Q&S 「答えの無い問いへの応答法」
◯Q & Sという言葉
この表題の問い「答えのない問いにどう答えたらいい?」に対して私は困ってしまいました。答えがないなら答えようもない。けれども問いである以上は一つの未知が残されたままなのです。これを放っておくのも...。
そこで考えた言葉が「Q & S」です。
1,必要な造語
まず申し上げて、そんな言葉はありません。
Q & Sとは
「Question(問い)& Suggestion(提案)」
という英語で安直にも私がとりあえずのところ作った言葉です。Q & A、Question(問い)とAnswer(答え)をもじっているわけですが、Q & SのSはSuggestion(提案)です。
例えば
Q,コーヒーにはカフェインが入っている?
という問いに対してQ & Aはすぐ下に答えを書けます。
Q,コーヒーにはカフェインが入っている?
A, 入っている。
「まずは結論から」というわけです。これでは説明にならないので、その後に解説を付けてより明快にしていくやり方は至るところで見かけます。さて、では次の問いはどうでしょう。
Q,世界平和は可能?
確かに二択問題といえばそうかもしれません。Q & Aの方式でも、Aの下に「解説」では無く論理的な「意見」を述べれば成立するでしょう。でもそれは果たして「答えた」ことになるのでしょうか?
こうした問題には正直なところ「答えは無い」か、「答えはいくつもある」というふうに応答するのがむしろ誠実なのではないでしょうか。しかし、それだと結局問いは妥協点で止まり、議論だけが「〜学の立場からは...」だとか、「理論の上では...」だとか、高度で専門的なものにまで成長して、言葉や数字によって少しずつ磨かれながら進んでいくことになります。そして議論が充実すれば、時々現実に部分部分応用されたりする未来もあるだろうと信じて、人はこうした議論が進むことを「生産的」と評価します。それ自体は実にもっともです。
議論が進む、これは大いにけっこう、しかしそうなると「世界平和は可能?」という「誰にでも関わりがありながら誰にも答えの出せない問題」は議論ができる一部の人たちのものになってしまいます。
Q & Sという言葉はこの「答えが出せない問い」に対する「沈黙」以外の第三の選択肢として考えました。それはいくつもある「答え」の一つでもあるような「よく議論された意見」ではなく、「議論を踏まえた上での提案」なのです。つまり、黒板の上で繰り広げられた結果を黒板の上に書き残すのではなく、その結果を現実世界に「こうしてみては?」 と案を渡すのです。だから結果はむしろまだ出ていないと言えるでしょう。案が渡され、考えられたことが行動や言動などによって実現されることで初めて結果になるのですから。要するに、Suggestionは最終的には運命のみぞ知る博打なのです。
よく考えられたAnswerは博打までは犯しません。分かることまでを述べるからです。それは厳密で生産的な議論のためにはどうしても必要なものですが、その本格的な議論と問いの間の深い溝が多くの人たちを問いの前で立ち止まらせる「沈黙」を選ばせていたのも一つの事実です。
しかし危険と裏合わせなことを忘れてはいけないこの「博打」は一つ、あらゆる人に問いに対して進む選択を与えるのです。
現代日本にこうした造語が日々生まれては消えていく様はいかにもいかがわしげで、その営みにのっかるというのも決して褒められた話ではないと思います。しかし、その現代日本において「何か主張をする」ということがどれだけ難しいことでしょうか? これだけ知識というものが細分化され専門化されてしまった世界でもはや断言は許されません。みんな、自分に言い切れるだけの意見を言わなければなりません。でもそれではあまりに狭く、細かく、入り込めば聞く人の誰もわからないような話になってしまう。それを考えるとこの「Q & S」という造語はむやみやたらに気を引くための言葉というだけのものではなく、必要な言葉であるとも思うのです。
そのため、Answerと異なりSuggestionは問いのすぐ下には置かれません。むしろもっと遠く、一番下に置かれるのです。
◯Q0,答えのない問いにどう答えるべきか?
