予告されたアイスダンスへの道5
高橋大輔は両腕に抱えきれないほど多くの才能を授けられた選手だった。卓越したバランス感覚、強靭で反応の速い筋肉、優れたファッションセンス、豊かな感情表現……フィギュアスケーターに必要なものはほとんどすべて持っていた。
中でももっとも傑出していたのは音楽的才能だろう。何度も使われた「身体から音楽が鳴っているような演技」というフレーズが表すように、音楽との一体感は他のシングル選手の追随を許さなかった。その一因はおそらく生まれつき耳がよかったこともあるだろうし、表現における目標が元々アイスダンス選手だったこともあるだろう。長光コーチが早くからバレエなどを見に行かせたことも効果的だったかもしれない。
いずれにせよそこには、高橋大輔だけは特別、と思わせる何かがあった。
ただ、高橋大輔の音楽的才能は男子シングルの世界ではオーバースペックだった。平均的なジャッジの感覚で捉えられる範囲よりもかなり細かい音まで拾ってしまい、点数にならないレベルで踊り過ぎていた。当然、他の選手より余分に体力を消耗していただろうし、余分に頭を使っていた。自分ですべての要素をより難しくしてしまっていた。つまり最大の魅力は最大の弱点でもあったということになる。
残念ながら突出した音楽センスがそれに見合うほど突出して高いPCSという形で報われることはなかった。試合という場ではこれはオーバースペックだったと諦めるしかない。
けれど、点数という形で報われなかった音楽的センスが遺憾なく発揮できる場所は他にもあるはず、というのはきっとファンの誰もが抱いていた希望だった。もっと評価される場所があるはず、もっと輝ける場所があるはず、と。
引退前から陸のダンス待望論はファンのあいだで密かに囁かれていた。
その舞台はある日突然、向こうからやってきた。
2016年2月18日、高橋大輔はダンスショー「LOVE ON THE FLOOR(LOTF)」への出場を発表した。アイスショーではなくフロアのダンスショーだという。発表があったとき、わたしたちファンは色めきたった。高橋くんなら陸のダンスでも通用するはず。
NYから帰ってきた高橋大輔に、これ以上ふさわしい挑戦があるだろうか?
ただ、詳しい話を聞いてみると、期待は驚きに変わっていった。この企画は一般的なバラエティー番組などでフロアダンスに挑戦するのとはかなり次元が違っていたからだ。
スケートファンの間では「Dancing with the Stars」というアメリカのテレビ番組の名前は以前からそこそこ知られていた。クリスティ・ヤマグチが2008年に優勝したときも噂には聞いていたし、2014年にメリル・デイビスが優勝し、チャーリー・ホワイトがセミファイナリストになったときもアイスダンスファンの間で話題になっていた。と言っても追いかけて動画を探し出して見ていた人は少なかったかもしれない。
これはセレブがプロと組んで社交ダンスに挑み、10週に渡って競うという番組だ。つまり過去に優勝したクリスティとメリルはすでにプロを相手に10週間以上のレッスンを経験しているし、セミファイナリストのチャーリーも同量のレッスンを受けていることになる。
企画と主演はこの番組ではじめて2度優勝したことで一躍スターとなったプロダンサーのシェリル・バークで、脇を固めるのはオーディションで集められた一流ダンサーたちだった。要するに陸のダンスの経験がまったくないのは高橋くんただ1人だけだった。
しかも舞台は渋谷のランドマークの1つ、ヒカリエにあるシアターオーブで、恐ろしいことに10日間で全13公演もあるという。フィギュアスケートではショーも試合も1週間に3日以上演技することはほとんどない。
初めて陸のダンスにトライするにしては、これはあまりにも大きな舞台だった。
このオファーはすでに現役のときに何度も来ていて、最初は断っていたのだという。現役選手には負担の重過ぎるオファーだった。でも現役を離れたいま、断る理由はもうなかった。
この頃から高橋くんは思い切ったオファーを受けるとき、「これは自分から言い出したんじゃない、相手から依頼があったんだし、失敗しても仕方ないと思ってやる」みたいなことを口に出して言うようになった。
そう言いたくなるぐらい、ちょっと無謀な挑戦にトライしはじめたのだ。
