『根本改善』を信じる人々
◯はじめに
「あなたの不調を、根本から改善していきましょう!」
接骨院や整骨院で、そう言われたことはないだろうか。
“根本から改善する”と言われると、どこか安心する。
悩まされている不調がなくなり、二度と繰り返さない。そんな期待を抱く人もいるはずだ。
実際にその言葉をきっかけに通うことを決めた人も少なくないだろう。
けれど、その『根本改善』は、本当に実現されるのだろうか?
高額な自費施術。その回数券が終わりに近づいた頃、追加の回数券の購入を勧められ、継続来院を促される。
『根本からの改善』を伝えられたのに、結局は繰り返し行われるメンテナンスとなっている。
思うような変化が得られなかったとき、その原因はどこにあるのか。
まだ回数が足りないのか。施術者の技術の問題なのか。
いや、恐らく施術者とユーザーのどちらにも要因があるのだろう。
そしてそれはやむにやまれぬ理由からではないだろうか。
両者が織りなす、根本改善という”構造”。
この構造が急速に形作られ始めたのは、2010年前後からだと感じている。
有資格者数や接骨院数の飽和が声高に叫ばれ始め、
不正請求が問題視され、療養費の適正化のため、更にルールが厳格となり、
そして接骨院分野へマーケティング業界が急速に流入、定着していった。
私はキャリアを通して業界の変化、そして根本改善という言葉の劣化を目の当たりにしてきたと言えるだろう。
そしてその代替医療の現場に長く身を置きながら、
知らず知らずのうちにその構造に加担してしまっていた一人の当事者として、
『根本改善という”構造”』を皆様に提起し、それを見つめ直してみたい。
◯根本改善は存在するか?
悩まされている不調がなくなり、二度と繰り返さない。
そんな状態を根本改善と呼ぶのだとしたら、それは本当に実現可能なのだろうか?
昨今では医療の現場で行われている投薬やオペなどの治療でさえ、”対症療法”と言われてしまうことも少なくない。
そう考えたとき、代替医療の範囲で行われる程度の介入がどこまで根本と呼べるのかは、一度立ち止まって考える必要があるように思う。
実際に各院の発信を見てみると、根本改善として語られている内容は一様ではない。
筋や筋膜、姿勢や骨盤、神経など、その対象や方法は多岐にわたる。
それらが誤りであるとは限らない。
ただ問題は”何を根本と捉えるか”が施術者ごとに異なっている、ということだ。
「筋肉の張りではなく、骨盤の歪みですよ。」
「骨盤の歪みではなく、神経過敏によるものですよ。」……
一般的な視点から少し深い階層まで読んだ施術を根本改善だと主張して行っているのだとすれば、
それは根本改善などではなく、少し深いだけの”対症療法”に過ぎないのではないだろうか。
さらに言えば、身体は常に環境の影響を受け続けている。
生活や労働、姿勢や習慣といった環境要因は、自他が完全にコントロールできるものではない。
そうした環境の中で”二度と繰り返さない状態”を前提とした改善が、どこまで現実的なのか。
根本という言葉をどこまで遡るのかによって、その意味は大きく変わってしまう。
根本改善という言葉は、明確な定義を持たないまま、
それぞれの文脈の中でしか生きられない言葉に思えてならない。
◯施術者はなぜ根本改善を謳うのか?
悩まされている不調がなくなり、二度と繰り返さない。
そんな根本改善が仮に存在しないのだとすれば、なぜそれを掲げる接骨院、整骨院がこれほどまでに増えているのだろうか。
ここで少し、視点を変えてみたい。
近年、SNSなどでは“集客難に喘ぐ施術者”を目にすることが増えている。
私がこの業界に入った頃、すでに接骨院の数は飽和状態にあると言われていた。
供給が増えれば、当然ながら競争は生まれる。
限られた地域の中で選ばれるためには、他と違う何かを提示しなければならない。
そのとき、根本改善を謳うことは実に都合がいい。
それは自院の施術の優位性をアピールする言葉であり、同時に他院との差別化を図れる言葉でもある。
こうして根本改善は広がり、やがて“選ばれるための前提”のようなものになっていった。
すると今度は、それを掲げないこと自体がリスクになる。
どれだけ慎重に、謙虚に身体と向き合っていたとしても、根本改善を謳わないというだけで、ユーザーの選択肢から外れてしまう可能性があるからだ。
これは施術者それぞれのモラルやリテラシーの問題では決してないだろう。
そうせざるを得ない状況が、すでに出来上がっているように見える。
根本改善など存在しないかもしれない。
それでもなお、それを謳わずにはいられない。
その矛盾こそが、多くの施術者が同じ根本改善という言葉を掲げる理由なのではないだろうか。
◯ユーザーはなぜ根本改善に惹かれるのか?
