宮廷賢者アルトリア 第9話「賢者姫イルーシャ訪問」
第9話「賢者姫イルーシャ訪問」
ピエール・フィリア邸
戦争終結から数日後。
イルハレムの男爵叙爵祝いとして家族が集まる。
イルハレムはやや緊張して座っている。
ナターシャとアンナが左右から迫る。
ナターシャ
「よかったわね、イルハレム~」
アンナ
「すっかり大人になって、お姉ちゃん寂しいわ~」
両側から頬を挟まれる。
イルハレム
「ぼ、僕はもう子供じゃありません姉上!」
アンナ
「え~?まだ抱っこできるかしら?」
イルハレム
「で、できません!」
ピエールが豪快に笑う。
ピエール
「はっはっは!相変わらずだな!」
場が和む。
その横で、フォズが静かに笑っている。
ナターシャがふと気づく。
ナターシャ
「……フォズ」
フォズは微笑む。
フォズ
「今日は、いい日ですね」
少しだけ間。
ピエールの目が優しくなる。
ピエール
「そうだな……本当に」
フォズは一瞬だけ遠くを見る。夫の家、引き離された子供。
だが、今日は笑う。
イルハレムが近づく。
イルハレム
「姉上、必ず……」
フォズ
「?」
イルハレム
「僕がもっと強くなります。だから」
フォズは優しく頭を撫でる。
フォズ
「もう十分よ」
ここでフォズの心が少し救われる。
王城・セリアの私室
王族の部屋らしく、気品に満ちているが、どこか温かみがある。
テーブルの上には、美しく盛り付けられた料理が並んでいる。
アルトリアは少し驚いた様子でそれを見る。
アルトリア
「……これは」
セリアが少し誇らしげに胸を張る。
セリア
「私が作ったのよ」
アルトリア
「姫様が……?」
セリア
「こう見えても、昔から料理は得意なの」
少し照れながらも、嬉しそうに微笑む。
セリア
「たくさん食べて。あなたのために心を込めて作ったのよ」
アルトリアは一瞬だけ目を見開く。
そして、優しく微笑む。
アルトリア
「……ありがとうございます」
椅子に座り、料理を見つめる。
アルトリア
「いただきます」
料理を一口食べる。
その瞬間……
アルトリア
「……!」
セリアが不安そうに顔を覗き込む。
セリア
「……どう?」
アルトリアは素直に答える。
アルトリア
「……とてもおいしいです」
セリアの表情がぱっと明るくなる。
セリア
「本当!?」
アルトリア
「はい。王城の料理人にも引けを取りません」
セリアは嬉しそうに微笑む。
セリア
「よかった……」
静かな時間。
セリアはアルトリアを優しく見つめている。やがて、静かに話し始める。
セリア
「……ずっと」
アルトリア
「?」
セリア
「ずっと心配だったの」
アルトリアの手が止まる。
セリア
「イルカンへ行くって聞いたとき……」
拳を握る。
セリア
「もし、帰ってこなかったらどうしようって……」
声が少し震えている。
アルトリアは静かにセリアを見る。
セリア
「あなたはいつも、一人で危険な場所へ行く」
アルトリア
「……」
セリア
「でも」
アルトリアの目を見る。
セリア
「あなたが帰ってきてくれて、本当に……」
少しだけ涙ぐむ。
セリア
「よかった」
アルトリアは優しく答える。
アルトリア
「……姫様」
少し間。
アルトリア
「私は、必ず戻ってきます」
セリア
「え?」
アルトリア
「この国に」
セリアの瞳が揺れる。
アルトリア
「あなたがいる限り」
セリアの顔が一瞬で赤くなる。
セリア
「な……!」
言葉が出ない。
王城・中庭
イルハレムが侍女たちに囲まれている。
侍女A
「イルハレム様、本当にお若くして男爵様なんて素敵です!」
侍女B
「アルトリア様と並ぶ賢者様なんですよね!」
侍女C
「とても素敵です……」
イルハレム
「え!?い、いや!そんな!」
完全にあたふたしている。
イルハレム
「ぼ、僕はそんな立派な人間じゃ――」
侍女たちがさらに距離を詰める。
侍女B
「お優しいのですね!」
侍女C
「素敵です……」
イルハレム
「ちょ、ちょっと近いです!」
完全に困っている。
その時、後ろから手を掴まれる。
イルハレム
「え?」
振り向くとエリスが立っている。
