選べなかった私。選ばれてしまった私。
私はずっと、一番を選べない人間だった。
なのに、人生でいちばん望まなかったものばかりが、私を選んできた。
30代後半の私の記憶には、髪の毛もまつ毛も眉毛もない。
針に怯え、抗がん剤治療をしながら命を繋いだ日々。
子育て真っただ中の36歳で乳がんになり、38歳、39歳で二度も再発。
子育ても家事も休みはなく、その上、毎週の通院。
生きるだけで精一杯の毎日だった。
「生きているだけで感謝です。もうこれ以上何も望みません。神様どうか……この幼い娘たちがランドセルを背負う姿を見させてください……。」
これ以上何も望まないと言いながらも、舌足らずでしゃべるまだまだ小さい子どもたちの成長をずっと見届けたいと願うなんて、厚かましいって思われるのかな。
生きることそのものに遠慮をしてしまっていたあの頃の私が、まさか40代になって憧れの地・ニューヨークで個展を開くなんて、想像すらしていなかった。
けれど、その物語は、乳がんになった日から始まったわけではない。
私はずっと前から、自分の人生に遠慮して生きてきたのだ。
これは、「一番を選べない私」が、自分の人生を取り戻すまでの物語である。
第1章:遠慮して生きた子ども時代
私は3人兄弟の長女だ。持って生まれた性格なのか、環境の影響か、自分の気持ちを後回しにする癖があった。
「あんたはいつも己が大将。自分中心。」
子どもの頃から、そして大人になっても、両親からことあるごとにそう言われてきた。私としては、十分すぎるほど遠慮しているつもりだった。
父の仕事の都合で何度か転校をした。
人見知りの私は、新しい環境に馴染むだけでも相当なストレスを抱えていた。方言や文化の違いに戸惑う毎日。うっかり出た方言に笑われたこともあった。そのことを親に話すこともできず、苦しみをただひたすら耐えた。
それでも「自分中心」と言われるなら、私はもっと我慢しなければならないのだと思った。そして自分の「望み」も声にできなくなっていった。
しだいに、自分の欲望を堂々と口にする人を見ては、「なんて自分勝手な人なんだろう」とさえ思うようになった。一番を望むことは、誰かを押しのけることだと思っていた。
だから私は、本当に欲しいものは頭の中だけで叶え、現実では三番目くらいを選んでいた。
それが人に迷惑をかけない生き方だと信じていた。
今でも、その癖は完全には抜けていない。
いつしか、お金のかからない「空想」という得意技が身につき、それを絵にすることで満足していた。
幼い頃は、特別なおもちゃがなくても、紙と鉛筆さえあれば生きていけた。
外遊びも好きじゃなかったから、ちょうど良かった。
毎月のカレンダーの裏や、広告の裏に絵を描いて過ごすうちに、絵を描くことが大好きになった。カレンダーは大きくていいけれど、紙質的に鉛筆は不向きで、ボールペンだと滑って描きづらい。マットな紙質の広告の裏が一番好きだった。特にワンカラーのスーパーの広告の紙が好みだった。新聞に挟まれている広告を吟味して、いつもその中のベストを探していた。
広告の裏に描きたかったわけではない。
本当は上質な画用紙が良かったかもしれない。
けれどあの頃の私は、そんな存在すら知らなかったし、お絵かき帳を買ってほしいとも言えなかった。ただ、限られた選択肢の中で、一番良さそうなものを選んでいた。
それは、その後の私の人生を物語っているような選択だった。
第2章:絵だけが知っていた本音
子どもの頃の私は、お姫様ばかり描いていた。
ドレスを着て、出窓にドレープカーテンがあるお城のような家に住んで、果実のなる庭で暮らす。
マントを羽織ったヒーローもよく描いた。正義の味方。強くて、誰かを助けられる人。
最初はただの空想だったのが、いつの間にか「私には叶わないこと」になっていた。
夢は絵の中で楽しむもの。現実では選べないもの。
そんな見えない線を自分で引いていたのだ。
ある頃からは、お年玉で買ったタロット絵本を開いては、可愛い絵が描かれたカードを引いてよく遊ぶようにもなった。自分の気持ちを言葉にするのが苦手だった私にとって、カードは、私が言えなかった本音を代わりに話してくれる存在だった。
今思うと、絵はいつも、言葉より先に私の本音を知っていた。
第3章:自分を信じられなかった20代
