44歳になっても忘れられない掃除の時間
もし「人生で最も長く記憶に残っている出来事は何ですか」と聞かれたら、多くの人は卒業式や初恋、大きな成功や失敗を思い浮かべるかもしれない。
だが私の場合は違う。
30年以上経った今でも、ふとした瞬間によみがえるのは、小学校の掃除の時間のたった数秒間だ。
特別な事件があったわけではない。
誰かが騒いだわけでもない。
教室で起きた、ごくありふれた光景だった。
それなのに、その場面だけが時間に取り残されたように鮮明に残っている。
昨日の昼に何を食べたかは思い出せないことがある。
先週考えていたことも忘れる。
それでも、その日の教室の空気だけは消えない。
人間の記憶というのは、本当に不思議だ。
小学4年生だったか、5年生だったか。
そこはもう曖昧だ。
昼ご飯を食べ終わると、給食の匂いがまだ少し残る教室で、みんながガタガタと音を立てながら机を後ろへ押しやり、掃除の時間が始まる。
ほうきを持つ者。
机を運ぶ者。
そして雑巾がけをする者。
窓から差し込む午後の日差しの中で、舞い上がったほこりが細かく光り、廊下からは別のクラスの笑い声やほうきの擦れる音が聞こえていた。
どこの学校にもある、ごく普通の風景だった。
もちろん、その日も特別な日ではない。
遠足でもない。
運動会でもない。
ただの掃除の時間だった。
その日、雑巾がけをしていたのは同級生の梶本樹里ちゃん(仮名)だった。
私は壁にもたれながら、どこか気の抜けた気分でその様子を眺めていた。
そして次の瞬間だった。
私は人生で初めてと言っていいほどの衝撃を受ける。
何を見たのかは詳しく書かない。
というより、当時の私自身が理解していなかった。
ただ一つだけ覚えている。
子供ながらに、
「これは見ちゃいけない気がする」
と思ったことだ。
誰かにそう教わったわけではない。
もちろん知識もない。
異性を意識するような年頃でもなかった。
それなのに、なぜかそう感じた。
不思議だったのは、そのくせ目が離せなかったことだ。
今なら視線をそらすと思う。
気まずくなって見ないようにすると思う。
だが、あの日の私は違った。
目が離せなかった。
教室のざわめきも、ほうきの音も、まるで遠くへ引いていったようだった。
窓から差し込む白い光の中で、その瞬間だけが妙に輪郭を持ち、周囲の景色から切り離されたように見えた。
胸の奥がざわつくのに、なぜざわつくのか分からない。
視線をそらそうとしても、磁石に引かれるようにまた戻ってしまう。
何が起きているのか理解できないまま、ただその光景だけを追い続けていた。
小学生の私には、それを説明する言葉がなかった。
ただ妙に気になり、引き込まれ、そのまま記憶に刻まれた。
それだけだった。
結局、そのまま掃除の時間は終わった。
誰にも言わなかった。
言えなかった。
自分でも説明できなかったからだ。
それから30年以上が過ぎた。
昨日考えていたことは忘れる。
仕事で頼まれたことも時々忘れる。
それなのに、あの日の掃除の時間だけは消えない。
そして44歳になった今でも、ときどき思い出す。
あの時の光景を。
あの時の空気を。
そして、理由も分からないまま目を奪われていた自分を。
記憶は、人生の大事件だけを残すわけではない。
教室の床をこする雑巾の音や、午後の光の中でふと心が引っかかった一瞬のような、説明できない違和感や驚きを静かに抱え続ける。
そして人を形づくるのは、何を覚えているかよりも、なぜ忘れずにいるのか最後まで説明できないその記憶なのかもしれない。
そして最後に。
梶本樹里ちゃん(仮名)。
あの日はありがとうございました。
本人は何のことか分からないと思いますが。
