天を繋ぐ者たち 創生の旅路 第16話
第16話 天に触れた日 ― 雨を呼ぶ者
ワイルドドッグの襲撃から、いくつかの月が昇った。
あの日以来、群れを脅かす大きな危険は訪れていない。
風はいつものように草原を渡り、
朝は鳥の声とともに始まり、
夜は焚火の火が静かに揺れていた。
そして、群れの暮らしは少しずつ変わっていた。
住居は、輪の形をとるようになっていた。
地面を踏み固め、枝を組み、草を重ねて作った住居が、
円を描くように並んでいる。
人々はそれを、
ただ自然に――
まるで昔からそうであったかのように使っていた。

その円の中心には、
クニトコタチとミツハの住居があった。
そこには、ミナハ、そして生まれたばかりのツクヨがいる。
その周りを囲むように、それぞれの住居が配置されていた。
タケリの住居には、成人した男と女が集まり、力仕事を担う者たちが暮らしていた。
ミヨミの住居には、狩りに長けた男たちと、それを支える女たち。
トヨクモノの住居には、成人の女たちと、多くの季節を生きてきた初老の女たちがいた。
イシキの住居には、成人の男たちと、静かな目をした初老の男たち。
サハの住居には、母と妹。
アマナギの住居には、成人の男と女。
サクヤの住居には、若い女たちが暮らしていた。
そして、老いた夫婦の住居。
全部で八つの住居が、
静かに円を描いていた。
それは偶然ではなかった。
ミツハが、そう考えたのだ。
なるべく、血の近い男女を離す。
同じ住居に集めない。
誰もその理由を言葉では知らなかったが、
ミツハは感じていた。
血が近いと、命は弱くなる。
遠い血が交わると、命は強くなる。
それは長い年月の中で、彼女の身体が覚えた感覚だった。
だから、住居はそう組まれた。
そしてこの住居の形は、人々の心を変えていた。
夜になると、住居の中で人々は語るようになった。
昨日、見たこと。
今日、起こったこと。
遠くで見た動物。
空の色。
風の匂い。

焚火を囲みながら、それぞれが話した。
「昨日」
「今日」
人々は、それを何気なく口にしていた。
だがそれは、新しい感覚だった。
時間というものが、ゆっくりと人々の中に生まれ始めていた。
昨日は終わり、今日があり、そしてまた明日が来る。
誰もそれを“進歩”だとは思っていない。
ただ、言葉が生まれ、
語りが生まれていった。
それが、未来を動かす力になるとは、
まだ誰も知らなかった。
ある日の午後だった。
太陽は高く、空は乾いた青をしていた。
乾季の終わりの空気は、どこか張り詰めている。
ミツハと女たちは、住居から少し離れた場所で採集していた。
木の実、
果物、
柔らかな若葉。
それらを籠に集め、
地面に広げて分けていく。
女たちは穏やかに話していた。
ミツハは、その様子を見ながら静かに手を動かしていた。
そのときだった。
風が、
ふっと強く吹いた。
遠くで、
焚火の火が揺れる。
次の瞬間――
ぱちり
小さな火の粉が、空へ舞った。
それは風に乗り、
ゆらゆらと流れていく。
そして――
クニトコタチの住居の屋根へ落ちた。

乾季の草は、完全に乾ききっていた。
ほんの小さな火でも、それは燃える。
最初は、小さな煙だった。
だが次の瞬間、
炎が走った。
ぱっ、と。
屋根の草が、
一気に燃え広がった。
「……!」
ミツハの目が見開かれた。
住居。
あの中には――
ツクヨがいる。
生まれたばかりの、
小さな命。
ミツハは、何も考えずに走り出していた。
籠が落ち、木の実が地面に転がる。
誰かが叫んだ。
だがミツハは止まらない。
炎は、すでに屋根全体に広がっていた。
乾いた草は
あっという間に燃える。
住居は、みるみる炎に包まれていく。
熱が押し寄せる。
煙が上がる。
それでもミツハは走る。
ツクヨ。
ツクヨ。
ツクヨ。
その名だけが、
身体を動かしていた。
そして――
ミツハは見た。
炎の中。
揺れる赤い光の中から、
小さな人影が、歩いてくる。
最初は、何が起きているのか分からなかった。
だが、
その影は確かに歩いていた。
ゆっくりと。
炎の中から。
その腕には――
赤子が抱かれている。
小さな体を、しっかりと抱きしめて。
炎の中を、恐れずに歩いてくる。

それは、サクヤだった。
まだ幼い。
それでも、その歩き方はまっすぐだった。
炎を背に、赤子を守りながら歩いてくる。
ミツハは駆け寄った。
そして、二人を抱きしめた。

ツクヨは泣いていない。
サクヤの腕の中で、小さく息をしている。
ミツハの胸が震えた。
サクヤの顔を見る。
きりっとした表情。
怖かったはずなのに。
その顔は、
まるで何かをやり遂げたようだった。
ミツハが抱きしめると、
その顔が少し緩んだ。
そしてミツハは、ゆっくり立ち上がった。
サクヤとツクヨの前に立つ。
背後では、住居が燃えている。
炎はまだ大きい。
空へ、黒い煙が上がっていた。
ミツハは、
炎と人々の間に立った。
そして――
両手を天へ向かって大きく上げた。
空を見つめる。
その瞳は、遠くを見ていた。
そしてミツハは、何かを語り始めた。
言葉なのか。
祈りなのか。
誰にも分からない。
だがその声は、
風の中に溶けていった。
そのときだった。
空の色が変わった。
遠くの地平線から、
黒い雲が動き始める。
最初はゆっくり。
だが、すぐに空を覆っていく。

風が変わった。
乾いた空気が、湿りを帯びる。
そして――
ぽつり。
一粒。
雨が落ちた。
地面に小さな音がする。
また一粒。
また一粒。
やがてそれは、
急に強くなった。
ザーッ
スコールのような雨が
空から落ちてきた。

炎に雨が当たる。
ジュウ、と音がする。
炎は、次第に小さくなっていく。
そしてそのとき、
空を裂く光が走った。
稲妻。
轟く音。
幾つもの光が
黒い雲を照らした。
その光の中で――
雲が、人の形に見えた。

腕を広げたような影。
空に立つ者の姿。
人々は皆、
空を見上げていた。
誰も声を出さない。
ただ、
そこに誰かがいる。
そう思えた。
偶然なのか。
それとも――
ミツハが起こした奇跡なのか。
誰にも分からない。
だがその場にいた全員が、
同じことを思っていた。
これは――
ミツハの力だ。
やがて雨は弱まり、
炎は消えた。
煙が、静かに空へ上がっていく。
雨は止んだ。
空はゆっくりと明るくなる。
地面には、水の匂いが広がっていた。
それは、雨季の始まりの匂いだった。

ミツハは、静かに空を見ていた。
天を感じる。
空気を感じる。
水を感じる。
その姿を、誰もが見ていた。
炎の中から
赤子を抱いて出てきたサクヤ。
天から雨を呼んだミツハ。
この日の出来事は、いつまでも語られるようになる。
焚火のそばで。
夜の住居で。
昨日の話として。
そして、
またその次の日も。
人々は語る、あの日の空を。
炎の中の少女を。
雨を呼んだ女を。
その日、
天と人のあいだに
ひとつの物語が生まれた。
そしてその物語は、口から口へと伝わっていく。
人が語り、子が聞き、
また誰かが語る。
それは、口伝の始まりだった。
この物語は、やがて神話となる。
【次回予告】
「第17話:火と名 ― 言葉が生まれる夜」

