森の暮らし(11) どうして森の中に「終の住処」を建てたのか?
さて人生の黄昏を迎える年齢になりましたが・・・
還暦を過ぎた我々の世代では、それなりに情熱を込めて取り組んだ仕事の業績を誇り、時には、できたこと、できなかったことにそれぞれ思いを馳せることがあっても、徐々にこだわりや思い入れが希薄になっていく過程にあると思います。
若くて野心的であった頃、インパクトの大きな業績を残して、多くの人に認められたいと願い、それを評価されてより重要な役職を得たいと思っていたのは確かです。でも、それも今となっては「兵どもが夢の跡」。
自分自身が尊敬し、この人に認められたいと思う上司・仲間に遭遇する機会が極めて稀であることを認識した後は、自分にとってどうでも良い第三者にどう思われても構わないと割り切れるようになり、その結果、承認欲求も人生にとっての重要事項ではなくなっていったように思います。
強い日差しを浴びる中で生きていたような青年期に重要だと思っていたことが、壮年期では、そうでもないと認識が変わっていきます。そして、徐々に人生という日が沈む夕方に相当する初老期〜老年期を迎えます。今、私は、自らのピークを過ぎて「人生の黄昏」を迎えています。
自分にとって夾雑物を投げ捨てて、軽やかになった精神で「人生の黄昏」を迎える時期において、どういう場所でどういう心境でありたいのかを真剣に考えました。
以前の記事(下記参照)で、ターシャ・チューダーという女性に憧れて、晩年は美しい草花や樹木に囲まれて暮らしたいと願うようになった経緯を述べさせていただきました。今回は、その前段階として、「人生の黄昏」について想いを巡らせて、「終の住処」を立てようと決心したきっかけをお話したいと思います。
ヘミングウエイと旧ヘミングウェイ邸
アーネスト・ヘミングウェイがフロリダのキーウエスト、その後、晩年にはキューバで暮らしていたのは有名な話です。若い頃、仕事の関係で米国マイアミに一年ほど暮らしていたのですが、その際にキーウエストにある旧ヘミングウェイ邸を観に行ったことがあります。日差しの強い穏やかでのんびりした雰囲気の港町で、その町中に、彼の邸宅がありました。
彼の可愛がった猫の子孫たち(通称 ヘミングウェイ・キャット)が今でも多数居住し、彼が愛したダイキリが街の名物として多くの観光客に愛されています。海を眺め、地域の住民たちと語らいながら、お酒を飲んでいたヘミングウェイの姿を思うと、なんとも羨ましく感じたものでした。
フロリダ時代の彼は、気取った文豪なんかではなく、「地元の荒くれ者や労働者たちと酒を飲んでは大騒ぎをする快活な仲間」のような存在で、「パパ」という愛称で呼ばれていたそうです。美しいフロリダの海で大きな魚が釣れれば仲間に分け与え、誰かがバーのツケを払えなくて困っていたらそれを払ってやる、ボクシングの試合で仲間たちと殴り合うなど、聞いているだけで楽しくなるような「男らしい」逸話がたくさんあります。
ただ現実のヘミングウェイの人生は、何度も結婚・離婚を重ね、飛行機事故に遭遇して体調も思わしくなく、晩年は躁鬱による情緒の動揺も著しく不安定となります。特に晩年のキューバ時代は、キーウエストにおける活動的で快活な「男らしい」文豪の印象とは、ずいぶんと異なるものになったようです。彼はうつ病を患っている上に、アルコール依存症だったとも言われ、身体的な衰えも自覚していました。さらに彼の血脈には、重度のうつ病と深刻な糖尿病を患い自殺した者が多いという深刻な遺伝的背景がありました。
キューバに住む老漁師が命をかけて釣り上げた巨大カジキがサメの群れに食いちぎられ、必死の抵抗虚しく徒労に終わる老人を書き上げた「老人と海」がヘミングウェイの最後の刊行作品であるとされます。
ヘミングウェイは、この作品を書き上げた後、62歳に届く以前に、自殺によってその生涯の幕を下ろします。世界的に高く評価され、ノーベル文学賞を受賞したこの作品を残せたのは、作家としての彼の人生にとっては、大きな意義を持ちます。ただ、精神の病に冒されて自死に至る彼の心象風景がどうであったのかは、想像の域を出ません。ただただ痛ましく思います。
