【創作大賞2026】#16『静かな保留』
エピローグ 残り方
残るやつは、だいたい朝で分かる。
俺が出社した時、フロアはまだ半分も起きていなかった。
照明だけが先に明るい。机の上の紙は白く、誰も座っていない席ほどきれいに見える。
そういう時間にもう来ているやつは、たいてい二種類しかいない。
昨日の仕事を引きずっているやつと、今日の仕事を少し先に見てしまうやつだ。
あいつは後ろの方だった。
席に座って、まだメールも開き切らないうちから、案件一覧だけはもう見ている。
一覧を見ているというより、件名の並びを嗅いでいる感じだった。
画面の前で止まっている時間が少し長い。
長いが、迷っている顔ではない。
どこが嫌か、もう半分分かっている時の止まり方だった。
自分の席へ鞄を置いて、缶コーヒーを開けた。
炭酸でもないのに、小さい音だけは朝のフロアによく響く。
あいつは振り返らない。
振り返らないまま、件名を見ている。
白い案件はだいたい、きれいな顔をしている。
家族整理中。
本人負荷軽減。
状態を見ながら。
そういう言い方は、いつも少しだけ正しい。
少しだけ正しいから、だいたい長く残る。
一度だけ、あいつの画面の方を見た。
まだ文字起こしまでは開いていない。
でも、たぶんもう行き方は見えている。
こいつはそういうやつだった。
今回の件で変わったことがあるとすれば、早さだった。
前は、嫌な匂いがしてから手が動いていた。
今は、匂いがした時点で、どこを切れば盤が出るかまで半分見えている顔をする。
それは少し危ない。
少し危ないが、この仕事ではそういうやつが要る時もある。
要る時がある、という言い方もあまりよくない。
ほんとうは、要るとか要らないとかより先に、そういうやつは残る。
残ってしまう。
件名より先を嗅ぐやつは、一度それが分かると、なかなか元には戻らない。
前に一人だけ、先に行きすぎたやつがいた。
件名より先を嗅げるようになって、しばらくしたら、自分で置いた語に引っ張られるようになった。
鈍くなったわけでも、壊れたわけでもない。
ただ、盤より語の方が先に来るようになった。
そういうやつを、一度だけ見ていた。
あいつはまだ、そのどっちでもなかった。
少しだけ嫌そうにして、少しだけ乗っている。
ああいうのがいちばん面倒で、いちばん長い。
缶を机に置いた。
その音で、あいつがようやく一回だけこっちを見る。
「早いですね」
「そっちもやろ」
「今日はちょっと」
「何や」
「白が白すぎるんです」
俺はそこで少しだけ笑った。
「朝から感じ悪いな」
「よくある件名なんですけど」
「よくあるから嫌なんやろ」
あいつは返さない。
返さないまま、もう一度画面へ戻る。
その戻り方が、少し前より自然だった。
自然になったということは、癖が深くなったということでもある。
フロアの奥で誰かがプリンターを回す。
コピー用紙の引っかかる音がして、すぐ直る。
別の席でパソコンが立ち上がる。
朝の職場は、だいたいそういう小さい音から始まる。
その中で、あいつだけまだ少し止まっていた。
止まっているように見えるが、たぶん頭の中ではもう置いている。
どこを切るか。
どこを遅らせるか。
何を会社の語にして、何をまだ崩れたまま置いておくか。
そういうのを、またやっている。
俺はそこまで見て、止めない。
止めたところで止まる種類でもないし、止めるほどでもない日もある。
「置くん」
缶コーヒーを飲みながら聞く。
あいつは少しだけ間を置いた。
「今日は、まだ」
「まだ、な」
「はい」
「半分くらいは?」
そこでようやく、あいつが少しだけ笑う。
「その返し、そろそろやめてもらっていいですか」
「無理やな」
それ以上言わない。
言わないまま、自分のメールを開く。
今週もまた、案件は残る。
家族窓口。
匿名相談。
退職意思未確定。
復職前整理。
白い件名は、次の週にもだいたい普通に並ぶ。
人が一件終わったと思っていても、仕事の方はあまり終わらない。
終わらないまま、少しずつ人の方に癖だけ残していく。
そういう残り方をもう何度も見ていた。
きれいに忘れるやつはいない。
大きく変わるやつも、そんなにいない。
だいたいは、少しだけ早く気づくようになるとか、少しだけ嫌な語に敏くなるとか、そのくらいで残る。
あいつもたぶん、そういう残り方をする。
前より少しだけ早く、盤が見える。
見えてしまう。
その早さを少し嫌がりながら、たぶんまた使う。
それでいいのかは、俺にも分からない。
分からないが、分からないまま仕事は回る。
画面の前で、あいつの指がようやく一度だけ動く。
案件を開くのではない。
個人メモの方へ、先に何か置くらしい。
そこで、ようやく自分のメールに視線を戻した。
残るやつは、だいたい朝で分かる。
何を乗り越えたかじゃない。
何をまだ嗅いでしまうかで、だいたい分かる。
フロアの灯りはもう全部ついていた。
白い件名は、今日も白かった。
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