触れられない正義 紙の交響曲第五番 創作大賞2026
著者 天音 翔
序章 「新宿駅の立ち止まり」
新宿駅の朝は、音が濃すぎる。
ビルに跳ね返ったざわめきが膨張し、
空気の粒を押しつぶしながら流れていく。
歪んだアナウンス。
無数の足音。
その濁った音の中を、僕は歩いていた。
福祉職としての一日が始まる前の、ただの移動時間。
──そう思っていた。
「女子トイレをなくす署名を、お願いします」
差し出されたクリップボード。
すでに多くの名前が並び、
中央には大きく「女子トイレ廃止」の文字。
次の瞬間、
胸の奥で“社会の正義”と“身体の本能”が衝突した。
誰も差別したくない。
誰かの尊厳を軽く扱いたくない。
福祉職としての姿勢も、
多様性に寄り添う気持ちも、嘘ではない。
それでも、
身体が先に反応した。
思想よりも早く、
皮膚がわずかに縮む。
恥でも拒絶でもない。
ただ、
“境界の痛み”。
たとえば銭湯。
マット交換のために、
年配の女性が入ってくるだけで、身体がこわばる。
裸のとき、人は思想家ではいられない。
ただの動物へ戻る。
その場所から“性別”の線を取り払うという提案。
正義の名をまとった、鋭すぎる要求だった。
理念と身体が、
雑踏の真ん中で軋む。
署名を断る。
相手の眉が、ほんのわずか動いた。
その微細な揺れが、胸に刺さる。
──僕はいま、差別したのだろうか。
問いが、深い場所を揺らした。
歩き出しても、足取りは定まらない。
周囲はいつも通りなのに、
僕だけが静止しているようだった。
僕はクリスチャンだ。
パウロ書簡には、否定の言葉がある。
一方で、フランシスコ教皇は語る。
「同性愛者にも、神に愛される権利がある」
信仰は愛を示し、
教義は否定を要求し、
福祉は受容を求め、
身体は怯える。
四つの声が同時に鳴る。
そのとき、
胸の奥で何かが崩れた。
──僕は誰を守り、何を信じて生きるのか。
クリップボードは、
“正義”という光を差し出しているようで、
その実、
触れられない正義
を突きつけていた。
胸の奥で、
長く沈黙していた旋律が、
ゆっくりと音になりはじめる。
第1楽章
「ロリータの影」Allegro agitato
新宿駅での立ち止まりは、
その場で終わらなかった。
人波に戻っても、
胸のざわつきは消えない。
電車に乗っても、地上に出ても、
震えだけが細く続いていた。
群衆の足音が世界を揺らし、
遠くの泣き声が身体を貫く。
正義という言葉が、
これほど“音”として響くとは思わなかった。
◆
ホームに立ったとき、
ひとつの映像が浮かぶ。
──『ロリータ』。
美しさと罪の匂いが、湿度のようにまとわりつく。
あの作品に触れたとき、僕は知った。
美しいものは、必ずしも善ではない。
美の奥に沈む罪。
罪の奥に沈む孤独。
その構造は、ずっと消えずに残っている。
なぜ、あの瞬間に思い出したのか。
答えは単純だった。
僕はいつも、
倫理や欲望を考えるとき、
“影”へ引きずられてしまう。
そしてそれは、
正義が最も強く裁こうとする影でもある。
◆
美しいものの内部には、必ず影が沈んでいる。
宗教音楽を学んだとき、
その事実に触れた。
バッハもヘンデルも、
祈りの音楽を生みながら、
権力の中で生きていた。
荘厳な旋律は祈りであると同時に、
教会という権威の装飾でもあった。
禁欲を求められた存在。
だが人間は、完全には禁欲できない。
抑圧は、必ず歪みを生む。
清らかな少年の声。
その純粋さが利用された歴史。
美しい旋律の背後に、
欲望と沈黙が潜んでいた。
光だけで、美は成立しない。
影が、その形を支えている。
だから僕は、
美しいものほど、その裏側を見る。
◆
電車が動き出す。
揺れが、そのまま胸のざわつきと重なる。
もし、僕自身が
影を抱えた存在だったとしたら。
行動に移さなくても、
誰も傷つけなくても、
内側にだけ生じてしまった影。
それでも社会は、
存在ごと裁くのだろうか。
福祉職としての僕は、
それを許さない側に立つ。
信仰は、
欲望そのものを罪と呼ぶかもしれない。
では、僕はどこで呼吸すればいい。
