徒然なるままに~旅の記憶

不思議な夜の物語

 

 タクシーは、物語が生まれる場所だ。アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュが5つの都市でタクシーと乗客の間で起こる出来事を物語にした『ナイト・オン・ザプラネット』、最近では、霊媒師がタクシー運転手に扮し乗客を霊視するアメリカの番組『あなたの人生占います』、真夜中のタクシーで起こる出来事を物語にしたNHKの『ミッドナイトタクシー』もある。
やはり、タクシーは不思議な出来事が起こるのだ。あれは、ウィーンのある夏の晩のことだった。

 国立オペラ座でオペラを鑑賞した夜。当日券売場の列で偶然前に並んでいた日本人男性と知り合い、彼と鑑賞後に遅い夕食を取った。食事を終えると、夜11時。店内にいた6人ほどの客は次々と店を後にした。私たちが後にすると、レストランは夜の営業を終えた。
 通りの店はすべてシャッターが下りていた。電灯と月明りだけが石畳の道を照らしていた。数時間前までは人で賑わっていた街が、嘘のように人がいなくなっていた。地下鉄もバスも終電を終えていた。宿泊先の日本人女性の暮らすアパートへ戻るには、タクシーしかなかった。
 中心街を歩けどもタクシーもなければ、車も人も見当たらない。音や動く気配のなくなったヨーロッパの古い街というのは、静寂というより、異空間に迷い込んだ奇妙な恐ろしさがあった。幸い私は一人ではなかったのが救いだった。
 石畳を歩けども、タクシーはない。15分経ってさすがにどうしようと焦っていたところに、はるか15メートル先の電灯の下に、ぽつんと一台の黒塗りタクシーが止まっていたのを見つけた。当時、携帯電話や配車アプリがあったら、こんな不思議な体験はできなかっただろう。
 「助かった」と全身で喜びを感じた私は、タクシーまで猛ダッシュで車に乗り込んだ。
 運転手は30代くらいの感じのいいハンサムな白人の男性だった。クルマを走らせると、その人は、こう話しかけてきた。
 「あなたは、デザインかアート関連に携わっている?」
 「違いますけど、仕事を辞めて今は旅の途中。よく美術館やギャラリー巡りしているかな」
 と答えた私に、彼はこう言う。
 「デザインやアートの道に進むといいよ」
 矢継ぎ早に、彼は私に、
 「アルジェリアとかチュニジアに行こうと思っている?」と聞いてきた。
 図星だった。驚いた私は「何でわかるの?」と彼に問いかけた。
 確かに、当時滞在していたパリからモロッコやアルジェリア、チュニジアへは出やすいということもあって、旅してみたいなと思っていたのだ。
 「相手が考えていることが映像となって見えてくるんだ」
 そう彼は説明していた。
 その彼の能力に興奮した私は、2日後の夜にウィーンを発つときに駅までの運転を頼みたいと考えた。
 「よかったら、ここが僕の勤めている会社だから電話して」
 と一枚の名刺を渡された。
 翌日午後、私はタクシーの予約をしようと、もらった名刺に書かれていた電話番号にかけた。
 電話に出た受付の男性は、
 「そんな人、うちにはいないけど」
 と答える。
 「一昨日、タクシーに乗って名刺をもらったんだけど」
 と説明して、もう一度名前を呼びあげ、スペルを言った。
 男性はタクシーの番号を教えてというので、それも教えたが、その番号は別の人のだと説明する。彼は申し訳なさそうに、こう言った。
 「うちではそういう名前の人、働いていないな。よその会社じゃないかな?」
 名刺の電話番号は合っていた。確かにタクシー会社の番号だった。あの名刺の名前が偽物だったのだろうか。何が何だかわからず、狐につままれたような感覚だった。
 あの満月の晩のタクシーの運転手さん、そしてあのタクシーはこの世のものだったのだろうか。そして、一緒に乗っていた日本人男性は無事ホテルに到着したのだろうか。今でも答えのわからない、世にも不思議な体験だった。


「えっ?」今、降ります


 いまは配車アプリがあるが、20年以上前はニューヨークでタクシーをつかまえるのは、闘いだった。
 特にクリスマスシーズンは、タクシー運転手も休暇に入るらしく、いつも以上にタクシーをつかまえることができなかった。
 正月2日午後、大みそかから3日までボストンからニューヨークに遊びに来てくれた親友のモニカとセントラルパーク近くの店からアパートのあるイーストローワーサイドまでタクシーで移動した。運よくタクシーをつかまえられたのだが、このタクシーに乗ったのは、わずか数分だった。というのも……。
 運転手は30~40代の男性で、彼が言うにはハイチ出身で移民らしい。こちらは何も聞いてもいないのだが、彼は運転しながら、こうこうとしゃべり始めた。
 「右手に見える建物あるでしょ。あれは僕が住んでいるところなんだ」
 通り過ぎる巨大なビルに興味もなくふーんと聞いていると、彼はこちらの反応も気にせずしゃべり続ける。て
 「あそこは、ニューヨークで一番大きい精神病院なんだよ」
 「えっ?」
 私とモニカは顔を見合わせて、「やばい」とお互いに目で合図を送った。
 「市から病院に、毎年この時期はタクシー運転手が少なくなるから、臨時採用するって問い合わせがあるんだよ。この日だけが外に出られるから、応募が殺到するんだ」
 あり得ない。この時期のタクシー運転手は、外の世界から閉ざされた場所にいる彼のような人たちだとは。いったい彼らは運転免許書を持っているのだろうか。怖すぎて聞けなかった。
 私は彼の話しをさえぎって、
 「この辺で止めてくれる。ここで降りるから」
 と慌てて言った。
 タクシーはワンメーターだった。
 私たちは結局、イーストビレッジから長い距離を歩いてアパートまで戻った。
 ニューヨークは、昔も今もこちらを驚かせてくれる街だ。