フロリダ時代の彼は、楽しそうに近隣の住民たちと酒を酌み交わし語り合っていたと言われますから、その落差を思うと悲しくなります。美しい景色を見て、楽しい仲間との語らいがあって、それで十分だったのになあと、フロリダの海を眺めながら彼の ”黄金時代” に哀しく思いを馳せました。
正岡子規と彼の旧居「子規庵」
正岡子規は、若くして肺結核を病み、妹の介護を受けながらも血を吐きつつ、死を覚悟しながら俳句・短歌を詠んでいます。彼は、喀血する自分をホトトギスになぞらえて、「子規(ホトトギスの別称)」と号します。享年は満34歳と若くして亡くなります。しかし喀血を繰り返しながらも、彼は病床で友人や門下生たちと快活に議論をし、俳句・短歌の革新をもたらしました。
東京根岸には、彼が晩年を過ごした家が、現在は「子規庵」という名で記念館となっております。この子規庵を訪れたことがありますが、彼の俳句・短歌が生まれた環境が、彼の病床から眺める事のできる小さな庭の緑や花であることに驚きました。けっして広い家でもなく、彼自身「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」と語る通りでした。ちなみに六尺とは、約180cmで畳一畳の縦の長さに相当します。
彼が人生の最期に眺めていたであろう草花が植えられた庭を観た時に深く感銘を受けました。そして病床を囲んで、激しく議論していたであろう正岡子規と仲間たちの姿を思い浮かべると、なんだか切なく感じました。その後、数年おきに「子規庵」を訪ねて、彼の愛した庭を眺めることが私の習慣になります。そして「子規庵」の庭を眺めるたびに、「人生を終えるときには、こんなふうに美しい草花を眺めながら暮らしていたいなあ」と思いました。
正岡子規がたどり着いた「終の住処」は、ごく小さな空間に収斂し、その小世界で移り行く四季を観察しながら、彼は最後の思索を研ぎすませていきます。これはヘミングウエイがフロリダやキューバの青い海を愛して、海に出て水平線を眺めていたのと一見、対照的です。さらに若くして病に苦しみながらも快活に生き抜いた子規と老年になってうつ病に悩み、自殺に追い込まれたヘミングウエイの最期もやはり好対照です。でも彼らには、素晴らしい共通点があるように思いました。
人生の最終段階を正誤で論じるのは傲慢だと思いますし、個人的な好悪で語るのも、なんだか間違っている気がします。ただ彼らのどちらも、死を迎える前に眺めたであろう「美しい風景」を持っていることには憧れました。さらに附言すれば、フロリダ時代のヘミングウェイと東京根岸に住んでいた頃の正岡子規のどちらにも「美しい風景」に加えて、充実した創作活動、愛情のある家族、楽しい仲間が揃っていました。それはやはり彼らの人生において燦然と煌めく「黄金時代」だったと思うのです。
最後に
小さな空間に収斂していくのか、広い海へと視界が広がっていくのか、それは各自の美意識や趣味嗜好に由来するのでしょう。いずれにせよ、人生の最終段階において、地位や名声、富などが大きな意味を持たなくなって、自分自身の精神へと深く内向していく時期、自らの「終の住処」をどのような環境に委ねるのかは、各自の人生観を反映しているようです。
しかるべき年齢を迎えて職を辞し、肩書きや役職を喪失していく過程で、あるいは、大切な家族や友人との別れを重ねる中で、最後に愛する「美しい風景」というものを自分の中で持っておきたいと強く思いました。その後、ターシャ・チューダーの存在を知り、本格的に「森の中で草花に囲まれて死んでいきたい」と願うようになります。
死を迎える直前まで、自分が大好きな風景を眺めながら、好きな本を読み、好きな人との会話を楽しめることができるとすれば、それは人生において「最後であり最大の贅沢」であるように思いました。それは、私が北海道の森に小さな家を建てて「終の住処」とした理由となっていきます。