その2日後の2月20日、アイスダンス界にも大きなニュースがもたらされた。ヴァーチュー&モイアが試合に復帰する、しかも所属はモントリオールに変わるという。これでI.AMの絶対的優位が決定的なものとなった。
本格的なモントリオール時代の到来だった。
ズエワはテッサとスコットが戻ってきたらもちろん歓迎すると話していたけれど、2人はかなり前からズエワのもとを離れると決めていたらしい。理由として推測されたのは、まずはモントリオールが2人の故郷に近い地元であること、すでに長年同じチームでやってきてプログラムがマンネリ化しているのを気にしていたこと、ソチ後にスコットがチームの体制について不満をもらしていたこと、シュピルバンドが抜けたズエワチームにかつてほどの力はないと判断した……というようなことだった。
デュブレイユ&ローゾンが2人にとって憧れの存在だったということも大きかった。自伝によると、コーチの依頼をモントリオールに断られた場合は引退するつもりだったという。そしてこの移籍で、2人は再び同じチーム内に最大のライバルがいるという状況になった。
パパダキス&シゼロンは2人を歓迎してくれたらしい。
平昌オリンピックまであと2シーズン、計画的に復帰するには最適なタイミングだった。復帰枠でグランプリシリーズが2枠もらえて、世界ランキングを上げてからオリンピックシーズンを迎えられる。新ルールにも対応できる。
高橋大輔にとっても、復帰するなら、オリンピックをもう一度狙うなら、タイミングはここだった。おそらくこの頃までは復帰を待っていたファンもまだいたのかもしれない。
実際にはそんな気配は微塵もなかった。LOTFの出演発表は、復帰はないということを意味していた。しかもLOTFだけでなく、高橋くんは積極的に活動範囲を広げはじめた。
3月にはフジテレビのフィギュア中継への出演が決定し、さらに日テレの夜のニュース番組、ZEROのキャスターとして月1でエンターテインメントを紹介するコーナーを担当することも決まった。相変わらずバラエティにも出演していた。初のプロジェクションマッピングとのコラボ企画で、映像に合わせての演技に挑戦したりもしていた。4月からSOI、Ice Legends、PIWと立て続けにアイスショーに出演することも発表になった。もしかしたら……と思っていた少数派も、おそらくこの時期に現役復帰についてはほぼ諦めたのではないかと思う。
実際、この先もずっと本人は現役復帰はまったくないと否定していたし、そんな考えがよぎることもまったくなかったと後に語っている。
天使が降りてくるのはしばらく先のことだ。
世界選手権の直前にはフジテレビの五輪キャスターへの出演も発表され、ともにキャスターを務める野村忠宏、小谷実可子との初顔合わせになる「ぼくらのField」という番組が放送された。この時期、各キー局は東京五輪に向けてキャスターの争奪戦を繰り広げていたようで、どうやらフジテレビはオリンピアンをメインにした中継体制を組むことにしたようだった。ずいぶん硬派な方針にわたしは驚いた。
野村さんは噂によると高橋くんと似たところが多い人だということで、小谷さんは長野五輪の招致活動中に「長野に五輪が来たらアイスダンスを見に行きたい」という発言をしていたので、2人とも高橋くんと話が合いそうだった。
この番組の中で高橋くんは選手のインタビューに初挑戦した。相手は宇野昌磨選手で、2人とも緊張しまくっていた。高橋くんは昌磨くんに、「ちゃんと休みを取るように」というアドバイスをしていた。その後、昌磨くんはきっちり週に1回は休日を取っていたようだった。
3月末にはいつものように世界選手権が行われた。いつもと違ったのは高橋大輔が中継のゲストとして参加していたことだ。このときはまだナビゲーターではなくゲストで、少しコメントを言う程度の出演で、あまり目立った活躍はしていなかった。
アイスダンスはパパダキス&シゼロンがあっさりと2連覇を決めていた。SDで出遅れていた前年とは違ってSD、FDともに1位の完全優勝だった。
2位はやっと復調してきたシブタニ兄妹だった。全米、四大陸を制して調子を上げ、ついにズエワ組のエースとなった。FDのコールドプレイの「Fix you」は2人の雰囲気に合っていた。ようやくスタイルが確立できたようだった。