高校だけは、自分の意思で第一志望を選んだ。そして、高校も私を選んでくれた。あれが、はっきりと記憶する初めての「一番を選んだ経験」だった。けれど、待っていたのは思い描いていた高校生活ではなかった。勉強についていけず、夜遅くまで机に向かっても成績は上がらない。担任には努力が足りないと言われ、自分では頑張っているつもりだったのに、毎日が苦しかった。
「一番を選べば幸せになれるわけじゃない。」
そう思うようになってからの私は、本当に望んだ道ではなく、「今の私にはこれくらいが妥当だろう」と思えるほうを選ぶようになった。
第一志望ではない大学へ進み、本当にやりたい仕事ではなく、「私でも入れそう」と思えた会社を選んだ。
挑戦しなかったわけではない。
誰もが知る大学も受けたし、憧れの会社の説明会にも行き、応募もした。
けれど、「ここに行きたい」という気持ちを、最後まで信じ切ることはできなかった。
心のどこかで、「どうせ私には無理だろう」と思っていたのかもしれない。
傷つくくらいなら、最初から期待しないほうがいい。
空想の中では、いつだって一番を選べた。
けれど現実では、自分から三番目くらいを選んでいた。
心は、ずっと満たされなかった。
周りの友人たちは愚痴を言いながらも楽しそうに人生を送っているように見えた。
私だけが取り残されているような気がした。
まるで、低い谷のどん底を何度も見ているような気分だった。
今となっては、消去法のように選んだ道も、自分を守るためだったのだと思う。
第4章:地獄の日々
その先で、私は二人の娘の母になった。
「将来、子どもを産むなら、女の子の姉妹がいいな。年も近い方が友達感覚の姉妹になって楽しそう。」
誰に口にするでもなく、頭の中でそう描いていた。
子は授かりものだから、願ってもそうなるとは限らない。
だから、この密かな想いが叶ったのは、高校進学に次ぐ「二度目の、一番の希望が叶った瞬間」だったかもしれない。
しかし、願いは叶ったものの、子育ては本当に過酷だった。
命ある生きものを育てることの困難さに、すぐに挫けかけた。
「誰もが通る道。」
「みんな同じ。」
励ましという名の呪いの言葉を真に受け、
「しんどい。助けてほしい。」
と口に出せずにいた。
あの頃の私も、自分の気持ちだけは最後まで後回しにしていたのだ。
「息抜きにランチに行くといいよ。」
「預かり保育のサービスを使って一時間喫茶店でお茶するといいよ。」
そんなアドバイスをたくさん目にした。
けれど、預かり保育のサービスは安くない。
ランチ代とわずかな時間の保育代を足すと、大好きな洋服が一着買える金額になる。
ランチをしても子育てが楽になるわけじゃない。
ほんの数時間のために余計なお金を使って、何が解決するのだろう。
帰れば結局、家事育児が待っているだけなのに。
息を抜くことも吸うこともせず、息を止めたまま走り続けるような毎日だった。
そんな生き方を続けた先で、36歳の私は乳がんになった。
今まで味わってきたどん底なんか、比にならない。
一番の生き地獄だったのは、検査結果を待つ10日間だった。
「がんを疑った方がいい」と言われて精密検査をしたけれど、
「何かの間違いでした」と言われることを期待した。
幼稚園から中高生時代まで皆勤賞だった、元気印の私なのに。
もし、がんと診断されたら、目の前の景色は白黒に見えるのだろうか。
こんなにきれいな山や空も、涙で滲んだ水墨画のような色に見えてしまうのだろうか。
「深刻な進行がんです。」
そう宣告を受けても、世の中は何も変わらず、カラフルなままだった。
山は緑。
空は青い。
道行く若者の笑顔は輝いていた。
無邪気な顔で楽しそうにしている若い女の子を見て、
「笑っていられるのも今のうちだよ。そのうち乳がんになるかもよ。」
と、心の中でそんな悪態をつく気力だけはあった。
「生きているだけで幸せ。」
「命あることに感謝。」
また出てきた。何度も聞かされる「正しい」とされる言葉たち。
私も、そう思わなければいけないと思った。
娘たちの成長を見たい。
また旅に出たい。
もう一度、思いっきり絵を描きたい。
願いが浮かぶたび、「生きているだけで十分でしょう」という声がどこからか聞こえてきて苦しかった。
あげくに「病気になったのが、子どもたちでも夫でもなく、私でよかった。」とさえ口にするようになった。
望んで病気になったわけではないのに。
命あることに感謝しようとするほど、「生きたい」という私の気持ちは、どこかへ置き去りになっていた。
二度目の再発を迎えたとき、私はようやく自分に問いを投げかけた。
――あなたは、本当はどう生きたいの?