行為ではなく、
存在そのものが否定されるとき、
正義は、
どこまで人を切り捨てるのか。
◆
窓に映る顔が、
少年の頃の自分に重なる。
音が怖かった。
視線が痛かった。
身体が世界に追いつかなかった。
だから僕は、
弱さを抱える子どもたちのそばに立った。
守られる側から、守る側へ。
だが、
影は消えなかった。
◆
駅を出る。
夕陽が壁に斜めに刺さる。
光が強いほど、
影は濃く伸びる。
新宿駅の署名。
『ロリータ』の記憶。
宗教の影。
少年の頃の自分。
すべてが、同じ場所で重なっていた。
子どもを守ること。
影を抱える存在を否定しすぎないこと。
信仰は愛を語り、
教義は否定を求める。
その衝突の中に、
僕の輪郭がある。
行為が誤っていても、
存在まで罪にしていいのか。
◆
胸の奥の影は、消えない。
ただ、静かにそこにある。
触れてはいけないと知りながら、
それでも触れたくなる。
なぜなら──
影こそが、
人間の輪郭だからだ。
第2楽章
「沈黙の信仰」Andante sosutenuto
新宿駅のざわつきを残したまま、
僕は教会の前で足を止めた。
石造りの壁に反射する光は柔らかく、
どこか現実から切り離された静けさがあった。
その静けさが、かえって胸に痛みを落とす。
チャイコフスキーの旋律を思い出した。
美しい音の奥に、
言葉にならない影が沈んでいる。
光が強いほど、影は濃くなる。
信仰もまた、同じ構造なのではないか。
そう思いながら、扉に手をかける。
──信仰は光なのか。
それとも、光の形をした影なのか。
◆
祭壇の前に座る。
パイプオルガンの残響が、
空気の底でまだ揺れていた。
低音が床を伝い、胸の奥に触れる。
「同性愛者にも、神に愛される権利がある」
その言葉が浮かぶ。
沈黙を破るような、柔らかな一打。
だが同時に、
否定の言葉も消えない。
救いと裁き。
赦しと禁忌。
同じ信仰の中に、
両極が並んでいる。
◆
目を閉じる。
この揺れは、僕だけのものではない。
信仰は、長い時間の中で
光と影を抱えてきた。
正義とされたもの。
救いと信じられたもの。
だがその中で、
多くの人が傷ついてきた。
光が強すぎると、
影は歪む。
長いあいだ、
その影は見られないままだった。
それでも人は、
ようやくそれを見ようとし始めている。
影を見なければ、
光もまた歪む。
信仰とは、
その両方を抱えたまま歩くことなのかもしれない。
◆
ステンドグラスを見上げる。
青い光が差し込み、
床に揺れる模様を落とす。
静かで、澄んでいて、
どこか哀しみを含んだ光。
あの新宿駅のざわめきも、
影を考えたときの痛みも、
すべて同じ場所へとつながっている。
光に触れたい。
だが、触れきれない。
信仰の光は、
現実に照らされた瞬間、
影を伴ってしまう。
◆
聖書を開く。
言葉は正しい。
だが、痛みも消えない。
赦しを語る光。
禁忌を示す影。
そのあいだで、僕は揺れる。
誰も否定したくない。
それでも身体は反応し、
信仰は境界を求める。
この揺れを、どう抱えるのか。
チャイコフスキーが
その矛盾を旋律に変えたように、
僕もまた、
この揺れを言葉にするしかない。
◆
僕は目を閉じる。
祈る。
神よ、
この光と影のあいだで、
僕はどう生きればいいのですか。
答えは返らない。
祈りは、
静かに空気へ溶けていく。
最後の和音を置かずに消える旋律のように。
第3楽章
Scherzo:混沌の三拍子
朝の通園時間は、
三拍子のように乱れて始まる。
一拍目──泣き声。
二拍目──走る足音。
三拍目──保護者の焦り。
軽やかなはずのリズムの裏で、
子どもたちの影が、それぞれ違う方向へ揺れている。
「先生、あの子、また叩いている!」
声が飛ぶ。
僕は駆け寄り、
子どもの手をそっと包む。
衝動ではない。
言葉にできない不安が、
身体の先で暴れているだけだ。
椅子が倒れる。
足音が走る。
三拍子は速度を増し、
ここはもう、
“優しさの場”ではいられない。
生きようとする影たちの交差点になる。
◆
子どもたちの“性の揺れ”も、
このリズムの中にある。
「女の子になりたい」
