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【連作詩】失意の落日 〜再生の清濁〜 そして 最終章のエピローグへと桜の季節に母を亡くしてから、数年の月日が流れました。病院で最期まで寄り添ったあの日、そして二年が過ぎ、募る想いを詩に託したあの日。止まっていた記憶を、今ふたたび。喪失から再生へと向かう心の軌跡を、リバイバルとしてお届けしたいと思います。


      【 落日 】


桜の季節はとうに過ぎたのに風に運ばれたのか、一片の花びらが病室の窓から舞い込んだ

余裕のない心を少しだけ癒してくれた花びらが愛おしくて、しばらく手のひらで遊ばせた

そして母のおでこに、ちょこんと乗せてみる


白い壁の薬臭い301号室

ベッドの上の母の身体には
点滴のチューブが張り巡らされている

モニターをよそに
命の灯火を懸命に燃やす母の、痛わしい姿

呼吸の乱れが何度も死を引き寄せ
その度に引き戻そうと、私は母を呼ぶ

母の身体から魂が離れるその瞬間まで
私は母を呼び続けるのだろう

今朝の天気、昨日の出来事、過ぎた日の想い出を
独り言のように呟き
母の耳許に口唇を寄せる

微かな瞬きにさえ
まだ息のある母の温もりを求めて

母よ、頑張れと身体をさする

こんな私でも、母が呼吸を取り戻すたびにそれだけで心が安らぐ
過去を悔いる気持ちも
明日を恐れる気持ちも
ふうっと、吐息に変わる

こんな私でも、不自由な母が労しくて
それだけで心に雨が降る
過去の確執も
明日への執着も
すうっと、泪に変わる

命の意味など考える暇もないほど
横たわる母を置き去りに、時間だけが過ぎてゆく

過ぎゆく過去でも、そこに取り残される過去もある

母よ、私はただ 命の見張り番のようにあなたの傍らにいる


数ヶ月前までは母は施設にいた

右半身の麻痺で会話もまともでない母が
鏡が見たいと言った

血管が浮き出た干からびた手に、手鏡を握らせた
鏡を覗き込んだ母の顔が綻ぶ

ふと その手鏡に眼をやると
鏡の中に女性である証でも見つけたかのように
はにかむ母の、紅葉した顔が映っていた

母よ、少しはほっとしたのだろう


山陰で冷やされた太陽が
無機質な病室の窓辺に顔を出す

今日も私は一方的な会話をして
額に皺を寄せる母の傍で、家督に抑圧された家なきこのように、時を逆走しては物思いに耽るのだろう

愛を与えるのが苦手だった母
その愛を受け取るのが苦手だった私

人騒がせの母が嫌で
それに似ている私も嫌で

だけど私はそこから逃げ出せず、母の顔色だけを伺っていた

そんな気持ちもいつのまにか癒えて

今は慣れた手付きで、母のおむつを替えている


皐月の空はこんなにも眩しいのに

相変わらず心には雨が降る

身体の不自由な母と
心の不自由な私と
この最上階の窓のロックを外し
二人で 比翼の鳥となり羽ばたいてしまおうかと思った

なのに
母はたった今、私を置いて 独り羽ばたいて逝ってしまった

人は過去を懐かしんだり悔やんだりして
大切な想いを胸で温め生きている

だとしたら、ここで病に臥していた母は
後に私の過去の刻印になるはずだ

最果てに辿り着くのは容易なことではないが
その先にまだ見ぬ素晴らしい世界があるとしたら

そしたら母よ、きっとまたそこで会おうね


      【 清濁 】


母よ、元気ですか
あなたを亡くして二年目の春です

今年も色とりどりの芝桜が
屋敷の周りを埋め尽くしています

雑草を丹念に毟る母の姿をなぞりながら
見よう見まねで私も母と同じ作業を繰り返す

独りの暮らしとなった私は
何気ない日常でも抑揚のある暮らしを心掛けている

美しく暮らすことは日々を豊かにすること不満や泣き言で一日を終えることがどれほど勿体ないことかを母を失った今ひしひしと感じる

面倒な作業を熟すことは癒しの前の余興のようなもので
雑草を取り終えた後の
得も言われぬ爽快感は最近の私の高尚な趣味となっている 


母の形見のように香り立つ芝桜に囲まれて一息つく

額の汗をそのままに
季節の変遷が見て取れる台所で珈琲を淹れる

カップの中から白濁したオーブがふわふわと漂い
何とも思わせぶりな珈琲である


母は毎日のように作業日誌を記していたそれを私が読み返すにはまだまだ時間がかかる
なぜならそこには身内を案ずる母の優しい言葉や日頃の母の心配事や愚痴も一緒に綴られているからだ
それらを 今眼にしたら
私は母への憐れみや自責の念で涙が止まらないだろう

毎日のように母からの便りが届く
昨日の風となり
今日の雨となり
明日の陽射しとなり
影になり日向になりして母からの便りが届く

涼やかな忘れな草に母を想い
毎朝の鐘の音に母を重ねる


母胎から出世してこの世界に触れることが一場春夢だとしたら

一分一秒でも永く母とこの世界に留まっていたいはずなのに

親愛なる人との別離とは
この世がもたらす一番の罪なように感じた

だがこの世にいる限りは母との別離もとても必然的で
哀しくも人生の時の狭間での単なる道草なのかも知れない


もうすぐ
白詰草の白いぼんぼりが
辺り一面を賑わす季節が来る

珈琲の残り香が漂う台所の勝手口から
畑の向こうの畦道道に目をやると

毎年現れるはずの一羽のはぐれ鳥が
今年はまだ姿が見えないことに気づいた

もしや空に架かる七色の橋を渡り損ねたのだろうか
それとも今年は比翼の鳥となり
嬉しい便りでも届けてくれるのだろうか

昨夜の夢の上澄みには
今まで見たことのない優しい母の顔が浮かんでいた

母よ、元気でいてくれて何よりです


   【 エピローグ:刻印 】


病床で おむつを替えたときの

あの日の手触りも

芝桜の 雑草を毟っているときの

指先の熱も

すべては 私が私であるための刻印

ごめんねと

ありがとうが

珈琲の湯気に 溶けて消えていくのを

私はただ 穏やかに見つめている

かつて あなたの命の見張り番だった私は

今 この庭の主となり

あなたが 残した季節の続きを生きている

空を 見上げたら

もう二人は 羽を合わせることはないのだと

自由になった 一羽の鳥が

風の跡を辿り 真っ青な空に弧を描く

母よ

私たちは 別々の空を飛びながら

それでも 同じ光の中にいる

未だ ページを開けない作業日誌に

最後の一行を書き添えるとしたら

私は迷わずこう記すでしょう

母よ、安らかにと…


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