現実も夢もすべてが「クオリア」である/「意識」の視点から見る
前々作の「『唯物論』は信仰である」の第13章【「唯物論」から「唯識」「ヴェーダーンタ」「華厳」など「意識モデル」への架け橋】の中で、
「唯物論的脳科学が言う今の『脳意識』としての映像は、実は『唯識』『ヴェーダーンタ』『華厳』が言う『意識』からなる映像とほぼ同じありようのものであって、ただ、外界を反映した脳意識の映像か、それとも外界や外界の脳という裏付けを持たない独立した意識の映像かの違いだけなのですから、外界や外界の自己やその物質的脳が有るという考え方を外してしまえば、今の現実がそのまま『唯識』『ヴェーダーンタ』『華厳』など『意識モデル』の映像世界になります!!」
と記述しましたように、「唯物論」でも「唯識」「ヴェーダーンタ」「華厳」などの「意識モデル」でも今見る世界は大きな鏡の中の世界のような「意識」的映像世界のようなものだということで、ある意味今目にする世界映像のすべてが「意識」的経験と言っていいのです。
(ここで下の手書きの絵図を参考にしてください)
「意識」というものを「本当の自己」ととれば、この世界は現実でも夢で「意識」から成る「映像」ですから、そのすべてを自己(意識)が一元的(非二元的)に体験している事態だととれるのです。
そういうことで、目に見えるものすべて、耳にきこえるものすべて、匂うものすべて、味わうものすべて、肌触りのすべて、考えや感情のすべて、要するに、高い山も大きな海も広大な空間も、眩しい太陽も、ひっそり輝く星も、自分も人も動物も魚も虫も、快い音楽やその感動も、やかましい車の音も、びっくりする雷鳴も、子供の笑い声も、バラの香りも海の香りも、カレーの味もりんごの味もアイスクリームの味も、猫の毛の優しい肌触りも、スイカのつるつるした肌触りも、冷水の感触も、腰の痛みも、明日のことを考えることも、失敗を悔いることも、宇宙のことを考えることも、ともかく「唯物論」でも「唯識」でも「ヴェーダーンタ」でも「華厳」などの「意識モデル」でも、そのような外面内面のこの世界のありとあらゆるものが「意識」(自己)の変容した映像であり、その映像を「意識」(自己)自身が一体的(非二元的)に見て経験していると見られるのですから、その経験されている世界という「映像」すべてをとりも直さず「クオリア」と言えるはずです。下の絵図で言えば、波線内(意識界)の内容すべてがそのまま「クオリア」ということです。「意識」ということでは夢も現実も「意識」的映像という同じ本性ですから、夢もすべてが「クオリア」と言えます。
ただクオリアを、それを生み出しているのが「唯物論」の言うように物質的脳だとして、そこからの発生の仕組みをとらえようとすると、物質的「脳」から非物質的な「意識」が発生することを同時に証明しなければならないので、それはとんでもない難問(ハードプロブレム)になります。
しかし「唯識」「ヴェーダーンタ」「華厳」などの「意識モデル」は、「唯物論」のように今あるすべての「意識」現象を生み出しているのは外界の物質的「脳」であるとはしないで、「意識」(意識界)のみが単独ではじめから存在しているという見方ですから、「唯識」では「阿頼耶識」、ヴェーダーンタでは「プラクリティ」という、これも本性は「意識」そのものですが、映像を生み出す原理を措定して、それが「意識」上に現し出す映像をはじめから在る「意識」が見るところに「クオリア」世界が成立するというような、たとえば鏡にすっと映像が映るというような単純なものになります。
こんなに率直にあるがまま問題なく成立している「意識モデル」を採用しないで、「唯物論」的脳科学などという自己矛盾をかかえたモデルで頑張って説明がうまくいけばいいのですが。どうしても「唯物論」モデルのようなもので説明したいならば、「『唯物論』は信仰である」に触れましたように、二元論である「サーンキャ哲学」の「純粋意識」でも持ってくればあっという間に解決がつくとも思ったりしますけどもね。
ただ「サーンキャ哲学」の「純粋意識」(プルシャ)のようなものも、命ある有機物である「脳」や「神経」となら結びつく可能性は全くないこともないとも思うところがありますが、たとえ高度に発展しても、コンピューターのような無機物と結びつく可能性はあまりないようにも思われますが。
ともかく、パソコンにしてもAIにしても、内部には計算過程があったとしても、私たちが今明瞭明白に見たり聞いたり感じたりそこを生きたりしてるようなクオリア世界がたぶんまったくないのですよ!しかし隣に座っている人には自分と同じようにはっきりとしたクオリア世界が現れていてそこを生きていると思うのです。またさっき窓の外を横切った野良猫さんにも彼なりのクオリア世界が現れていてそこを生きているのだと思われるのですよ。
なお「現実も夢もすべてはクオリアである」という見方は、「ヴェーダーンタ」より「唯識」、「唯識」よりも更に「中観思想」によくあてはまると思われます。
下の手書きの漫画的な絵図は「『唯物論』は信仰である」で使ったものですが、唯物論的脳科学に従うと、波線の中が今私たちが見たり、聞いたり、触ったり、考えたり、泣いたり、笑ったりしているこの現実です。波線の中にいるのが私たちです。「唯物論」の考え方では、今のこの私たちは波線の中から永久に出られないので、波線の外の物質界が実際に本当に有るか無いかは直接絶対に確かめることができません。そういうことで、「唯物論」は「信仰」なのですね。
波線内以外の存在はなく、波線内だけがあるという思想が「唯識」や「ヴェーダーンタ」「華厳」などの「意識モデル」といってよい思想です。

