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亀井茲矩

──戦国から近世へ、境目の現場司令官から世界を動かす総合管理者へ
──海を望んだ戦国武将――亀井茲矩という「異端」


織豊期から江戸初期にかけての動乱期において、山陰の小大名でありながら特異な光彩を放った武将が亀井茲矩(かめい これのり)である。尼子氏の復興運動に身を投じた青年時代から、因幡国鹿野城主として毛利氏との最前線(境目)を防衛する現場司令官への足跡、そして「琉球守」「台州守」という前代未聞の称号を掲げて海外へ目を向けた軌跡は、従来の「戦う武将」という一次元的な範疇には収まりきらない。

豊臣政権下の膨大な公役や物流管理、さらには江戸幕府下の朱印船貿易にいたるまで、茲矩の行動を史料に基づいて再構成すると、そこには単なる一城主を超えた「領域・物資・情報を統合制御する官僚大名」の姿が浮かび上がる。

1.尼子再興の情熱と鹿野城という「境目」の現実

亀井茲矩は弘治3年(1557年)、出雲国湯ノ庄にて尼子氏の家臣・湯永綱の子(湯新十郎)として生まれた。元亀3年(1572年)に出雲を離れて因幡へ身を寄せたのち、天正元年(1573年)夏、尼子再興軍を率いる山中幸盛(鹿介)と出会い、その下で戦陣に加わった。天正2年(1574年)、幸盛の養女(亀井秀綱の娘)を妻に迎え、絶えていた名門・亀井家を継承した。

山中幸盛像/「月百姿」/月岡芳年作/1886年/ウォルターズ美術館蔵
  • 弘治3年(1557)-出雲国湯ノ庄に誕生(幼名:湯新十郎)-尼子家臣・湯永綱の系譜

  • 天正元年(1573)-桐山城にて山中幸盛と対面、尼子再興運動に参加-主家再興という情念の形成

  • 天正2年(1574)-幸盛の養女を娶り、亀井家を継承(亀井新十郎茲矩)-亀井氏の名跡再興と政治的立場獲得

  • 天正9年(1581)-鳥取城落城後、気多郡1万3,800石を与えられ鹿野城主となる-宮部継潤軍団の配下として因幡支配体制に組み込まれる

尼子氏の再興運動は上月城の落城と勝久・幸盛の死によって潰えるが、この挫折と執念が茲矩の外交観および領地獲得への執着の原動力となった。天正9年(1581年)10月、織田方の羽柴秀吉による鳥取城兵糧攻めが終わりを迎えると、秀吉は配下の宮部継潤に因幡支配を命じるとともに、茲矩を気多郡1万3,800石の鹿野城主に抜擢した。ここに、茲矩の「境目の領主」としてのキャリアが幕を開ける。

天正10年(1582年)、毛利氏の東伯耆勢力と対峙する鹿野城は、豊臣(羽柴)陣営にとって西国攻略の命脈を握る拠点であった。同年10月19日付けで秀吉から茲矩に下された2通の書状は、鹿野城の位置づけと茲矩に与えられた権限の過不足なく示している。

鹿野城水堀/ウキペディアより引用

秀吉は本状において鹿野城を「其城之儀、境目之事」と定義し、境目の防衛には覚悟が必要であると命じている。さらに、鳥取城主・宮部継潤(善浄)から兵糧500石を鹿野城に搬送・蓄積させるよう手配し、普請や警戒に由断(油断)があってはならないと厳命した。同日付けの別書状では、伯耆国境の警戒と防衛体制の構築、拠点・大崎などの処置における茲矩個人の裁量・判断の容認、用瀬(智頭郡)の人質について木下重堅(鬼ヶ城主)との協調による抑留・配置権限の付与など、広範な委任が確認できる。

この時期の茲矩は一城を守備する武者ではなく、因幡東部から伯耆国境に及ぶ軍事・治安維持・人質管理を総括する「境目の司令官」であった。前年天正9年11月4日の秀吉掟書においても、巨濃郡の垣屋光成と気多郡の亀井茲矩が「一備え」を形成して先手を命じられており、因幡国の両翼を防衛する機動部隊としての役割が定着していた。