3位はチョック&ベイツだった。逆にこの二人は、全米、四大陸と立て続けにシブタニ兄妹に負けたことで先行き不透明になってしまった。
村元&リード組は四大陸選手権7位、世界選手権15位と、クリスがキャシーと組んでいたときとさほど変わらない結果を出していた。転向からわずか2シーズン、クリスと組んで1年目の村元哉中があっさり結果を出したことは驚異的だった。もちろんパートナーをリードするクリスの技術も優れていたのだろうし、キャシーより軽い村元哉中がクリスの負担を減らした影響もあるだろう。けれどツイズルやステップなど、2人が離れて行う要素はいくつもある。
哉中ちゃんってアイスダンスかなり向いてるのかも……ダンスファンの期待は高まっていた。
SOIとLOTF、2つのTBS系ショーの出演が決まったおかげで、CSのTBSチャンネルは3月から8月までの【高橋大輔 30歳、再始動!6カ月連続特集!!】というキャンペーンを開始してくれた。
これが高橋大輔の振付の様子を詳しく公開した最初の映像だったと思う。
番組ではまずNYに向かい、NY時代についていろいろ振り返り、その後カナダに渡って、SOIに向けてジェフリー・バトルに新しいプログラムを振り付けてもらっていた。
いまこの番組を見返してみると、高橋くんは驚くほど自信がなさそうだ。活動再開のために日本に戻ってきたとはいえ、まだ何かはっきりしたビジョンがあるわけでもなく、すっかりダメージから回復したわけでもなかった。
途中にあったNYで活躍している日本人へのインタビューのコーナーでも、インタビュー相手の前田純枝さんに「本格的なダンス経験がないとは信じられない。高橋さんの演技って音楽性がある、他のスケーターとちょっと違う」と言われて、「自分ではわからない」と答えている。
高橋大輔は相変わらず、まだ自分の才能に気づいていない、不思議な人のままだった。
番組の後半のカナダ編はじっくりと時間をかけて振付作業を見せてくれた。
ジェフリー・バトルが高橋大輔のために用意した曲は「Lilac Wine」だった。最初に「これは酒に酔って先立たれた恋人を偲んでいる歌だよ」とジェフくんが説明するのを聞いたわたしは、まだ20代の高橋くんには渋すぎる内容では?と思った。でも後に、実はNY時代は毎日記憶が飛ぶほど飲酒していたと本人が語っているのを聞いて、振付師って相手のことよく見てるのかも、と驚いた。
振付の過程は想像していたよりその場での即興作業だった。技術的に本人にできることが個別に違うので、前もって本人がいないところで作ってしまうわけにはいかないのだろう。完全なオーダーメイドで、やってみて方針を決めていく感じだった。
できあがったプログラムはSOIで初披露された。
前年のSOIがプログラムを1つ披露しただけだったので、高橋ファンはあまりこのショーに期待していなかった。ところが蓋を開けてみると、この時のSOIはほぼ高橋大輔座長ショーだった。ゲストではなくレギュラーメンバーで、最初に登場し、第1部のトリのグループナンバーは日本人スケーターの演目で、大トリも真央ちゃんではなく高橋くんだった。先にわかっていればもっと高橋ファンは現地に足を運んでいたと思う。
この年からのSOIは、これまでのカナダ選手もしくはアメリカ選手がメインのショーをそのまま持ち込む方式から、日本向けに日本人スケーターをフィーチャーした演出へと方針転換していた。メインの演出はジェフリー・バトルで、カナダメンバーのグループナンバーなどがあったので、基本的にはカナダ選手が中心のショーだったけれど、カナダ成分は少なめになっていた。
大阪公演にはデービス&ホワイトもいたので、ヴァーチュー&モイア、ウィーバー&ポジェ、村元&リードとアイスダンサーが揃っていて、高橋くん本人はきっと楽しかったと思う。あまり知られていないけれど、このときのSOIはかなりアイスダンサー多めのショーだった。
哉中ちゃんもアイスダンスに転向したきっかけの1つがヴァーチュー&モイアの演技を見たことなので、共演はうれしかっただろう。それにもしかするとアイスショーで高橋くんと共演するのも、これがはじめてだったかもしれない。哉中ちゃんにとって高橋大輔はまだ雲の上の人だった。
村元哉中の日本代表としての生活は、はじまったばかりだった。
