生活の音。
一
甘いものは、閃いてくる。
ときとして思想よりも早く、もっと卑しく、もっと確実に、人の胸へ差しこんでくる。
その日の貧しい一念であった。
ミスドが食べたい。
たったそれだけのことである。こういう幼稚な欲求にかぎって、いったん胸へ巣をかけると容易には退かない。理性も教養も、つい先ほどまでそれらしい顔をしていた諦念も、その甘たるい一語のまえではひどく脆かった。私はもう、部屋のぬるい空気と、日あたりの悪い安堵とに守られたまま、じっとしていることができなくなっていた。
空腹と呼ぶには浅く、空虚と呼ぶには生々しすぎる、名づけようのない欠け目が、その日、腹のあたりにぼんやりとひらいていた。まるで肉のうちに薄い亀裂が走り、そこから見えない風ばかりが出入りしているようで、私は歩きもしないうちから、どこか少し寒かった。人間は、自分の壊れている箇所に対して案外怠慢だ。致命傷でさえなければ、見て見ぬふりをする。ところがその日ばかりは、どうにも耐えがたかった。甘い輪っかひとつで埋まるはずのないものを、せめて埋める真似だけでもしてみたかった。
町で唯一、その輪を売っているイオンモールまでは片道一時間。菓子ひとつ買うためだけに一時間歩く。その滑稽はあまりに正確で、かえって一点の曇りもなかった。胸の底では、よせ、と囁く声がしたが、私はもう、その声を尊重するほどまともではなかった。
外へ出ると、空は湿り気をふくんで低く垂れていた。薄鈍い鉛色の雲の襞が、肺臓の裏側みたいに重たくひろがり、街路樹の梢は、その下でひどく所在なげに揺れている。舗道には前夜の名残のような汚れた水気がところどころ薄く乾ききらず、くすんだ光を吸っていた。靴紐はだらしなくほどけ、歩幅は寒々しいほど一定で、私はその、いかにも生活に負けた人間らしい足取りを、どこか他人事のように眺めながら歩いた。
甘いものひとつで何が変わる。むろん、何も変わりはしない。けれど私は、その変わらなさを確かめるための道のりを、どうしても必要としていた。誰にも命じられず、誰にも褒められず、ただ自分のためだけに歩くという、その取るに足らぬ行為を、どこかで赦してやりたかったのである。馬鹿げている、と百遍唱えても歩みは止まらなかった。愚かだ、と千遍唱えても、私は足元の小石をよけもせず、ただ、誰のものでもない自分を引きずって進んだ。救われるはずがない。それでも救われぬままの自分を、どこかで抱きとめてやらねばならぬ。曇天の下、紫煙を吐きながら、私はまた一歩を踏み出した。
もし私が車など運転できたなら、どれほど楽だったろうと思わぬでもない。だが、私のような落ち着きのない性分がハンドルなど握った日には、軽く二十人ほど撥ねてもおかしくない。文明は、たまに親切である。こういう人間にだけは免許を与えぬ。ありがたい話だ。だから私は歩く。黙って歩く。それがせめてもの社会貢献である。
着いた。
二階のフードコート、その入口にほど近い一角に、それは静かにあった。平日の午後二時すぎという時刻には、居場所を失ったような寂しさがある。昼とも夕ともつかぬ白けた明るさが、ガラス窓から水っぽく流れこんで、テーブルの縁や磨きの甘い床のうえに、どこか病的な艶を置いていた。人影は疎らで、遠くにいる老人の咳払いだけが、乾いた音を立てて宙にほどけていく。こういう場所には、世界から取りこぼされた午後が、まるごと沈殿している。幸福にも不幸にもなりそこねた時間だけが、ぬるく澱んでいる。
さて、何にしようか。考えることの、なんという無意味、なんという贅沢。ポン・デ・リングとオールドファッションだけは外せぬ、と胸のうちでささやかな執着を転がしつつ、私はトングへ手を伸ばした。そのとき、背後から少女の甲高い声と、母親の疲れた声とが重なって聞こえた。
「あれがいい!」
「待っとき、まだ前の人選んではるから」
少し急いで場を譲ってやろうか、などという美しい心持ちは、生憎、持ち合わせていなかった。残念だったな、少女よ。こちらは君の思うほど大人ではないのである。私は私の流儀で、じっくり悩んだ。そうしてエンゼルクリームとチョコファッションに決めた。