タクシー運転手さんとドライブ


 ニューヨーク市内マンハッタンから橋を渡ると、ブルックリンだ。若いアーティストが暮らす街として人気を集めている地区だ。
 かつての工場がスタジオになって安く借りられることもあって、若いアーティストが移り住んでいた。
 そこのアパートに暮らすオランダ人の写真家アドリとイギリス人の服飾デザイナーのレイチェルを訪ねに行くところだった。「わかりにくい場所だから、近くの地下鉄駅前で待っていれば迎えに行く」ということだった。引越しで不要になる掃除道具や調理道具を彼らに渡すため、大量の荷物を抱えていた私はタクシーで地下鉄駅まで向かうことにした。
 目的地の駅に着いたら、運転手の50代くらいの黒人男性がいきなり
 「ここで降りるのは、危ないからやめたほうがいい」
と言うではないか。駅前には、10代の黒人の子供たち6、7人がたむろしていた。
 「友達と待ち合わせの場所がここだから大丈夫。電話をしたら、迎えに来てくれるっていうから」
 降りようとする私を引き留める運転手は、
 「その友達が住んでいる場所はどこだい?」
 と聞いてきた。住所を書いた紙を見せるが、その場所は知らないという。
何でも倉庫があった場所で、今はアーティストが大勢暮らしているらしい、と説明した。
 運転手の男性は目星を付けてそのあたりを回ってくれるが、どうしてもその住所のアパートが見つからない。3月の春とはいえ、日は短くあっという間に落ちて、辺りは暗くなり、建物がよく見えなくなった。
 運転手さんはメーターを倒した。
 「あなたの目的地の駅まではもう到着したでしょ。あとは君とのドライブだから」
 そう洒落たセリフを吐いた。私は「そんな悪いから、支払うからいい」と言ったのだが、運転手さんは頑として首を縦に振らなかった。ドライブは小一時間続いた。その間、運転手さんはガソリンスタンドに立ち寄って、従業員に住所を聞いてくれたうえに、そこで電話を借りて友達に電話してくれた。
 当時は携帯電話もGPSもないから、友人に電話したくても場所を聞きたくとも無理だった。
 タクシーは、裏通りをがたがたと走り、レンガ造りの5階建ての建物がずらりと左右に立ち並ぶ小道を速度を落としてゆっくりと走った。所々に電灯がともるが、アパートの窓からもれる光が唯一、道を照らす案内役だった。どの建物もかっての倉庫を改造しただけあって同じ形でに見えて、どれが友人の暮らすアパートだか、まったくもってわからない。運転手さんは建物の壁にある小さなプレートに書かれていた番地を、車を止めては確認していた。
 「ここかもしれない。ちょっとブザーを押してみて確認したらどうだい?」
 と運転手さんは言うので、私は車から降りてブザーを押した。しばらくすると、ドアが開いた。友人のアドリが顔をのぞかせた。
 「ヒロコ、よかった。なかなか来ないから心配したよ」
 アドリは両手を広げて私をハグしてくれた。その光景を見ていた運転手さんはにっこりとほほ笑み、安堵した様子だった。暗闇のなか、私が友人に会えるまで道で待っていてくれた。
 「本当にありがとう。おかげで無事着いた」
 悪いから料金を支払うと言ったが、運転手さんは受け付けず、駅までの料金を私から受け取った。
 マネーが中心の街といわれるニューヨーク。人のあたたかさが残っている街でもあった。


タクシー物語2 ムチョグラシャス


ドミニカ共和国サントドミンゴ空港に到着した。

 観光客は客引きに囲まれると聞いていたので、きょろきょろせず荷物を受け取ると、まっしぐらにタクシー乗り場に向かった。

 飛び乗ったタクシーに、友人マリアの自宅の住所が書かれたメモ書きを見せた。
 30分ほど高速道路を走り、出口を降りると、民家が立ち並ぶ住宅街に入った。舗装されていない道は凸凹で、車は車体を揺らしながらゆっくりと目的地の家まで向かった。
 運転手は、目的の場所で降りて、民家の住所と名前を確認した。
 「ここじゃないな。名前が違う。この住所は本当に正しいのか?」
 スペイン語はわからないが、おそらく彼はそう言っている。そして、片言のスペイン語といっても、イエス、ノー、ありがとう、こんにちはのあいさつ程度のスペイン語で、私はこう答えた。
 「正しいと思うけど」
 そうは言ったものの、だんだん住所が間違っているのではないかと、不安が募ってくる。思い当たる節があった。マリアから電話がかかってきたとき、数分で電話が切れると言って、まくしたてるように住所を私に伝えたことを思い出した。彼女はそのとき、国連の夏のインターンで滞在していた小さなカリブの国から電話してきたから、電話がやけに遠くに聞こえていた。もしかすると、住所を間違えた可能性もなくはなかった。
 運転手は車を走らせ、再び「ここだ」と思う民家前で止まって、車から降りてその家のブザーを鳴らした。なにやら住人と話すと、また戻ってエンジンをかけた。
 しばらく走って、また民家前で止まり、降りてブザーを鳴らす。住人が出てきて、話して、また車に戻ってきた。これを4度繰り返した頃には、さすがにまずい、と私は困り果てていた。どうしたらいいだろう?
 ただ、「ムチョグラシャス」とお礼を言うしかできなかった。その言葉しか知らなかったからだった。
 運転手はスペイン語でこう私に聞いてきた。
 「民家の住人に電話を借りるから、友達の家の電話番号を教えてくれ」
 私はマリアの実家の電話番号を渡した。
 一人タクシーに残って待っていた私は、彼が戻ってくるのを待ちわびた。
 家から出てきた運転手は、笑顔を私に向けた。
 運転手は「マリアの家はこの近くだから、安心しろ。道順を聞いてきた」と、私に説明した。
 運転手は、一軒の家の前に止まり、「この家かもしれない」と言って、車から降りた。
 満面の笑顔で喜ぶ運転手の顔を見て、ようやく到着したことに安堵した。 「ムチョグラシャス」と何度も言って、笑顔で返した。
「ムイビエン、よかった、よかった」とまるで自分事のように喜んでくれた運転手さん。人のいいおじさんでよかった。
 家のドアを開けたマリアは笑顔で「ウエルカム、ヒロコ。よく来てくれたわ」と喜んで、私をやさしくハグした。
 私は事の顛末をマリアに話した。「あやうく迷子になるところだった」と。マリアは豪快に笑った。
 