SOIのあとは、そのまま続けて浅田真央とヴァーチュー&モイアとともにIce Legendsに出演した。このショーはステファン・ランビエールがプロデュースする、いわばステファン版のフレンズ・オン・アイスみたいなもので、開催は2回目だった。一夜限りの特別なショーだという。
高橋くんのソロは「ラクリモーサ」と「マンボ」で、ヴァーチュー&モイアのソロは「Sorry」と「カルメン」だった。カルメンはショー向けの短縮バージョンだったけれど、また見れたのはうれしかった。
ヴァーチュー&モイアは復帰について、簡単ではないと思うけれど頑張ります、みたいなコメントをしていた。このときはまだ、パパダキス&シゼロンとどちらが高く評価されるのか未知数だった。
基準となるトップ選手がデービス&ホワイトからパパダキス&シゼロンに変わったことで、アイスダンス界全体の空気が一気に変わっていた。2年の休養が吉と出るか凶と出るかは賭けだった。テッサのコンディションがよくなっているのか悪化しているのかも未知数だった。
そしてこのショーで特に大きな話題を呼んだのはステファン、カロリーナ、真央ちゃん、高橋くんが揃って出演するグループナンバーだった。それは、これほど豪華なグループナンバーは見たことがない、という贅沢なコラボだった。
カティア・ブニアティシヴィリの素晴らしい生演奏のピアノに、まずはナビゲーター役として登場した浅田真央がショパンの「バラード」を披露し、続けてステファンとカロリーナが恋人として登場する。ステファンが演じる人物は不誠実であちこち遊び回り、カロリーナを放置して高橋大輔と懇意になり、最後は全員に見捨てられてすべてを失う……という筋書きだった。
特に高橋大輔と連れだって踊るステファンを目撃したカロリーナの驚愕の表情がすごかった(NHKのBS放送によると、男の友情を優先されて激怒している様子らしい……この解釈にネット上は失笑であふれた)。
高橋大輔と浅田真央、高橋大輔とステファン・ランビエールのコラボはこのあとも何度か披露されることになるのだけれど、この3人が揃ったコラボはこの1回きりだった。現地で見れた人はとてもラッキーだったと思う。
そしてなぜか大トリが高橋くんのマンボで、それに続くエンディングのマンボメドレーで高橋くんのマンボの一部をみんなで踊るという謎の演出があって、高橋ファンにはお祭りのようなショーだった。
さらにNHKはTBSのスターズ・オン・トークに感化されたのか、大ちゃん真央ちゃんのトークまで放送してくれた。その中で高橋くんが将来カンパニーを立ち上げたいと発言し、真央ちゃんに「出演してくれる?」と訊くと、真央ちゃんが「もちろん!」と答える……という有名なやり取りがあった。これは後々までジュネーブ会談として語り継がれることになる(ロミジュリをやろうかという話の流れで、俺たちもうだいぶ歳だから乳母と執事役かな?とか失礼っぽいこと言っちゃったのも有名)。
3月の初回が地震で放送されなかったZEROの月1レギュラーは、4月末には無事に放送された(初回は行ってみたら地震発生で緊急ニュース特番に切り替えになり、報道フロアはおそらく怒号の飛び交う大修羅場で、きっと高橋くんはもう局に入っていただろうからさぞやびっくりしただろう)。
初回ゲストは熊川哲哉で、ソチシーズンの特番で対談して以来の共演だった。このキャスターの仕事が、スポーツではなくエンタメの取材だったことはよい勉強になったはずだ。ディズニーオンアイスの取材や、NYのオペラ座の怪人の取材などはその後も役に立っただろう(エンタメだけではなくブルーインパルス搭乗とかアメリカ大統領就任パレードとかもあったけど)。
その後も冨永愛など、高橋くんの興味関心に合わせた人物を取材相手に選んでくれていたのもよかった。ボイストレーナーもつけてくれていて、ナレーションの声を高めにしたほうが聞き取りやすくなる、などの指導も受けていた。おそらくスタッフ内の評判も上々だったのではないだろうか。
5月に入り、高橋くんはLOTFの本格的な合宿に参加するためにロサンジェルスに向かった。TBSはその様子も密着番組としてTBSチャンネルで放送してくれた。
変な癖がつくとやっかいなので事前に他でレッスンは受けないで欲しい、ストレッチはやっておくように……と言われて向かった現場だったけれど、なぜか基本のレッスンや確認はなく、作業はいきなり振り付けを覚えるところからはじまった。
