エルメスのケリーを持っているのに税込2,780円のバッグを買った話
私がケリーバッグを手にしたのは、もう30年以上前のことです。
当時、国際線CAだった私は無類のバッグ好きで、バブル期のブランドブームに乗って、ヴィトンだシャネルだグッチだと、次々に高級ブランドのバッグを買い求めていました。
エルメスはその頃から別格で、人気のバッグは免税店に無く、ブティックに行かなければ手に取ることができませんでした。
海外で日本人旅行客の“爆買い”が問題視されていた時代です。
ブティックに行ってもドアを開けてもらえない、完全に無視される──そんな噂もあり、20代の小娘だった私にとって、エルメスの敷居はとても高いものでした。
入社5年目、初めての長期休暇でイタリア旅行に出かけ、その帰りにパリへ立ち寄りました。
そこで意を決してエルメス本店へ向かいました。
黒のケリーバッグを買うのだと心に決めていたのです。
フライトのステイ中は他のクルーの目もあり、高額な買い物はなかなかできません。旅行者であるこの時が、貴重なチャンスでした。
きちんと身なりを整え、落ち着いて本店の前に立つと、自然にドアが開きました。ケリーをオーダーしたいと伝えると、店員の方は分厚いレザーの見本帳とともに丁寧にオーダーの詳細を案内してくれました。そして和やかな雰囲気の中でスムーズに購入手続きができました。
私は帰国子女で、人種の違いから生じる微妙な空気を敏感に察するほうですが、その時のエルメスでは居心地の悪さを一切感じませんでした。
夢のような時間でした。価格は40万円ほどだったと記憶しています。
なぜケリーだったのか?
当時の私は、自分の裁量で高額な買い物ができるのは今だけだと思っていました。仕事を頑張った証として、これからの自分を支えるものが欲しかった。おばあちゃんになっても素敵に持てる一生モノの「フォーマルバッグ」が欲しかった。他ブランドも含めて時間をかけて検討を重ねた結果、ケリーこそが最良の選択だと確信したのです。
上品な本革の質感、外縫いのキリッとした美しい立ち姿、十分な収納力、ショルダーの利便性、職人気質であるエルメスへの圧倒的な信頼。
もう黒バッグは他に買わない!と誓って、ケリーを持つ人生を選択しました。
オーダーしてから約1か月後、航空便で自宅にオレンジ色の箱が届きました。税関に取りに行くのかな、などと思っていたので、直接自宅に届いてびっくりしたことを覚えています。インターネットもなく、限られた情報の中での高額な買い物だったので緊張もありましたが、オレンジ色の箱を開けて神々しいバッグを手にした時は感動しました。
あれから30年以上が経ちました。
家族や友人の結婚式、会社の式典、夫婦の記念日、子どもの節句、入学式や卒業式、同窓会や大切なイベント。私の人生の節目にはいつもケリーがありました。
20代で購入して本当に良かった。
だって、ずっと満足だから。
他のバッグは本当にいらない。ケリーには敵わない。
むしろ究極の節約だったのではないかと思うくらいです。
定期的に店舗にお手入れをお願いし、大切にしてきました。
ところがここ数年の間にエルメスのバッグはますます希少になり、価格も高騰し、ちょっと困った事態になってきました。
私のケリーの同型のものは中古でも100万円超えの値がついています。
驚きしかありません。いくらなんでも高すぎます。
こんなに高価なバッグを持ち歩いて良いのかな、と今更ながら心配になってきました。
車移動がメインだったら良いのですが、私は普通にバスや電車に乗りますし、自転車だって乗ります。
傷つけてしまったらどうしよう。
お手入れの代金も高騰していて、気軽に頻繁に出せるものではありません。
という訳で最近は、移動中はエコバッグに包んで持ち歩き、現地に到着してから出すという、少し怪しい手段をとっています。
なんだか本末転倒な気もしますが、傷つけたくないし、目立ちたくないのです(泣)
先月のことです。
