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現代を生きるホタル人間、のお話|文章デトックス

夢を語る人達がいる
たとえば「本を作りたい」とか

でもこの際、夢はどんなものでもいい


「配信者になってたくさんの人から注目されたい」
「自分自身がなっとくする3Dモデルを作りたい」
「依頼の殺到するイラストレーターになりたい」
「航空機のキャビンアテンダントになりたい」
「音楽で一山当てたい」
「将来はたくさんの子供や孫に囲まれて暮らしたい」
「続けてきたスポーツでメダルが取りたい」
「新宿の一等地に住居を構えたい」
「ベンツやボルボに乗りまわしたい」
「ただただお酒とたばこが飲めればいい」
「伝統的な文化を後世に語り継いでいきたい」
「不労所得で働かなくていい生活を送りたい」
「いずれ父親を見返してやりたい」
「大切な人との時間を何よりも優先したい」
「今この時の幸せが永遠に続けばいいのに」

そんな夢に群がる人たちが、まるで「ホタル」みたいに思えた



夢のカタチは実にさまざま

テキスト中心のプラットフォーム上か、あるいはYoutubeの動画の中、メディア媒体なんかに取り上げられて、今日もウン百万人規模の「夢の集合体」がネットの海を漂っている


応援されやすい夢もあれば、相手にされず道端から転げ落ちる夢もある

あるいは同じ願いであったとしても、夢を抱く人のバックボーンが正当かどうか常に色眼鏡をかけられ、背中を押される人、せき止められる人、に分けられたりもする

独身のまま年齢を積み上げた人の願いは、家庭があり、友人があり、子供がある人の願いと比べられ、より心象の良い幸福が優先される

もしくは当人が徹底的な弱者であればあるほど、感動・感心という名の罪悪感がトッピングされて、良く評価せざるを得なくなったりする

同様に、徹底的な強者であればあるほど、その言動には他者を圧倒する信念がこもり、同じ濃さを持たない者は口を噤むことを余儀なくされる

だから、たくさん夢がそれぞれ平等だとはぜんぜん思っていない
もちろん、むりやり平等にする必要もないと思っている



孤独な願いが一般的な幸福論(家庭があり、友人があり、子供がある)と同じ土俵に立つには、それ相応のストーリー性がなければならない

ストーリー性は、人々からその「濃度」がどれほどのものか常に精査される

続けてきた年月、キャリアそのものであったり、功績や受賞歴といった華々しい履歴であったり、一族に代々継承されてきた意思と情熱であったり、来歴、人柄、関わってきた人たち

試食コーナーにある新商品のモニターみたいに、気軽に「濃さ」を量られている
社会はそんな「濃さ」を、かんたんに、それでいて魅力的に付加できる仕組みを作った

それが、何者かを表すための「肩書」になる

「〇児の母」
「○○専門学生」
「毒親サバイバー」
「○○歴何年」
「○○賞受」
「○○イベント主催者」
「フォロワー○○人」
「○○コンサルタント」
「収入○○からフリーランス」
「○○分野第一人者」

肩書とは、”情報”を魅力的につたえるための”情報”であり、ブラックボックスを組み込んだシステムそのもの
あるいは、夢を叶えたその後に名乗る名前なのかもしれない

説得力のあるストーリーには、誰にでも理解しやすい性質がある

いきなり歯車や精密部品みたいなブラックボックスの中身に興味を持つ人は少ない
だからシステム(役割)から入る

まずはこのシステムが注目されなくちゃならない
「こっちの水は甘いぞ~」と、四方八方からの誘惑に事欠かない現代のホタルたちを手なずけるのは並大抵のことじゃない

より強力で、より説得力があって、一目でわかる肩書ほど、その求心力を強めていく
だから肩書は自然と美辞麗句になっていく

ある意味、noteを書く人々やライターという職業は、肩書というブラックボックスの中に隠された背景や歴史をひもとき、わかりやすく人に伝える中継器のような存在なのかもしれない

「スキ」や「いいね」の数は、おしりを必死で光らせるホタルたちの数であって、みんな「甘くて濃い液体」を求めて右往左往している


時々、ホタルたちはそんな肩書にただただ惑わされているだけのようにも思う
右往左往しているホタルたちに節操のなさを感じて、どうしようもなく恥ずかしくなったりする

「甘い夢」がそこかしこに溢れていて、みんなで一緒にかなえようとか、一緒に味わおうとか、いつだっておいでおいでと手をこまねいている
実体がただただ席の少ない椅子取りゲームであっても、ホタルたちはそんなこと関係ないと言わんばかりに群がっていく

