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世界とお付き合い・スピンオフ⑥ 反時計回りの回想──トランス・ノース


話は少し遡るが、大学2年の夏休みに、とりあえずカナダに行ってみようかと、アネッテに持ちかけた。

「とりあえず? …って、広いよカナダ」

「なるほど」

彼女は既に吹き出している。

「話が終わってるじゃない。しっかりしてよ」

「ああ、頑張るよ……それじゃあ、カナダの……よし、カルガリーに行こうか。行ったことある?」

「ないけど、なんでカルガリーなの」

「なんか、そこからどこへでも行けそうだからかな」

「えっ⁉️ よくわからないんですけど」

「アンちゃんは、どこに行きたい?」

「そう言われると…静かで2人きりになれるとこかな…」

「じゃあカルガリーでもいいじゃない」

「まぁ、そうね…てか独特の空間把握能力よね」

「向こうに行ってからどこに行くかまた考えようよ。時間はたっぷりあるしね」

まだソファでぽかんとしているアネッテを横目に、私は馴染みの旅行代理店に電話をかけた。


夕方前のカルガリー空港に降り立つと、レンタカーのブースはハイシーズンにもかかわらず空いていた。

私は手続きを済ませ、アメ車のスポーツセダンが配車されるのをアネッテと待っていた。

「たくちゃん、サングラス」

彼女が差し出したライトブルーの丸型サングラスをかける。
イマジンを口ずさむと、

「レノンといえば丸型だもんね。フフ」

「次は同じ丸型愛好家のオジーで、クレイジートレインを歌うよ」

ふざけ合ってるうちに、レンタカーがやってきた。

車に乗り込んで、ダウンタウンに向けて走る。

「とりあえず、今日はダウンタウンのホテルを予約してるから、晩飯食べたら明日からどこに行くか考えようよ」

「…たくちゃん」

「なに?」

「私いまわかったわ」

「えっ、どうしたんだよ急に」

「予定が決まってないって、こんなにドキドキするのね」

「うん…毎日気分は変わるしね。向こう一週間先の旅程がガッチリ決まってんのって、なんかちがうかなって…」

「その通りだわ。ほんとにそう」

ホテルに到着すると、車をバレットパーキングに預けて、チェックインした。

部屋はかなり広さに余裕があり、北米仕様のキングサイズベッドが部屋の中央にでんと構えていた。

彼女は既に部屋のあちこちを見てまわっている。

「アメニティも高級だし、素敵なお部屋ね」

「せっかくだから、ルームサービスたのもうか」

「私もうメニュー表のありか知ってるんだ〜」

「じゃあオレ、クラブハウスサンドとビール。メニューにあるかな」

「え〜と…あるわよ。私は何にしようかな…」

「チーズマカロニだろ」

「冗談❗️なんでこんなところまできて、それなのよ〜」

「冗談だよ。こっちは20歳でも飲めるからさ、アンちゃんもビール飲む?」

「いいわね。じゃ一杯だけ…」

ルームサービスは思ったより早く届いた。
クラブハウスサンドを頬張りながら、窓の外を見ると、夕方の光を残したカルガリーの街が静かに広がっていた。

「ねえ、たくちゃん。本当に明日どこに行くか、まだ決めてないのね」

「うん。今決めたら、今夜の楽しみが減るじゃない」

アネッテはビールのグラスを少しだけ傾け、諦めたように笑った。

「変なの。でも、そのノリ……もう好きになっちゃった」

食べ終わった食器を下げに来たボーイが手際よく片付けて、去っていった。

彼女が二人分のコーヒーを淹れて、私がいるサイドテーブルの向かい側に座った。

「はい、コーヒー。まだ熱いわよ」

「あ、ありがとう」

「明日、どうしようかしらね」

そう言って彼女が目を輝かせた。

「うーん」

私はしばらく考えてみた……。

「……ねえ、たくちゃん。ポテチばっかり食べてないで」

考え込んでいた私は彼女の声で我にかえる。 無意識にポテトチップスを食べ続けていたようだ。

「なあ、アンちゃん。ハイとロウどっちが好き?」

「え、どういう意味?」

「いや、オレどっちのフェーズも良さげだから、決められなくてさ。トップで安定してるのもいいけど、どん底から這い上がるしかない時の、あのヒリヒリした感覚も悪くないだろ?」

