考を紹介しました。1980年には『人間の経済』の邦訳も刊行されています。
玉野井は、経済を市場と貨幣の活動だけで捉えるのではなく、人間の生命、自然、地域の循環を含む「広義の経済学」や地域主義を構想しました。日本ではポランニーの受容が、環境、地域通貨、コモンズ、地域社会へ経済を埋め戻す議論と結びついたことに、一つの特徴があります。
また、若森みどりらの研究は、ポランニーを経済人類学者としてだけでなく、市場社会、社会政策、民主主義、人間の自由を考える政治思想家として再評価してきました。協同組合や社会的連帯経済との関係についても研究されています。
ただし、彼が日本の主流派経済学を大きく作り替えたり、日本政府がポランニーの理論を政策原理として採用したりしたわけではありません。直接的な政策への影響は限られています。それでも、市場、成長率、採算、効率性だけで政策が語られるとき、その外側にある生活、地域、自然、ケアを経済の問題として捉え直す対抗的な知的伝統を、日本社会の中へ残しました。
政策を直接決める力ではなく、政策が何を見落としているかを問い返す力。それが日本における、彼の重要な影響だったと思います。
現代日本で生かすための四つの分野
ポランニーの思想を、そのまま政策へ移すことはできません。けれど、特に有効だと考えられる分野はあります。
労働政策――労働力の前に、人間を見る
非正規雇用、業務委託、ギグワーク、AIによる仕事の再編を、労働市場の効率性だけで評価しないことです。失業や収入変動の危険を誰が負っているのか。働く人に休息と交渉力があるか。新しい技術による利益が労働者にも還元されるか。仕事を失った人が別の職業を選ぶための所得保障と教育を持てるかが問われます。
労働を売買する市場は必要です。けれど、働く人まで、必要なときだけ購入し、不要になれば廃棄できる商品として扱ってはいけません。最低賃金、労働時間、社会保険、職業訓練、労働者の経営参加を、企業の負担だけでなく、人間が社会で生き続けるための基盤として考える必要があります。
介護・医療・保育――市場の需要と、社会の必要を分ける
市場で示される需要とは、必要としている人の数ではなく、代金を払える人の需要でもあります。介護が必要でも利用料を負担できない人がいる。過疎地では利用者が少なくても、医療や交通がなければ地域で暮らせません。家族が無償で介護や育児を担えば、公的支出は少なく見えても、家族の仕事、休息、健康が失われます。
公定価格、人員配置、地域加算、公営・非営利のサービスを、単なるコストとして扱わないことです。ケアを担う人が生活できなければ、ケアされる人の尊厳も支えられません。
地域経済――一事業の赤字だけで地域を切らない
地域のバス、病院、学校、商店、金融機関は、一つずつ見れば採算が合わないことがあります。しかし、それらは地域全体の生活と経済をつなぐ基盤です。
バスを廃止すれば運行費は減ります。けれど、高齢者の通院、買い物、交流が困難になり、家族の送迎負担や医療・介護費が別の場所で増えるかもしれません。事業単独の収支ではなく、地域全体で人、資金、資源、ケアがどう循環しているかを見る必要があります。
公共交通、地域医療、地域金融、自治体調達、協同組合、地域エネルギーを別々にせず、一つの生活圏から組み立てる。ポランニーと玉野井の思想は、その視点を与えてくれます。
住宅・土地・環境――土地を生きる場所として扱う
住宅は資産であると同時に、人間が安心して暮らすための基盤です。農地、森林、水、海岸も、収益を生む資源である前に、生態系と地域の生活を支える場所です。
住宅価格や供給戸数だけでなく、住居費の負担、立ち退き、地域からの排除を見る。環境政策でも、炭素価格や排出量だけでなく、産業転換によって仕事を失う人、エネルギー費を負担できない人、将来世代が受け継ぐ自然を考える必要があります。
ポランニーが土地について語った問題は、今日では住宅、気候、生物多様性、地域の自治を含む問題として読み直せるでしょう。
「擬制商品影響評価」という提案
ここからは、ポランニーを踏まえた私の提案です。大規模な規制緩和、民営化、労働法制の変更、都市開発、金融改革を行うとき、通常の経済効果だけでなく、労働、土地、貨幣に与える影響を事前と事後に検証してはどうでしょうか。
その政策によって、労働者の収入と交渉力はどう変わるのか。住宅費、立ち退き、地域環境はどうなるのか。金融上の危険は企業や投資家が負うのか、それとも雇用、年金、税金を通じて市民へ転嫁されるのか。私はこれを、仮に「擬制商品影響評価」と呼びたいと思います。
また、医療、介護、保育、教育、交通、水道などの必需サービスについては、「社会的必要性」という基準を設けるべきです。事業単体の採算だけでなく、代替手段、距離、家族負担、健康、災害時の必要性を含めて、公的支援の是非を判断する。市場が苦手とする必要を、政治が見つけ、制度に翻訳する仕組みです。
もちろん、すべての赤字事業を残せるわけではありません。財源も人材も有限です。だからこそ、単なる採算か無条件の維持かではなく、その事業が人間の生活にどのような役割を果たし、ほかに代替手段があるかを、公開された議論によって決めなければなりません。
中道・リベラル・左派が学ぶべきこと
中道・リベラル・左派は、人権、福祉、反差別、開かれた社会を大切にしてきました。その価値は今も必要です。ただ、人々が雇用、住居、医療、地域の将来に不安を感じているとき、「多様性」や「開放性」だけを語っても、生活を守ってくれる政治とは感じてもらえないことがあります。