しかもいきなりやったことのないリフトする練習が開始され、翌日には全身筋肉痛に見舞われた。
とはいえ、コツがわかればちゃんと持ち上げていたので、時間をかけて練習すればリフトはできるようになるだろう、ということがこの時に判明した。身長差がなくとも筋力が強ければリフトは上がるのだ。
もう一つこの練習でわかったのは、リフトは単なる力技ではないということだ。アシスタントとの練習で上がっていたリフトが、パートナーをシェリルに交代した途端にまた上がらなくなってしまった。リフトは2人がうまく協力しないと上がらないのだ。
さらに高橋くんはやったことのないフロアプレイにも大苦戦していた。見本を見せてくれるジェイムズ・チュアイレヴァの超絶うまいダンスと自分を比較して落ち込み、ボロボロに疲れ切った高橋くんは冒頭のナレーションによると「どうしてこの仕事を受けてしまったのか、と後悔した」らしい。
でもシェリルたちは高橋くんを励ましてくれた。
高橋くんはシェリルと少しだけフラメンコを踊ることになっていたのだけれど、その練習でシェリルが「このときのようにして欲しいと思っている」という演技の動画をタブレットでみんなに披露した。それは2012-14シーズンのエキシビション「ブエノスアイレスの春」で、その動画を見たダンサーたちは口々に高橋くんを絶賛し、「あなた1人で90分持つわ、わたしたちみんないらない」とまで言ってくれた。
高橋くんは照れて笑っていた。
高橋大輔の感情表現がプロのダンサーと比較しても遜色ない、という話は番組終盤のシェリルのインタビューでも強調されていた。
この番組には場内で流れる映像の撮影風景も入っていたのだけれど、それは振り付けなしで音楽を聴いて感情表現だけを行なうというもので、ここで見せたエモーショナルな即興表現は、まさに高橋大輔の真骨頂だった。
「ダンスしていなくても表現できる、それが最大の長所」とシェリルは語っていた。「それは技術よりもずっと大事なことなのだ」と。
この世界での高橋くんは、その才能にふさわしい扱いを受けていた。
用意された振り付けをしっかり覚えて、高橋くんはいったん帰国した。
日本では例によってまた忙しく取材などの仕事をこなし、PIW八戸にも出演してから、再びLAに向かった。この本番前の合宿にTBSのカメラは入っていない。
1ヶ月ほど途中帰国なしでLAに滞在していたという話で、渋谷に移動してきたのは初演の10日ぐらい前だった。最初の1週間弱の渡米を含めると、どうやら合計で6週間以上の練習期間だったらしい。
ちゃんとした「お稽古」のある舞台に出るのはこれがはじめてだ、という。
渋谷入りしてからの様子もTBS特番の完全版で少し放送された。
今度はメリル・デービスもチャーリー・ホワイトもクリスティ・ヤマグチも揃っていた。この事前合宿から本番までの長期間、高橋くんはデービス&ホワイトとずっと一緒に過ごしていたことになる。おそらくこれまでよりさらに親しくなれただろう。
2人の引退後のショー出演期間が比較的長かったこともあり、この後もしばらくアイスショーでの共演は続いた。もしかしたら日本人選手で最多共演している人より、デービス&ホワイトと共演している回数のほうが多いんじゃないかと思うくらいだった。
のちにメリルが語ったところによると、この時期にメリルとチャーリーは何度も「アイスダンスやれば?」と冗談混じりで勧誘していたらしい。
アイスダンスの世界チャンピオンであるメリルたちが、シングルの世界チャンピオンである高橋大輔に、アイスダンスをやってみない?と勧めることには、たぶんわたしたちが思っているより重い意味があるだろう。
高橋大輔が元々アイスダンスをやりたがっていたということは海外スケーターのあいだでは知れ渡っていて、やればできると思われていたことがこのエピソードから伺い知れる。
どこまでやれるのか見てみたい、と思っていたのはわたしだけではなかった。
もしかしたらこの合宿がなければ、この先に訪れる未来は違っていたのかもしれない。
6月30日、ついにLOTFが開幕した。
初演の観客席には熊川哲哉の姿もあった。終演後に取材を受けた熊川さんは、「日本のなかにおいてダンサー、リーダーとなっていけるようになってほしい」とコメントした。ダンスでリーダー?とわたしはびっくりした。