少女が、まだ言葉になりきらぬ不満を喉から絞り出し、短い脚で床をせわしなく打つ。その甲高い声には、幼さ特有の無遠慮な湿りがあって、がらんとした空気の骨にまで沁みるように響いた。母親は周囲に恥じ入るように背を丸め、やわらかく、しかし苛立ちを隠しきれぬ声であやしている。
待てぬのもわかるさ、と私は心の中でだけ呟いた。そしてエンゼルクリームをひとつ掴んだ。思いのほか力が入りすぎて、やわらかな皮が、ふにゃりと情けなく潰れた。白いクリームの気配まで内側でわずかに歪んだような気がして、その感触が指先にひどくいやらしく残った。だが、もうどうでもよかった。潰れたまま紙袋へ放り込む。背後では少女が癇癪をこじらせている。小さな喉から迸る声が、必要以上に明るい店の照明と混じって、頭のうちでざりざり擦れた。
うるさい。
私は心の奥でだけ毒づいた。こんなにも小さな生きものが、なぜこれほどまでに喧しいのか。理屈では知っている。幼いからだ。未熟だからだ。待てないからだ。だが、知っていることと、耐えられることとは別である。私は呼吸をひとつ整えようとした。整わなかった。指先には潰れたドーナツの柔らかな崩れが、まだぬるく残っていた。
死ねや、ほんま。
声には出さず、唇の裏にだけ毒を含ませて、チョコファッションを乱暴に紙袋へ落とした。よりによって幼い子供へ、こんな剣呑な言葉が胸に生じる。その事実に、私は少し呆れていた。けれど呆れているだけで、毒は消えなかった。人はよくもまあ、こういう醜いものを胸に飼ったまま、平気な顔で人間を続けていられるものである。
くだらぬ思索を頭の底で煮詰めているうちに、私はいつのまにかレジ前まで押し出されていた。前に立つその女は、どうにも場違いなほど整った顔をしていた。照明の白い光の下で、その顔は、こちらの惨めさを責めもせず、ただ黙って見やすい形にして返してくる鏡のようだった。こういう人間を前にすると、こちらの歪みまで白日の下へ引きずり出されるようで、私はひどく居たたまれなくなる。
もし許されるなら、今すぐに殺してしまいたい、とふいに思った。むろん比喩である。比喩であるにせよ、そういう言葉が、相手への憎しみより先に、こちらの羞恥から湧いてくる、その事実こそが私の下劣さだった。眩しいものに照らされて、自分の醜さの輪郭だけが急にくっきりしてしまう、その瞬間に私は耐えられぬのである。殺したいのではない。照らされている自分が、あまりに見苦しくて、その光ごと掻き消したくなるのだ。
ところが女は、顔立ちばかりではなかった。応対は無駄なく速く、声の調子には妙な清さがあり、紙袋のなかで無残に押しつぶされたそれらを、まるで壊れものに触れるような指先つきで静かに整えていった。その指の運びには、店の規則だけでは済まぬ慎ましさがあって、それがかえって私の罪悪感を刺激した。
何もかも、私が潰したってのに。
形だけではない。空気も、間も、この人の気分まで、私はさっきから指先でだめにしている。まともな買いものひとつできぬ自分の濁りが、この場の静けさへじわじわ染み出しているようで、たまらなかった。それなのに、この人はただ働いているだけの顔で、壊れものに触れるみたいな慎ましさを崩さない。そのことが、かえってつらかった。
「こちら、潰れてしまっておりますので、新しいものとお取替えいたしますね。申し訳ありません」
その一言を聞いた瞬間、呼吸が切れた。
来た、と思った。
手が勝手に痙攣をはじめ、胸の内側がきしきしと細い金具で締め上げられるように鳴る。いやだ、いやだ、と頭の中で繰り返す声ほど、皮肉にも恐怖を太らせて、私を追いつめるものはない。勘定を終えるや否や、私はその白い指先から紙袋をほとんどひったくるように受け取った。
その拍子に、彼女の柔らかな耳朶が、ファーストピアスの小さな光とともに、かすかに揺れた。