エリス
「ちょっと来なさい」
イルハレム
「え!?姫様!?」
エリスはそのまま強引に引っ張っていく。
侍女たち
「あ……」
廊下
エリスがイルハレムの手を離す。
イルハレム
「ひ、姫様?」
エリスは腕を組み、少し不機嫌そうに言う。
エリス
「……楽しそうだったわね」
イルハレム
「え?」
エリス
「侍女たちに囲まれて」
イルハレム
「い、いや!あれは!」
エリス
「ふーん」
明らかに不機嫌。
エリス
「随分人気者じゃない」
イルハレム
「そんなことありません!」
エリス
「……」
少し沈黙。
エリスは小さな声で言う。
エリス
「……浮気は許さないわよ」
イルハレム
「え!?」
エリスは顔を赤くしながらそっぽを向く。
エリス
「わ、私はただ!」
イルハレム
「……」
イルハレムは優しく微笑む。
イルハレム
「ありがとうございます」
エリス
「え?」
イルハレム
「心配してくださって」
エリスの顔がさらに赤くなる。
エリス
「な、何言ってるのよ!」
イルハレム
「僕は」
エリスの目を見る。
イルハレム
「姫様以外、見ていません」
エリス
「――!」
完全に固まる。
エリス
「ば、ばか!」
しかし、嬉しそうに微笑む。
王城・廊下
夕刻。窓から差し込む夕陽が床を橙色に染めている。
ジェームズとダイムが並んで歩いている。
ジェームズは手を後ろで組み、いつも通り落ち着いた様子。ダイムは少し楽しそうに話している。
ジェームズ
「今日もいつものところで夕飯にするか」
ダイム
「いいね!あそこの肉料理は格別だ!」
ジェームズ
「最近は客も増えてきたな」
ダイム
「そりゃあ、英雄様が通ってる店だからね!」
ジェームズ
「やめろ、恥ずかしい」
二人が笑う。
廊下の柱の陰にリーナが隠れている。
第六将の威厳ある女将軍が――柱の陰から、こっそりジェームズを見ている。
リーナ(心の中)
(……今日もいる)
ジェームズの何気ない仕草を見つめている。
リーナ(心の中)
(なぜ私は……)
その時、ジェームズがふと視線を感じて立ち止まる。
ジェームズ
「……?」
ゆっくり振り向くとリーナと目が合う。
ジェームズ
「え〜っと……何か?」
リーナ
「い!?」
一瞬で顔が赤くなる。
リーナ
「い、いえ!!」
慌てて柱の陰に隠れる。
ジェームズ
「……?」
ダイム
「どうした?」
ジェームズ
「いや……」
リーナは柱の陰で顔を押さえている。
リーナ(心の中)
(なぜ私が男に夢中に!?しかも……10ぐらい年下の男に!!)
顔がさらに赤くなる。
リーナ
(私は第六将だぞ!?)
完全に混乱している。
少し離れた場所からアレスとロイドがその様子を見ている。
アレスは腕を組み、首を傾げる。
アレス
「……どうしたんだあいつ?」
ロイド
「ガルディアから帰ってから、ずっとあの調子です」
アレス
「病気か?」
ロイド
「いえ……」
その時、背後から声がする。
ルーク
「見てわからんのか?」
アレスとロイドが振り向く。
そこには――ルークとバージル。
アレスとロイドがすぐに敬礼する。
アレス
「団長!副団長!」
ロイド
「失礼しました!」
ルークはリーナの方を見る。
ルーク
「……あれは」
一呼吸。
ルーク
「恋だ」
沈黙。
アレス
「は?」
アレス
「……え?」
アレス
「あいつが恋っすか!?」
廊下に声が響く。
バージル
「バカ」
アレスの頭を軽く叩く。
バージル
「声がデカい」
アレス
「す、すみません!」
ロイドは少し驚いている。
ロイド
「……本当に?」
ルーク
「ああ」
ルークは微笑む。
ルーク
「初めて見るな」
バージル
「氷の女将軍がな」
ロイド
「相手は……」
三人の視線がジェームズへ向く。
ジェームズはダイムと普通に会話している。
アレス
「……あの坊主か」
ルーク
「面白くなってきた」
バージル
「確かにな」
リーナはまだ顔を赤くしている。
リーナ(心の中)
(落ち着け……私は将軍だ……だが……)
再び、そっとジェームズを見る。ジェームズが笑っている。
リーナの胸が少し高鳴る。