「男の子にドキドキする」
「どうして僕はこうなの?」
否定すれば傷つき、
受容すれば別の子が不安になる。
理念も教義も、ここでは遅い。
現場には、
“現場だけの倫理”がある。
僕は呼吸を整える。
リズムを崩さないために。
それが、
ここで立ち続ける唯一の方法だった。
◆
午後。
ひとりの少年が、
水のタライに手を浸している。
朝の混沌が嘘のように静かだった。
指先が、水面をなぞる。
「きれい……こわくない」
その言葉に、
どれほどの影が隠れているのか。
光に浮かぶ顔は美しく、
どこか壊れそうだった。
その一瞬は、祈りに近い。
だが、長くは続かない。
◆
「先生、保護者の方が来ています!」
呼び声で、静寂は断ち切られる。
現実が戻ってくる。
家庭の事情。
怒り。
涙。
制度の壁。
影が影を押しつぶし、
子どもを守る正義と、
保護者を守る倫理がぶつかる。
三拍子はさらに速くなる。
ここに“冗談”はない。
あるのは、
冗談の顔をした現実だけだ。
◆
子どもたちが成長するにつれ、
影は輪郭を持ちはじめる。
身体だけが先に進み、
心が追いつかない。
距離がわからない。
衝動が扱えない。
そして、結果だけが残る。
事情は、見られない。
影を抱えた子ほど、
最初に排除される。
◆
ある日、
ひとりの子が近づいてきた。
ためらいながら、
それでも確かに助けを求めていた。
「それは、大人に近づいている証拠だよ」
彼の肩が、少し下がる。
「恥ずかしいことじゃない」
さらに、力が抜ける。
「でもね、場所は選ぼう」
安心できる場所で。
誰も傷つけない形で。
それが、
自分を守るということだ。
彼はうなずく。
叱責でも、正論でもない。
ただ、
“間違いではない”と伝えること。
それだけで、
人は少しだけ呼吸できる。
「話してくれてありがとう」
その言葉を受け取ったとき、
彼の中の何かがほどけた気がした。
◆
影を抱えた子ほど、
最も支援を必要とする瞬間に、
社会は沈黙する。
性は罪とされ、
存在は裁かれ、
居場所が消えていく。
正義は、そこに触れない。
誰も傷つけない正しさなど、存在しない。
それでも僕は、
このリズムの中に立つ。
崩れないように。
次の一拍が、
誰かを救うことを願いながら。
Con attacca──間奏曲
夕方の施設は、
昼の騒がしさを吸い込んだあとの
大きな呼吸のように静まり返っていた。
椅子の戻る音。
アルコールの匂い。
遠くのエンジン音。
どれも日常のはずなのに、
今日は胸の奥に沈んでいく。
第三楽章の残響。
泣き声。
走る足音。
ぶつかる影。
相談に来た子の、震えた手。
誰も悪くないのに生まれた結果。
それらが、まだ身体に残っている。
報告書を書き終え、ペンを置く。
胸の奥に、鈍い痛みが残る。
理念は美しい。
だが現場に置かれた瞬間、
その線は歪み、別の音を鳴らす。
福祉も、信仰も、社会も、
影を見ないことで形を保っている。
だが影は、消えない。
名前を与えられなくても、
そこに在り続ける。
影を見ないという選択は、
最も弱い存在を置き去りにする。
だから、胸が軋む。
風が吹き、カーテンが揺れる。
それは、
次の楽章の前に置かれた溜息のようだった。
音が、変わる。
混沌は遠ざかり、
静かな問いだけが残る。
──正義とは何なのか。
──僕はどこへ向かうのか。
答えは出ない。
ただ、問いだけが残る。
その問いを抱えたまま、
僕は次の一歩へ進む。
Con attacca──第4楽章へ。
第4楽章
Adagio:正義の沈黙
夜の施設は、
昼の残響をすべて飲み込んだように静かだった。
消えたはずの気配だけが、
机の上に残っている。
泣き声。
衝突する影。
支えきれなかったもの。
すべてが形を失い、
胸の奥でかすかに鳴り続けている。
目を閉じる。
正義という言葉が浮かんだ瞬間、
胸に細いひびが入る。
──今日、正義は誰を救ったのか。
救ったつもりで、
救えなかった子の顔が浮かぶ。
守ったのか。
それとも、
ただルールを押しつけただけなのか。
影は消えない。
消してはならない。
だが社会は、