2.本能寺の変と「亀井琉球守」「台州守」――膨張する豊臣世界観と外交問題

天正10年(1582年)6月の本能寺の変は、茲矩の運命を変えた。信長急逝の報を受けた秀吉は毛利氏と和議を結び「中国大返し」を実行するが、その過程の6月8日、姫路城にて茲矩は秀吉に見参した。かねてより旧領・出雲の拝領を望んでいた茲矩に対し、秀吉は毛利との講和条約上、出雲を与えることができない旨を告げた。これに対し茲矩が「ならば琉球国を賜りたい」と望むと、秀吉はこれを面白がり、「亀井琉球守殿」と自署した金団扇を授与したとされる。この金団扇は後年、文禄の役(1592年)の唐浦の海戦にて、朝鮮水軍の李舜臣によって接収された陣品の中から発見され、史実として立証された(『乱中日記』等)。

Googleの画像作成AI、ナノバナナが作成した金扇子のイメージイラスト
Googleの画像作成AI、ナノバナナが作成した金扇子のイメージイラスト
  • 亀井琉球守-天正10年(1582)6月-出雲に代わる未来の恩賞として秀吉が授与。対外拡張構想の先標。

  • 亀井台州守-文禄元年(1592)3月頃-島津氏の抗議により琉球領有権の主導権が島津へ移行したため、代替地として明国浙江省「台州」の受領を約定。

  • 亀井武蔵守-天正15年(1587)以降並行-国内行政・公文書において用いられた正式な官職名。

一見すると解脱(げだつ)した奇癖(きへき:人にはないような奇妙な癖や、普通とは違った珍しい癖)のようにも映る「琉球守」の称号であるが、豊臣政権の対外政策の展開とともに政治問題へと発展した。文禄元年(1592年)正月21日付けの細川幽斎・石田三成連署書状によれば、島津氏側が豊臣政権に対し、薩摩の対琉球関係を主張して茲矩の琉球領有中止を働きかけた。政権はこれを認め、琉球を島津義久・義弘の「与力」と位置づける見返りとして、茲矩には代替地(替地)を与える決定を下した。

その代替地こそが、朝鮮侵略の先にある明国の「台州(浙江省台州)」であった。同年3月13日付けの秀吉朱印状では「亀井台州守とのへ」と明記されており、茲矩は「琉球守」から「台州守」へとスライド発令されていたことが裏付けられる。豊臣政権が企図した日本・朝鮮・明の「三国国割計画」は空想ではなく、大名への恩賞手形として機能しており、茲矩は位置づけられていたのである。

浙江省台州市にある天台山国清寺/ウキペディアより引用

3.秀吉の戦争を支えた「普請・兵糧・人足」

豊臣統一政権の成立過程において、諸大名に課された義務は合戦での戦闘行為にとどまらず、巨大な土木工事(普請)とロジスティクス(兵糧・人足動員)の完遂であった。大坂城の築城工事(天正11年着工)をはじめ、京都の聚楽第(天正14年)、方広寺大仏殿(天正16年)、伏見城(文禄元年〜慶長年間)など、政権の威信をかけた天下普請が次々と打ち出され、茲矩ら因幡国衆もまたこれらの公役へ動員された。

天正10年(1582年)の山崎の戦いおよび翌年の賤ヶ岳の戦いにおいて、茲矩は鹿野城の守備に留まり、毛利氏に対する防波堤として機能した。天正13年(1585年)の越中征伐では船手衆(因幡衆)として加増動員が確認され、天正15年(1587年)の九州征伐では宮部継潤を総大将とする第2陣に加わった。天正16年(1588年)7月5日の秀吉朱印状によれば、方広寺大仏殿普請において亀井茲矩、宮部法印(継潤)、木下備中守(重堅)ら因幡大名衆は天正17年6月期の月番普請役を割り当てられている。また、天正18年(1590年)の小田原征伐では、東海道の交通要衝である興国寺・府中・岡崎などの城郭守備に配備され、後方の兵糧線と防衛線を支えた。