「なんか、わかるような気がしなくもないけど、私はカルガリーに来てからずっとワクワクしてるから…そうね、ハイで」

「じゃあ西だ。カナディアンロッキー」

「あ、なるほど。標高よね…うん、行こうよ」

「じゃあ、バンフから入るか、ジャスパーから入って南下するか…」

「これは迷うことはないわね。カルガリーからはバンフのほうが近い」

「だね。じゃあ泊まるのはどっちにする? BかJか?」

「これもクリアよ。あなたの国、JAPANのJで」

「ジャスパーとなると、明日はけっこうな距離走ることになるな。ま、なんとかなるか」

「そうそう、なんとかなるわよ」

「そうと決まれば、今からジャスパーの宿を当たるよ」


翌朝早くに、私達はホテルを後にした。

ジャスパーまでの行程がかなり長いので、焦って出発したのは良いが、まだ朝ごはんを食べてなかった。

「今から給油するから朝飯もガスステーションでなんか買って食べよう」

「私はアメリカ人よ。それ最高じゃない」

給油ついでにサンドイッチやピンクレモネード、コーヒーを買い込み、満タンにしてから再び車に乗り込む。

そしてカルガリーの市街地を抜け、1号線、トランスカナダハイウェイに入り西に向かう。

しばらくはプレイリーの名残か、平坦な牧草地帯が続き、ハイウェイの両側に広がる大地には干し草を丸めたhay balesが無数に点在している。

ご機嫌なアネッテが、丸めた干し草をみながら言った。

「なんか、スイスロールが食べたくなるよね」

「え、緑のロールケーキか? 不気味じゃないかな。アンちゃんに全部あげるよ」

アネッテは声をあげて笑った。

「バカね〜。まんまじゃないの。いいのよ、緑は置いといて」

その時の私は、後に抹茶ロールケーキなるものが日本で定番になることなど、知る由もなかった。

私はCDキャリーから、Black Boxのアルバムを出して、「Strike It Up」を再生した。

クールなダンスミュージックに、彼女が反応する。

「Full ahead, baby! 思いっきり楽しもう!」

そう言って、前方を指差し、上半身でグルーヴを刻む彼女は本当にチャーミングだ。

「Hell yeah, bring it on, baby!」

先を急ぐように、私はアクセルを踏み込んだ。

道はどこまでも真っ直ぐで、夏の青空と緑の大地を貫いている。

さらにしばらく行くと上り坂になり、坂を上がり切りまた平坦になった先に、巨大な恐竜の背中のような隆起がかすかに見えている。

「たくちゃん、あれ」

「…カナディアンロッキーだよな」

正面に横たわって見える隆起は、左右の先端がどこまでも手を広げるように続いていた。

バンフはあの山中にある町だ。だが私にはまるで入る隙などない壁に見えた。

「そうだ、フリスク食べる?」

「うん、ありがと」

開けた口にフリスクが一粒転がり込む。

「だんだん近づいてくるわね。カナディアンロッキー」

「せいぜいぶつからないように、がんばります」

そのうちハイウェイは長い真っ直ぐな上り坂になり、山間に滑り込むように入っていった。

ここから景色が劇変した。

ハイウェイの両側に巨大な、あまりにも巨大な山塊がマンモスの行列のように続いて行く。

さらに進むと、前方にバンフの出口標識が現れ、車を右側の出口ランプに滑り込ませ、ハイウェイを降りた。

ハイウェイのランプを降りると、バンフの街は冷涼な山の空気に包まれていた。
正面に見えるカスケード山の岩肌は、まるで手が届きそうなほどに荒々しく、圧倒的な存在感で迫ってくる。

