蝉時雨【#片想い文芸部】
あくびをしながら、君を盗み見た。君も同じようにあくびをしながら僕を見ていて、目が合った。君――美波はひらひらと手を振って、悪戯っぽく微笑んだ。
教授の声は今日も子守唄のようで、何人もの学生が寝息を立てている。「高い学費を払って講義の最中に寝るなんて」と昔は思ったものだが、眠いものは仕方ないと今は思う。どう考えても、あの教授の声には1/fの揺らぎだとかマイナスイオンだとかそういう妙なものが含まれていて、学生の単位を剥奪しようとしているとしか思えない。
真っ白なままのノートに「みなみ」と書いてみた。教授よりも声を張り上げるアブラゼミと、外を歩く男子学生の奇声。
世界は今日も平和だ。
美波の方をもう一度見た。背筋を伸ばして、まっすぐに前を見ていた。
「ねえ」
講義が終わり帰宅の準備をしていると、美波が声をかけてきた。
「この後さ、何か予定ある?」
「僕にそんなものがあると思う?」
「ないね、確実に」
「正解」
「駅前のラーメン屋」
「また?」
「夏季限定メニューができたから」
「じゃあ行こう」
「やった!」
僕らは講義室を出て、二人で歩き出した。
「和人はさ、恋とかしたいって思う?」
川沿いの道を歩きながら、美波が訊いた。少しだけ早くなった鼓動と動揺を隠すのには、すっかり慣れた。
「したいと思ってるよ。大学生になったし」
「えー、昔はあんなに勉強ばっかりだったのに」
「いつの話だよ」
「和人がこーんなに小さかったとき!」
美波はそう言いながら、自身の膝のあたりに手をかざした。
「その頃は美波も同じくらいだったでしょうに」
僕が笑うと、美波はこちらをじっと見て
「あの『かずくん』がこんなに大きくなるなんてねえ…」
と微笑みながら、僕の頭に手を伸ばした。染めたばかりの茶髪に、美波の細い指が触れた。心臓が、跳ねる。鼓動の音か、蝉時雨か。
「美波、あのさ」
美波は右に少しだけ首を傾げてこちらを見つめる。
「どした、『かずくん』?」
「あのさ」
「…あ、もしかして」
「…?」
「ラーメン嫌だった? 今日暑いもんね」
「いや、そうじゃなくて」
「でもほら、冷やしラーメンもあるし」
「そうじゃなくて。美波」
「…どうしたの、真面目な顔して」
「話があるんだ」
「…ここで?」
「…たしかに」
僕らは顔を見合わせて吹き出した。川沿いの道、釣具屋の前。大学生が自転車で行き交う、大きな通り。
「何か、ごめん」
僕が軽く頭を下げると、美波はくすくすと笑い
「ラーメン食べ終わったらさ、どこか景色の綺麗なところに行こうよ」
と言った。その後で、小さな声で何かを呟いている。
「本当はもう少しお洒落な展開が良かったけどなあ…でも、まあ、景色がいい場所ならそれでありか…?」
「美波?」
僕が聞き返すと、美波は顔を紅くして
「なんでもないの、なんでもないから!」
そう言って笑った。蝉時雨と鼓動の音が、どんどん大きくなっていく。
了
あとがき
『美波』は元櫻坂46・小池美波さんよりお借りしました。
どうか今後の全て、世界の全てがあなたにとっていい方向に進んでほしいと、切に願っています。どんな道でも、応援してるよ。
さて、前回までの二作品とは色を変えて、両片想い(?)を書いてみました。たまにはこういうのもいいよね。普段あんまり書かないから苦労したけどね。
昔、「恋愛小説が書けない!」とか言ってたのに、片想い文芸部を主催したり『けむり』みたいな作品を書いたり。世の中というものはわからないものだと痛感しています。
とりあえず、楽しかった。
今回も多くの皆様に参加していただければ幸いです。
それじゃ、また後でね~。
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