本番がはじまると評判は上々で、リピーターチケットもよく売れていた。座席数は2000席弱らしいので、13公演だとおよそ25000席が販売されていたことになる。6000席のラクタブドームなら4公演分の販売数だ。平日の後方に空席はあったものの、休日はほぼ満席、最後の土日は完売だったそうだ。
フィギュアスケートではない公演で、日本での知名度が高いのは高橋くん1人だけという条件を考えると、大成功だったと言えるだろう。
これで今後の高橋くんメインの企画は、かなりやりやすくなったはずだ。
わたしが見に行ったのは、2週目の水曜日だった。1公演だけだけれど、センター付近の6列目で見ることができた(ただしこの劇場の前方8列はオーケストラボックスにもできる構造なので段差がないという欠点があったりする)。終演後のインタビューはメリルだった(アニメ声みたいでかわゆかった)。
実際に訪れてみるとヒカリエは、高層ビルの上にシアターオーブが乗っている、というかなり特殊な建物だった。シアターオーブ内にいると、そこが高所であることを忘れそうになる。そして窓際に寄って外を見ると、はるか下に渋谷の光景が広がっていて、やや高所恐怖症気味のわたしは足がすくみそうになった。そしてアイスショーとは違って劇場なので、幕間にシャンパーニュが飲めたりもする。防寒具もいらないし、駅直結だし、終了後もすぐに階下のおしゃれなカフェに直行できる。快適さは段違いだった。
そしてはじまってからようやく気づいたのだけれど、陸のダンスで前方席を取ると、すべての演者がずっと近くにいるという大きなメリットがあった。あっという間にリンクの反対側に滑り去っていかない。コスパはとてもよかった。
400人からオーディションで選ばれたという実力派の出演者たちが軒並み有名なMV出演のダンサーなので、この舞台はまるでMVが目の前に飛び出してきたようなクオリティだった。観客は主に高橋ファンだったけれど、それではちょっともったいないレベルのパフォーマンスだった。
もっとも、例によってノリのよい高橋ファンは高橋くんが出ていない演目もずっと盛り上がっていたので、たぶん出演者たちにもよい観客だと感じてもらえたと思う。
高橋くんにとっては、あの中で踊るのはさぞやプレッシャーだっただろう。さすがにダンスそのものについては、まったく遜色ないとは言えなかった。翌年、リベンジに挑んだ気持ちが少しわかる気がする。
もう一つ残念だったのは、デービス&ホワイトが出ているのにもかかわらず、アイスダンスファンのあいだでさえこの公演はさほど話題になっていなかったことだ。
メリルの大胆にセクシーな演技と、チャーリーの苦悩する演技は圧巻だった。アクロバティックなアイスダンスの代表と思われていた2人の表現力が遺憾なく発揮されていた。
ソロ演目の楽曲は前シーズンのSOIでも使用していた「Say something」で、史上最高点を出した2人の代名詞的なローテーショナルリフトのポジションが入ったリフトがあって(メリルが両腕両脚を地面と水平にして漢字の「土」に見えるやつ)、そこでは拍手が起きていた。
陸のローテーショナルリフトが目の前で見れたのは感激だった。
さらにメリルと高橋くんのペアダンスも実現した。
かつて高橋くんはNHK杯の「豊の部屋」の中で「生まれ変わったら何になりたいか」という質問に「アイスダンサーになってメリルのパートナーになって一緒に踊る」と書いていたけれど、「メリルと一緒に踊る」はこのときにもう叶ってしまった。
高橋くんが冗談めかして口にする無理めな願望がなぜか次々と現実化することに、わたしたちは薄々気づきはじめていた。
作品は4部構成だった。最初にオープニングと高橋くんのソロが入って、ACT1のRomanceはクリスティ・ヤマグチ、ACT2のPassionはメリル、ACT3のHurtはチャーリー、ACT4のPowerはシェリルが中心となり、終盤に再び高橋くんのソロダンス、そしてシェリルとのペアダンスがあり、最後はダンサーたちのグループナンバーで終わる。
高橋くんは全体を導くナビゲーター的存在で、それぞれのACTに出演し、クリスティ・ヤマグチとのペアダンス、メリルのソロ後半のペアダンス、チャーリーのグループナンバーの最後に少しと、シェリルのフラメンコの最初に客席通路から登場して少し踊る(後方から登場して、結構近くの通路を歩いて舞台に向かったのでびっくりした)。
