『銀座の雨』 連続投稿100日目 特別作品
序章 プレリュード
雨の銀座は嫌いではない。
四丁目交差点の信号が赤に変わり、人の流れが止まる。
色とりどりの傘が開く中で、私はひとつの白い傘を見つけた。
傘の下には一人の女性がいる。
長い髪。
白いワンピース。
雨粒を避けるようにではなく、雨そのものを受け入れるように歩く姿が印象的だった。
彼女はまだ私に気づいていない。
いや、気づかなくていいのかもしれない。
私は信号の向こう側から、その姿を静かに見ていた。
和光の時計台が雨に霞んでいる。
銀座の雨は不思議だ。
地方の雨とも違う。
都会の雨とも少し違う。
石畳やショーウィンドウに落ちた雨粒が、まるで街全体を磨き上げているように見える。
私は五十歳を過ぎた。
若い頃のように、誰かを追いかけて走ることもなくなった。
それでも雨の日だけは、過去が少し近くなる。
二十数年前。
私はこの街でアルバイトをしていた。
銀座三丁目。
王子ホール。
三百四十五席の小さな室内楽ホールだった。
演奏会の日になると、銀座の仕立て屋が作ったタキシードを着て客を迎えた。
ドアマンの日は、袖のないマントのようなコートを羽織った。
らせん階段を上る女性客の後ろを歩いてはいけない。
ノベルティは品物ではなく気持ちとして渡せ。
そんなことを先輩から教わった。
音大生だった私にとって、それは接客の勉強というより、美しい振る舞いの授業だった。
あの頃の私は、まさか半生を過ぎてから一人の女性をモデルに小説を書くことになるとは思っていなかった。
まして、その舞台が再び銀座になるとは。
信号が青になる。
白い傘がゆっくりと動き始めた。
彼女はどこへ向かうのだろう。
数寄屋橋だろうか。
一丁目だろうか。
それとも私の知らない道だろうか。
私は傘を開いた。
そして少し遅れて歩き出す。
雨の向こうから、遠い日のモーツァルトが聞こえた気がした。
物語は、そこから始まる。
第一楽章 Allegro
クリスマスの銀座
クリスマスの銀座には独特の匂いがあった。
雨上がりの舗道。
ショーウィンドウの照明。
香水。
コーヒー。
そして、人々の幸福。
少なくとも、当時の私にはそう見えた。
十二月二十四日。
音楽大学二年生だった私は、王子ホールの控室で蝶ネクタイを締め直していた。
鏡の前には、同じアルバイト仲間たちが並んでいる。
「おい、曲がってるぞ」
「どこ?」
「全部だ」
そんなやり取りに笑いが起きる。
皆、二十歳前後だった。
クラシック音楽は好きだったが、ネクタイを締めることには慣れていなかった。
ましてタキシードなど着る機会はそうない。
しかし王子ホールは違った。
制服は銀座の仕立て屋が作った本格的なものだった。
黒い生地は重く、立っているだけで背筋が伸びた。
その日、ホールは満席だった。
ロビーにはクリスマス用の装飾が施され、特別な軽食も用意されている。
来場者たちは皆どこか華やかだった。
夫婦。
恋人。
家族。
演奏会が始まる前から、街全体が祝福されているように見えた。
私は入口でチケットを確認しながら思った。
――銀座という街は別世界だ。
私には、そう感じられた。
開演ベルが鳴る。
客席の灯りが落ちる。
ホールの扉が静かに閉まる。
そして音楽が始まる。
私がこの仕事を好きだった理由は、給料ではなかった。
音だった。
演奏会のたびに違う作曲家が現れる。
違う指揮者が現れる。
違う人生が現れる。
音楽大学の学生だった私にとって、それは何よりの勉強だった。
だからモーツァルトの交響曲第四十一番が演奏される日、私は自分から希望を出した。
「室内係をやりたいです」
先輩は笑った。
「聴きたいだけだろ」
図星だった。
私は否定しなかった。
その日の後半。
客席最後方の壁際に立ちながら、私はモーツァルトを聴いていた。
ジュピター。
ハ長調。
透明なのに力強い。
優雅なのに揺るがない。
終楽章が始まる。
幾つもの旋律が現れては重なり、離れ、再び結びつく。
私は仕事中であることを忘れそうになった。
いや、実際には半分忘れていた。
給料をもらいながら聴くには贅沢すぎる音楽だった。
終演後。