車を路肩に止めると、アネッテがすぐに助手席のドアを開けた。

「たくちゃん、あそこ。ちょっと寄っていかない?」

彼女が指差したのは、木造のクラシカルな土産物店だった。
先住民風の工芸品や毛皮製品を扱う看板の下に、本革のジャケットやウエスタンハットが並んでいる。

「カウボーイにでもなる気?」

「ちがうわよ、カウガール。ほら、見て」

彼女は店に入るなり、フリンジのついたライトブラウンのレザージャケットをハンガーから外し、手際よく羽織ってみせた。
そして、腰に手を当てて大げさにウインクしてみせる。

「どう? 似合う?」

「最高。そのままあのアメ車に戻ったら、完全に70年代のロードムービーの主役だよ。ハリウッドからスカウトが来るね」

「フフ、じゃあ買い取って助手席に置いておいてね。私の専属マネージャーさん」

彼女はジャケットを脱ぎながら、いたずらっぽく笑った。

結局、そこで買ったのはカウガールジャケットではなく、地元の木彫りの小さな熊のキーホルダーだったけれど、それを車のバックミラーにぶら下げると、私たちの借りたスポーツセダンは一気に「私たちの旅の車」になった。

バンフを抜け、私たちはジャスパーへと続く『アイスフィールド・パークウェイ』へと車を進めた。

ここからの景色は、言葉を失うというより、もはやスケールが狂っていた。

右を見ても左を見ても、何万年もそこにある巨大な氷河の塊が、夏の太陽を浴びて鈍く光っている。
ハイウェイのすぐ脇には、現実のものとは思えないほど濃厚な、ターコイズブルーの湖が次々と現れた。

カーステレオの Black Box はいつの間にか一周して静かになり、代わりに窓を少しだけ開けた隙間から、ゴオオ、と吹き抜けるロッキーの冷たい風の音が車内を満たしていた。

「ねえ、たくちゃん」

アネッテが、窓の外の山並みを見つめたまま、ぽつりと言った。

「なに?」

「予定が決まってないって、この景色が全部『私たちのもの』になる気がする」

「どういう意味?」

「だって、もしツアーバスに乗ってたら、決められた時間に決められた展望台で写真を撮るだけでしょ? でも私たちは、いま、この瞬間に『あ、綺麗だな』って思った場所で車を止められる。次に何が来るか分からないから、一瞬も見逃したくなくなるのね」

私はバックミラーで、小さく揺れる木彫りの熊を眺めた。

「わかるよ。毎日が、真っ白なキャンバスみたいなもんだ。君がハイ(西)を選んだから、このキャンバスにロッキーの山が描かれた。悪くないだろ?」

「うん、大正解。ほんとにそう……でもね、たくちゃん」

彼女が助手席から、じっと私に視線を送ってくる。

「ん?」

「明日はどこへ行くの? ジャスパーの次は、さすがに真っ白じゃ困るんだけど」

「うーん、そうだなぁ……」

私はダッシュボードに突っ込んであった、北米のクシャクシャの大地図を片手で引っ張り出した。
この頃には、もう私はまるで北極圏からの引力にとらわれたように、北へ進みたい衝動に抗えなくなっていた。

信号待ちの間に、ジャスパーのさらに北、はるか遠くの一点を指でトントン、と叩く。

「ここ。ホワイトホースって街がある」

アネッテは地図を覗き込み、それから私の顔を見て、ぽかんと口を開けた。

「……ちょっと待って、たくちゃん。それって、カナダの上のほうじゃない。アラスカの手前よ? 何マイルあると思ってるの」

「時間はまだある。なんとかなるよ。行けるところまで行ってみようよ」

アネッテは一瞬、呆れたように目を丸くしていたけれど、やがてその碧眼に、カルガリーの夜に見た以上の、冒険を前にした子供のような輝きが灯るのを私は見逃さなかった。

「もう……やっぱりたくちゃん、大好き」

彼女はシートベルトの隙間から身を乗り出すようにして、私の頬に、弾けるようなキスを落とした。

「ホワイトホースで思い出した……日本では、こっちで言うPrince Charmingみたいな人のことを、白馬の王子様って言うんだ。白馬、つまりホワイトホースに乗ってないとダメなんだよ。面白いだろ」

