世界とお付き合いスピンオフ⑩ 反時計回りの回想──A place to call home

帰宅した私は、玄関先でいつもの笑顔に迎えられた。
「おかえりなさい、あなた」
私たちが神戸のとある町に住み始めて、二年、日本での生活は五年が過ぎていた。
帰宅する頃には、海から吹く風が昼間の熱を少しずつさらっていく。
海沿いでは夜になっても、海と陸の温度差だけでなく、湾全体を流れる風や六甲の地形の影響を受けるため、体感として海側からの爽やかな風を感じることがあった。
この街の夕暮れも、いつの間にか私たちの日常になっていた。
私は、一度の転職を経て大阪にある専門商社に勤め、化学品の原材料を輸入する部署で職務に就いていた。
ここ最近は、自身が創出した事業が順調に拡大し、仕入れから販売までを一貫して任されていた。つまり、国内市場だけでなく、海外メーカー、サプライヤーの管理も職務領域に入っていた。さらにその事業が異分野へも展開することになり、まだ規模としては小さいが新設のセクションをマネジメントすることになった。部下としての人員も補充され、それに伴い、二十代後半としては、異例の課長クラスの裁量権も付与されていた。
つまり、やりがいはかなり高いと言ってよかった。
だが、裁量の大きさはそのまま重圧の大きさでもあった。
課員のマネジメント、海外市況の急激な変動、輸入品の品質クレーム、突発的な船の遅延や納期トラブル、そして欧米との時差による深夜の緊急対応。
泥臭い交渉とトラブル処理に追われ、頭を抱える夜も少なくなかった。
それだけに、家に帰り、いつもの笑顔に迎えられる瞬間が何よりの安らぎであり、全ての原動力になっていた。

「たくちゃん、今日アイナがね、一人立ちが少しできたのよ!」
「え、ビッグニュースじゃないか」
「来月で一歳の誕生日だから、順調に育ってるわ。ね、アイナ。ほら、パパ帰ってきたよ〜」
ベビールームからアイナが顔をのぞかせていた。
くりくりとしたグリーンヘーゼルの大きな瞳が怪訝そうにこちらを見ている。
本当に美しい女の子を授かった。早産の恐れも少しあり、産科で処方されたウテメリンなどで抑えながら、アネッテが耐え抜いてくれた。
安産の部類に入るとはいえ、彼女の大変さは並大抵のものではなく、産後すぐに「たくちゃん、お腹減っちゃって死にそう。いつも食べに行ってる、近所の洋食屋さんで、オムライスをテイクアウトしてきて…速攻でお願い…」
私が持ち帰ったオムライスを、2個とも平らげたアネッテを見た時に、母親の逞しさを感じずにいられなかった。
新生児室で初めて見たアイナは、もう言葉にできない可愛らしさを帯びていた。
ほんのりピンクがかったミルク色の肌に、もう鼻筋がスッと通っている。
目は閉じていたが、驚くほどまつ毛が長く、天然のアイラインを引いているかのように際立っていた。
アネッテの元に戻った時は、感極まって、自分でも何を言ったかよく憶えてない。
ただ、彼女が
「たくちゃん、おめでとう。パパになった気分はどう?」
と、誇らしくも美しい笑顔で微笑んでいたのが網膜に焼き付いている。
アイナという名前は、女の子が生まれた時につけようと、アネッテと相談してあらかじめ決めていた。
何より、日本、スウェーデンどちらにもある名前なのが気に入った。響きも美しい。
そのアイナももうすぐ一歳の誕生日を迎えようとしていた。
「アイナ、ますます君に似てきてないか」
「あら、私は、目元はあなたによく似てきたと思うわ。目の色は合作よね」
「そうかなぁ? 」
「そうよぉ。ほんとに良かった…やっぱり、あなたの目を受け継いで欲しかったもの」
「え、ちょっと照れくさいな。なぁ、早くなんか喋らないかな……なんかオヒオヒとか言ってるしな」
彼女は吹き出した。
「プッ、何よそれ。もうすぐじゃないかしら、それにママって言葉が最初に決まってるわ」
アネッテは自信たっぷりに微笑むと、アイナを抱き上げた。
アイナは二人の顔を交互に見つめ、何かを確信したように、小さく唇を動かした。
神戸の山と海が織りなすこの街で、夢見た「二人の場所」は、いつの間にか、暮らしの輪郭を持っていた。
リビングの大きな窓からは、夕暮れに染まる神戸港の穏やかな海と、キラキラとまたたき始めた街の明かりが見える。
カリフォルニアの潮風とはまた違う、静かでどこか懐かしい潮の香りが、ベランダ越しに部屋を満たしていた。
平日の午後には、アネッテがアイナを連れて、旧居留地のカフェでコーヒーを飲みながら、日本語の教科書を広げている。
私たちはこうして何気ない毎日を、一番贅沢な時間として積み重ねている。
「君の日本語もずいぶん上達したよな。もう喋るのもあまり苦労してないように見える。何より発音が殆ど正確だ…凄いよ」
「お家にセクシーな専属日本語教師がいるからじゃないかしら、 フフ。正直喋るのはまだまだ課題があると思うわ。ただし、ヒアリングはかなりのもんよ。日本語で私の悪口言ったらすぐにわかるわよ」
彼女がウィンクをして言った。
「まさか。君にはロシア語で言ってもバレそうだ」
「ねぇ、あなた」
「ん?」
「私、すごく幸せよ。こんなに素敵な町で、アイナを育てていけるなんて、毎日あなたに感謝してるの」
「オレは、君を誇らしく思うよ。この五年間慣れない国でどんだけ頑張ってきたか、ずっとそばで見てきた。それに…」
「それに?」
「…ますます綺麗になってる」
そう言ってキスをした。
「…あなたがちゃんと潤いをくれる…からよ…」
彼女が愛おしそうに、少し目を細める。
「あっ、そうだ!」
私は思い出したかのように鞄から、帰り道に買ったバゲットを取り出して、彼女に渡した。
「あっ、買ってきてくれたのね。今日はビーフシチューだから。用意するわね。着替えてきて」
ダイニングに戻ると、テーブルに大盛りに盛られたビーフシチューとサラダ、バゲットがカトラリーと共に配膳されていた。
テーブルの傍らでアイナがベビーチェアにちょこんと座らされていて、こちらを見て笑った。
アイナのおでこにキスをした。
「アイナちゃん今日も可愛いでちゅね〜、ちょっと可愛いすぎでちゅよ。パパまいっちゃうなぁ」
自分で言っときながら、情けない溺愛ぶりだ。
キッチンでアネッテが笑いを堪えていた。