影を見ないことで静けさを保とうとする。
教義も、法律も、理念も、
影の前では脆い。
正義という言葉が、
なぜこんなにも冷たいのか。
静けさの底で、
問いだけが残る。
──僕はどこに立っているのか。
信仰と現場のあいだで、
何かが静かに沈んでいく。
怒りでも絶望でもない。
ただ、沈む音。
新宿駅の記憶がよみがえる。
あの朝の問いは、まだ終わっていなかった。
あの声。
あの紙。
正義を名乗る言葉の影で、
どれだけの痛みが切り捨てられていたのか。
正義は、
名乗った瞬間に誰かを傷つけるのかもしれない。
それでも僕は、
光を見上げる。
影を抱えたままでも。
それが、
この仕事を続けてきた理由だった。
胸の奥で、何かが震える。
守る言葉が、
誰かには刃になる。
寄り添う態度が、
誰かを追い詰める。
その重さは、消えない。
信仰は、僕を支えてきた。
だが同時に、誰かとのあいだに線を引く。
理念は美しい。
それでも現場では、
その線が、誰かを外してしまう。
これは、僕自身の影だ。
避けられない。
影を抱えたまま、
僕は立ち続けている。
信仰と福祉。
光と影。
理念と身体。
それらは、
同じ場所で共存できるのか。
風が強まり、
夜の静けさを揺らす。
世界の方が、先に動き出す。
胸の奥の問いが、形を持ち始める。
──僕は、どちらの正義を選ぶのか。
光か。
影か。
それとも、
そのあいだか。
その瞬間、
胸の奥で、音がした。
静けさが、割れた。
《移行部:Adagio → Molto agitato》
携帯が震える。
夜の底を裂く、小さな音。
画面を見る。
現場だ。
胸の奥のざわめきが、
はっきりと鼓動になる。
光でも影でもない。
ただ、現実。
昼の混沌が戻ってくる。
影がぶつかり、
理念が裂ける。
優しささえ、誰かを傷つける。
それでも──
僕は、一歩踏み出す。
音の方へ。
──Molto agitato。
終章 Reprise:新宿駅、境界の上で
新宿駅の朝は、あの日と同じ音をしていた。
ビルに反射するざわめき。
歪んだアナウンス。
無数の足音が、空気を押し流していく。
違うのは、僕だけだった。
人の流れの中で、
僕はもう立ち止まらなかった。
歩きながら、
それでも確かに、世界の輪郭を感じていた。
──あの場所だ。
視線の先に、あの日と同じ光景があった。
クリップボード。
差し出される手。
「女子トイレをなくす署名を、お願いします」
同じ言葉。
同じ構図。
だが、胸の奥で鳴る音は、もう違っていた。
正しさに対する恐れでも、
拒絶でもない。
揺れは残っている。
消えることはない。
それでも、
その揺れごと抱えたまま、
僕はその場に立っていた。
差し出された紙を、受け取る。
そこに並ぶ無数の名前。
“正義”の形をした文字たち。
かつては、その光に触れることが怖かった。
だが今は、
光の奥にある影も、
はっきりと見えていた。
顔を上げる。
目の前にいるのは、
“正義を信じている誰か”
だった。
かつての僕と、何も変わらない。
そのことが、静かに胸に落ちる。
署名をすることも、
拒むこともできた。
だが、僕はペンを取らなかった。
代わりに、
ほんのわずか、前へ踏み出す。
「少し、話をしてもいいですか」
言葉は小さかった。
だが、確かに自分の中から出た声だった。
ざわめきの中で、
空気がわずかに変わる。
相手の表情が、わずかに揺れる。
正しさと正しさが、ぶつかる場所。
光と影が、同時に存在する場所。
そこに、僕は立っていた。
誰かを否定することもなく、
誰かに従うこともなく、
ただ、
境界の上に。
胸の奥で、静かな音が鳴る。
それは決意ではない。
救いでもない。
ただ、
“在る”ということの音だった。
人の流れは止まらない。
世界は変わらない。
それでも、
この一歩だけは、
確かに僕自身のものだった。
新宿駅の雑踏の中で、
僕はもう、立ち止まってはいなかった。
揺れながら、
それでも歩き続けていた。
──Con fine.
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