パット・ベネターの「We Live for Love」を聴きながら、等身大という名の退屈な本物を笑い飛ばす
偽物と本物の境界線を引きたがるのは、いつの時代も耳の肥えた批評家たちの仕事だ。パット・ベネターについて、どこかの評論家が「嘘くさい」と断じていた。おそらく、その言葉の裏には「上辺だけのロックシンガー」という冷ややかな視線が隠されていた。その意見を耳にした時、胸の内で小さな反発が起きたのは事実だが、同時に妙な納得感を覚えた自分もいた。彼女の表現は、たしかにあまりにも整いすぎていて、野生の叫びというよりは、計算された演劇のようにも見える。
しかし、その「嘘」の何が悪いというのか。1979年に世に放たれた「We Live for Love」を聴くたびに、その構築された美しさに感嘆する。彼女は幼少期、本格的なオペラの訓練を受けていた。ロックという荒々しい舞台に立つために、彼女はあえて完璧な発声という「型」を持ち込んだ。本来、直感的で粗野なはずのジャンルに、徹底した教育の成果を持ち込む。この矛盾こそが、彼女を「嘘くさい」と言わしめる正体であり、同時に唯一無二の魅力となっている。
過剰なまでのドラマ性こそが、日常の退屈を塗りつぶしてくれる。掃除の手を止めて、ただスピーカーから流れる強固な意思に耳を傾ける時、評論家の言葉を笑い飛ばしたくなる。上辺だけだろうが何だろうが、この高揚感だけは紛れもない本物だ。
そもそも、表現者が素顔を晒すことだけが誠実さの証明ではないはずだ。彼女は、自らが求められる役割を完璧に演じ切ることで、聴き手との契約を果たしている。その潔さを「上辺だけ」と切り捨てるのは、あまりにも想像力が欠如していないか。僕たちが欲しているのは、ここではないどこかへ連れて行ってくれる強烈な幻想だ。
近頃の流行を眺めていると、誰もが等身大であることに執着し、裏側を覗かせることに必死になっているように見える。まるで、苦労や葛藤を露悪的に見せることだけが価値であるかのような、妙な息苦しさがある。そんな中で、パット・ベネターの放った威風堂々とした立ち振る舞いは、ある種の救いだ。彼女は決して、自分の弱さを安売りして同情を引こうとはしなかった。
耳に届く振動が、血流を速め、思考を明晰にする。彼女の立ち位置がどうだとか、音楽的な出自がどうだとかいう理屈は、実に瑣末な問題に過ぎない。批評とは往々にして、熱狂という名の魔法を解くために存在する冷水のようなものだが、彼女の放つ熱量は、そんな水を瞬時に蒸発させてしまう。
嘘を嘘のまま、誰も到達できない高みまで磨き上げる。それは、並大抵の覚悟でできることではない。もしこれが「上辺」なのだとしたら、世の中の「本物」はなんと退屈なことだろう。他人の書いた物差しで、自分の胸の高鳴りを測る必要はない。
彼女が歌う愛の物語が、どれほど用意周到に作られた舞台装置の上での出来事だとしても、その美しさに、ただ跪くだけだ。