アネッテは少し考えてから、どこか甘い笑みを浮かべた。

「ねえ、私のMr. Right……じゃあ、あなたは普段、なんでマスタングに乗ってるのかな? 野生馬よね、あれ」

私はまた余計なことを言って、コーナーに追い込まれた。

「……だ、だから今から、ホワイトホースに乗り換えに行くんだろ」

「あっ、なるほど。私、納得しちゃった」

彼女はさらにつけ加えた。

「ただし、ガス欠で荒野の真ん中に取り残されたら、あなたの得意な左のダブルで熊を追い払ってもらうからね」

「善処します、ミス・アメリカ」

相変わらずの凄まじい無茶振りである……。

車は、ロッキーの深い山懐に抱かれたジャスパーの街へと、ゆっくり滑り込んでいった。

静かなロッジで一晩を過ごし、翌朝、私たちはさらに北へと舵を切った。

幸いレンタカーの延長更新は上手くいった。

目指すはユーコン準州、ホワイトホース。

それはカルガリーから数えれば、千数百マイルに及ぶ、途方もない距離のロードトリップの始まりを意味していた。

もちろん、一日で辿り着ける距離ではない。

途中、小さな町のモーテルに二度泊まり、給油所を見つけるたびにタンクを満たし、サンドイッチとコーヒーを買い足しながら、私たちは三日かけて少しずつ北へ進んだ。

宿もガススタンドも、見つけた時に押さえておかないと次がいつ現れるかわからない。
公衆電話の前で地図を広げるたびに、無計画な旅の楽しさとは別の緊張感が、少しずつ混じり始めていた。

英語そのものには全く不自由していなかったが、モーテルの備え付け電話や公衆電話越しの、回線障害のようなノイズだけは別問題だった。
おかげで私は、空室確認のたびに、ほとんど怒鳴るように受話器へ向かっていた。
ようやく宿を押さえ、車に戻るたびに、地図上の距離と現実の距離が少しずつ違って見え始めた。


町と町の間隔は次第に広がり、人工物の気配は薄くなっていく。夜になっても空は完全には暗くならず、時計の針だけが、律儀に時間を刻んでいるように見えた。

旅というより、日常から一枚ずつ皮を剥がされていくような時間だった。

アラスカ・ハイウェイに入ると、人工物は完全に姿を消した。

地平線まで続くのは、針葉樹の深い緑と、どこまでも高い夏の青空だけ。
そして、いくら車を走らせても、太陽がちっとも沈もうとしない。
北へ向かうほどに、世界は白夜の不思議な薄明かりに包まれていった。

アサイメント。期日。時間。スケジュール。

LAでの大学生活で私たちを絶え間なく追いかけてくる、あらゆる「数字」の呪縛が、時速60マイルで後方へ流れる広大な原生林の彼方へと、1マイル、また1マイルと置き去りにされていく。

