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関西の石垣 関東に石垣が少ないって本当?

──「関東の城には石垣が少ない。花崗岩が少ないから」って本当?
──関西も実は地域差がある。モザイク


はじめに——よく聞く「関東に石垣が少ない理由」

城郭好きの間でよく交わされる話がある。

「関東の城には石垣が少ない。なぜなら、関東平野には花崗岩の産出が少ないから」

これは確かに一面の真実を突いている。石垣の主要石材である花崗岩は、近畿・中国・九州に多く、関東には乏しい。後北条氏の支城網に代表される関東の城が、土塁と堀を駆使した「土の城」として発達したのは、こうした地質的な背景と無関係ではない。

しかし、少し立ち止まって考えてみると、この説明はあまりにシンプルすぎる。

洲本城の石垣/2023/10投稿者撮影

城郭の発展を規定するのは石材の有無だけではない。政治権力、経済力、技術者集団の分布、そして城主の「見せる意思」——これらが絡み合って初めて石垣文化は育まれる。そして、その複雑さが最もよく現れているのが、じつは「関西」という地域そのものなのだ。

関西は確かに石垣の先進地である。しかし「関西の石垣=均質な先進文化」かというと、まったくそうではない。近畿の中にも、石垣の濃淡は驚くほど大きく、その差の背景には歴史の深い地層が眠っている。

本内容では、丸岡市教育委員会の乗岡実氏をはじめとする「近畿における戦国期城郭の石積み・石垣」の学術成果をもとに、近畿の石垣をめぐる地域差と、織豊系城郭への発展の道すじを考察する。

一、まず数字で見る近畿の石垣城郭

戦国期(天正四年・1576年の安土城築城以前)に石積み・石組みや石垣をもつ城郭を全国で集計すると、905城にのぼる。このうち近畿二府五県だけで246城、実に全国の約27%を占める。

城郭の総数に対する割合を考えれば、近畿が突出した「石垣密集地帯」であることは間違いない。

しかし、この246城の内訳が興味深い。

  • 播磨国(兵庫県)-46城

  • 紀伊国(和歌山県)-48城

  • 近江国(滋賀県)-32城

  • 丹波国(京都・兵庫)-32城

  • 大和国(奈良県)-16城

  • 伊勢国(三重県)-16城

  • 山城国(京都府)-8城

  • 摂津国(大阪・兵庫)-8城

城の数が多いからといって、石垣の質・規模・技術水準が高いとは限らない。播磨や近江が多い一方で、大和・丹後・摂津は低調——その格差こそが、今回のテーマだ。

二、戦国期の石垣とは何だったのか

まず「戦国期の石垣」の実態を正確に理解する必要がある。

後世の近世城郭(江戸時代の城)の高石垣をイメージしてはいけない。戦国期に全国的に多く見られる石積み・石組みの特徴はこうだ。

  • 高さ2メートル未満が大多数。2メートルを超えるものは限られた地域にしか存在しない。

  • 構築部位がこま切れ。城全体を包む塁線ではなく、虎口(門)の脇、曲輪端部の土留め、谷の護岸など「局所的な使用」が基本。

  • 裏込石がないものが多く、構造的強度よりも土留め・護岸という土木的機能が主体。

  • 明確な隅角(角)を持たないものが多数。算木積みのような技術は普及していない。

つまり、戦国期の石垣の多くは「軍事装置としての石垣」ではなく、「土木装置としての石組み」だったのだ。山腹を削平して曲輪を造成したとき、崩れないよう土を押さえるための石——それが出発点である。

これを踏まえると、「石垣の城がある=先進的な城」という図式も、単純すぎることがわかる。問題は、その石垣がどのような質と規模をもっているかだ。

上林城本丸下の低石垣/2026/1投稿者撮影

三、近畿の中の「先進地域」と「低調地域」

先進地域①——近江国(滋賀県)