リーナ(心の中)
(……なぜだ)
自分でも理解できない感情。
六軍将たちが静かに見守る。
ロイド(小声)
「これは……」
ルーク
「ああ」
バージル
「戦争より厄介かもしれんな」
アレス
「間違いない」
四人が小さく笑う。
新たな戦いが――静かに始まっていた。
恋という名の戦いが。
数日後・王城 謁見の間
伝令官が入ってくる。
伝令官
「陛下にご報告申し上げます!」
レオニス
「申せ」
伝令官
「隣国、アルゼリア王国より正式な外交文書が届きました!」
ざわめき。
貴族たちが顔を見合わせる。
伝令官
「アルゼリア王国第一王女――」
一呼吸。
伝令官
「イルーシャ・アルゼン殿下が、外交使節として我がレグナス王国を訪問されます」
空気が一変する。
ロウラル
「アルゼリアの……王女だと?」
バージル
「王族自ら来るとは……」
ロイド
「異例です」
ルークは静かに目を細める。
ルーク
「ただの挨拶ではないな」
セリアはわずかに緊張する。
セリア(心の中)
(アルゼリア……魔導国家の王女……なぜ今、このタイミングで?)
無意識にアルトリアを見る。
アルトリアは静かに考えている。
アルトリア(心の中)
(戦争終結直後の訪問……目的は――同盟か……あるいは――別の何か……)
レオニスは静かに問う。
レオニス
「到着はいつだ?」
伝令官
「三日後に王都へ到着予定でございます」
ざわめきが広がる。
イルハレム
「王女自ら……」
ジェームズ
「ただ事ではありませんね」
ダイム
「どんな方なんだろう……」
リーナは腕を組む。
リーナ
「警戒すべきです」
アレス
「同感だ」
ロイド
「護衛体制を強化します」
レオニスが頷く。
レオニス
「頼む」
レオニスはアルトリアを見る。
レオニス
「アルトリア」
アルトリア
「はい」
レオニス
「そなたも同席せよ」
ざわめき。
アルトリア
「……承知いたしました」
王城の外
遥か遠くの街道。
黄金と白銀の旗を掲げた使節団が進んでいる。
馬車の中、白金の髪の少女が窓の外を見ている。
イルーシャ(心の中)
(もうすぐ会える。イルカンとの戦争を止めた賢者……)
静かに微笑む。
イルーシャ
「アルトリア・フィリア」
王都レグナリア・王城 玉座の間
黄金と白銀の紋章を掲げた使節団が、ゆっくりと王城へ入城する。
整然と並ぶ近衛騎士たち。民衆たちが道の両側から見守っている。
「アルゼリア王国の使節団だ……」
「王女自ら来ているらしいぞ……」
中央の豪奢な馬車が止まる。
扉が開き一人の少女が姿を現す。
アルゼリア王国第一王女、イルーシャ・アルゼン。
空気が変わる。
近衛騎士たちですら、無意識に姿勢を正す。
イルーシャは静かに王城を見上げる。
イルーシャ(心の中)
(ここが――レグナス王国……そして彼がいる国)
静かに歩き出す。
王城・玉座の間
伝令官
「アルゼリア王国第一王女――イルーシャ・アルゼン殿下、御到着!」
イルーシャが入場する。
全員の視線が集まる。貴族たちが息を呑む。
「なんという気品だ……」
「まだ若いのに……」
イルーシャはゆっくりと歩く。一歩一歩。
迷いがない。
王座の前で止まる。優雅に跪く。
イルーシャ
「国王陛下」
顔を上げる。
イルーシャ
「アルゼリア王国第一王女、イルーシャ・アルゼンにございます」
完璧な礼。非の打ち所がない。
レオニスは静かに頷く。
レオニス
「よく来られた、イルーシャ王女」
イルーシャ
「この度は謁見の機会を賜り、深く感謝申し上げます」
レオニス
「顔を上げよ」
イルーシャが立ち上がる。
その瞬間――イルーシャの視線が動く。
玉座ではない。王子でもない。六軍将でもない。
まっすぐに――アルトリアを見る。
アルトリアもまた、彼女を見る。
その瞬間、互いに理解する……自分と同じだと。
イルーシャの瞳がわずかに揺れる。
イルーシャ(心の中)
(見つけた)
アルトリア(心の中)
(この方が……アルゼリアの王女)
周囲の空気が変わる。
セリアはそれを見逃さなかった。
セリア(心の中)
(……なぜアルトリアを見ているの?)