「ねえ、たくちゃん。これ、本当に夜の10時?」

助手席の彼女が、まだ時計の針が信じられないといった様子で、窓の外の真珠色に光る空を見上げていた。

「信じられないよな。時間が壊れちゃったみたいだ」

「なんだか、時間が進むのを忘れてるみたい。ねえ、フリスク食べる?」

「おっ、サンキュー。もはやオレのアイオープナーだわ」

口に広がる小さなミントの刺激が、長いドライブで少し火照った頭を心地よく冷ましてくれた。

それからもしばらく、終わらない夕方のような空の下を走り続けた。
この時間帯になると、夏でも空気はぐっと冷え込み、肌寒い。

ホワイトホースの街に到着したのは、真夜中前の、白夜の淡い明るさの中だった。

街の脇を流れるユーコン川の水面が、冷たく、静かに、白夜の光の中に浮かび上がっていた。

その夜は、ホテルにチェックインするだけで精一杯だった。荷物を部屋に置くと、二人ともほとんど倒れ込むようにベッドにもぐり込んだ。

翌日はかなり朝寝坊をした。
ようやく昼近くにベッドから這い出して、まだ旅の疲れを身体の奥に残したまま、ユーコン川沿いを少し歩く。

川の水面は、大河の静けさを湛えていた。

私たちは、近くにあるレストランのテラス席に腰を下ろした。

地元の冷えたクラフトビールを喉に流し込み、私は隣に座るアネッテの肩を、そっと引き寄せた。

「……本当はさ」

ユーコン川の、ゆったりとした流れを見つめたまま、私はぽつりと言った。

「日常はいつも、時間に追われてるだろ」

「うん……」

「だからさ、こんな時ぐらい、旅の終わりがどこかを最初から決めたくないんだよね」

彼女は私の腕にそっと自分の手を重ね、その温もりを確かめるように、きゅっと力を込めて握りしめた。

「わかるわ。終わりを決めた瞬間から、カウントダウンが始まっちゃう気がするもの。私はね、このまま、たくちゃんと世界の果てまで行っちゃってもいいよ?」

「世界の果て、か」

私はビールのグラスをテーブルに置き、彼女の真っ直ぐな眼を見つめた。

「じゃあさ……これからアラスカに行こうか?」

ホワイトホースの静寂のなかで、その提案はあまりにも突飛で、だからこそ、痺れるほどにお洒落だった。

彼女は一瞬、眩しいものを見るように目を細めたあと、嬉しそうに声をあげて言った。

「何よそれ…行くに決まってるでしょう!」

その日はホワイトホースにもう一泊して、アラスカ行きのプランを練り直した。

さすがに、借りたアメ車のセダンでそのまま国境の荒野を越えていくには、時間がかかりすぎる。
疲労も蓄積していて、リスクが高すぎた。

車をここでドロップして、飛行機でアンカレッジに向かうことにした。
押さえられたのは、バンクーバー経由の便だった。

翌朝、私たちはホワイトホースの空港の駐車場にいた。

ここ数日間、私たちの勝手な旅に文句ひとつ言わずに付き合ってくれた、すっかり泥だらけになった相棒(アメ車)のボンネットを、私はポンポンと叩いた。

「お疲れさん、デュード。あとはよろしく」

陸路から、空路へ。

窓の下には、ユーコンからブリティッシュコロンビアへ連なる山並みと、ところどころ雪をいただいた白い稜線が広がっている。

非日常のタイムリミットが、少しずつ、でも確実に近づいているのを感じながら、私たちはバンクーバーを経由してアンカレッジへと飛んだ。


エピローグ

碧眼の車窓──アラスカ鉄道


アンカレッジ空港からタクシーに乗り、ダウンタウンのホテルにチェックインした。

カルガリーからの怒涛の移動を終え、ようやく一息ついたホテルの部屋は、外の冷気とは対照的に静かで、どこか張り詰めたような温かさに満ちていた。

荷物を降ろし、アネッテが小さく息を吐いてベッドの端に腰掛ける。

窓の外には、アンカレッジの短い夏の夜。
真夜中を過ぎても完全には暗くならない、不思議な真珠色の薄明かりがカーテンの隙間から滑り込んでいた。

私はサイドテーブルに置かれたグラスにミネラルウォーターを注ぎ、彼女の隣に歩み寄った。

「お疲れさま。よくここまで頑張ったよね」

グラスを手渡しながら、私はふっと視線を落とした。

「どうする?」

それは、行き先を指定しない、私なりの心地よい白旗だった。
明日、LA行きのフライトチケットを買うこともできる。
刻限がすぐそこまで迫っていることを、二人の数字(スケジュール)が静かに告げていた。

