見出し画像

六法全書は、なぜあんなに重いのか


司法試験合格者が気づいた「法律と人生」の話

1 浜松町のホール

五月の朝、モノレールを降りると、潮のにおいがした。

浜松町。東京湾がすぐそこにある街。ビジネスマンが足早に行き交う駅の改札を抜けて、私は司法試験の会場へ向かった。二度目の受験だった。

会場のホールに入ると、その「静けさ」に毎年ながら圧倒される。数百人が集まっているのに、誰も話さない。手元の教材をめくる者、天井を見つめる者、目を閉じて唇を動かしている者。それぞれのやり方で、長い一日に備えている。

前年、私はこの会場で不合格になった。同じ潮のにおい、同じ静けさ、同じ緊張。一年前の自分と、今の自分と、何が違うのだろう——そんなことを考えながら、指定された席に座った。

試験が始まる直前、ふと窓の外を見た。東京湾の方向に、白い雲が流れていた。波のように。

2 六法全書の重さ

六法全書を初めて手に持ったとき、私はその重さに驚いた。

ロースクール(法科大学院)に入学する前、書店の法律書コーナーで一冊を棚から引き抜いたあの瞬間のことを、いまでも鮮明に覚えている。ずっしりと、両腕に食い込むような感覚。ページを開くと、細かい文字がびっしりと並んでいた。条文番号、カッコ書き、但し書き。そこに書かれているのは日本語のはずなのに、まるで外国語のように意味が入ってこなかった。

それから数年かけて、私は気づいた。六法全書が重いのは、物理的な紙の重さだけではない。あの一冊に込められた「人間の愚かさと叡智の堆積」が、重さの正体なのだと。

法律とは、人間が繰り返してきた失敗の、結晶化した記録である。

3 一度目の不合格、そして一週間

最初の不合格通知が届いたのは十一月の始めだった。

法務省のウェブサイトで受験番号を探した。なかった。三回、四回と画面を確認した。やはりなかった。

その夜、私は六法全書を本棚の一番奥に押し込んだ。「もう見たくない」と思った。

一週間ほど、何もしなかった。テレビを見て、散歩して、久しぶりに小説を読んだ。受験勉強中はずっと読めなかった小説だ。「時間がもったいない」と思っていたから。

その一週間で、あることに気づいた。私が法律を学び始めたのは、「弁護士になりたかったから」だけではなかった、ということ。

きっかけは、二十代前半に経験した出来事だった。身近な人が、理不尽な扱いを受けた。詳細は書かないが、「なぜこんなことが許されるのか」という怒りと、「自分には何もできない」という無力感が重なった。そのとき初めて、「法律を知らないと、不正義に対して手も足も出ない」と気づいた。

合格することだけを目標にするうちに、その原点を忘れていた。

一週間後、私は本棚の奥から六法全書を引き出した。重かった。でも今度は、その重さが少し、違う意味を持って感じられた。

4 二度目の受験で変わったこと

再挑戦の一年間は、勉強の中身よりも「自分の頭の使い方」を変えることに費やした。

一度目の受験で私が犯していたミスは、知識を「覚えること」に集中しすぎていたことだった。条文を暗記する。判例を覚える。論証パターンを頭に詰め込む。それ自体は必要なことだが、それだけでは司法試験の論文問題には対応できない。

司法試験の論文問題は、「知っているかどうか」ではなく「考えられるかどうか」を問う。与えられた事実を法律の枠組みに当てはめ、論理的に結論を導く力。その力は、知識の量だけでは身につかない。

二度目の勉強で私が意識したのは、「なぜその結論になるのか」を常に問い続けることだった。条文を読むとき、「この条文は何を守るために存在するのか」と考える。判例を読むとき、「裁判所はなぜこう判断したのか」を考える。その習慣が、少しずつ思考の質を変えていった。

そしてもう一つ、変えたことがある。勉強の合間に、散歩をするようにした。

浜松町の会場の近く——竹芝や芝公園のあたりを、よく歩いた。試験直前期の模擬練習で、わざわざ現地まで足を運んで、本番と同じ経路を歩いてみたりもした。馬鹿げているように聞こえるかもしれないが、「場所に慣れる」ことが、緊張を和らげてくれた。知らない場所で迷子になる夢を、何度も見ていたから。