ロビーに明かりが戻る。
拍手が鳴り止む。
客たちは満足そうな顔で帰っていく。
私は出口で頭を下げ続けた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
その言葉を何百回も繰り返した。
けれど不思議なことに、疲れはなかった。
若かったのだと思う。
あるいは音楽が栄養だったのかもしれない。
問題は、その後だった。
女子スタッフたちは、終演と同時に消えた。
「お疲れさまでしたー!」
という声だけを残して。
おそらく待ち合わせだろう。
恋人だろう。
クリスマスだ。
それは当然だった。
残されたのは男だけだった。
私たちは顔を見合わせた。
そして誰からともなく言った。
「腹減ったな」
「減ったな」
「彼女いねえしな」
「いねえな」
銀座の夜風は冷たかった。
私たちは笑いながら街を歩いた。
幸福そうな恋人たちの間を縫うようにして。
第二楽章 Adagio
雨の交差点
雨の日の銀座は歩く速度が少し遅くなる。
誰も急いでいないわけではない。
傘が人と人との距離を広げるのだ。
四丁目交差点で信号を待ちながら、私はそんなことを考えていた。
六月の終わりだった。
空は低く垂れ込めている。
和光の時計台も輪郭が柔らかい。
私は昔のように急いで歩かなくなった。
五十年も生きていると、人生には急いでも間に合わないものがあることを知る。
反対に、待っていれば自然に訪れるものがあることも知る。
その日、私は一人の女性を思い出していた。
いや。
思い出していたのではない。
考えていた。
スカートよりワンピースが好きだとも言った。
銀座にはよく来るらしい。
それだけの情報だった。
それだけなのに、雨の銀座を見るたびに私は彼女を思い浮かべてしまう。
不思議なものだ。
昔なら顔を思い出しただろう。
今は違う。
歩き方を思い出す。
言葉の選び方を思い出す。
文章の温度を思い出す。
人を好きになるということは、顔を覚えることではなく、その人の時間の流れ方を覚えることなのかもしれない。
信号の向こうに白い傘が見えた。
長い髪が風に揺れる。
もちろん彼女ではない。
そんな偶然があるはずもない。
それでも私は少しだけ目で追った。
傘の下の女性は迷いなく歩いていた。
その姿を見ながら、私は彼女が語った過去を思い出していた。
結婚。
離婚。
酒。
暴力。
人生は時々、人を必要以上に傷つける。
それでも彼女は芸術を捨てなかった。
音楽を捨てなかった。
雨の夜にホロヴィッツを聴いて涙を流す心を失わなかった。
それは強さだと思った。
私はベートーヴェンを愛している。
彼女はラフマニノフを愛している。
作曲家も国も時代も違う。
けれど音楽が人を救うということだけは同じだった。
信号が青に変わる。
人々が一斉に歩き始める。
右へ向かう人。
左へ向かう人。
晴海通りへ向かう人。
数寄屋橋へ向かう人。
誰もが自分の行き先を知っている。
私は少しだけ立ち止まった。
そして思う。
彼女はいま、どこを歩いているのだろう。
雨は静かに降り続いていた。
第三楽章 Scherzo
ラフマニノフ談義
彼女と知り合ったのはnoteだった。
最初は音楽の話ではなかった。
文章だった。
私の書いたものを彼女が読み、彼女の書いたものを私が読む。
ただそれだけだった。
ところが人間というものは不思議だ。
文章の奥には、その人が隠れている。
やがて私たちは芸術の話をするようになった。
文学。
絵画。
音楽。
そしてクラシック。
私が、
「周りにクラシックの話ができる人がほとんどいないんです」
と書くと、
彼女はこう返した。
「私もです」
その短い一文が妙に嬉しかった。
私はベートーヴェンが好きだった。
とりわけ後期作品が好きだった。
英雄的な部分よりも、静かに祈るような部分が好きだった。
その話をすると、
彼女は言った。
「私はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が好きです」
私は思わず笑った。
ラフマニノフの協奏曲を語る人はいる。
しかし番号まで指定してくる人は少ない。
そこで私は書いた。