高橋くんの冒頭のソロダンスは男性ボーカルの「A Song for You」だ。苦戦していたフロアプレイの練習のときにジェイムズが繰り返し歌っていた、
There's no one more important to me
あなたよりも大切なものは他にはない
というフレーズが印象に残る曲だ。
終盤のソロダンスはアデルの「Hometown」で、故郷に戻れば本来の自分を取り戻せる、という内容の歌詞だ。
そしてシェリルとのペアダンスは、練習初日にいきなり振り付けされていた、あのリフトのダンスだった。曲は最初のソロダンスと同じ「A Song for You」の女性ボーカルバージョンになっていて、このペアダンスの重要性がわかる。
そしてこの舞台でファンのあいだで最大の話題になった演目は、ACT2の終盤に配置された高橋くんがメインのグループナンバー「実験」だった。
この演目は高橋くんが終始台の上で踊ることからのちに「台輔」とよばれるようになったのだけれど、とにかく圧巻で、初演を見たファンは「体操のお兄さん」とか言いながら騒然としていた。衣装が白の上下で上がタンクトップだったからだ(最初に舞台に登場した瞬間、これが体操のお兄さんか……とちょっと笑ってしまった)。
台の上に立った高橋くんは、やけに長い間じっと客席を見渡していた。そのときは不思議に思っていたけれど、後に放送を見てみると、実はその間に客席側では男女も同性同士も含んだ様々なカップルたちが、それぞれにドラマを演じていたのがわかった。席が前方過ぎるのは全体把握には良くないのだ(こうしてオタクは複数回見る癖がつく)。
やがてカップルたちは雄たけびをあげながら客席を駆け抜けて舞台に上がり、Apollo 440の 「Time Is Running Out」というアップテンポでダンサブルな曲がスタートする。
この演目の高橋くんの振り付けはシンプルで、素人でも真似できそうなものだった。台の上で動きが制限されているので足元は基本ステップしかできないし、上半身もわかりやすいジェスチャー(ナンバー1という歌詞に合わせて指を1本立てる)などで構成されていて、TikTokで流行ってみんなが踊っても不思議ないぐらいシンプルだった。
ただ、プロのダンスとしては、だからこそ隙を見せたら終わってしまう恐ろしい代物だった。どのキメポーズも、視線も、姿勢も、リズムも、すべて表現として成立させなければならない、完全に音楽と一体化しなければならない。
完全にものにしなければならない。
もしかしたら台の上で踊らせることにしたのは、慣れないフロアダンスの技術を制限して、高橋大輔の表現だけを見せたいという狙いがあったのかもしれない。もしそうだとしたら、狙いは見事に当たった。
台の上の高橋大輔は、圧倒的な存在感を放っていた。まるでこの世界のすべてを支配する神のように君臨していた。
それは表現においては他の追随を許さなかった世界王者、高橋大輔そのものだった。現役時代を思わせる、闘争心をたぎらせた高橋大輔がそこにはいた。
あの、自信なさげな高橋くんはもうどこにもいなかった。
高橋大輔がその気になれば、あっという間に新しいジャンルでもものにしてしまう。それが最初に立証されたのが、このLOTFだった。
高橋大輔は両腕に抱えきれないほど多くの才能を授かった選手だった。もしかするとこれまでは、多すぎる才能を持て余していたのかもしれない。だから高橋大輔がその本領を発揮するのは、まだずっと先のことになる。
……とはいえ、わたしたちもまだこの時点では、来年もLOTF2があればよいなあ、ぐらいのことを夢見ていた。まだわたしたちの認識は現役時代の延長線上にいて、基本的には既存のアイスショーや既存のテレビ番組に出ながら時々何かにチャレンジする程度の高橋大輔しか想像できていなかった。
翌年にLOTFを上回る豪華絢爛なアイスショーが開催されるなどとは知る由もなかった。
2017年、わたしたちは前代未聞のアイスショーの誕生に度肝を抜かれることになる。
6に続く……明日から書きますっっ。
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