彼女はグラスを受け取ると、それを一口も飲まないまま、ベッドサイドのランプに照らされた私の顔をじっと見つめた。
その眼が、いつもより少し潤んでいるように見えた。

「……まだ、帰りたくないわ」

ホワイトホースで見せた、あの「行くに決まってるでしょう!」という男前な勢いはどこへやら、部屋の静寂に溶けていくような、掠れた本音の響きだった。
計算も強がりも一切ない、剥き出しの言葉が私の胸を締め付ける。

「アサイメントとか、期限とか、そういうものにまだ戻りたくない。このまま、時間が止まっちゃえばいいのに」

彼女の白い指先が、私のシャツの袖をきゅっと掴んだ。

私はその手をそっと包み込み、窓の外の薄明かりを眺めた。

「よし…アラスカ鉄道でフェアバンクスまで行こう」

「フェアバンクス……?」

「そう、北の終着駅だ。これ以上、北へ行く線路はない場所。明日、一番早い列車の切符を買いに行こう」

アネッテは掴んでいた私の手をさらに強く握り返し、ようやくいつもの、眩しいような笑顔を咲かせた。

「うん。行く。最北の駅まで、あなたと一緒に行く」

静まり返った部屋のなかで、私たちは二人だけの秘密の延長戦を決めた。

翌朝、私たちはまだ人影の少ないアンカレッジ駅の窓口で、フェアバンクス行きのチケットを取った。
今思えば、あの時期に当日で列車に乗れたのは、相当運が良かった。まだ旅に、少しだけ余白が残っていた時代だったのかもしれない。

アンカレッジの駅のホームに滑り込んできたのは、深いブルーと鮮やかなイエローのラインが施された、アラスカ鉄道の巨大な車体だった。

私たちは、天井までガラス張りの2階建て展望車両(ドームカー)に乗り込んだ。

前夜、ホテルの部屋で「まだ、帰りたくないわ」と静かに告げてくれた彼女は、どこか吹っ切れたような、それでいて少しだけ名残惜しそうな、なんとも言えない綺麗な横顔で窓の外を見つめている。

ガタゴトと、重い金属音を響かせながら列車がゆっくりと動き出す。
北の終着駅、フェアバンクスまではおよそ12時間の、長い長い鉄路の旅の始まりだった。

列車が市街地を抜けると、車窓は一気に原始の姿へと戻っていった。

どこまでも続く、深い、深い、タイガの針葉樹林。

遠くには、アラスカの象徴であるデナリ(マッキンリー)の山塊が、夏の陽光を浴びて神々しいほどの白銀に輝いている。

「……すごいね、たくちゃん」

アネッテが、ガラス天井を見上げたまま、ぽつりと言った。

パノラマの窓から差し込む北極圏の手前の光が、彼女の碧眼に溶け込んで、まるで宝石みたいにきらきらと色を変えている。

「LAのビルも、カルガリーの地平線も、もうずっと遠くなっちゃったみたい」

「たしかに…あと線路の上ってさ、自分でハンドルを握らなくていいから、不思議と時間がゆっくり流れる気がするよ。ほら、納期もスケジュールも、この電車のスピードには追いつけないだろ」