ゴースト騒ぎ


 悔いや憎しみを抱えた人間は成仏できず、幽霊になって化ける。
というのは、日本など東洋的な思想なのだ。西洋では映画エクソシストのように、悪魔や天使は信じるが、人が化けて幽霊になるなんて、あり得ない馬鹿げた話だと思うらしい。キリスト教では人は亡くなったら終わりなのだ。
そんな幽霊を介した西洋対東洋のバトルが巻き起こるとは、誰が予想しただろうか。事の発端は、この私だった。

 私が大学生の頃、サンフランシスコ郊外の街サンラファエルにあるカソリック系大学ドニミカンユニバーシティに夏期留学したときのことだ。
 1887年に創設された歴史のある大学は、60エーカーもの広大な敷地を持ち、3つの学生寮、鹿やウサギなど野生動物が生息する自然豊かな環境のなか、学生寮で暮らしながら学業に専念できるのが売りだ。
 私は、3つの学生寮のなかで一番古い3階建てのマンションの一室を割り当てられた。マンションは日本でいうアパートのことではなく、アメリカのオカルト映画に登場するような古い木造の屋敷のことだ。
 ルームメイトは看護学専攻の大学3年生のスーザン。彼女は新旧ボーイフレンドの家を行き来して、ほとんど部屋のベッドで寝ることがなかった。たまに、夜更けに帰ってくることもあった。
 2階のフロアの私たちの部屋の斜め前のドアが、いつも閉まっていた。
噂によれば、その部屋は開かずの間。日光の林間学校で聞いた話を彷彿させるが、以前男子学生がその部屋で首つり自殺をして以来、そこは使用されていないと、まことしやかに語られていた。

 ある晩、部屋のドアが開いて、外の電灯の光がベッドで寝ていた私の顔を照らした。私は薄目を開けると、私をのぞき込む男の姿を見た気がして、「ワッ」と声を上げたが、その瞬間、誰もいなかったので、嫌な夢でも見たのかと思い、気にせず眠り続けた。
 スーザンが夜中にボーイフレンドの家から戻って来たのかと思っていたが、朝起きると、スーザンは戻っていなかった。
 スーザンに真夜中の話をすると、スーザンは怪訝な表情を見せて「ヒロコは、よく夜中に叫び声を上げたりするわけ?」と問い詰めてきた。
 「ノーウェイ(そんなことあるわけないじゃん)」と全否定した。
 私は、幽霊が出たかもしれないということを言いたかったのだ。「ゴースト」と言っても、スーザンには通じなかった。むしろ、彼女は、私が精神的に問題があって、叫び声を上げるのは常習的で、ルームメイトとして危ない人なんじゃないかということを気にしていた。
 幽霊でも生きた人間でもどちらかが部屋にいたかもしれない、ということに怖くなった私は、別の女子寮に暮らしている日本人留学生ののりこを頼った。
 彼女のルームメイトはスイス人で、今日から旅行に出かけて戻ってこないというので、その晩はそこに泊まらせてもらうことにした。
 ところが、夜中、ドアが開いて、誰かにまた肩を揺さぶられた。飛び起きると、スイス人のルームメイト、トリックスがベッド脇に立っていた。彼女が真夜中に旅から戻って来たのだ。
 「ごめんね」とトリックスに謝り、事の真相を話した。私は真夜中に森の中を歩いて自分の寮に戻りたくなかった。「床で寝るから今日はここに泊めさせて」と頼んだが、トリックスは泣きながら友人の部屋に行ってしまった。