イルーシャは視線をレオニスへ戻す。
イルーシャ
「この度の訪問は、両国の友好と未来について話し合うために参りました」
レオニス
「歓迎しよう」
イルーシャは再び軽く礼をする。
しかし再びアルトリアを見る。
ほんの一瞬。しかし確信に満ちた視線。
イルーシャ(心の中)
(間違いない。この人こそ世界を動かす賢者)
セリアが拳をわずかに握る。
セリア(心の中)
(……この王女、危険だわ)
王城・回廊
アルトリアが一人で歩いている。
アルトリア(心の中)
(アルゼリア王国の王女……視線が鋭かった。ただの外交ではない)
その時――背後から柔らかな声。
イルーシャ
「アルトリア子爵」
アルトリアが足を止めて振り返るそこに立っているのはイルーシャ。
翡翠の瞳が静かにアルトリアを見つめている。
アルトリア
「……王女殿下」
軽く一礼。
イルーシャ
「堅苦しい挨拶は不要です」
一歩近づく。
イルーシャ
「少し、お時間をいただけますか?」
アルトリア
「ご用件は?」
イルーシャ
「あなたの頭の中を覗いてみたくて」
アルトリア
「……?」
イルーシャは微笑む。
イルーシャ
「戦争を止めた賢者、あなたはどのように世界を見ているのかを」
アルトリア
「私はただ、この国の安定を――」
イルーシャ
「違います」
即座に否定。
イルーシャ
「あなたは、もっと大きな視野を持っている」
アルトリアの瞳がわずかに揺れる。
イルーシャ
「あなたは王になるべき器です」
空気が張り詰める。
アルトリア
「……過分なお言葉です」
イルーシャ
「いいえ」
イルーシャはさらに一歩近づく。
イルーシャ
「アルゼリアに来ませんか?」
アルトリア
「……?」
イルーシャ
「あなたの才を、より広い舞台で試してみませんか」
少し離れた柱の裏にセリアが立っている。
二人の様子を見ている。
イルーシャが距離を詰めている。セリアの瞳がゆっくり細くなる。
セリア(心の中)
(……何を言っているの)
周囲の空気が変わる。
黒いオーラが立ち上るような演出。
別の廊下からルークが歩いてきて、ふと足を止める。
ルーク
「……?」
背筋が寒くなる。
ルーク
「……この気配は」
ゆっくり振り向く。
遠くに――黒い気配をまとったセリア。
ルーク
「……まずい」
珍しく、わずかにおびえる。
ルーク
「リーナの恋より厄介だ」
回廊
イルーシャ
「あなたの未来は、この国だけに収まる器ではない」
アルトリア
「私はレグナスの臣です」
イルーシャ
「それは今は、でしょう?」
その瞬間に空気が凍る。
セリア
「……楽しそうね」
二人が同時に振り向く。
そこに立っているのはセリア。
微笑んでいるがしかし目が笑っていない。
イルーシャは冷静に観察する。
イルーシャ
「初めまして」
優雅に一礼。
セリア
「イルーシャ王女殿下」
一歩前に出てアルトリアの腕を掴む。
セリア
「何のご用かしら?」
イルーシャ
「少し未来の話を」
セリア
「未来?」
セリアの瞳が鋭くなる。
セリア
「アルトリアの未来は、レグナスにあります」
イルーシャ
「それは誰が決めるのでしょう?」
空気が完全に張り詰める。
アルトリア
「……お二人とも」
セリアはにっこり微笑む。
セリア
「アルトリア」
アルトリア
「はい?」
セリア
「用事があるわ」
腕を引く。
アルトリア
「え?」
セリア
「来なさい」
アルトリア
「え、あの――」
セリアはイルーシャを見つめたまま言う。
セリア
「客人は大切に扱います。でも……」
わずかに声を落とす。
セリア
「奪われる気はないわ」
イルーシャの瞳が細くなる。
イルーシャ
「……面白い」
セリアはアルトリアを引っ張る。
アルトリア
「姫様、あの……!」
セリア
「黙って」
そのまま歩き去る。
イルーシャは静かに見送る。
遠くでルークがため息をつく。
ルーク
「……戦争より厄介だ」
王城・セリアの私室
