共感と解決
日本語が通じないやつ、というのはどこにでもいる。これを引き当てる度、これの正体はなんだろうと考える。
まず疑うのは私自身の日本語能力だ。一緒に聞いていた人や、メールのCcにいた人に確認しても、大抵「そんなことないよ、相手がおかしい・面白い」と終わる。このラリーを仕掛けても、基本続かない。面倒くさいからだ。こんな終わりのない議論に巻き込まれたくないので、私だってさっさと終わらせたい。
次に疑うのは相手の学や育ち、いわゆるお里になるだろう。しかしこれを理解する為には、相手について深堀りしなければならず、そもそも上辺の意思疎通に難航しているのにプライベートの話題など出来るわけがない。つまり相手のバックボーンに興味を示したところで、どこからも答えなど得られない。入手しようのない・するつもりのない情報について議論を重ねても、終わりが見えずに面倒くさいのだ。
これと近しいところで、組織が正しい・正しくないという議論が身近にあるが、いずれも「容易に干渉できない距離にあるものの正否」だ。それほど遠くにある(いる)以上、向こう側からこちらを望む景色もまた違う。そして確実に、向こう側からみた景色は度外視のまま進む。
ところで、男女別の会話における特性としてよく言われるのは「女性は共感を求め、男性は解決を図る」だが、これは本当に性別特性だろうか。このような「干渉できない距離にあるものの正否」については、特に男性諸兄から聞くことの方が多いように感じる。そんな行動の伴わない(伴えない)議論の着地は解決ではなく共感に留まるため、ひと口に性別特性というのは違和感が残るし、日頃こんな事を考えているから私は孤独なのだろう。