彼女はクスッと笑って、シートの中で小さく身体をこちらに寄せた。

彼女の肩の温もりが、上着越しにじんわりと伝わってくる。

「ふふ、時間を味方にするのが上手ね」

「ただの現実逃避だよ」

「いいのよ、最高の現実逃避。ねえ、たくちゃん……これ、見て」

彼女がバッグから取り出したのは、バンフの土産物店で買った、あの木彫りの小さな熊のキーホルダーだった。彼女はそれを人差し指でちょんと突き、揺らしてみせる。

「レンタカーはホワイトホースに置いてきちゃったけど、この子はちゃんとアラスカまでついてきたわよ」

「今回の旅の、唯一の目撃者だね」

「そうね。二人の秘密を知ってる、世界で一匹だけの熊さん」

そう言って笑う彼女の髪から、ほんのりと爽やかなシャンプーの香りがした。
この旅を終わらせたくない。日常に戻りたくない。それは、私の心の底からの本音でもあった。

列車は、いくつかの小さな無人駅を過ぎ、うっそうとした大渓谷に架かる鉄橋を渡っていく。

お昼を過ぎた頃、私たちはダイニングカー(食堂車)へ移動した。

リネンの敷かれたテーブルで、アラスカ産のサーモン料理と、コーヒーを注文した。

窓の外を流れる景色を見ながら、静かにカップを傾けた。

「ねえ、たくちゃん」

アネッテが、フォークを置いて真っ直ぐに私を見つめた。

「フェアバンクスに着いたら、そこが本当にこの旅の終わり?」

彼女のトーンは穏やかだったけれど、その瞳の奥には、迫り来る日常への一抹の寂しさが隠しきれずに揺れていた。

私はコーヒーを一口飲み、少し考えてから答えた。

「フェアバンクスは、鉄路の終着駅だよ。これ以上、北へ行く線路はないよ」

「……そう、よね」

「でもね、アネッテ」

私はテーブルの上、彼女の白い手に自分の手をそっと重ねた。

「…線路はそこで終わるけど、二人のルートが終わるわけじゃない。LAに帰っても、また次の『予定のない旅』を、一緒に始めればいいじゃない」

彼女は一瞬、驚いたように目を見開いたあと、重ねられた私の手をきゅっと握り返した。その手のひらは、驚くほど温かかった。

「……うん。そうね。あなたと一緒なら、どこだって真っ白なキャンバスになるわね」

眼の奥に、いつもの、あの眩しいほどの小悪魔的な輝きが戻ってくる。

「じゃあ約束。次はどこに連れて行ってくれる?」

「そうだね……。今度はもっと静かで、まだ知らない場所かな。」

彼女は嬉しそうに目を細めて言った。

「ロマンチストね。その旅のときも、私は助手席を予約しておくわ」

「それにしても、リアルにこれ以上北とかだと、どこに行けばいいんだ? ベーリング海峡? イヌイット? ま、それはそれで楽しいか…」

「北ばかり攻めなくてもいいわよ……変な人」

彼女の楽しそうな声が、食堂車のクラシカルな空間に心地よく響き渡った。

夕暮れというにはあまりにも明るい、白夜の黄金色の光が、車内を優しく包み込んでいく。

夜の8時を過ぎても、太陽は地平線のすぐ上で踏みとどまり、世界を果てしない夕焼けの色に染め上げていた。

列車が速度を落とし、いよいよ終着駅のホームへと滑り込んでいく。

「着いちゃったね、フェアバンクス」

アネッテが窓の外を見つめながら、小さく呟いた。

私はシートから立ち上がり、彼女のバゲージを下ろしながらうやうやしく言った。

「さあ、ミス・アメリカ。最北の街の風を吸いに行きませんか」

彼女は席から立ち上がると、背伸びをしてみせた。そして、私の目を真っ直ぐに見つめて、いたずらっぽく囁いた。

「ねえ、たくちゃん。旅の間ずーっと何か大事なこと、忘れてないかな? ホテルに着いたら……『愛してる』って言ってくれる?」

普段なら照れてしまって、フリーズするのだが、この時ばかりは、これまでの踏破が勢いになり、行動を大胆にした。

彼女を引き寄せて、キスをした。

「ん……たくちゃん」

そして、私は彼女の手を引いてプラットホームへと一歩を踏み出した。

アラスカの澄んだ風が、二人の頬を優しく撫でて通り過ぎていった──


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