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20260608 月 ひととの距離感を塩梅する

友人と呼ぶには少し遠く、知人というのは他人行儀がすぎる。そんなひとたちと半日を過ごした。気を使い、同時に頭も使う時間だった。
自我を強めに出して発言するか、引いて控えめに同意する程度にとどめるかなど。場の様子を窺い、意識して図っている場面がそれなりにあった。だが、不思議と苦痛ではない。
相手の言動から自分の振る舞いを瞬間ごとに決めることに、意外な居心地のよさを見出して驚く。

気づけば何十年も付き合っている、気の置けない友人との時間は楽だ。何も考えずにポンポンと言葉が出る。行動を起こすための決断も相手のことを考えるより、自分基準になりがちでゆるい。
しかし、だからこそあとで「さっきは自分ばかりしゃべりすぎてしまったな」とか「あそこはもっとこうすればよかったかな」とか反省しがちだ。相手を不快にさせたかもしれないと想像(あるいは妄想)してかすかに不安になる。

ひとに甘えるのが苦手なのかもしれない。自分の全体重をかけて寄りかかれるひとなんていないと思っている。与えるのも受け取るの無償の愛は怖い。相手に価値を提供できない自分はいつか切り捨てられるのではないかという恐れが、いつも心の奥底にこびりついている。
それらは結局のところ、嫌われたくないという切望につながっているようだ。嫌われたら相手を失ってしまう。それはなんとしても避けたい。なんだか重い執着の気配が漂っているな。

心のひだを1枚1枚かき分けていくと、そんなどろどろとしたものが見える。我がことながらうへぇと呆れてしまう。
もちろん、そんなことを四六時中考えて友人と接しているわけではない。それでも別れてひとりになると、ほぼ毎回程度の差はあれ省みている気がする。学生のころはこんなことなったのにな。ほぼ毎日顔を合わせて、ただ楽しく生きていたのに。いつからこんなにややこしくなってしまったのだろう。しがらみを自ら生み出しているような。

過度に好かれようなどと思わず、近づきすぎず、ほどよい距離感を保ったほうが軽やかに生きられるんだろう。でも、そんなに器用ではないし、人間として自立してもいない。
もっと自分を信じて、相手を信頼できたらいいのに。
頭で考えるほどうまくはできず、自分はこれからも同じように落ち込んだり、よろこんだりするだろう。それが自分だと受け入れられるときがくることを願っている。

中華料理の食べ放題にいく。いつだかの誰かの披露宴で食べたきりと記憶する北京ダックを食べた。皮はパリパリではなくプルプルしていた。タレがうまいなあという、まったくもって北京ダックの持ち腐れな感想。アヒルに申し訳ない気持ちになりながら咀嚼した。
健啖家に囲まれた食べ放題はすがすがしく、腹とともに心も満ちる。

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