 翌朝、もう噂になっていた。
 授業が始まる前に、スイス人のクラスメイト、ベロニカに
 「ヒロコ、ゴーストなんて存在しないのよ。何バカなことを言っているの」
と言われた。180センチ以上ある彼女が上から話す言葉には、妙に迫力があって、一瞬たじろいだ。
 イタリア人のクラスメイトたちも、笑いながらその話を聞いていた。
 別のクラスのイタリア人、話したこともない彼女にも呼び留められ、「幽霊なんていないの。人は死んだら終わり。何をバカなことを言っている」と説教された。
 トリックスからスイス人グループ20人以上に伝わり、そこからイタリア人グループ20人以上に伝わり、ブラジル人、スペイン人へと話が大きく伝わっていた。一晩にして、日本人の私は「幽霊の人」ということで、有名人になってしまった。
 唯一の理解者は、日本人ののりこの他に、別のクラスのインドネシア人女性2人組だった。彼女たちの耳にも幽霊話が入っていたようで、学校で会ったときに、「ヒロコ、大変よね。怖かったでしょ。良かったら、私たちの部屋に泊まりに来てもいいよ」と言ってくれた。
(韓国人や中国人がいれば、もう少し味方が増えていただろう。)
 言っておくが、私は、霊感体質でもないし、幽霊を見たこともない。あれは幽霊だったのかも、はっきり言ってわからない。
 極めつけは、スクールが終わる修了式で、先生が一人ひとりの思い出を語ってプレゼントを渡すセレモニーでのことだ。クラスの担任のエレノア先生が私に選んだプレゼントは、先生がアフリカに滞在していた時に購入した木彫りの人形だった。
 「この人形は魔よけになるの。ヒロコには、いつも身近に置いておいてほしいわ。そうしたら、いつでも幽霊を追い払えるわよ(笑)」
 そこにいた100人近くの生徒が爆笑した。みんな、あの噂を知っていたのだ。
 噂が広まるのは早い。一晩で広まった噂は、学校を超えてみんなの国にも広まるのだろうか。「日本人は幽霊を信じているなんて、馬鹿げている」。一種の文化交流に貢献できたと、考えることにした。

持ち物に記名しよう

 大学生のときにアメリカ・カリフォルニア州でカレッジの英語コースに参加したことがあった。 
 20人のクラスメイトの全員がヨーロッパ出身で、そのうちの半数がイタリア人だった。彼らは目ざとく、私の持ち物に名前と住所が書いてあることに気づき、からかい始めた。 
 「ヒロコ、バックパックから筆箱まで、全部の持ち物に名前と住所が書いてあるのはどうしてなんだ?」 
 と冷やかしながら、パウロが聞いてきた。 
 「日本では、学校で持ち物に記名するのが習慣になっている。それに、落とした時に、戻ってくるから」 
 と答えると、クラス中爆笑の渦に包まれた。 
 「冗談だろ? 戻ってこないよ。イタリアで落としたら、全部なくなるよ」
 「日本では、財布とか落としても大半は戻ってくる」 
 彼らからそう聞いていたが、それがそうとも限らなかったのだ。

 15年後、私はミラノに来ていた。当時パリに暮らしていた私は、スペイン、ポルトガルを旅し、リスボンから深夜バスに乗ってマドリッドに到着、そこからパリへ向かい、そのまま日本から来た両親を迎え、一緒にイタリアの旅に来ていた。 
 旅の疲れがピークに達していたのだろう。 
 夕食を食べ終わり、ホテル近くを母と散策、見かけたドルチェカフェに立ち寄り、テラス席に座ってアイスクリームを食べた。ホテルに戻った私は、財布がなくなっていることに気づいた。最後に財布を出したのは、あのアイスクリーム屋だ。戻ろうと思ったがひどい腹痛に襲われ、クレジットカードと身分証明書が入っていた財布が盗まれる、まずいと焦ったが、そのままベッドに倒れ込み寝てしまった。
 2時間後目を覚ました私はあわてて、そのカフェへ走った。

 テラス席周辺に財布はなかった。店に入ろうとすると、女性の店員が私を見てニコリと微笑む。ずいぶんと愛想のいい店員だと思いながら、私は「ネイビーブルーの財布を落としたんだけど、見ていない?」と聞くと、店員はニコリとしながら、首を左に倒して目で「ほら、そこ」と合図する。彼女の目の先にあったのは、白壁の前に置かれた棚だ。その上に見覚えのあるものがあるではないか。そう、私のネイビーブルーの財布が開いた状態で立てかけてあったのだ。もちろん、財布の中のクリアケースには、私の名前と住所がしっかりと書かれていた。パウロに教えてあげよう。イタリアでも、落とし物は戻って来るよ、と。


まさか、レッドカーペット

 毎年5月に南仏のカンヌで開催されるカンヌ国際映画祭。国内外のスターがドレスを競い合い、レッドカーペットでメディアやファンのフラッシュを浴びる華やかな映画の祭典だ。
 レッドカーペットは、世界中の俳優たちが目指す場所。そんなレッドカーペットを歩いた一般人がこの私だ。
 どうしてそうなったのか。事の発端は、私の勘違いからかもしれない。