場所を知ることは、自分を落ち着かせることだ。法律の勉強も、同じかもしれない——知ることで、世界の「迷子」でなくなる。

5 試験という、特殊な時間

司法試験は、短答式と論文式を合わせると、実質五日間にわたる。

論文試験では、法律問題が書かれた問題用紙が配られ、それに対して手書きで答案を書いていく。制限時間は科目によって異なるが、長いもので三時間。その間、ひたすら書き続ける。手が攣ることもある。頭が真っ白になることもある。それでも書き続ける。

二度目の試験で、私は一科目、致命的なミスをした。問題文の読み間違いだ。設問の前提を一つ誤って把握したまま、三十分ほど答案を書き続けた。気づいたとき、残り時間は一時間半を切っていた。

冷や汗が出た。「終わった」と思った。

しかし、そこで一呼吸置いた。一度目の受験で学んだことの一つは、「パニックになった瞬間に試験は終わる」ということだった。落ち着いて、書ける範囲で書く。完璧でなくていい、部分点を積み上げる——そう言い聞かせて、残りの時間を使い切った。

その科目の出来は、決して良くなかった。でも、「最後まで諦めなかった」という事実が、試験後の私の精神を救った。

6 合格の瞬間

二度目の受験、結果発表は十一月の午後だった。

すぐには見なかった。インターンだった。インターンが終わって友人のおめでとうとの連絡があった。

受験番号を探した。あった。

もう一度、上から下へと番号を確認した。やはりあった。

涙が出るかと思ったが、出なかった。しばらく、ただ画面を見つめていた。「終わった」という感覚だけがあった。喜びよりも先に、静かな実感が来た。

二年間を思った。一度目の不合格の夜に本棚の奥に押し込んだ六法全書。一週間後に引き出したときの重さ。浜松町のホールに向かう朝の、潮のにおい。致命的なミスをした科目の、残り一時間半。

それらすべてが、つながった気がした。

合格とは、ゴールではなく、スタートラインに立つ権利を得ること——試験を終えてから、そのことがようやくわかった。

7 法律と人間の、深い関係

あらためて気づいたことがある。

法律は「冷たいもの」ではない、ということだ。

条文は確かに、感情のない文字の羅列に見える。だが、その条文が生まれた背景には、必ず人間の物語がある。借地借家法は、戦後の住宅不足の中で、弱い立場の借主を守るために作られた。労働基準法は、過酷な労働環境に苦しんだ人々の闘いの歴史の上に成立した。消費者契約法は、巧みな勧誘に騙された無数の人々の被害から生まれた。

すべての法律に、「こういう不正義が繰り返されてきたから、それを防ぐためにこのルールを設けた」という物語が存在する。

六法全書が重いのは、そういう意味でもある。あの重さの中には、無数の人間の悲しみや怒り、そしてより良い社会を作ろうとした人々の努力が詰まっている。

だから私は、六法全書を手にするたびに、少しだけ背筋が伸びる。浜松町に向かうあの朝の、潮のにおいを思い出す。重さは、責任の重さでもあるのだと。

8 あなたへ

このエッセイを読んでいるあなたが、もし司法試験を目指しているなら、一つだけ伝えたい。

一度目がうまくいかなくても、それは終わりではない。

私は二度目で合格した。一度目の不合格があったから、「なぜ法律を学ぶのか」という問いに、ちゃんと向き合えた。あの一週間、本棚の奥に六法全書を押し込んでいた時間が、なければよかったとは今では思わない。あの時間があったから、二度目の受験には「別の自分」として臨めた気がする。

法律は、世界の見え方を変える道具だ。合格してからしか使えない道具ではない。勉強しているこの瞬間から、あなたの思考は確実に変わっている。ニュースの読み方が変わる。人との約束の重さが変わる。「権利」と「義務」という言葉の意味が変わる。

その変化を、どうか楽しんでほしい。

六法全書は重い。でも、持ち続けるうちに、その重さは少しずつ「自分の一部」になっていく。重さに慣れるのではなく、重さと共に歩けるようになる。

七月、浜松町に向かうあなたの足元に、追い風が吹くことを願っている。

法律を学ぶとは、人間を学ぶことだ。そして人間を学ぶとは、いつか、自分自身を知ることへとつながっていく。

——了

いいなと思ったら応援しよう!