2,何かを述べることの難しさ
あらためて考えてみます。世の中にはありとあらゆる社会問題で満ち溢れていて、それらに対して解答を持つことは究極的には専門家ですらできません。もし移民問題ということに対して言うのであるならば、「X国の〜の事情でやってくる移民たちの日本での問題」については誰にも負けないほど詳しかったとしても、その専門家は「X国」についても「〜の事情」についても「日本の移民事情」についてもそれぞれの専門家よりは詳しくないのです。まして、この重たい問題はとても「移民問題」というカテゴリだけに括られた問題でもなく、事情によっては「他国の対策」や「移民対策の歴史」、「宗教」、「民族」、「紛争事情」「経済」など、さまざまな関連することについての知識が必要で、これら全てを完全に知ってものを述べられる人というものはほとんど考えられないと言っていいでしょう。この時点で既に、古典的な枠組みである「人文学」と「社会科学」という二つの学問領域にまたがってしまっています。もし、とても厳しい要求をする人がいて、
「それでも一つの問題について述べるのならそのくらいきちんと知っていてくれなくちゃ困る」
という手厳しいことを仰ったとすれば、「きちんと」のレベルによってはやはり言わねばなりません。「それは不可能ではないのかもしれないが、しかしあまりにも難しい、」と。
3, 答えではなく提案
誰も問いに対して答えることができないのは、狭い領域を深く研究している人か、広く浅く知っている人くらいしか問いに答える人がいないことが原因でしょう。そしてどこまでいこうと、人間に知り得る領域には限界があります。
そのため、私たちは問いを絞らなくてはいけません。再び、「世界平和は可能か?」という問題に返ってみましょう。もし、Q & Aならば、私たちは様々な観点からこの問題に対して答えを出すことができました。
例えば(a)歴史から語る人は、平和と呼べる時代があって、その時の条件や、あるいは逆に平和ではない時代にあった取り除くべき原因を指摘できるでしょう。(b)政治から語る人は、(c)経済から、...という風にさまざまな分野から語ることができます。
しかし、この語り手たちはたいてい具体的な一時代のある場所、18世紀のフランスだとかそういった特殊な時代に詳しいのであって、歴史自体の学者や歴史を比較することを専門とする学者でもなければ幅広くそう深くは知らないでしょうし、歴史自体の研究や比較を専門として研究者として生きていく人はよっぽどの学識を積まなければ通用しないでしょう。繰り返すようですが、研究者として幅広くやることは本当に難しいのです。
世の中を見回してみると、学者では無い人たちの中で知識人と呼びうるような人たちはたくさんいることにも気づくでしょう。評論家や作家、報道関係者、官僚などの中にはいわゆる総合知を備えた人たちもいるかもしれませんが、そうした人たちは自身で勉強をしているのであって、きちんと何かを語り得るという人物は職務に応じた知を備えているだけでは生まれません。
というのは、幅広く何かを公に述べるために複合的な知恵を備える仕事というものが実質的に現代日本に存在していないからです。求められるのはせいぜいコメンテーターとしての仕事、或いはエンターテイメント性の強い現場で誰にでも分かるレベルにまで落とした討論を行う仕事くらいでしょう。
そうなると必要になるのは、例えば歴史から「世界平和は可能か?」という問いに対して、その議論の場の皆に高いレベルで備えた知識が、「教養」としても備えられているような現場と、この議論を半ば仕事として引き受ける人々でしょう。
そうでなければ、私たちは専門家や実際的な現場で働く知識人の自主努力にまかせきりの議論を頼りにしなくてはならないのです。
とすればまずは、「教養」という言葉の意味を考えるべきです。(1)誰が (2)何を (3)どのくらい知っているべきなのかです。
◯S0,教養人を職業化してみては
4,「教養」とは何か
「教養」とは何か。これはこれでまた深く掘り下げられてしまうテーマです。古くは古代ギリシアから伝えられ、今に至るまでに随分形を変えてしまったものです。しかしそれをここで触れることは長くなるのでしないようにします。
これまでの話を引き継ぐのなら、「教養」とは、専門家のものほど狭く深くなく、議論をしている人々の自主努力よりも体系的な知恵のことを言います。
大学の学部を卒業すると、就職か大学院への進学かという二種の道に進むのが一般的だと思います。就職の道から教養人を養成することも考えたいですが、今私の思うところの「S(提案)」は、大学を出る人の研究者養成以外の進学の道をつくってみてもよいのでは、ということです。