 パリに滞在していた私は、せっかくだからカンヌへ行ってみようと思い立って、TGVでまずニースまで向かった。鉄道地図で見ると、隣同士で列車で行けばすぐの距離と思って、宿はニースにした。
 宿はエーゲ海を見下ろす場所にあると、ガイドブックに書いてあったから、期待してそこを予約した。確かにはるかかなたにうっすらと青い海が見えたので、ガイドブックは完全に間違いというわけでもなかった。宿は、ニース駅からバスに乗って、小高い丘の上に立っていた。昔の宿舎のような建物で、安宿に泊まる海外の若者たちで混んでいた。
 ニース観光も終えたので、ちょうどカンヌ国際映画祭が始まるというので、カンヌに行くことにした。映画好きの私は、カンヌに行けば、自由に映画鑑賞が楽しめるという心づもりでいた。
 ビーチ前のメイン会場に着いた私は、受付窓口で
 「中に入りたいのですが、チケットが必要ですか?」
と聞いた。映画鑑賞のようにチケットがあれば、映画を観ることができると思ったのだ。受付の女性は、
 「招待券を持っていますか? メディアあるいは映画関係者ですか?」
と聞いてきた。
 「招待券はありません。関係者でもありません」
 「残念だけど、招待券がないと中に入れないの。映画を見るなら、3日後夜、公開される映画があるから、それを観たらどうかしら」
 その言葉に愕然とした。てっきり自由に入れると思ってカンヌに来たので、ここで何をしたらいいのか目的を失った私はうなだれた。いったん、窓口前の階段に座って今後の予定を考えた。傍から見たら、海を見つめて、物思いに更けて途方に暮れている女の子に見えたのかもしれない。というのも、いきなり、フランス人の男性が近づいてきて、「どうしたの? 何か困っているの?」と聞いてきたからだ。
 私はしかじかこうこうと、理由を説明した。そうしたら、その彼がおもむろに、
 「メディアのフリーパスが一枚あるから、良かったら使っていいよ」
と申し出てくれた。
 もちろん、私はそのフリーパスを受け取った。
 彼は、マルセイユのラジオ局でプロデューサーをしている、と話していた。恋人がいると言っていたし、いやらしい人ではなさそうだったので、彼の親切を受けることにした。
 私がニースに宿があって、ここまで来るのが大変だ、と話したら、「良かったら、ホテルを知っているから紹介するよ」と言ってくれた。ホテルと言っても、いやらしい意味ではない。カンヌはこの時期、どこもホテルが満室で見つけるのが至難の業だった。それを彼、フランシスが知り合いの経営するホテルまで私を案内してくれた。ラッキーなことに、一室部屋を割引価格で用意してくれることになった。通常はホテル料金が3倍にも5倍にも跳ね上がるのだ。ホテルは会場から海沿いを歩いて10分程と、便利な所にあった。小さなホテルだったが、部屋があるだけで満足だった。
 私はニースに戻って宿をチェックアウトし、またカンヌに戻った。当面、カンヌに滞在することにした。

 カンヌでは、フランシスが案内役を買ってくれた。なぜか、彼の友人たちの集まりにも連れ出された。20人ほどが浜辺で椅子に座り、ご当地のハーブ酒アニスなどを飲みながら、互いに自己紹介してカンヌの映画について雑談する。そんな、フランスのメディアか映画関係者の集まりだった。場違いな所に来た気がしたが、みんな勘違いして私を日本のメディア関係者かと思ったようで、親切に対応してくれた。それは、何も彼らだけではなかった。勘違いしたのは、偶然私に声をかけた映画関係者らしき女性もその一人だった。
 会場を一人でぶらついていたとき、一人の女性に話しかけられた。何がなんだかわからないうちに、「良かったら、明日観に来てほしい」と、いきなり招待券を渡された。
 招待券はインド映画の鑑賞券だ。時間は明日マティネのメイン会場での上映会と書いてあった。よく見ると、会場は「レッドカーペット」と書いてある。
 「レッドカーペット、大変だ」。
 私はドレスなどオシャレ着は何も持っていない。唯一のましな服は、ショーツとノースリーブのセットだ。フランシスに一緒に行こうと誘ったが、彼は電話越しで声高になり、
 「何でヒロコが招待券を持っているの。どうやって手に入れたの?」
と驚いている。私はしかじかこうこうと説明した。私だって、何で招待されたのかよくわからない。ただ会場をぶらぶらして、いろいろな映画配給のブースを覗いただけなのに、やっぱり映画関係者に間違えられたかもしれない。
 フランシスは残念ながら忙しいとのことで、結局一人で行くしかなくなった。勇気をもって、あのレッドカーペットを歩こう。だが、万が一、ニュースで映画が取り上げられて、私の姿が映し出されても困る。あの貧相な洋服を着ている姿だけは映してほしくない。
 当日、とうとうレッドカーペットの前に、私は立った。
 会場まで続く階段に敷かれたレッドカーペットの上を恐る恐る歩く。何百人の人たちがその上を歩いたのか、フワフワした感触はなくなっていた。レッドカーペットの敷かれた階段を踏み外さないように一段一段着実に足をかけて上る。どこまでも永遠に続くレッドカーペットの上で緊張しながらも、「階段を登り切れば、扉がある、あと一歩」と、己を励まし、登り切った。
 肝心の映画は、ガンジス川の汚染の話だったということは覚えているのだが、レッドカーペットの印象が強烈すぎた。
 カンヌは思った通りの場所だった。イタリア映画に、イラン映画、トルコ映画と普段観ない映画を毎日何本もほぼ無料で観続けた。こんな贅沢な映画鑑賞は人生にもう訪れることはないよね。

全長1メートルのマシンガン

 私は、殺戮能力の高い銃器を持った人間に遭遇したことがあった。それも四度。人生で銃と関係した生活を送ってこない人間にとって、それは強烈な出来事で、その地で暮らすための通過儀礼のようだった。

 中南米カリブ海の国、ドミニカ共和国DRで迎えた八月の満月の夜。
 当時、米国ボストンに留学していた私は、親友のDR出身のアメリカ人マリアに、「両親が住んでいる実家に帰省しているから遊びに来て」と誘われた。