とある式典に出席することになり、衣装合わせをした時に、ふと気になりました。
私のケリーは、必要以上に目立ってしまうのではないか。周囲に対して過剰なアピールに見えてしまうのではないかと。
式典でご一緒する方の中には初めてお会いする方もいて、これから良好な関係を築いていきたいと思っていたので、持ち物で目立ちたくないなと思ってしまったのです。
今まで、ずっとケリー一択だったのに、やっとケリーが似合う年齢になったのに、他にフォーマルバッグはいらないと思っていたのに、ケリーを持つことに不安を感じてしまったのです。
そこで、無難な黒のバッグをひとつ買おうと思い立ちました。
海外ブランドは高価過ぎるので、早々にパス。濱野皮革工芸は在庫切れ。
和光に素敵なバッグがあったのですが、オンライン上では決めきれず、検索を繰り返すだけで貴重な時間が過ぎていきました。
そうこうしている間に式典の日が近づき、私は慌ててデパートを回って黒バッグを探しました。しかし思うようなバッグには出会えず、本革のフォーマルなバッグは売り場に出ている数が少ないことを知りました。
実物を手に取って購入したいと思っていたのですが、浅はかでした。
予めよく調べ、日数に余裕を持って予約や取り寄せをする必要があったのです。
思い立って、すぐ欲しい!と言っても手に入らない。早く出向いて売り場の方に相談すれば良かったのだと学びました。
いよいよ困ったと思っていた前夜に発見したのが、駅ビルのアパレルショップの壁面に並んでいた合皮のバッグです。
税込2,780円。
とても軽い。嫌味の無いスムースな生地。金具は最小限でシンプルなデザイン。ちょうど良い大きさ、ちょうど良いハンドルの長さ。持っていても持っていないかのような存在感の薄さが素晴らしい。
──ただ、2,780円って。安い。安すぎる。
一万円なら喜んで買うのに、安すぎて躊躇してしまう。
見回すと可愛らしいお嬢さん向けの衣装が並ぶお店です。私には安っぽくは見えないのですが、見る人が見たらやはり値段相応なのでしょう。
失礼にならないだろうか。場にそぐわないと思われないだろうか。
いや、誰もそんなところ見ていないはず。自意識過剰だ。
ぐるぐる考えた末、式典には持たずとも普段使いにしようと考え、2,780円のバッグを買いました。
値段はともかく、デザインが好みだったことが決め手でした。
式典当日。
朝まで悩みましたが、私はケリーをオレンジの箱に戻し、2,780円のバッグを手に取りました。
エコバッグで包む必要はありません。日差しも雨も気にならない。必要なものは全て入る。そして軽い。新品で気持ちが良い。誰の目も気にならない。バッグに過度な神経を使うことなく、リラックスして式典に臨むことができました。
このシンプルなバッグは充分役割を果たしてくれました。
助かった。本当にありがとう。
今後、同じような場面で困らないためにはどうすれば良いのか。
本革の黒バッグをもうひとつ用意しておくと安心なのは間違いありません。でも同時に、目立つ、傷がつく、と気にせず、堂々とケリーを持つ強さも大事なのだろうと思います。
エルメスの市場価値は高まっているのに、自分自身はそれに見合っているのか自信が持てない。
──そんな弱さが表に出てしまった気がします。
ケリーを持つと背筋が伸びる。ほどよい緊張感で所作が綺麗になる。
服や靴にも神経が行き届く。ケリーを持つ人生を選んだはずなのに、今回は自ら降りてしまった。
50代後半になった今も、私はまだケリーに試されているのかもしれません。
ケリーの為に、もう一度背筋を伸ばそう。
そしてケリーが似合うおばあちゃんになりたい。
そんな願いを思い出した出来事でした。
私を助けてくれた2,780円のバッグ。
リラックスしていいんだよって囁いてくれたバッグ。
ケリーの代役をありがとう。
綺麗に手入れしてクローゼットに仕舞いました。
そして次の機会には、胸を張ってケリーを連れて行こうと思っています。