セリアが無言のままアルトリアの手首を掴み、歩いていく。
アルトリア
「ひ、姫様……?」
セリア
「黙って」
声は静かだが、有無を言わせぬ強さがある。
扉が閉まる。
カチリ、と静かな音。
部屋は静かで、夕暮れの光が差し込んでいる。
セリアはアルトリアの方を振り向く。
にっこりと微笑む。しかし目は真剣だ。
セリア
「そこに座って」
アルトリア
「……は、はい」
椅子に座らされる。
セリアはゆっくりと正面に立つ。
セリア
「さて」
アルトリア
「……?」
セリア
「何を話していたのかしら?」
アルトリア
「え?」
セリア
「アルゼリアの王女と」
アルトリア
「外交の話を少し――」
セリア
「少し?」
一歩近づく。
セリア
「随分距離が近かったように見えたけれど」
アルトリア
「そ、それは……」
セリアはゆっくりとアルトリアの目を覗き込む。
セリア
「アルトリア」
アルトリア
「は、はい」
セリア
「まさか」
少し間。
セリア
「本当に連れていかれる気はないわよね?」
アルトリア
「ありません」
即答。
セリアの目がわずかに揺れる。
アルトリア
「私はレグナスの臣です」
セリア
「……」
少しだけ、安堵の色。
だが、すぐに視線が鋭くなる。
セリア
「でもあの王女、あなたを気に入っている」
アルトリア
「……」
セリア
「私にはわかるわ」
沈黙。
アルトリアは立ち上がろうとする。
アルトリア
「……申し訳ありませんが、仕事が――」
セリア
「座って」
穏やかな声。だが逆らえない。
アルトリア
「……」
再び座る。
セリアはゆっくりと手を伸ばす。
アルトリアの手の上に――そっと自分の手を重ねる。温かい。
アルトリアの呼吸が止まる。
セリア
「逃げないで」
小さな声。
セリア
「私は」
アルトリアをまっすぐ見る。
セリア
「あなたがどこかへ行ってしまうのが、怖いの」
アルトリア
「……」
セリア
「イルカンに行った時も、本当は止めたかった」
指先がわずかに震えている。
セリア
「でも」
セリアは微笑む。少し寂しそうに。
セリア
「私は王女だから」
アルトリアの手を少し強く握る。
セリア
「あなたを縛る資格はない」
アルトリアは静かに答える。
アルトリア
「姫様」
セリア
「何?」
アルトリア
「私は」
一呼吸。
アルトリア
「この国を離れるつもりはありません」
セリアの瞳が揺れる。
アルトリア
「そして」
セリアを見る。
アルトリア
「あなたの心配を裏切るつもりもありません」
沈黙。
セリアの頬がわずかに赤くなる。
セリア
「……本当に?」
アルトリア
「はい」
セリアはゆっくりと微笑む。
しかしまだ少し意地悪な顔。
セリア
「なら、しばらくここにいて」
アルトリア
「え?」
セリア
「王女命令よ」
アルトリア
「……」
セリアはさらに手を重ねる。
セリア
「あなたは私の大事な賢者なんだから」
小さく。
セリア
「……そして」
ほとんど聞こえない声。
セリア
「大事な人だから」
アルトリアの心臓が強く鳴る。
外では、夕陽が沈み始めている。
アルトリア邸・書斎
机の上には外交文書が山積みになっている。
アルトリアは椅子に座り、額に手を当てている。
アルトリア
「……困ったことになったな〜」
ため息。
アルトリア
(アルゼリア王国の同盟提案……そしてイルーシャ王女の真意……政治利用される可能性もある)
静かなノック音。
コンコン。
執事
「旦那様、お客様がお見えです」
アルトリア
「こんな時間に?」
扉が開く。
そこに立っていたのは杖をついたバーンズ。
アルトリアがすぐに立ち上がる。
アルトリア
「……父上」
バーンズはゆっくりと歩み寄る。
杖をつく音が響く。
バーンズ
「ああ……」
一歩踏み出す。
バーンズ
「イタタタ……」
アルトリア
「父上!」
支えようと駆け寄る。
アルトリア
「腰の方はもう大丈夫なのですか?」
バーンズは苦笑する。
バーンズ