近畿における戦国期石垣の最先進地は、疑いなく近江国である。

六角氏の居城・観音寺城(近江八幡市・東近江市)は、その象徴的存在だ。山腹の全域に渡って石垣が累々と築かれ、現存最大高は約7メートル。明確な隅角を持ち、一部には算木積みとなる箇所もある。長辺2メートル近い大石や矢穴痕を残す割石も含まれており、15世紀後半から16世紀にかけての構築が確認されている。

なぜ六角氏はこれほど早く、高い石垣を築けたのか。

一つは、弘治二年(1556)に湖東の金剛輪寺(愛荘町)の石工が積んだことを示す史料が残るように、寺院と城郭の技術者が共有されていたことが大きい。もう一つは、観音寺山で採れる「湖東流紋岩」という石材の存在だ。この岩は割れ目(節理)が規則的で、大きく平らな面を出しやすく、石垣石材として極めて優れている。つまり近江の先進性は、政治権力(六角氏)×寺院技術者×良質な石材という三拍子が揃った結果なのだ。

金剛輪寺/ウキペディアより引用

浅井氏の小谷城(長浜市)でも、主要部の城門脇や曲輪端部に高さ3メートルを超える石垣が多用されており、北近江でも石垣技術の高さが確認できる。

先進地域②——播磨国(兵庫県)

もう一つの先進地が播磨国である。46城という城数の多さもさることながら、感状山城(相生市)・置塩城(姫路市)・楯岩城(太子町)・柏尾山城(神河町)など、石積み・石垣が濃密に構築された山城が複数存在する。

播磨の石垣の特徴は「岩山型」である。城域全体が岩山といっても過言でないほど岩盤に富んだ地形に築かれており、石材の供給源が城地内外に豊富に存在した。石を採って積む、という行為のコストが本質的に低かったのだ。

ただし、播磨の石垣には特徴的な限界もある。隅角はあっても「丸み」を持つものが多く、近江のような明確な算木積みの意識は薄い。垂直に近く立ち上がる石垣(置塩城)がある一方で、技術的完成度においては近江より一歩及ばない。

利神城の隅石垣/2022/6投稿者撮影

低調地域——大和・紀伊・丹波・丹後・但馬

一方、意外に低調なのが大和国(奈良県)だ。

戦国期の大和国は全般に石積み・石垣は低調で、局所的な土留めに限られるものが多い。松永久秀の多聞山城(奈良市)では天守も多門櫓も建ち石垣も築かれたと伝わるが、実体は不詳な部分も多い。龍王山城(天理市)や信貴山城(平群町)でも、確認できるのはごく局所的な土留めである。

紀伊国(和歌山県)は48城もカウントできるが、多用されるものや高いものは少なく、多くが土塁斜面や曲輪の内裾などの局部限定の土留めだ。築城時の地山削平で生じた石の有効利用の結果とみられるものが多い。

丹波国・但馬国も同様に低調で、戦国期では局所限定の小規模なものにとどまる。

竹田城石垣/2023/9投稿者撮影

なぜこれほどの差が生まれたのか?

四、地域差を生んだ三つの要因

要因①——政治権力の強度と持続性

石垣の多用には、大規模な人員動員と継続的な投資が必要だ。これを可能にするのは、安定した政治権力の存在に他ならない。

近江の六角氏・浅井氏は守護系大名として強固な権力基盤を持ち、その関連城郭群に石垣が集中している。播磨の赤松氏・浦上氏も同様だ。また、戦国大名・三好長慶の河内における飯盛山城では、一気に塁線を形成する高石垣が実現している。

対して大和や但馬は、権力構造が複雑で特定大名による統一的な城郭整備が進みにくかった。石垣の濃淡は、そのまま政治権力の濃淡に重なる。

要因②——石工技術者集団の分布

技術は人が運ぶ。石垣技術の核心には、石材を割り、選び、積む専門集団の存在がある。

近江の場合、観音寺城の石垣に湖東・金剛輪寺の石工が関わった史料が残るように、寺院と城郭の間で技術者が共有されていた。この「寺院石垣→城郭石垣」という技術移転のルートは近畿では広く確認でき、段石垣・裏込石・問詰石といった技術的属性を寺院と城郭が共有している点がその証拠だ。