ほんのそれだけのことであった。だが、その揺れは妙に艶めいて見えた。耳朶という、あんなにもやわらかく、あんなにも無防備な肉のひだが、金属の微かな光を連れてふるえるのを見たとき、私は自分の目つきの卑しさにすぐさま嫌気がさした。私は、そういうものひとつ開けられぬ人間である。あの一瞬の痛みが怖くて、肉に小さな穴をひとつ通す決心さえつかぬ。そのくせ、痛みをくぐってきた他人の耳たぶのやわらかさには、妙に心を乱される。
しかもその直後、彼女の目に、ほんの一瞬だけ怯えが差したのを、私は見逃さなかった。
ああ、この人は怖がるのだ。
そう思ったとたん、胸の奥に小さく、いやらしい優越が生まれた。人ひとりを、ほんのわずかでも震えさせたという事実が、甘ったるい感触となって体内をざわつかせた。
ふと見れば、私という厄介な障害物から解放された少女は、もう何事もなかったように笑っている。小さな手でドーナツをひとつずつ選ぶその仕草が、あまりにも無垢で、あまりにも楽しげで、胸の奥がざらりと軋んだ。羨ましいわけではない、と思った。だが、その否定の速さが、もう答えだった。私はああいう無垢さを、どこに置き忘れてきたのだろう。思い出そうとして、すぐやめた。思い出したところで、返ってくるわけでもない。
痙攣の残る指先と、途切れ途切れの息に胸を焼かれながら、私はトイレの個室を目指して無様に歩いた。傍から見れば、きっと滑稽で、疎ましい存在に映ったに違いない。善意に礼も告げぬまま、渡された袋を抱え、店内の規律を蹴散らすように去ってゆく。いっちょまえの狂人である。視界の端で、女の子たちの笑い声が、まるで私の輪郭をなぞるように響いた気がした。自意識の幻聴だとわかっていても、耐え難かった。
俺はなァ、せめて自分がクズだってわかってんだよ。
怒りはついに声になりきれず、肉の奥で疼くだけだった。そう毒づいたすぐあとで、「クソが」と、何の工夫もない悪態が口をついた。滑稽さは、たいてい他人より先に自分へ届く。私はそっと心の幕を引いた。
ああ。ああ。ああ。
死にたくなった次の瞬間、私はもうトイレの個室の前に立っていた。意識が途中で飛んでいたらしい。ワープでもしたんか、と自分で呟いた。笑うことすらできなかった。ただ、人の目の届かぬ場所で、黙って息をつないでいたかった。
ふいに、鼻先をくすぐるドーナツの甘い匂いがした。紙袋のなかで温みを失いかけたその匂いは、なお甘く、なお頼りなく、どこか子供の手のひらみたいに薄く湿っていた。あの女には、せめて、ありがとう、と一言言うべきだった。遅すぎる後悔が胸を打つ。
明日もミスドに行こうと思った。
それは更生の誓いでもなければ、反省の証でもない。ただ、同じところへもう一度だけ自分を運んでみるという、途方もなく頼りない決意であった。強張った指を、震えの残るままノブへ伸ばす。かちり、と音を立てて扉が開く。
追いつめられた人間の大袈裟な思いこみにすぎなかったのかもしれぬ。けれど、そのとき目の前にひらけた、くすんだ光を溜めこんだ細い景色は、これから先の私をあまりにも正確に喩えているように思われた。抗う余地も、夢見る余白も、そこには残されていない。ただ、じっとりと冷たい狭さだけが、私の行き着く先として口をあけていた。壁は白いはずなのに、くすんだ光を吸ってひどく青ざめて見えた。狭さというものは、場所の寸法ではなく、行き場のなさの形なのだと、私は妙に納得した。
たどり着いてしまった先が、ここなのか。
いや、最初から決まっていたのだ。私がたどり着ける場所は、はじめから、こういうところだったのだ。柄にもなく、意味不明な勇気を燃料にして、家からのこのこと飛び出した、その瞬間から、もう決まっていたのである。
そう思った途端、得体の知れぬ怖気が、脳天から爪先へ稲妻のように浸みくだった。目の前の戸が、ただの戸ではなくなった。白く、薄く、脆そうに見えるくせに、その実、こちらの逃げ場だけはきっちり塞いでいる。私を待っていたのだ、とさえ思った。憎んでいるのか、呪っているのか、それとも最初から私のぶんの狭さとして、そこに用意されていたのか。目の前が、私を憎み、呪い、ついには襲いかかってくる怪異のように思えた。