「ああ……杖があれば歩ける程度には回復した……」
少し腰をさする。
バーンズ
「イタタタ……」
アルトリア
「無理をなさらないでください」
バーンズ
「ハハハ……」
優しく笑う。
バーンズ
「ガルディアにいたお前が気がかりだったが、行けなかったからな……」
少し真剣な目になる。
バーンズ
「多少無理をしてでも会いに行きたかった」
沈黙。
アルトリアは静かに視線を落とす。
アルトリア
「……ご心配をおかけしました」
バーンズ
「無事に戻った。それで十分だ」
ゆっくり椅子に腰を下ろす。
バーンズ
「それで?何を悩んでいる?」
アルトリア
「……」
アルトリアは一瞬迷うが、隠さない。
アルトリア
「アルゼリア王国の王女です」
バーンズの目が鋭くなる。
バーンズ
「イルーシャ王女か」
アルトリア
「ご存じなのですか?」
バーンズ
「ああ」
杖を軽く握る。
バーンズ
「大陸屈指の才女、若くして政務を掌握していると聞く」
アルトリア
「やはり……」
バーンズ
「お前を試しに来たな」
アルトリアは黙る。
バーンズはじっと息子を見る。
バーンズ
「連れて行かれるなよ?」
アルトリア
「……父上」
バーンズ
「お前はこの国の柱だ」
少し間。
バーンズ
「そして――」
声を落とす。
バーンズ
「フィリア家の未来だ」
空気が変わる。
アルトリア
「……兄上たちのことも」
バーンズの瞳がわずかに揺れる。
バーンズ
「忘れた日はない」
重い沈黙。
バーンズ
「貴族の座は甘くない。お前が上がれば、必ず狙われる」
アルトリア
「承知しております」
バーンズ
「それでも進むか?」
アルトリアは迷わない。
アルトリア
「はい。この国を変えるために」
バーンズは静かに笑う。
バーンズ
「それでこそ、我が息子だ」
ゆっくり立ち上がる。
バーンズ
「アルゼリア王女は強敵だ。だがな……」
微笑む。
バーンズ
「賢者は一人ではない」
アルトリア
「……?」
バーンズ
「お前には、支えてくれる者がいる」
セリアの顔が脳裏に浮かぶ。イルハレム、仲間たちも。
アルトリアは静かに頷く。
アルトリア
「……はい」
バーンズは杖をつきながら扉へ向かう。
バーンズ
「無理はするな……私のようにな」
アルトリアが小さく笑う。
アルトリア
「父上こそ」
バーンズ
「ハハハ……」
扉の前で止まる。
バーンズ
「アルトリア」
振り返る。
バーンズ
「時代は動く。その中心に立て」
静かな力強さ。
アルトリアは深く一礼する。
アルトリア
「はい、父上」
書斎に一人残るアルトリア。
窓の外、夜空。
アルトリア
(政争……外交……そして王女)
ゆっくりと目を閉じる。
アルトリア
「負けるわけにはいかないな」
王城・国王執務室
重厚な扉が静かに開く。
近衛兵
「アルゼリアのイルーシャ王女です」
レオニスは机に向かっている。
レオニス
「通せ」
イルーシャが入室する。
優雅に一礼。
イルーシャ
「お時間をいただき、感謝いたします」
レオニス
「直談判とは珍しいな、王女よ」
イルーシャ
「急を要する案件にございます」
レオニスは目を細める。
レオニス
「申してみよ」
イルーシャは一歩前に出る。
静かに、しかし確信をもって。
イルーシャ
「アルトリア・フィリア子爵を……二週間、アルゼリアへ招きたいのです」
空気が変わる。
レオニスは即座に反応しない。
レオニス
「……理由は?」
イルーシャ
「王立魔導院との共同研究、軍事技術・魔導応用・経済理論、三分野の統合計画です」
レオニス
「それをなぜ、我が国の賢者に?そなたの智謀もアルトリアには引けを取らぬだろう?」
イルーシャ
「彼は唯一無二です」
一瞬の沈黙。
イルーシャ
「戦争を止めた思考回路は、国家を発展させる」
レオニス
「引き抜きか?」
イルーシャは微笑む。
イルーシャ
「いいえ。才能の交流です」
レオニスは椅子から立ち上がる。
重い声。
レオニス
「我が国の柱を、国外に出せと?」