後の穴太衆(大津市坂本付近を拠点とする石工集団)が近江で発達したのも、この技術的土壌があったからだ。技術者集団が薄い地域では、必然的に石垣技術も低調になる。

要因③——石材の質と地質条件

石材の有無だけでなく「質」も重要だ。

近江の湖東流紋岩は、規則的な節理をもち大型の平らな面が出しやすい。播磨の岩山型城郭では、城地そのものが石材供給源だ。しかし、適切な岩盤がない地域では、石材を遠くから運ぶ必要があり、コストが跳ね上がる。

興味深いのは、山城(京都府)の旧二条城(信長の二条城)・勝龍寺城、あるいは大和の多聞山城では、城外からわざわざ石材を搬入した記録があることだ。これは、政治的意欲さえあれば石材の地質的不利を乗り越えられることを示している。裏を返せば、石垣が少ない地域は「石がない」のではなく「積む意欲と技術と権力が揃っていなかった」のかもしれない。

鳥取城復元天球丸石垣/2021/11投稿者撮影

五、矢穴・裏込石・算木積み——技術の積み重なりが織豊石垣を生んだ

安土城の石垣はなぜあれほど画期的だったのか。それを理解するには、個々の技術属性がどのように蓄積されていったかを追う必要がある。

矢穴(割石技術)

石を意図する形に割るための技術で、楔を打ち込む穴(矢穴)を開ける。戦国期に矢穴を伴う割石が確認できるのは、近江の六角氏関連城郭のみ(田辺城と十六世紀前半以降の近江の城)だ。全国的に極めて稀で、近畿以西では未確認、関東では越前・上野国の一部でわずかに確認されるだけ。近江が技術的先進地であることをここでも証明している。

田辺城残石矢穴跡/2025/12投稿者撮影

裏込石

石垣背面の空隙を小石で埋め、排水性・安定性を高める技法。近江・播磨・摂津・山城の特定の城では、15世紀末〜16世紀前半という古い段階からこの属性が確認できる。寺院の段石垣との共通性も指摘されている。

Googleの画像作成AI、ナノバナナが作成した裏込石のイメージイラスト

法勾配(のりこうばい)

石垣の立ち上がりを垂直でなく一定傾斜に設計する技法。重心を内側に保つことで安定性が増し、高い石垣を可能にする。戦国期でも一定傾斜に施工された例があり、近江の宇佐山城(元亀二年・1571年)の例が著名だ。

ChatGTPが作成した石垣のイメージイラスト

算木積み

隅角(角部分)に長い石を一段ずつ交互に振り分けて積む技法。隅角の強度を格段に高める。この属性の分布はほぼ近江に限定される。近江では観音寺城・小谷城・鎌刃城の大石垣などで確認でき、戦国期播磨では隅角はあっても算木積みの意識は希薄だった。

安土城の隅石垣/2024/2投稿者が撮影

間詰石・巨石配置・立石

石垣面の石と石の隙間を小さな石で埋める「間詰石」は、構造安定と美観の双方に寄与する。また、長辺2メートルを超えるような巨石を門脇に配置する意匠的な演出は、観音寺城平井丸・小谷城京極丸で確認でき、豪壮な景観をつくりだしていた。

ChatGTPが作成した間詰石のイメージイラスト

これらの技術が個別に存在していたのが戦国期であり、それらが同一の城に重複して現れ、塁線全体を覆う高石垣として統合されたのが安土城だったのだ。

六、「永禄年間」が転換点——石垣意識の急激な高まり

研究の知見として重要なのが、永禄年間(1558〜1570年)が石垣技術の転換点だったという指摘だ。

この時期、従来にも増して城郭にきちっとした構造の石垣を積むという発想とその技術確保が、政権の担い手たちの間で急激に高まった形跡がある。

  • 永禄十一年(1568):信長の上洛。旧二条城の築城(城外からの石材搬入)

