見出し画像

悪魔が唄うラブソング

彼の名はメルフィス。

かつて地獄の第九環を統べた、知恵と沈黙の悪魔。


だが今は、町外れの古びた井戸の底に、何百年も封じられたまま――

名も呼ばれず、誰にも知られず、声だけを残して生きていた。


夜になると、彼は井戸の底から空へ向けて歌を歌う。

それは呪いではなかった。

それは呪詛でもなかった。


それは、ただひとつの、愛の唄だった。


少女の名はラシェル。

かつてこの地で、ひっそりと生きていた、盲目の娘。

生まれつき目が見えず、家族にも疎まれ、屋根裏の部屋で一人きり。


父は彼女に目を合わせず、母は何かを怖れるように触れもしなかった。

彼女の存在は、誰にも必要とされていなかった。


けれどラシェルには、小さな癖があった。

古本屋で拾った魔法書を指先でなぞり、呪文を詠う。

声を出さず、ただ音の形を喉で転がす。


それは、世界に触れようとするための祈りだった。


ある夜、雷の鳴る日。

彼女は一冊の奇妙な書物を開いた。そこに「悪魔召喚の儀式」が記されていた。


意味は分からなかった。ただ、誰かに話しかけたかった。

誰かと、繋がりたかった――。


メルフィスは、その夜に呼ばれた。


かすれた声、震える指、儀式としては稚拙だった。

だが彼は応じた。彼女が「正しくない方法で、正しく呼んだ」からだ。


「……名前を、教えてくれる?」


盲目の少女が囁いた。


「メルフィス」


「わたしは、ラシェル。……ねえ、契約とか、しなきゃいけないんでしょう?」


「……そうだ。だが、おまえは望みを持っていない」


「望んじゃ、いけないの?」


「いや。ただ、おまえの声にはそれがなかった。純粋に――呼んだだけだ」


ラシェルは少し黙り、それから囁いた。


「じゃあ……契約して。わたしが望むのは、あなたが“そばにいること”。それだけ」


その言葉は、悪魔にとっても祈りに等しかった。


それからの毎夜、メルフィスはラシェルの部屋にいた。


姿は見えず、声もない。

だがラシェルは彼の存在を感じ取っていた。空気の震え、鼓動のない沈黙。


彼女は語った。

何もない日々の中で見た夢の話、音の色、風の匂い、手探りで作った詩。


ある夜、彼女は尋ねた。


「あなたは、どうして悪魔なの?」


「おまえは何故、人なのか?私は悪魔、ただそれだけだ」


「それだけで、閉じ込められたの?」


「地獄とは、罪を裁くためでなく、存在を仕分けるためにある」


ラシェルは小さく笑った。


「あなたの声は、あたたかいよ」


その瞬間、

メルフィスの中で、長い長い静寂の水面に、小さな音が落ちた。

それは音ではなかった。

記憶でも、思考でもなかった。


ただ、何かが――

ずっと冷たかったものの奥に、初めて熱を宿したような感覚だった。


地獄のどこにもなかったその響きが、

声を持たぬ彼の深部で、

灯のように、消えもせずに揺れていた。


ある日、ラシェルは空を語った。


「夢の中でね、空に触れたの。真っ青な、音のしない空」


「……それは、どんな夢だ?」


「あなたが手を引いてくれた。目が見えないのに、全部見えた」


メルフィスは、ふいに沈黙した。


「……わたし、いつか死ぬんだ。病気なんだって、前から分かってた」


「……」


「でも、あなたといる時間は、わたしが生きてるって思える」


その日、メルフィスは初めてラシェルの寝息に耳を澄ませた。

静かな、かすかな、温もりある音。

それは、永劫の地獄にもなかった、命の調べだった。


冬が来た。

ラシェルの身体は急激に冷えていった。


言葉を発することも、笑うことも、ほとんどできなくなった。


だがある夜、ラシェルはかすかに唇を動かした。


「……あなたが……わたしの……はじめてで、さいごの……ともだち……」


メルフィスは、手を伸ばそうとした。

だが彼には、姿も肉体もない。

どうやって、誰かを抱きしめればよいのか。


腕のない存在に、抱擁は許されない。


そしてその夜、ラシェルの魂は霧となって消えた。


契約は、自然に、静かに、解けた。


それから何百年。


メルフィスは古井戸の底に封じられた。

彼女を失ってから、彼の力は、歌となって地に溶けた。


彼は、夜になると歌う。


誰も聞かぬ、古井戸の底から、

ただ一人の少女に向けて。


それは愛の唄。

祈りにも似た、記憶の旋律。


「ラシェル、ラシェル、ぼくの声がまだ届くなら

この井戸の底から、君の夢に触れさせて

覚えてる? ぼくらの最後の夜を

君が眠る前に、ぼくは君の名を歌ったんだ」


風の日も、雨の日も、人のいない夜も。


忘れられた古井戸の底で、

悪魔は今日も愛の唄を歌っている。


――誰にも届かなくても、彼女が一度でも名を呼んでくれたのだから




#悪魔が歌うラブソング   

#ゴシックファンタジー   

#切ない恋の物語   

#声なき祈り   

#井戸の底の愛   

#盲目の少女と悪魔   

#静寂のラブストーリー   

#ダークファンタジー小説   

#ファンタジー短編   

#魂の記憶   

#ラシェルとメルフィス   

#孤独と祈り   

#物語を書く人と繋がりたい   

#創作小説   

#小説好きな人と繋がりたい   

#note小説   

#文学的ファンタジー

いいなと思ったら応援しよう!