席が取れないならば、次へ、席が取れないならば、次へ、と夢破れながらも「甘い夢」を求め続ける

おしりの光が弱くなってもなお、欲に従ってさまよい続けるホタルたちを見て、たまに思ってしまう
まるでゾンビみたいだな、って


生物のホタルは、日々その数を減らしていっている
環境汚染のせいだ、なんてまことしやかにささやかれているが、実際のところ人間が良かれと思ってやった「環境整備」が原因なんて側面もある

人間の生活から夜を奪った人工の光は、ホタルから交尾の機会を奪う結果となっているし、河川や用水路の合理的な整備によって川の岸辺や周辺地域からは十分な植生が失われ、ホタルの居住区は限られてしまっている

反対に、ただ自然を豊富にしたりすればよいわけでもない

浅い河川を増流したとしても、河川底が必要以上に掘り下げられてしまえばホタルの幼虫が流されたりして死んでしまう恐れもある
ホタルのエサとなるカワニナといった水生生物も特定の水深でしか生息できない

ホタルは、甘やかしすぎても、厳しくしすぎてもいけない、絶妙な環境で光り輝く幻想なんだと思う

必要なのは「甘い水」でも「苦い水」でもなく、何よりも「澄んだ水」
バランスを調整して、関与する。甘い水だけにしてもいけないし、苦い水だけにしてもいけない
決して、どちらか一方で支配してはいけない


整備された「肩書」や「夢」は、人々を常に甘い誘惑へと導こうとする
「もっともっと甘く」「もっともっと確かなモノ」へ向かっていくことを推奨する

古来から信じられてきた「幸せな家族像」であったり、現代にはびこっている「アテンションエコノミー」な実態であったり、あるいはたくさんの”友人のようなもの”の存在であったり、お互いに干渉しあわないミュート文化、逆に共同体に回帰しようとするコミュニティ形成であったり

手元のスマートフォンの電源を入れてみれば「これが目指すべき夢であって、最高の環境だ」と、淡い光とともに私たちの頭の中に容易に流れ込んでくる

本当に、それは自分の望んでいることなのだろうか
環境に適応できるのならいい
私たち人間はホタルじゃないから、もっともっと強かに生きていけるかもしれない

パンチのきいたストーリー性があればその背中にはたくさんの手垢がつく
キャッチーな伝え方ができるのなら、多くのホタルを動かすことができるかもしれない

だけど、ストーリー性が伝わりづらいホタルのように弱い人はどうすればよいのだろうか、なんてことをよく考える

仲睦まじい家族の存在が、人を推し量る基準になるのだろうか
波乱万丈な人生が、人を推すために不可欠な要素なのだろうか
言葉を尽くし、それらを説明しきれた人だけが夢をつかめるのだろうか


私にはちょっとした夢があった
あるにはあったけど、振り返ってみれば結局は「肩書」のための道具にすぎなかったと、今にして思う
「夢」という部品をかざすためには「肩書」を作るしかなかった

でも、当時のその夢は、右往左往しているホタルの夢であって、今の私に必要なものじゃなくなった

今、私の日々には小さな目標がたくさんあって、少しづつ少しづつ達成してはいる
でも、それらの目標は全部バラバラで、一見すると結びつかないような他愛もないことだらけ
だから、夢に向かって進んでるって感覚はすごく希薄


強いていうなら「どうやったら幸福に生きれるか」を考え続けることが、今の私の「夢」かもしれない

極端に甘いこともなく、極端に苦いこともない「澄んだ夢」

そういうのをたびたび夢想してる





ホタルは、自ら光るからこそ美しい

でも、よりよく光ろうと、承認欲求に身を任せて暴れるような真似をしてもいい結果にならない
そうしたって、自分にとって澄んだ環境がもたらされない事は分かっている

現代はまわりが整備されて明るすぎるから、自分も負けじと強く光らないといけない
でも実際には、派手な光り方なんて必要ないと思う

もっと暗くて、シンとしたところなら、たとえわずかな光でも幻想的に浮かび上がってくる

視点を変えて、生活を変えて、そういう澄んだ環境に身を置くことが、弱いホタルにできる精一杯の「夢」かもしれない











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