その問いに答えられるようになるまで、私はまだ、ずいぶん遠回りをすることになる。
第5章:人生を変えた最低の一言
二度目の再発の時は、さすがに一週間やそこらじゃ立ち上がれなかった。
寝ても覚めても「生きるな」と言われているようだった。
これまで全力で伴走してくれていた医師が、急に冷たくなったように感じた。大学病院への転院を勧められ、「もう手に負えないのか」と見放されたように思えた。
医師の説明をどう理解したらいいのか分からず、「私、どうすればいいんだろう」という問いに、何も答えない夫。
もしかして、私に生きていてほしくないのかな、とさえ感じた。
「このまま私は、何も残せずに死んでいくのかな……。」
私は夫に聞いた。
期待する答えはこうだった。
「そばにいてくれるだけで、存在が幸せだよ。」
「かわいい娘たちを産んでくれたじゃないか。」
ところが、期待とは裏腹に、研究者の夫はびっくりするような言葉を発した。
「俺は論文をたくさん残しているけどな。」
耳を疑った。嘘でもいいから、ひと言「生きてほしい」と言ってほしかったのに。
悔しかった。
何かが違う。
何か。なにか……。
その答えはすぐに見つからなかった。
ただ、悲しみが怒りとなり、立ち上がる原動力となった。
「このまま死んでたまるか。」
胸の奥に残る悔しさと怒りを抱え、私は父の実家がある尾道・向島へ向かった。
街明かりが照らされた夜の尾道水道をぼんやり眺め、翌朝、祖母のお墓の前に立った。
私が小2の時にこの世を去ったおばぁちゃん。まだ50代という若さだった。
おばぁちゃんなら「幸せに生きなさい。ずっと見守っているからね。」と言ってくれそうだった。
そして、私は腹をくくって宣言した。
「治療を頑張る。」
誰かのためではない。
今度は、自分が生きるために。
第6章:生きるチカラ
思えば私は、いつも満たされない「何か」を探し求めていた。
「何か、ほしい……」、「なんかもっといい感じの……」。
友人にも「その something って一体何だろうね。」と突っ込まれたことがある。
あの腹立たしい夫の発言がなかったら、something が何か分からないまま、私は生きることを諦めていたかもしれない。
今となっては私を奮い立たせてくれたあの言葉に感謝している。
そして、それが私の「something 探しの旅」の始まりとなった。
自分の人生をさかのぼって気づいたのが、冒頭に述べた「遠慮して生きてきたこと」。
自分を過小評価し、いじめ続けてきたことにやっと気づいた。
ある時、友人と「制限なく何でもできるとしたら、何がしたい?」という話題になり、思いつくままに書き殴った。
その中の一つにあったのが「個展」だ。
それを見た友人が「いいじゃん、やってみたら? いつやる?」と乗ってくれた。
ちょうどその時、私は二度目の再発にともなう抗がん剤治療で、毎週通院していた。病院の長い待ち時間のつぶしに、iPadで絵を描いていた。
その絵を展示したらいいじゃないか、と友人が提案してくれたのだ。
やってみたい気持ちが昂ると同時に、頭の中で言い訳が浮かぶ。
美術大学を出ていない、英文科出身の、普通のOL経験しかない私に、個展という大それたことが果たしてできるのか(できるわけがない)。
やりたい気持ち半分、できない言い訳半分をつらつらと述べていたら、気づけば一年間という長い抗がん剤治療の終わりを迎え、経過観察という「奇跡の生還」を果たした。
私って、案外しぶとい。
ここまで生きるチカラがあるなら、絶対これからも生き続けられるに違いない。
それから私はまず、「生きる」と宣言した。
婦人科系疾患を経験したことのある知人から、