この仄暗い、細く、狭小な個室が――
二
私は馬鹿だ、と思った。思うたびに溜息が出た。するとその溜息がまた情けなく、今度はその情けなさにうんざりし、うんざりしている自分にさらに愛想が尽きて、最後には喉の奥から乾いた笑いが洩れた。人間というものは妙な生き物で、勝手に落ち込み、勝手に慰め、勝手に笑う。誰に頼まれたわけでもないのに、一人で悲劇を始め、そのくせ、その悲劇の出来栄えにうっすら感心していたりする。出来の悪い旅回りの一座である。主演も脚本も演出も、何もかも一人で引き受けながら、肝心の観客だけがどこにもいない。
そもそも、私が反省と呼んでいるものの大半は、ただの習癖ではないか。私は自分の愚かさに手を焼いているような顔をしながら、実のところ、その愚かさを毎日きちんと育てている。癖みたいに失敗し、癖みたいに自己嫌悪し、癖みたいに言葉を吐く。終わりの来ない冗談のなかを、冗談とも信じきれぬまま、のそのそ歩いているのである。
なぜ生きているのか、などという問いは、もうとっくに高尚さを失っていた。そんな大仰な問いを振り回す元気すらなく、私はただ、冗談みたいに命をやり過ごしていた。笑えるな、と自分で思った。だから笑った。ただ、笑うしかなかったのである。
笑い疲れると、喉の奥がひどく乾いた。何に腹を立てているのか、誰に失望しているのかも曖昧なまま、一通りの独り相撲を終えた私は、深く息を吐いた。
それから、ほとんど反射のように、いつもの言葉が口をついた。
「どうしようもない」
わずかに間を置いて、もう一度。
「……どうしようもねぇな」
何がどうしようもないのか、自分でもろくにわかってはいない。それでも、その二語を口にすると、心のどこかの見えない蝶番が、かすかに軋んで、重みの置き場所だけが少し変わるのである。
帰り道は、行きとは打って変わって、春の陽気が馬鹿みたいに眩しかった。世界じゅうのものが一斉に浮かれ出し、日の粒子ひとつひとつが、こちらの憂鬱など歯牙にもかけぬ顔で無遠慮に降りそそいでくる。私は、さっきの些かな屈辱――勝手にミスド事件と名づけることにした、あのいかにも情けない出来事――の余韻をぶら下げたまま、私のなかで美しいと評判の田舎道を歩いていたのだが、その美しさを受け取るだけの余裕は、こちらにはなかった。眩しすぎて、目を細めるのが精一杯である。うっかり石ころに足でも取られたら、それだけで一日の脆い均衡が音を立てて崩れそうで、私は風景ではなく、もっぱら地面ばかり睨んでいた。風景というものは、どうやら、いくらか幸福な人間の所有物らしい。
光というものは、ほんとうに何かを照らすためにあるのだろうか。むしろ、目を焼き、輪郭を白く灼き潰し、都合の悪いものを見えなくするためにあるのではないか。そんな卑屈な考えさえ、あの日の光の強さの前では妙に現実味を帯びた。風もまた無遠慮であった。誰に断るでもなく肩を押し、髪を掻きまわし、皮膚と衣服のあいだへ勝手に入り込んでくる。慰めでも励ましでもない。単なる介入である。自然というものは、いつだって他人事だ。そのくせ妙に完成されている。
その、あまりに整いすぎた春の午後である。ふと、足もとに違和感があった。くっきり伸びた電柱の影。その少し外れたところに、それは転がっていた。潰れた亀の赤ん坊であった。
小さかった。あまりに小さいので、最初は誰かの落とした玩具か、割れた菓子の包みかと思った。だが次の瞬間、それが生きものだったとわかった。乾きかけた甲羅が、午後の光のなかに、ぽつんと置き去りにされていた。誰も気づかないのか。それとも、みんな気づかないふりをして通り過ぎてゆくのか。私はその場に立ち止まった。何も言えず、何も出来ず、ただ春の風に吹かれていた。どうしてこんなに世界は明るいのだろう。そして、どうして私は、その明るさがこんなにも嫌なのだろう。