興国寺城の天守台方向/ウキペディアより引用

4.小牧・長久手の謎と秀吉朱印状の様式変化

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおける秀吉と茲矩の関係は、織豊期政治史における興味深い事実を示している。同年4月10日付けの秀吉朱印状において、秀吉は「為音信遠路被示越候、祝着之至候」と述べている。徳川家康が小牧山に陣を整えたのに対し、秀吉自らが14〜15町まで詰め寄って陣を取った戦況を、遠方の茲矩へ報じたものである。

「遠路」の文言が示す通り、茲矩自身は小牧の戦場には参陣していなかった可能性が高い。戦場に不在である地方大名に対し、秀吉がなぜ多忙な陣中から戦況報告を発給していたのか。その背景には、天正11年9月に着工された大坂城の不眠不休の普請作業が存在する。戦場に赴かない大名には、本拠地や大坂での普請、糧食の調達、または山陰地方の治安維持という公役が割り振られていた。茲矩は遠隔地にあっても秀吉へ「音信」(報告・進物)を欠かさず、情報ネットワークを維持することで価値を高め、政権中央とのパイプを保持していたことが窺える。

石見亀井家文書に残る秀吉発給文書の原本解析によれば、差出・宛名・料紙の書札礼(手紙の書き方)に顕著な変質が見られる。

  • 天正10年頃-殿-恐々謹言-羽柴秀吉(自署花押)-奉書紙(31×49cm)-同盟的・対等に近い軍事信頼関係

  • 天正12年(小牧)-殿-恐々言謹-筑前守秀吉(朱印)-奉書紙(31×48cm)-朱印導入による尊大化の始期

  • 天正13年以降-とのへ-候也-朱印のみ(名前・花押省略)-高檀紙(46×66cmへ巨大化)-圧倒的な主従関係・命令体系の確立

天正10年頃には「殿」「恐々謹言」であった文言が、天正13年の関白任官期を境に「とのへ」「候也」という上から目線の直書様式へと一変する。料紙も巨大な高檀紙へと変化し、自署の花押から朱印へと置き換わっていく。これは、茲矩と秀吉の関係が「同盟者的な現場指揮官」から「政権機構の中に完全に組み込まれた統轄官僚」へと変質した過程を、古文書学的に証明している。

5.大坂・伏見で普請に駆り出される

小牧・長久手の戦いが終結した直後の天正13年(1585年)5月8日、秀吉は茲矩に対して

態申遣候、仍此中永々残置毎日之普請、苦労共候。然者早々罷帰可相くつろぐの候
(現代語訳)大坂城等の連日の普請作業、長々の居残りで苦労であった。早々に領国へ帰り身体を休めよ

天正13年(1585年)5月8日、亀井茲矩宛羽柴秀吉書状

との書状を発している。この時期、大坂城では本丸御殿の新造や天守の建設、天満本願寺の造営などが進められており、茲矩はその現場監督および労働力供給の責任者として長期滞在していた。

さらに文禄3年(1594年)正月に開始された大坂城惣構堀普請および伏見城普請では、因幡の大名衆(宮部長熙、木下重堅、亀井茲矩、垣屋恒総、磯部康氏)に対して「人数1,925人」を割り当て、6月10日から着工させる大規模動員令が発令された。同年の酷暑期(7月4日付け朱印状)には、「朝晩に精を入れ、日中の暑い時間帯には一時休ませて熱病(霍乱)を出さぬよう配慮せよ」「自身も養生せよ」との細やかな指示が下されている。豊臣政権下の「普請」は、肉体労働ではなく、行程管理と人員の健康管理を伴う高度なマネジメント業務であった。

6.舟・鋼・米・鮭・鴨まで指示する実務型大名

慶長2年(1597年)前後、大坂城普請や在坂勤務に従事していた茲矩が、本国(鹿野)の留守居幹部(野伊、布源、多宗ら)へ宛てた大量の書状(亀井家文書)からは、従来の「戦国武将」のイメージを塗り替える精細な領域管理者の姿が見えてくる。