「もう病気にならないと決めたらいいんだよ。」とアドバイスを受けた。
最初は、そんなこと自分で決められるのかと驚いた。
だけど、「本当の望みは自分で叶えられる」ということを、高校の進路と、二人の娘との出会いで教わってきた。だから、そのアドバイスはすんなりと身体に落ちてきた。
自分のことを自分で決められる快感。
これは、自分で決めることを遠慮してきた私の、大きな一歩の瞬間だった。
第7章:推しからの電話
ある日、ホテルのワンフロアを貸し切って大きなアート展をする企画の広告を目にした。とても惹かれた。
けれど、私の弱気な声がささやく。
「美大出身じゃないのにできるのか……。」
そんな時、私の推しである俳優さんのファンクラブ企画で、「電話で握手-あなたのお悩みを聞きます」という募集があった。
私は想いの丈をぶちまけて応募した。
応募したことも忘れてしまっていた、ある日の午後。
一通の非通知電話が鳴った。
恐る恐る出ると、そこから聞こえてきたのは推しの声だった。
まさかかかってくるとは思わなかったけれど、わずかに期待もしていたので、びっくりする間もなく私は話し始めた。
美大出身でもない私が個展に挑戦するのは不安だということ。
推しはとても落ち着いた声でこう言った。
「どんな経験も、のちの人生の自分の財産となる。」
自己肯定感の低かった「私」という存在すべてを、肯定してもらえたようだった。彼は私の覚悟を引き出してくれた。
電話を切ってすぐ、アート展にエントリーした。
ダメ元で出すくらいいいじゃないか、何事も挑戦しないと始まらない。
絵は不完全だったけれど、エントリーシートに込めた想いだけは、誰にも負けないくらい全力で伝えた。
一週間ほど経って、なんと「審査通過」のメールが届いた。
人生が変わり始める瞬間だと、確信した。
初の個展では、たくさんの知り合いがお花を持って観にきてくれた。
楽しんで帰っていく人たちの姿を見て、気づいたことがある。
病気になって、たくさんの人に支えてもらった恩返しをしたいと思っていたが、私は、一体どういうことが恩返しなのか、分からずにいた。
けれど、「元気な私でいること」が、何よりの恩返しなのかもしれない。「何か」がぼんやり見えてきた。
私は、生きる希望の星になりたいと思うようになった。
大舞台を一度味わうと、次は、かつて憧れた地・ニューヨークで個展をしたいと思うようになった。
もっと身近な場所から経験を積んだ方がいいという声もあった。
以前の私なら、人の意見を聞いて諦めていただろう。
でも、この時だけは違った。
「やりたい場所でやりたい。」
その気持ちだけは、譲れなかった。
20代の最後に訪れたニューヨーク。
あの街は、「自分が楽しんで堂々と発信したら受け入れてくれる自由な場所」という印象があった。
「いつかアーティストとなってニューヨークを再訪したい」とうっすら心で描いていたのだ。
それまで口に出せなかった「ニューヨークで個展」という夢を家族や友人に語るようになると、なんと今度は「ニューヨークで個展をしませんか」という広告が目に飛び込んできた。
迷わず連絡をして、とんとん拍子に話が進んだ。
現地のギャラリーとやり取りをしていくうちに、いよいよ夢が叶うことへの喜びと同時に、ワクワクを超えて少し怖くなった。
だけど、たくさんの人たちが応援してくれている。
現地には来られない友人たちから、
「レポート楽しみにしているね。」
「絶対大丈夫。」
そんなメッセージが次々に届いた。
飛行機に乗るのは私一人。
けれど、不思議と、人の温かい気配を感じた。
私はずっと不安に怯え、孤独を抱えて生きてきたのだと、その時初めて気づいた。