「ラフコンって、二番派と三番派に分かれますよね」
しばらくして返事が来た。
私は続けた。
「統一感なら二番。
不可解さなら三番。
私は三番が好きです。
でも、一番の地を這うようなロシア的な感じも好きなんです」
その文章を送ったあと、
少しだけ不安になった。
語りすぎたかもしれないと思った。
ところが彼女の返事は予想外だった。
「私も一番が好きですよ」
私は思わず画面を見直した。
一番だった。
二番でも三番でもなく。
一番だった。
私は妙に可笑しくなった。
クラシック音楽という広い海の中で、
そんな場所に立っている人はあまり多くない。
その日から会話は加速した。
好きな演奏家の話になった。
彼女が尋ねる。
「今、一番好きなピアニストは誰ですか?」
私は少し考えた。
そして答えた。
「ブロンフマンです」
返事はすぐに来た。
「ブロンフマンもご存じなんですね」
その『も』という一文字が面白かった。
まるで秘密結社の合言葉みたいだった。
私たちはしばらく演奏家の話をした。
ホロヴィッツ。
ラフマニノフ。
ベートーヴェン。
彼女はホロヴィッツが弾く後期ソナタの緩徐楽章について語った。
私は月光ソナタの話をした。
「涙が出る感覚が少し分かる気がします」
その言葉を読んだとき、
私は説明できない安心感を覚えた。
音楽を理解する人はいる。
分析する人もいる。
だが、
涙が出る理由を説明しようとしない人は少ない。
彼女はそちら側の人だった。
音楽の前で沈黙できる人だった。
だから私は思った。
この人を題材に小説を書いてみたい、と。
少し考えたあと、
私はそのまま尋ねた。
「あなたをモデルに小説を書いてもいいですか?」
返事が来るまでの時間が、妙に長く感じられた。
そして画面に現れたのは、
短い肯定の言葉だった。
雨音のように静かな、
しかし確かな許可だった。
第四楽章 Finale
ジュピターの空
小説の題名を考えていた。
銀座の雨。
それが最初に浮かんだ言葉だった。
彼女にそう伝えると、
「読んでみたいです」
と返事が来た。
私は少し驚いた。
題名しか決まっていない。
まだ何も書いていない。
それなのに彼女は、完成前の物語を楽しみにしてくれていた。
それは作家にとって幸福なことだった。
ある日、私は彼女に尋ねた。
好きな季節。
好きな色。
好きな服装。
取材のようなものだった。
彼女は笑いながら答えてくれた。
春夏が好き。
白や柔らかい色が好き。
スカートよりワンピース。
私はメモを取りながら思った。
小説というものは不思議だ。
人を創作するために話を聞いているのに、
気がつけば、その人自身のことをもっと知りたくなっている。
銀座の雨。
四丁目交差点。
白い傘。
白のワンピース。
そんな情景が頭の中に浮かんだ。
私は冒頭を口にした。
「四丁目交差点。
雨の中をワンピース姿の女性が颯爽と歩いていた――」
すると彼女は言った。
「凄い」
たった二文字だった。
しかしその二文字は、
若い頃に受け取ったどんな賞賛より嬉しかった。
学生時代。
私は王子ホールでモーツァルトを聴いていた。
クリスマスの夜。
男ばかりでミキモトのツリーの前に立っていた。
あの頃の私は、
人生とは前へ進むものだと思っていた。
けれど五十年も生きると分かる。
人生は前へ進むだけではない。
時々、昔の旋律が戻ってくる。
忘れたと思っていた主題が再び現れる。
そして別の主題と重なり合う。
モーツァルトの四十一番の終楽章のように。
音楽。
銀座。
雨。
青春。
そして一人の女性。
まるで無関係に見えた旋律が、
いつの間にか一つの楽章を作っている。
窓の外を見る。
雨は小降りになっていた。
雲の切れ間から光が差している。
私は机の上の原稿を見つめた。
まだ終わっていない。
書かなければならない。
銀座の雨を。
あの日のクリスマスを。
モーツァルトを。
彼女を。
そして私自身を。
遠くで雷鳴が聞こえた。
しかし空はもう明るい。
雨は終わりかけていた。
私は静かにパソコンを開いた。
カーソルが白い画面の上で点滅している。
まるで指揮者のタクトのように。
第一音はまだ鳴っていない。