接骨院や整骨院を利用するすべての人が、根本改善という言葉をそのまま信じているわけではないだろう。
けれど、施術の現場で「根本から改善したい」と訴えるユーザーの言葉を耳にすることも少なくない。
その言葉がどこから来るのかを考えたとき、
そこには単なる期待だけではない、別の重さがあるようにも感じられる。
長時間同じ姿勢での労働や、繰り返しの動作。
身体に現れる不調の多くは、生活や仕事といった日々の積み重ねの中で生じる。
そしてそれらは自分の意思だけでは簡単に変えられないものでもある。
変えられない環境の中で起きている不調に対して、
最終的には自分で向き合い、対処していかなければならない。
その感覚は、ときに負担として重くのしかかる。
理由が分かっていても変えられない。
努力だけではどうにもならない。
そうした状況の中で、「あなたの不調を、根本から改善します」という言葉に触れたとき、
そこに何かを託したくなるのは自然なことなのかもしれない。
昨今、媒体を問わず”自己責任”という言葉を目にする機会が増えている。
「責任」とは英語で”Responsibility”というように、
本来は他者との関係の中で応答していく能力や姿勢を指すものだったはずだ。
しかし今では他者を断罪する言葉として、自分自身を縛る言葉として使われてしまっている場面をよく目にする。
抱えきれない重責を抱え続ける中で、
その負担を一度手放せるかもしれないという感覚。
施術者がやむにやまれず謳う根本改善という言葉は、もはや単なるマーケティング用語ではなく、
”自己責任”に苦しむユーザーにとって、ある種の『救済』に見えてしまっているのではないだろうか。
どちらが悪いわけではない。しかしおそらく実現できない根本改善のもと結ばれた両者の関係は、最終的には双方の傷つきで終わるだろう。
そしてそれでも施術者が掲げ続けるしかない根本改善の旗の下に、救済を求めて新たなユーザーが訪れる…
この歪な関係が、私が根本改善を”構造”だと主張する理由である。
◯この構造に陥らないために
この構造から完全に離れることは、簡単ではないのかもしれない。
施術者の側に立てば、
根本改善という言葉を手放すことは
競争の中で不利になることであり、自院の優位性の喪失であり、
ユーザーに選ばれなくなることと隣り合わせでもある。
それでもなお、そこに頼らない関わり方はあるはずだ。
何かを“治す”ことではなく、どのように関わるか。
我々が他者に与えられるものは、何かを“治す”ことそのものではなく、他者との関わり方の中にあるのではないだろうか。
その関係の中にこそ、この『根本改善という”構造”』、その外殻を解体する力が隠されているように思う。
一方で、ユーザーの側にとっても、
不調と向き合うことは、他者に委ねきれるものではない。
自分ではどうにもならない部分があるからこそ、
誰かに頼りたくなる瞬間がある。
けれどそのときに求められるのは、
責任を引き受けてくれる存在ではなく、
それを共に支えようとする存在なのではないだろうか。
何かを代わりに背負ってくれる人ではなく、
自分が向き合おうとすることを、隣で支えてくれる人。
その様な人を探し、その手を取ってみること。
簡単なことではない。
「根本から改善したい」と願い、誰かに委ねてしまうことのほうがずっと楽なことだからだ。
それでもなお、自分の不調を“誰かに預けるもの”ではなく、
“共に向き合うもの”として捉え直そうとすること。
自身の意思による、小さな選択を積み重ねていくこと。
その両者の歩み寄りにも似た行動が、
この歪な構造を少しずつ変えていく、小さな波紋になりうるのだと思う。
※
なお、『改善』という言葉の扱いについては、本来慎重であるべきとされている。
表現の在り方には一定の基準が存在し、状況によっては適切とは言えない場合がある。
それでもなお、この言葉が広く使われ続けているという現実。
なぜ使われるのか。
なぜ受け入れられるのか。
その背景にもまた、ここまで見てきた”構造”が関係しているのかもしれない。