大きな挑戦を自ら選んだのに、私が本当に求めていたのは、成功ではなかった。
「なんか大丈夫」と思える、自分の感覚だった。
これがずっと探し求めていた「something」なのかもしれない。
その答えは、ニューヨークで個展を終えたとき、確信へと変わることになる。
第8章:みちくさは財産
個展を通じて感じたことがある。
誰しも、不安や扱いきれない感情を抱いて生きているということ。
それは日本に限らず、海を越えても同じだった。
私の作品を見て、涙しながら
「生きる力がみなぎってきた。私も病と向き合って、共に生きていきたいと強く思った。」
と伝えてくれたお客さんがいた。また、
「ありがとう。生きていてくれて本当にありがとう。」
と、目を見てストレートに伝えてくれた人もいた。
生身の声を聞いて、機内で感じた「something」の想いが重なった。
「なんか大丈夫」という感覚を求めているのは、私だけではなかった。
自分を信じて一歩踏み出せる、小さな安心を求めている人が少なからずいる。
言葉にならない想いをすくい上げ、イラストにメッセージを乗せて発信したいという気持ちが、さらに強く芽生えた。
私は海外へ旅をすると、必ず本屋さんを訪れる。
ニューヨークでも、展示会の合間を縫って何度も本屋へ足を運んだ。
中でも好きなのは、オラクルカードやタロットカードが置いてあるコーナーだ。色彩豊かなカラフルなカードを手にして見ているだけで、気持ちが明るくなる。可愛い箱が、まるで宝箱のようだ。
「こんなのを作ってみたい。」
幼い頃、タロット絵本のカードが私を支えてくれたように、今度は私が、誰かの心に寄り添えるオラクルカードを作るという夢が、はっきりとカタチになった。
小さい時から我慢した気持ち。
一番を選べないでいた若い頃。
「こうあるべき」に縛られ、自分の心に遠慮していた30代。
そして乳がん治療で苦しんだ5年間も、ニューヨークで出会った人たちの涙も。
そのすべてが、私のオラクルカードの一枚一枚になっていった。
みちくさばかり食っていた人生だったけれど、そのおかげで、たくさんの出会いがあった。
励ましてくれた優しい言葉、時に叱咤激励してくれた強いメッセージ、現実逃避のように出かけた旅先で見た景色。
私の推しが言ってくれたように、すべてが財産であり、すべてが私のストーリーだ。
これまで「一番」とは、誰かに勝って手に入れるものだと思っていた。
だから、一番を望むことは、誰かを押しのけることだと思い込み、遠慮してきた。
でも、本当の一番は違った。
自分の心が、いちばん心地いいと感じるもの。
その感覚を信じて選ぶことだった。
私が探していた something は、その「なんか大丈夫かも」と教えてくれる自分自身の感覚だったのだ。
それは誰かが与えてくれる安心ではない。
自分の心に遠慮せず、その感覚に従って一つひとつ選んでいくたびに、少しずつ育っていくものだった。
今は、「本当は画用紙がいいけれど、広告の裏で我慢する」のではない。
上質な画用紙を選ぶ自由も知った。
それでも私は、あえて広告の裏を選ぶ。
今でも、裏紙や真っ白でくしゃくしゃになった緩衝材を見ると、そこに思いきり絵を描きたくなる。
それは、私の「原点」だからだ。
昔は、遠慮して広告の裏を選んでいた。
でも、今は違う。
私は、自分の意志で、それを選んでいる。
正直、今でも、一番を選ぶのが得意な人間ではない。
それでも、自分の心が「なんか大丈夫かも」と感じる方へ、向かっていきたい。
あの日、広告の裏に夢を描いていた小さな女の子に、私はようやく手を差し伸べることができた。
「あなたの一番を、選んでいいんだよ。」