 夜10時過ぎ、ようやくカリブの灼熱の暑さが和らぎ、海風が心地よく感じられた満月の夜に、マリアの実家のキッチンで二人で料理していたら、いきなり電気が消えて真っ暗になった。「停電」だ。
 ドミニカ共和国では停電があるのは日常茶飯事のようで、マリアは「そのうち、電気がつくから、大丈夫。ベランダに出て、ビールでも飲もう」と、慣れたものだった。
 椅子2脚とテーブルを月あかりの下に用意した。
 外は漆黒の闇。木々の輪郭がうっすらと見えるだけだ。
 月あかりがマリアと私を照らす。幻想的な月を眺めながら、二人で気持ちよくビールを味わっていると、何やら家の方隅で動くものを見た気がした。目を凝らしていると、木とは違う何か動くもの——そう、あれはヒトだ。身長190センチほどの全身黒づくめの男が立っていた。彼の腕には黒いマシンガンが握られている。息が止まるというのはこういうことを言うのか。私の身体は緊張のあまり固まった。
 とっさにマリアに「あそこに人がいる」と怯えた声を出すと、
 マリアは「うちで雇っている警備員よ。安心して。家の周りに4人いるから」と笑う。
 強盗団でなくて良かったと、胸をなでおろしたが、この状況はなんだかおかしい。警備員が毎晩見張るほど、この地、首都サントドミンゴは危険なのだ。家の警備と言っても、マリアの家は、東京の郊外にあるような小さな庭付き平屋の一軒家。両親は海沿い近くで小さなホテルを経営していて、三人姉妹を全員アメリカへ移民させるほどだから、経済的にゆとりがあるのだと思う。それにしても、平屋の一軒家がおそらく銃を持った犯人に狙われる事件が起きている、それも多発している。武装警備員が警備しているということは、犯人あるいは犯行グループと対峙した場合は撃ち合いになる可能性が非常に高いということだ。こんなに月明りが美しく海風と樹々の葉のかすかな音しか聞こえない静かなところで、銃撃戦があることなど想像すらできない。危険と隣り合わせの暮らしにマリアはじめここに住む人たちが慣れていることも、私には信じられないことだった。

 危険なのは、家だけでなかった。道路も生きた心地のしない危険地帯なのだ。
 夜、中心地の主要道路では昼間の渋滞が嘘のように通行車両が少なくなる。そんな二車線の道路をマリアが運転していると、反対方向から猛スピードで逆走する車が走って来た。私たちの乗っている車に突進するような勢いで猛スピードを上げている。それも二台。交差点の左右前後見まわしても、殺人ゲームにでも参加したのだろうかと思うほど、あらゆる方向から車両が走って来る。
 「危ないー」
と思わず声を出して、慌てて、取手に手をかけ、逃げようがないのだが、逃げる体勢を取った私に対して、
 「大丈夫、向こうがよけるから」
と余裕しゃくしゃくのマリア。
 それだけでない、運転手が平気で信号を無視している。衝突を回避する運転技術は賞賛すべきだが、寿命が縮むほどスリルがありすぎた。交通規定はあってないも同然。ルールは破るためにあるのだ。

 アメリカ大陸では銃なしでは暮らせないようで、DRと同じように、メキシコの首都メキシコシティでも日中からマシンガンを持った警備員らを見かけた。
 高級住宅街のある地区では、その地区の周り全体を城壁のように高いフェンスが囲っていて、入口のゲート前にはマシンガンを持った武装警備員らが立っていた。中に入るには、通行証を見せるか、ない場合は警備員が住民に連絡して、許可が下りてから、ゲートが開くしくみになっていた。
警備員は、非番の警察官か元警察官で、給与がいいため、この職に就いていた。
 私は、当時、市郊外のメキシコ人家庭でホームステイをしていた。その家族の長男が日本語を勉強しているとのことで、別の家族に紹介されてそこにお世話になっていた。その息子、フランシスコと彼の友人たちと車で移動し、日本に興味があるという高級住宅地区に暮らす家族を訪ねるところだった。
 メキシコシティが危険なのは、銃ではないことに次第にわかってきた。その話は、後で詳しく説明しよう。

 ドミニカ共和国、メキシコ以上に危険を感じたのは、私が暮らしていたお膝元のアメリカ・ボストンだ。一見危険に見えないところが、やばい。どんな危険が転がっているかというと、どうも私は、白昼に銃の密輸現場に入り込んでしまったようなのだ。

 平日の真っ昼間、ハーバード大学があるケンブリッジのショッピングエリアの裏手、本屋と雑貨屋近くの駐車場前で、当時アパートをシェアしていた コロンビア人女性の同僚らしきコロンビア人男性のホアキンが立っているのを見かけた。本屋帰りの私は彼に近づいて行ったが、彼は私に気づかない。私は手を振りながら、笑顔を見せて彼のもとへ向かった。道路を渡ろうとした、そのとき。目に入ったのが、黒いスーツ姿の男2人組が黒い車両のトランクに大量の銃を積んでいた光景だった。
「えっ、銃?」
 何かの見間違いではないだろうか。もう一度目を凝らしても、彼らが積み込んでいるのはどう見ても、大量のロングガンだ。ルームメイトの友達ホアキンも黒いスーツ姿で、あたりをきょろきょろとうかがっていた。
日中なのに、人がいない。助けを求めようにも誰もいない。
「非常にやばい」
 私は彼らに気づかれないように忍び足で道の中央から立ち去り、急いでその場から走り逃げた。
 彼は、なぜか2メートル先の道路の中央にいる私には気づかなかった。車に乗っていた運転手も、男2人組も、車の前を見張っていた男も、全員黒づくめで怪しい男たちだった。彼らが私に気づかなかったのが、不思議でしょうがない。私はそのとき透明人間になったのだろうか。とにかく無事でよかったと心底思った。私が見たのは、実は幻だったのかもしれない。