右派ポピュリズムは、その空白へ「私たちを守る」と入ってきます。しかし実際には、市場から生活を守る制度を作る代わりに、外国人や少数者を敵にして、不安の向きを変えてしまう。
中道・リベラル・左派が取り戻すべきなのは、排他的な共同体ではありません。誰も保護の外へ追い出さない、包摂的な社会的保護です。安定した雇用、医療と介護、住宅、地域交通、教育を支える。同時に、外国人、非正規労働者、障害者、生活保護受給者も、その保護の対象から外さない。財源と担い手を示し、制度を長く続けられる形へ整えることです。
社会を守ることと、開かれた社会を守ることを、対立させない政治が必要です。正しさを捨てる必要はありません。ただ、正しさを、暮らしの中で使える制度へ翻訳しなければならない。ポランニーが中道・リベラル・左派へ投げかけるのは、その課題なのだと思います。
何に「埋め込む」のか
ポランニーの思想を、礼賛だけで終わらせることはできません。近代以前の共同体には、助け合いと同時に、身分制、家父長制、同調圧力、少数者への排除がありました。経済が社会へ埋め込まれているだけでは、その社会が公正である保証はありません。
だから、市場を「共同体」へ戻すというだけでは足りません。市場を、人権と民主主義へ埋め込む必要があります。
また、現実の市場は、どの時代にも法律、政治、文化の中にあります。完全に社会から切り離された市場など存在しないため、「埋め込み」と「脱埋め込み」は曖昧だという批判もあります。これは、埋め込まれているか、いないかの二択ではなく、どの価値が優先されているかという問題として考えるのがよいでしょう。
市場の収益性が、人権、生活、自然よりも常に上に置かれているなら、その市場は社会的な統制から離れています。二重運動も、必ず福祉国家を生む歴史法則ではありません。人々が分断され、労働組合や地域組織が弱ければ、生活の不満は制度改革へ結びつかず、排外主義や権威主義に利用されることもあります。
社会の反発を待つだけではなく、それを民主的な政策へ組織する政治が必要なのです。
そしてポランニーは、有限の財源、人員、時間をどう配分するかについて、完成した制度設計を残していません。彼の思想だけから、介護職員を何人増やすか、税率をどうするかという答えは出ません。
ポランニーは、市場が社会を壊す構造を示します。センとヌスバウムは、人間が実際に持つべき自由と尊厳を考える。財政学と行政学は、それを続けられる制度へ変える。この三つを結びつけることで、経済を人間の生活へ戻す道が、少し見えてくるのだと思います。
市場を、人間の世界へ戻す
介護事業所が赤字である。バスの利用者が少ない。土地の価格が上がった。ある職種で労働力が余っている。数字そのものは必要です。限られた資源を配分し、政策の結果を確かめるために、経済的な計算は欠かせません。
けれど、その数字が誰の生活を表し、誰の苦しみを見えなくしているのかを、問い続けなければならない。ポランニーが教えたのは、市場を憎むことではありません。市場は自然現象ではなく、私たちが作った制度であり、作り直すこともできるということです。
市場から社会を守りたいという願いは、福祉にもなれば、排外主義にもなる。だから政治には、その願いを誰かへの敵意ではなく、生活を支える制度へ翻訳する責任があります。
制度の向こうに人がいる。そして市場の数字の向こうにも、働き、暮らし、誰かを支えながら、疲れている人がいます。
市場をなくすのではない。市場に、人間より偉い場所を与えない。
ポランニーが残したのは、経済をもう一度、人間が生きる世界へ戻すための、静かですが強い問いなのだと思います。
主な参考資料
カール・ポランニーの著作
カール・ポランニー『大転換――市場社会の形成と崩壊』野口建彦・栖原学訳、東洋経済新報社、2009年 カール・ポランニー『経済の文明史――ポランニー経済学のエッセンス』玉野井芳郎・平野健一郎編訳、日本経済新聞社、1975年 カール・ポランニー『人間の経済Ⅰ・Ⅱ――交易・貨幣および市場の出現』玉野井芳郎ほか訳、岩波書店、1980年
生涯・思想・日本での受容
Gareth Dale, Karl Polanyi: A Life on the Left, Columbia University Press, 2016
若森みどり『カール・ポランニー――市場社会・民主主義・人間の自由』NTT出版、2011年
若森みどり『カール・ポランニーの経済学入門――ポスト新自由主義時代の思想』平凡社、2015年
若森みどり「カール・ポランニーの『経済社会学』の誕生」
若森みどり「カール・ポランニーと社会政策の思想的次元」
若森みどり「K・ポランニーと社会的連帯経済」
笠井高人「ポランニーから見た現代資本主義とその未来」
国際政治経済・社会的連帯経済
John Gerard Ruggie, “International Regimes, Transactions, and Change: Embedded Liberalism in the Postwar Economic Order,” 1982
ILO, “Resolution concerning decent work and the social and solidarity economy,” 2022
United Nations General Assembly, “Promoting the Social and Solidarity Economy for Sustainable Development,” 2023
OECD, The Social Economy: Building Inclusive Economies, 2007