私とアネッテもテーブルについた。
「こりゃあ旨そうだ。いただきます」
シチューの大振りのビーフを一口食べて唸った。
「おいおい、めちゃくちゃ美味いよ。お肉が柔らかいだけじゃなくて、しっかりした旨味があるよね」
「わかる? それ、神戸牛のスネ肉よ」
私は一瞬であることを思い出した。
「じゃあ、こないだ三宮で行ったあの洋食屋さんの…さっそくやってみたんだ」
「そうよ。実は今日二回作ったの。一回目は焦がしちゃって。材料多めに買っといて良かったわ」
「あの洋食屋でも、作り方いきなり聞いてたもんな…ヒヤヒヤしたわ」
彼女も照れ笑いしていた。
「実は、あなたのクソ度胸を真似させてもらったの、フフフ。ダメ元で聞いたんだけど、店主さん優しく教えてくれたね」
「そりゃあ、あの店含めて神戸中の洋食屋にここのところ通い詰めてるもんな。店の人も嬉しいんだろうな」
「だって、日本の洋食って本当に美味しいんだもの。どれ、どれ……うん上出来」
彼女もシチューを一口食べて、その出来栄えに満足したようだ。
「去年は丼ものを食べて回ったよな」
「たくちゃん、カツ丼という核爆弾を、ずっと私に隠してたでしょう。初めて三宮で食べたときぶっ飛んだわ。学生時代にも作って欲しかったわよ。…はい、アイナ。あ〜ん。美味しいね〜」
私は苦笑した。
「別に隠してたわけじゃないけどさ。今度作るよ」
「マジですか。やったあ! たくちゃん、大好きよ。ハンバーグも、いつかお願いね」
「ハンバーグは、もう君の得意料理だろ」
「あなたの作ったのが食べたいのよ〜。私、料理って作った人の性格がでると思うの。だから、あなたの作るご馳走が昔から大好きなの」
「そこまで言われたら……奥様、ご注文預かりました」
イェッス!と言ってから、彼女が小さくガッツポーズをした。