 当時のルームメイトは、コロンビア系某国際企業のインターンとしてボストンに来ていた。アメリカ人たちは彼女のことをジュリアと呼ぶが、コロンビア人たちは彼女をフリアと呼んでいた。スペイン語ではフリアだ、と彼女は言っていた。
 その彼女は、毎晩のように、同じマンションの別の部屋で仲間の研修生のコロンビア人たちと飲む踊るのパーティーをしていた。パーティーへ行く前に、わが家に立ち寄ったホアキンをフリアは私に紹介した。彼は人あたりがよく、ユーモアもあり何も怪しい所は見えなかった。彼もフリアと同じく20代後半のインターンだ。

 コロンビアといえば、アメリカへの麻薬・銃器密売組織が暗躍している国だ。
 ルームメイトのフリアはある日、バーでアメリカ人男性と知り合ってまた飲みに行くことになったとはしゃいでいたことがあった。2回目にその男会った時に男に「薬持っているよね。譲ってよ」と言われたといって、怒り狂っていた。男が「コロンビア人はみんなコカインやマリファナ持っているんじゃないのかよ」と言ったという。
「冗談じゃないわよ。コロンビア人だからといって、みんな薬物持っているわけないじゃない」とフリア。そんな彼女はその男にマンションの住所を教えてしまったというから、私ともう一人のルームメイトのジーンは、「男がやってきたらどうするの?」と怒りまくった。
 数週間は戦々恐々と毎日を送っていたが、男が侵入することも、コロンビア人の同僚のホアキンが私を襲うこともなく、何ごともなく済んだ。
密輸遭遇事件については、ルームメイトにも、友人にも誰にも話さなかった。動物的な勘というのか、何だか自分の身が危ないと思ったのだ。

 そして、日本人女性が憧れる、パリでの話もあった。
 平日水曜日夜10時前、パリオペラ座からナションへ向かう地下構内に私はいた。利用客はまばらで不気味なほど静かだった。20メートルほどの長いエスカレータで地下へと下っていると、反対から上って来る特殊部隊を見かけた。ミリタリーの迷彩服とベレー帽を身に付けた隊員の手には散弾銃が握られていた。さらに、下では、警察犬に先導されながら散弾銃を持った3名の特殊部隊が巡回していた。私はトンネルで彼らとすれ違いざま、何も怪しい物を隠し持っているわけではないが、止められたらどうしようかと緊張した。物々しい雰囲気の様子に爆弾物か凶悪犯でもいるのだろうかと身が縮む思いがした私は、とにかく帰路を急いだ。ニューヨークの地下鉄でも、武装した特殊部隊を見たことがなかった。
 パリはニューヨークと比べれば安全と思っていたが、さすがにそれ以来、夜10時以降の地下鉄の利用は避けた。中心地だけの移動であれば、そこまで危険ではないと思うが、中心から離れるに従って、観光客は減り、団地に暮らす労働者だけが乗っていて、車内の様子はがらりと変わる。パリ在住の人たちにそんな危険なことはないと反論されそうだが、20年前のパリやその他の都市では、テロが多発し、移民が溢れ始め、治安が乱れていた。
パリ市内のモスク周辺には武装特殊部隊が警戒していたこともあった。プラス・モンジュ駅近くに住むフランス人の友人のアパート近くには、洒落たモスクのカフェがあった。そこへ行こうとしたが、周辺道路が封鎖され、カフェの入口に警察部隊が警戒していたので、中に入るのは諦めたこともあった。パリのカフェで銃撃テロがあったためだ。空気がピリピリと緊張していた。
 危険と隣り合わせだということを意識して暮らすことに慣れれば、海外暮らしもいい。が、今はもう危険を意識して暮らしたくない。コロナ以降海外には行っていない。
 友人のマリアしかり、他国から日本にやって来る人たちにとって感じる危険と、私たち日本人の感じる危険は違うのだろうなと思う。身に危険が起きるリスクがあると考えて、周囲に注意を向け暮らしている国から日本に来たら、日本は緊張せずに無防備でいられる、まさに天国に近い国に感じるのかもしれない。そういえば、一昔前「天国にいちばん近い島」という本が流行ったが、まさに外から見れば、日本は天国に近い島なのだろうか。そんな無防備に慣れてしまった日本人は、残念ながら治安が悪化していくこれから、緊張を強いられるのかもしれない。


スリと銃


 スリの現場を目撃した私は、危く被害者になるところだった。

 ニューヨークのグランドセントラル駅のホールで、ボストン行のアムトラック列車を待っているときのことだった。ベンチに座っていた私は、ただならぬ気配を感じて、何気に後ろを振り向くと、後ろのベンチに座っていた黒人の男と目があった。男は一瞬伸ばしていた左手を引きかけて「ビ・クワイエット」(黙っていろ)と、私につぶやきながら、静止していた左手を再度伸ばした。
 手の向かう50センチ先には、黒人の女性のハンドバッグがあった。バッグは開いていて、持ち主の女性は友人とおしゃべりしながら、荷物の整理をしていた。
 男はつぶやきながら「言うなよ。言ったら覚悟しておけよ」と聞き取れないような声で私にささやく。私はどうしようかと思ったが、「ミス、バッグ開いていて危ないですよ」とその女性に言った。
 男は「覚えていろよ」と吐き捨て、ベンチを立ち去った。ほんの30秒の出来事だったが、その後、男がナイフで襲ってくるのではないかと怖くてしょうがなかった私は、周辺にいる警察官の立ち位置を確認しておいた。いざとなったらコーナーに立っている警察官のもとへ逃げようと思いながら、40代の細身で180センチ以上の背があるあの男が戻ってこないか戦々恐々とあたりを見渡した。私の手は汗でにじみ、心臓は小刻みな鼓動を立てていた。待ち時間20分が永遠に続くように感じた。
 私は、無事列車に乗ることができた。
 後日、アメリカ人の友人たちにこのことを話すと、デビーのボーイフレンドのデビッドとその友人のマークは口をそろえて「自分だったら、危険だから、黙っているね」と言った。私は、ただ運が良かった。20年後の今なら、私は、デビーのボーイフレンドと同じく、黙っている可能性が高いと思う。なぜなら、アメリカが銃社会になってしまったからだ。