イルーシャ
「二週間です。護衛・条約保証・身柄の安全は私が責任を持ちます」
レオニスの瞳が鋭くなる。
レオニス
「その先に何がある?」
イルーシャは視線を逸らさない。
イルーシャ
「両国の未来です」
少し間。
イルーシャ
「そして世界の均衡」
レオニスは沈黙する。
静かな圧力。
レオニス
「……」
数秒の沈黙。
やがて――
レオニス
「本人の意思を聞こう」
イルーシャの瞳がわずかに光る。
レオニス
「アルトリアを呼べ」
近衛兵
「はっ」
しばらくすると執務室の扉が開く。
アルトリアが入室する。
アルトリア
「お呼びでしょうか?陛下」
レオニス
「来たか」
イルーシャと視線が合う。
レオニス
「イルーシャ王女から提案がある」
アルトリア
「提案……?」
イルーシャが前に出る。
イルーシャ
「二週間アルゼリアへ来てください」
アルトリア
「……」
イルーシャ
「研究と視察、あなたの才を世界に触れさせたいのです」
レオニス
「どう思う?」
重い問い。
アルトリアは静かに考える。
アルトリア(心の中)
(二週間……外交的価値は高い……でも……国内の政争は動く)
アルトリアは顔を上げる。
アルトリア
「陛下、私はレグナスの臣です」
イルーシャ
「臣である前に、賢者です」
アルトリア
「賢者であるからこそ軽率には動けません」
レオニスは腕を組む。
レオニス
「二週間ならば、国内に大きな影響は出ぬ」
イルーシャ
「国王陛下のご英断を」
レオニス
「まだ決めておらん」
沈黙。
レオニスはアルトリアを見つめる。
レオニス
「行くか?」
重い問い。
アルトリアは迷わないが、軽くもない。
アルトリア
「……国家に利益があるならば」
イルーシャの口元がわずかに上がる。
レオニス
「……セリアは納得するかな?」
イルーシャの瞳が動く。
アルトリア
「……」
レオニス
「よい。一晩考えよ」
イルーシャ
「ありがとうございます」
アルトリアは深く一礼する。
執務室を出るアルトリア。イルーシャが横に並ぶ。
イルーシャ
「後悔はさせません」
アルトリア
「……」
廊下の奥でセリアが立っている。
静かに三人の視線が交差する。
イルーシャ
「二週間は短いと思われましたか?」
アルトリア
「……短くもあり、長くもあります」
イルーシャ
「どういう意味ですか?」
アルトリア
「国内が動くには十分な時間です」
イルーシャが微笑む。
イルーシャ
「優秀ですね」
「私と同じことを考えています」
その瞬間に冷たい気配。
セリア
「――アルトリア」
二人が止まる。
回廊の奥からセリアが歩いてくる。
表情は静かだが瞳は鋭い。
イルーシャは落ち着いて一礼。
イルーシャ
「セリア王女殿下」
セリア
「お話は終わったのかしら?」
アルトリア
「はい、陛下が――」
セリア
「聞いているわ」
一歩前へ。
セリア
「二週間、アルゼリアに?」
沈黙。
アルトリア
「まだ決定ではありません」
セリア
「でも行く気はあるのね」
アルトリアは視線を逸らさない。
アルトリア
「国家に利益があるなら」
セリアの瞳がわずかに揺れる。
イルーシャ
「ご安心ください。彼は無事にお返しします」
セリア
「“お返し”?」
空気が凍る。
セリア
「まるで既にあなたのもののような言い方ね」
イルーシャ
「優れた才は、どの国にとっても宝です」
セリア
「レグナスの宝よ」
イルーシャ
「世界の宝です」
二人の視線がぶつかる。
アルトリア
「……お2人共、どうか――」
セリアとイルーシャ同時に。
セリア
「黙ってて」
イルーシャ
「黙っていなさい」
アルトリア
「……」
王城・国王執務室
レオニスが一人で立っている。
窓の外を見ている。
ルークが入室する。
ロバート
「陛下」
レオニス
「聞いていたな?」
ロバート
「はい」
レオニス
「どう見る?」
ロバート
「外交としては最良です。しかし……」
レオニス
「国内が揺れるか……」