  • 永禄十二年(1569):勝龍寺城(長岡京市)の改修(発掘で裏込み・胴木を伴う石垣を確認)

  • 元亀二年(1571):宇佐山城(法勾配石垣)

天下に関わる実力者の居城において、永禄年間という特定の時代に石垣技術への投資が集中している。これは偶然ではない。「石垣で城の威容を示す」という政治的意識が、この時期に急速に共有されていったのだ。

類似の動きは中国地方でも、宇喜多氏や毛利氏が豊臣大名化する直前の天正年間前半にうねりがあると見通せる。近畿はそれに先行していたのである。

七、安土城は「突然変異」ではない

よく「安土城の石垣は革命的だった」と語られる。これは正しい——しかし、技術的には突然変異ではない

安土城大手道/2024/2投稿者が撮影

安土城の石垣が最も接近したとみられる先行事例は、目と鼻の先にある観音寺城だ。同じ湖東流紋岩を使い、矢穴を伴う割石、算木積み、巨石配置など、観音寺城が備えた技術属性の多くが安土城に引き継がれている。

それでも、安土城の画期性は確かに存在する。それは構築技術の飛躍ではなく、城郭における石垣の「使い方」にある。

戦国期の石垣は——観音寺城や感状山城のような先進事例でさえ——曲輪を完周せず、構築部位がこま切れで、城郭建物を直接載せる基壇としては不十分だった。石垣上に直に載るのはせいぜい土塀まで、多門櫓や隅櫓は想定しにくい構造だった。

安土城が実現したのはここだ。5メートルを超える高さ、上部が水平な曲輪・櫓台の外側法面全体を覆う連続した塁線、そして荘厳で重厚な城郭建築が直に載りうる堅牢な隅角をもつ石垣——これが「織豊系の城石垣」として創出されたのだ。

もはや寺院のニーズに応じた仕様でも、寺院と城郭の共通様式でもない。城郭の革新のために専用に生み出された石垣様式、それが安土城の真の革新だった。

八、石垣は「見せるもの」になっていった

もう一つ見落とせない変化がある。石垣は次第に視覚的・意匠的要素を強めていった。

観音寺城の平井丸では、長辺2メートルを超える巨石が門脇に豪快に配置されている。これは単なる構造的必要性ではない。「この石を積める権力者がここにいる」という視覚的メッセージだ。

播磨の感状山城も構築量において傑出しているが、石垣が顕著なのは石材供給源となる岩山との接近性が高い場所——つまり視覚性を念頭においた配置の可能性が強い。

単純な防御目的だけで生まれたのではない、「見せることを意識した石垣」——その萌芽が戦国期近畿の先進的な城郭に宿っており、安土城でそれが開花したのだ。

観音寺城の平井丸の巨石門/2018/5投稿者が撮影

おわりに——「関西の石垣=統一文化ではない」

冒頭の問いに戻ろう。「関西=石垣の先進地」は本当か?

答えは「半分Yes、半分No」だ。

全国水準から見れば、近畿は確かに石垣技術の最先進地だった。しかしその内実は均質ではなく、近江・播磨という限られた地域が技術的に突出し、大和・紀伊・丹波・但馬などは石垣低調地域だった。

その差を生んだのは石材の有無だけではない。政治権力の強度、寺院との技術共有ルート、石工集団の存在——これらが特定の地域に重なった場所でのみ、石垣は高く・大きく・美しく育まれた。

関西の石垣をひとつの「文化圏」として語ることはできない。それはモザイクだ。近江の精緻な割石、播磨の岩山型の豪快な石積み、山城の権力者による搬入石材、紀伊の土留め的な石組み——それぞれに異なる背景と思想がある。

近畿の城郭の石垣を前にするとき、そこに見えるのは単なる「石」ではない。権力・技術・信仰・経済が交差した、中世から近世への移行の証人なのだ。

この内容はClaudeを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

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