アイナをお風呂に入れて、寝かしつけてからソファで一息ついていると、アネッテがベイリーズをロックで作ってくれた。
「はい、お疲れ様」
彼女はロックグラスを私に手渡して、隣に座った。
「おっ、サンキュー」
「少し聞いてもらっていい?」
「もちろん」
「私は今日本語の勉強とお料理とアイナの育児で手一杯だけど、少しアイナが大きくなったら、英語を家で日本の年配の方々に教えたいの。ほら、特に苦手な方多いじゃない」
「それは、素晴らしい考えだよ。日本語を短期間でそこまで習得した君だ。言語能力の高さは明白だよ。きっと人に教えることだってできる。何かできることがあれば手伝うよ」
「ありがとう。でも、その前に私はママだから、あくまでも家とアイナの育児が最優先。あなたとアイナが一番大切なの」
「わかってる。けど本当に年配世代をターゲットにするのは一理あるよ。英語に抵抗がある世代だけど、心理的障壁さえ下げれば逆に有望だよ。でもなんで、君はそう思ったの? 単なるマーケティング視点という理由じゃなさそうだけど」
部屋の中は静かだった。
聞こえてくるのは、氷がグラスの中で小さく触れ合う音と、アイナの穏やかな寝息だけだった。
彼女は少し考えて言った。
「私、神戸に来てからまだ右も左もわからない時に、洋食屋のマスター、商店街のおばちゃん、日本語クラスのおじいちゃん先生、みんなに本当にお世話になったの。震災からまだそれほど年月が経っていなくて、ご自身たちだって大変だったはずなのに、私たちに本当に親切にしてくれた。日本の年配の方々ってなんであんなに人情に厚いんだろうって感激したの…だからよ、何か恩返しがしたくて」
そんな彼女を誇らしく思い、私は黙って彼女を抱きしめた。
「たくちゃん……。あなたのお仕事は?楽しんでる?」
「ああ、自由度も高いし、そこがありがたい。それに、仮説と検証を繰り返してるところもあるけど、結果それが業績に結びつくから楽しいよな。特にインドの案件が実績を出し始めているのが面白いんだ。もう少しインドにリソースを集中させようかと考えてる」
「すっご〜い! 良かったじゃない。私も嬉しいわ、あなたが楽しそうで。それが一番ね」
少し間を置いて、彼女が続けた。
「そういえば」
彼女が少し小声で、でも期待に満ちた目で私を見た。
「この前、お義母さんに『たまには二人でゆっくりしてらっしゃい。アイナちゃん、見といてあげるから』って言われて、久々に二人きりでデートしたじゃない。その時連れて行ってくれた、あの鰻屋さん。あれ、最高ね」
「ああ、鰻重か。気に入った?」
「気に入ったなんてレベルじゃないわ。あの香ばしいタレと、ふわふわの身。あれに、キンキンに冷えたビールを合わせるのが、私の新しい『至福のルール』よ。……まぁ、まだ母乳あげたいから、飲んだら間開けないといけないし、ちょっと後が大変なんだけどね」
「でも、そろそろ卒乳の時期かな?」
「そうね。一歳くらいを区切りにしようと思ってるわ」
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「でも、カツ丼の『核爆弾』もすごかったけど、鰻とビールの組み合わせは、もう『芸術の域』ね。これを発見した日本人って、天才じゃない?」
「ハハハ、アネッテ、君はもうすっかり神戸っ子を通り越して、日本の食文化の深淵に触れすぎだよ」
「ふふ、だって美味しいんだもの。あ、次はアイナがもう少し大きくなったら、三人で食べに行くのが目標ね!」
「それいいな。じゃあ、その時を楽しみにしつつ……今は、お疲れのママを癒やす時間かな。肩揉もうか?」
「えっ、ホントに!めちゃ嬉しいんですけど。育児って肩凝るのよ〜」
「それはそれは、お若いのに大変でございますな…」
「そうなのよ〜。毎日アイナを抱っこしてるから、肩も腕もバッキバキなの」
「では本日の特別サービスでございます。肩もみ三十分コースをご用意しております」
「えっ、本当に!? 予約していいですか?」
「もちろん。ただし料金がございます」
「えっ……いくら? 今までは、無期限無料キャンペーンだったじゃない」
「ビールを一本注いでもらえれば結構です。誰かさんが冷えたビールが最高とか言うからです」
「安っ! そんなのでいいの!?」
「結構でございます」
「フフ、契約成立ね」
「じゃあ、椅子に座ったほうが揉みやすいから、テーブルに行こうか」

「よろしくお願いします、マッサージ師さん」
「かしこまりました、お客様」
肩にそっと手を添えると、彼女はふぅ……と小さく息をついた。
「あぁ……気持ちいい。こういう時間が一番幸せ」
「また頑張れる?」
「もちろん。だって、私にはあなたがついてるもん……ねえ…うなじ見てるでしょ」
「たしかに……それでは今回もお代は結構です」
肩ごしに、アネッテが笑いで震えているのが伝わってきた。
穏やかに、私たちの場所が醸成されていくのを、私もアネッテも感じていた。
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