ロバート
「旧貴族派は確実に動きます」
レオニス
「それもまた試練だ」
低い声。
レオニス
「アルトリアが二週間で揺らぐなら、その程度ということだ」
ロバート
「……陛下」
レオニス
「だが……」
少し間。
レオニス
「守るべきは国だ。感情ではない」
回廊
セリアがアルトリアに近づく。
セリア
「あなたは行きたいの?」
静かな問い。
アルトリア
「……知を広げる機会ではあります」
セリア
「私の気持ちは?」
アルトリアが一瞬言葉を失う。
イルーシャは黙って見ている。
アルトリア
「私は戻ります」
セリア
「それは約束?」
アルトリア
「約束です」
セリアは数秒見つめる。
そして小さく息を吐く。
セリア
「……なら」
一歩下がる。
セリア
「行きなさい」
イルーシャの目が細くなる。
セリア
「でも覚えておいて」
アルトリアをまっすぐ見る。
セリア
「あなたの帰る場所は、ここよ」
イルーシャ
「……」
イルーシャ
「帰る場所があるからこそ、人は強くなる」
セリア
「奪うつもりは?」
イルーシャ
「奪うのではなく、選ばれるだけです」
再び火花。
アルトリア(心の中)
(本当に、戦争より難しい)
三人がそれぞれ逆方向へ歩き出す。
遠くで六軍将たちが見守る。
アレス
「修羅場だな」
バージル
「外交戦だ」
アルトリアの二週間が国の未来を左右する。
そして、アルトリアの出発の日が来た――
王都レグナリア・正門前
王都の正門前。
アルゼリア王国の豪華な馬車が待機している。
白金と翡翠の紋章が朝日に輝く。
周囲には近衛騎士、六軍将、王族、貴族たちが集まっている。
空気は張り詰めている。
アルトリアが歩いてくる。
レオニス
「……本当に行くのだな?」
アルトリア
「はい、陛下」
レオニス
「二週間だ」
アルトリア
「承知しております」
レオニス
「成果を持ち帰れ」
アルトリア
「必ず」
静かに一礼。
ルーク
「気を抜くな」
バージル
「向こうは魔導国家だ」
アレス
「喧嘩になったら呼べよ!」
ロイド
「書簡は随時送ってください」
リーナは少しだけ視線を逸らす。
リーナ
「……ご無事で」
アルトリア
「はい」
イルハレムが前に出る。
イルハレム
「従兄上」
アルトリア
「うん?」
イルハレム
「僕も必ず、従兄上の隣に立てるようになります」
アルトリアは優しく微笑む。
アルトリア
「焦らなくていい。お前はお前の道を進め」
イルハレム
「はい!」
最後にセリアが前へ出る。風が髪を揺らす。
静かにしかし強い瞳。
セリア
「二週間」
アルトリア
「はい」
セリア
「必ず帰ってくるのよ」
アルトリア
「約束です」
少し間。
セリア
「……向こうで浮気したら許さないから」
アルトリア
「え?」
周囲がわずかにざわつく。
アルトリア
「そ、そのようなことは」
セリアは小さく笑う。しかしその瞳は真剣。
セリア
「あなたはレグナスの賢者よ。そして――」
少しだけ声を落とす。
セリア
「私の大切な人」
アルトリアの表情がわずかに揺れる。
アルトリア
「……姫様」
深く一礼。
アルトリア
「必ず、この国の役に立てる成果を持ち帰ります。それが私の務めです」
馬車の側に立つイルーシャ。
静かにアルトリアを見ている。
イルーシャ
「準備は整っています」
アルトリアは馬車へ歩き出す。一歩、二歩と。
振り返る。
アルトリア
「……行って参ります」
全員が静かに頷く。
アルトリアが馬車に乗り込む。
イルーシャも続く。
扉が閉まる。
御者
「出発!」
馬車が動き出す。石畳を進む音。
王都の門がゆっくり開く。
セリアが立っている。
小さく呟く。
セリア
「……帰ってきなさい」
馬車内
イルーシャがアルトリアを見る。
イルーシャ
「後悔はさせません」
アルトリア
「期待しています」
イルーシャの瞳が光る。
王都が遠ざかる。空に広がる青。
若き賢者は再び国境を越える。
第9話 完