肉と内臓が土の上に無惨に晒されていた。どろりと濁った赤が砂利のあいだへじわじわ滲み、その滲み方だけが妙に静かだった。傍らのひしゃげた甲羅だけが、それがかつて亀という名の存在であったことを、かろうじて留めている。内臓というものは、内にあるから内臓なのであって、こうして陽の下へ剥き出しになった瞬間、それはただの中身に成り下がる。春の日差しは、その鈍く黒ずんだ血のあたりを、祭壇でも照らすみたいに、容赦なく明るくしていた。
菜の花が、何の思慮もなく揺れていた。黄色い花弁が、ひとつ、ふたつ、音もなくこぼれた。頭上を見れば、雲がのんきに白かった。感情も責任もなく、ただ空を渡ってゆく。その無責任な美しさが癪に障った。どいつもこいつも明るい顔をして、軽やかに、救いのふりばかりしている。だが私は、そういう嘘にすら素直に乗れない、不器用で質の悪い生き物であった。見てはいけないものばかりを、じっと見てしまう。見てしまったものは、もう見なかったことには出来ない。
残酷で、牧歌的な風景であった。
頬を撫でる風はやさしく、菜の花はやわらかく揺れ、陽射しは穏やかにきらめいていた。なのに空気のどこかだけが異様に帯電していて、私の心の、どこだか知れぬ一点を、唐突に焦がした。理由はなかった。意味もなかった。ただ、どうにもならぬものが体内で再び煙を上げただけだった。
吐き気がした。にもかかわらず、目は逸らせなかった。腐った甲羅の縁に、どうしようもなく綺麗な陽が射していた。美しさというものは、なぜいつも、あってはならない場所に宿るのだろう。綺麗なほうだけを見ようとしても、視界の端から、もう片方がぬるりと這いこんでくる。気味が悪いにもほどがある、と私は思った。だがその気味の悪さが、自分の内側と寸分違わず重なっているようで、なおさら始末が悪かった。
私はそっと手を合わせた。誰にも見られぬように、指先だけを細く揃え、わずかに頭を垂れた。そして、誰にも聞こえぬほど小さな拍手を二つ打った。立派な供養ではない。何もしないでいるよりは少しましな気がしたのである。
ふと思った。私だって、死んだあとくらい、こんなふうに誰かに手を合わせてもらえたなら、それだけでずいぶん幸せなのではないか。たった二拍の、小さな音。たとえ形ばかりでも、誰かがほんの一瞬だけ立ち止まり、私の死骸のそばへ祈りめいたものを置いていってくれるなら、それだけで自分の人生も少しはましだったと言い張れる気がした。くだらない理想である。じつにくだらない。だが、理想というものは案外、鼻で笑えるほど貧しい形でしか、胸の奥に住みつけぬのかもしれない。
春の空が、また痛いほど明るくなった。
ほんとうに、あれが理想なのか。死んだあとに誰かが手を合わせてくれるだの、潰れた命にも意味があるだのと、どこかの道徳の教科書から剥がしてきたような美談を、いまさら本気で信じろというのか。そこまで素直になるには、私は少々、失望しすぎていた。
もごもごと理想という代物を噛んでいたら、奥歯の隙間から、ぽろりと落ちたのは、ただの独り言だった。
「……クソが」
それだけであった。誰に向けたわけでもなく、誰の代弁でもなく、ただ舌のうえに残っていた濁りが、ひとつ、音になっただけである。
その、あまりにささやかで、あまりに現実的な焦燥が、それまで胸いっぱいにひろがっていた大層な感慨を、実に手際よく、ぺたりと上書きした。たしかに死はそこに在った。潰れた亀、晒された肉、無責任に白い雲、祈り、悪罵。だが今はもう、紙袋のなかからほのかに漂ってくるドーナツの甘い匂いが、それらを雑に、しかし確実に塗りつぶしてゆく。クリームがぬるくなる前に帰りたい。ただ、それだけであった。だがそれ以外、私には何もなかったのだ。
考えても仕方のないことばかり考えながら、私は少しだけ足を速めた。まるでそれで何かを振り切れるとでも思っているみたいに。
ミスドの紙袋が、春風にかすかに鳴った。
その音は、どこまでも、生活の音だった。