  • 軍需・資材調達:鋼(はかね)、黒鉄、石割り鑿(さき)、槍、長刀、十文字鍵の手配。

  • 造船・物流制御:新作の大船「大昌丸」の建造管理、楠・杉の船材調査、河川から海への搬送路計測、石引綱の調達。

  • 経済・民政指導:貸し米の利息計算、年貢未進者(滞納者)の普請人足への代替投入、検地帳の引き渡し。

  • 地域特産・加工品:漆(2合)、綿(3貫目)、焔硝(硝石)焼きの中止判断、魚油(河豚油)、蝋燭箱の製造。

  • 政権中枢への贈答:鮭、鴨、生雉、秀頼向けのオシドリ・珍鳥の捕獲指示、瓜(東門二籠)の進上。

茲矩は「鋼が不足して石割りの道具ができない」「黒鉄と鋼を舟で回送せよ」と現場の工具不足に細かく介入し、造船中の「大昌丸」の進捗や、舟に積む石引綱の積み忘れに対して「今度回舟に石綱を忘れたほどの惚れ事は無い(呆れ返った失態だ)」と怒りを露わにしている。さらに、幼少の豊臣秀頼が鳥を好むと知るや、「深山の淵に網を張ってオシドリを生け捕りにせよ」「熊鷹の子を育てるよう命じよ」と指示し、秀吉や秀次には生雉や瓜、鮭、鴨を進上して政権中枢との良好な関係を維持した。

7.「輿」をめぐる細かすぎる指示

物資の調達にとどまらず、茲矩の視線は生活様式やデザイン、現地社会のトレンドにまで及んでいた。嫡子の「大昌丸」が上京する際、彼が使用する「輿(こし)」の製作について下した指示は、その極めて几帳面な管理能力を物語っている。

茲矩は外側を上筵(うわむしろ)で包み、呉竹(くれたけ)を撓(たわ)めて縁を打つよう命じている。美しく漆を塗るような華美な装飾は不要とし、金物には黒鉄(くろがね)を用いて過度な目立ちを避ける一方で、「上方(大坂・京都)で流行している現地仕様」に仕上げるよう細かく指定した。さらに世間の無駄な賞賛(ほめき)を買わないよう実用的かつ堅牢に作ることを求めている。

Googleの画像作成AI、ナノバナナが作成した輿作成風景のイメージイラスト

単に「輿を用意せよ」と命じるのではなく、材質、補強材、外装の意噺、さらには中央のトレンドと世間の評判(過度な華美による批判の回避)まで計算し尽くしている。ここに立ち現れるのは、単なる無骨な戦国武将ではなく、「現場のトレンドと費用対効果、政治的見栄えを完全に把握して注文を発注するプロデューサー大名」の姿である。

8.関ヶ原の変局と因幡平定

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、因幡国の諸大名(宮部長房、木下重堅、垣屋恒総)の多くが西軍に加担する中、茲矩はいち早く東軍(徳川家康)への支持を明確にした。

島津家臣の回想録(『山田晏斎覚書』)などの同時代史料によれば、9月15日の合戦直前、茲矩が島津豊久陣営へ鉄砲衆の加勢を申し入れつつ、途中で倒鋒(寝返り)を行ったとする記録も残されている。本戦での軍功自体は顕著なものではなかったが、東軍勝利の確定後、家康から因幡平定の命を受けた茲矩は直ちに本国へ急行した。同陣営の但馬竹田城主・赤松広秀(広英)と連携して、西軍に固執する鳥取城を包囲・攻略し、因幡国一円を速やかに平定した。

鳥取城攻略の際、城下の民家に火が放たれた件について、家康は赤松広秀に責任を負わせて切腹を命じたが、茲矩は処罰を免れ、逆に高草郡2万4,200石を加増されて計3万8,000石(のちに4万3,000石)の近世大名へと躍進した。関ヶ原合戦直後の領地宛行において、家康は朱印状や領地目録などの「文書」を一切発給せず、使者による口頭伝達(ペーパーレス発令)に依存した。これは統治権を家康が握りつつも、法義上の主君がなお大坂城の豊臣秀頼であったための制度的変則措置であったが、茲矩はこの権力の移行期を巧みに泳ぎ切り、領地倍増を果たしたのである。