例えば、先に述べたように「世界平和は可能か」という問いに対して歴史からものを述べる人がいましたが、きっとこの人にはもっと知るべきことがたくさんあります。それは軸を歴史と定めた上で、世界についての知恵が必要ですから、(1)法の制度や(2)宗教知識、(3)経済の動き、(4)地政学などは、必須知識として修めるべきでしょう。
或いはむしろ宗教知識からものを述べるという人は「世界平和」という問いを理念的に捉えるでしょうからそれを軸としながらも(1)哲学や(2)文学、そしてその宗教争いが引き起こされるメカニズムを知るための(3)歴史や(4)社会学にも通じている必要がありそうです。
宗教知識人に対しては例えば科学知識が必要ではないかという意見もあるかもしれません。しかし、私がここで挙げたような必須の他分野というのは高校までの学習過程を超えた知識です。むしろ、何かに対して無知であるというような調和の取れていない状態は高校までの間、或いは大学の学部段階で克服している必要があります。よほど専門的なレベルでもなければ、この教養人たちには、科学者だからと言って文学や宗教知識をおざなりにすることも、文学者だからと言って数学や科学の知識をおざなりにすることもして欲しくはないものです。
しかし、そこで課題となるのが、何より学生への負担です。まずもって今のように文系理系に分かれて問題としては非常に高度な知恵、というか知恵を用いる技術が求められる受験中心的な教育制度では成立しないでしょう。既に今でも学生たちはいっぱいいっぱいです。それは、彼らの努力不足というよりは年々負担の増えるカリキュラムと、学生生活の最後に待つ入学試験の結果が常に進路を左右するという、ずっと走らされる仕組みのせいだろうと思います。
従来の制度を変更するかどうかはともかくとしても、新たに教養人を養成することを視野に入れた道を考えるのならば、限られた教科を徹底的に鍛え上げるのではなく、あらゆることに対して無知ではないところまで鍛え上げればそれで良しとするべきでしょう。そうでもなければ、あまりに学生たちが勉強一極集中となって、運動や遊びなどを通して調和を保つべき人格に歪みが生まれてしまいます。高校生までは勉強と部活しかせず、大学生からほとんど遊び倒すというのはよくある話ですが、もっとバランスよくはできないものかと思います。高校生にしか楽しめない遊びも、大学生になって楽しくなる勉強も両方あると思います。それに何より、「教養人」の元々の役割は均整のとれた判断力と議論を通した、より総合的な意見をもつ、一言で言えば「しっかりした人」です。そうなれば、よく言われることですが、「勉強だけしてきたような人」になってしまうと、大切な「均整」が崩れてガリ勉や遊び人といったちょっと不安な人に任せることになってしまいます。
5, 最後に
中々荒削りな「提案」ですが、ここであれこれ述べすぎるのも難しいですから、この辺にしておきます。
しかし、Q & Sの試運転としては一つの意義を示せていたら嬉しいです。「教養人」という新たな一つのポストを想像にとどまらず「提案」するとなれば、「あくまで考えなのですが...」という風に遠慮がちに断りを入れる必要もないですし、「確かに考えとしては...」という風にうやむやに受け取られることもなく、ある種批判などは上等と勇気をもってひとまず考えを述べることができます。
将棋でもチェスでも、自分の無知をとがめられるのを恐れて対人でゲームをするのを恐れていては成長はないものです。「提案」する以上は、とんでもない見落としもあるかもしれません。しかし、それが「Answer答え」でない以上は、ある意味ではそれほどの責任を持たなくてもよく、どこか軽いのです。それは受け取る側も、見落としを拾った上で、「こんなデタラメなアイデア出してくるなんて...」と人に対して刃を向けるのではなく、「これをこうして見たら使えるかもしれない」という風に常に改善と創造的な生産の方向を向いて、「面白い」と議論を活性化させる感性をもつ余裕が生まれるのではないかと思います。
さて、こうして
Q,問いのない答えにどう答えれば良いか?
に対して
S,教養人を養成する道を用意してみては?
という提案を考えてみたわけですが、この提案を提案のままにしていてももったいないです。実は、Q & Sは両輪の内の片方として考えていました。私はこのSから始めて、また更なるQ問いに立ち戻る循環する営みの生産的な構造を考えていました。その次の段階の話、もう一方の車輪の話はまた次に回したいと思います。