 ボストン郊外の高級住宅地ヒンガムのあるコミュニティでは、家に銃を所持するかどうかが親たちの間で議論になっていた。コミュニティは幼稚園や小学生の子供がいる40代の高所得者が集まる地区だ。銃を保管することで、子供たちが誤って銃に触る危険もある。現に、銃を所持している家庭で、兄弟同士や友人同士が誤射して子供が亡くなるという事件が増えている。それに伴って、子供同士でおもちゃの銃で遊ばせることをためらう親も増えていた。

 私がスミス家のホームパーティーに招かれたときのことだ。一緒に連れて行った私の息子がおもちゃの拳銃で他の子供たちと遊んでいたら、そこにいたアメリカ人の4人のママたちは「うちの子たちが、日本からわざわざ遊びに来たKoに悪い影響を与えているわよね。ごめんね」と相次いで口にする。そのとき、はじめて彼らがいかに銃の問題にセンシティブなのかと呑み込めた。
 子供たちをどうやって銃の危険性から守るか、そして銃の危険から切り離すか、が親にとって最大の悩みだった。パーティーでは、ゲームの撃ち合いも、ゲームセンターの殺戮ゲームも控えさせたいと、親たちは口々に言っていた。が、一度楽しさを覚えた子供たちは、親たちの思惑通りには動かない。
 10人ほどいた子供たちのなかで、一人の幼稚園児の男の子が何かしでかして親に注意を受けた時、親に対して「撃ち殺してやる」と銃を撃つ手振りをしてさらに叱られることがあった。また、ある5歳の男の子は「隣の家の犬がうるさいから、家ごと爆弾で吹き飛ばす」と言い放った。その文言を聞いた親は口を開けて驚いて、その子を必死に説得していた。「犬が好きでしょ。犬が死んでしまったら悲しいでしょ」。子供は「イエス、イエス」とうなずいていた。が、何が悪いのかはわかっていないようだった。
銃器に非常に敏感になる親だが、子供たちが物心つくころからおとなしくしてほしいという理由で、スマホやipadを渡して遊ばせている。子供たちは撃ち合い、殺し合いのゲームで遊んでいる。「子供同士で仲間外れになるといけないし、時間制限をかけているから、仕方のない選択だ」と言って、言葉を濁す親たち。アメリカの親たちの問題だけでない。日本も、世界のありとあらゆる国の親たちの問題だ。物心つく前の1、2歳から暴力シーンを見ていれば、それが日常のご飯を食べるのと同じ感覚として受け止めるのではないだろうか。誰もがわかっている答えなのに、それを止めることができない。行きついた先が、小学校から学校に金属探知機を設置して持ち物検査をし、銃撃事件を回避する訓練を行う、銃の危険が当たり前の国になってしまった。
 この地区に住む小学生の女の子たちは、「日本の地震が起きた時の避難訓練」がめずらしいと驚いていた。銃撃事件の避難訓練のほうがもっとめずらしいということを、彼女たちは知らない。

 

余計なお世話


 スリのメッカといえば、パリの地下鉄だ。
 パリで部屋を間借りしていたとき、大家さんのマダム・ニコルが言っていた。
「大きなショッピングバッグを抱えて地下鉄に乗らないほうがいいわよ。特に、ブランド店の紙袋は、スリやひったくりに狙ってくださいって言っているようなものだから。自分の袋に買ったものを入れるのよ」
 シャネルやエルメスで買い物するような上客は、車で乗り付け、買い物後に宿泊先や自宅に購入した物を届けさせる。地下鉄なんか、乗らないのだ。
電車の隅に立っていると、周りを囲まれて逃げられなくなる。一瞬の隙に、斜め掛けしていたバッグを開けられて財布を盗まれるか、バッグごと持っていかれる。
運よく、スリやひったくりに遭遇したことはなかったが、スリに遭った日本人女性を見かけて助けようと思ったことがあった。

 コンコルド駅ホームで日本人女性が日本語で「返せ」とまくし立てていた。ホームの人々は通りすがりに彼女を見るが、日本語だから誰も足を止める者はいなかった。
彼女は、スリを働いたとされるイスラム系の小学生低学年くらいの子供3人を捕まえたところまでが良かったのだが、イスラム系の男が、さも日本人女性を助けるふりをして、ホームの端のほうからやって来たからまずかった。
女性は男性に日本語で「私のバッグを盗んだから、返してほしい」と説明していた。明らかにその男はグルなのだが、女性は気が動転していたために、状況判断ができないように見えた。
男が「ここで話をすると、邪魔になるから、奥へ行こう」と女性に提案していたのを聞いた私はよせばいいのに、余計なお世話をした。女性に近づいて日本語で「その男について行ったらダメ。グルだから」と彼女を必死で引き留めた。だが、私の声は届かなかった。女性は私の存在すら目に入らず、ずっと子供たちに怒鳴っていた挙句の果てに、のこのことその男についていってしまった。なす術なく、私は彼女が暗いホームの隅へ向かう姿を目で追った。無事バッグを取り戻せたことを願うしかなかった。

まだまだつづく

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