9.理想都市・鹿野城と大土木事業

近世大名・鹿野藩主となった茲矩は、その類まれなる土木・産業振興能力を領国経営へ投入した。天正16年(1588年)に着手した「日光池」の干拓工事では、茲矩自らが鍬を握って起工式を行い、わずか6ヶ月の工事で300石余の新田を出現させた。さらに高草郡における大井手用水路の開削、日野銀山の開発、タタラ製鉄(鉄穴流し)の奨励など、領内の生産力増強を矢継ぎ早に実行した。

文禄5年(1596年)2月に発令した掟書(村々きらさる木)では、桑・楮・雁皮・漆・椿・桐・榧・栗など12種類の樹木の無断伐採を厳禁し、間伐の方法や竹林の植え替え、山林管理責任者(山のかしら)の設置を指示している。治山治水と殖産興業を一体化させたこの政策は、江戸時代の先進的農政の先駆けであった。また、主君・山中幸盛の遺骨を備中から持ち帰らせて鹿野に幸盛寺を建立し、その霊を深く慰めた。

関ヶ原以降、慶長6年から12年にかけて、茲矩は鹿野城の大改築と城下町の形成を一気に行った。この際、茲矩は海外貿易や仏教世界観への憧憬(しょうけい :遠く離れた高い目標や理想、またはすばらしい人に対して、強く心を引き付けられ「自分もそうなりたい」「手に入れたい」とあこがれる気持ち)から、城と城下町に極めて独創的な異国風・天竺(インド)風の名称を命名した。

  • 鹿野城-王舎城(おうしゃじょう)-マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)

  • 城下町-鹿野苑(ろくやおん)-釈迦が初転法輪を行った地サルナート

  • 背後の山-鷲峰山(じゅぶせん)-釈迦が説法を行った霊鷲山(グリドラクータ)

  • 城下を流れる川-抜堤川(ばったいがわ)-仏典に由来する聖なる河川名

郭構造においても、礎石建物の天守や城門、楼閣を配備し、天守以下には仏教由来の名称を冠するなど、因幡の山あいに異国情緒あふれる「仏教的理想都市」を創出してみせたのである。

10. まとめ 亀井茲矩が見ていた「海の向こう」

徳川幕府が成立すると、茲矩の情熱は正式な対外貿易へと注がれた。幕府から海外渡航許可書(朱印状)を得た茲矩は、慶長12年(1607年)から慶長15年(1610年)にかけて、建造した朱印船を派遣して計3回の東南アジア貿易(シャム/現タイ等)を敢行した。

Googleの画像作成AI、ナノバナナが作成した朱印船貿易のイメージイラスト

『荷物覚書』(石見亀井家文書)によれば、輸出品として刀剣や精巧な蒔絵道具、日本刀を送り出し、輸入品として織物(羅紗・綸子)、象牙、サイ角、孔雀の毛、シャム製鉄砲、香木(蘇木・沈香)のほか、生きたロバや水牛までも船に乗せて連れ帰った。これらの動物は湖山池の青島で飼育され、さらに持ち帰ったタイ産の稲や生姜を領内で試作栽培させるなど、外来の生態系や農作物を導入した。

慶長17年(1612年)、亀井茲矩は鹿野城にて56年の生涯を閉じた。かつて主家・尼子氏の再興に敗れ、山陰の小さな城郭を与えられた一青年は、豊臣政権下の最前線司令官として軍事・情報・ロジスティクスの実務を研ぎ澄ませた。そして「琉球守」「台州守」という前代未聞のスケールで世界を構想し、最終的には朱印船を縦横に操るグローバル領主へと進化を遂げたのである。

戦国武将の強靭な生存本能と、近世官僚の精密な実務能力、そして大海原を見据える起業家精神――その全てを兼ね備えて駆け抜けた亀井茲矩の生涯は、戦国から近世へと至る日本の動乱期が生み出した、魅力的な異能の軌跡であったと言えよう。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

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