双貌
あらすじ
一卵性双生児の遠峰章と遠峰匠は、国会議員・黒木一郎を殺害した夜、故郷である福岡県の飯塚遠賀警察署に二人揃って自首した。
二人とも「遠峰章」を名乗り、二人とも「自分が殺した」と言う。
現場から指紋は検出されず、髪の毛などの若干の微物だけ。一卵性故にDNAは一致する。虹彩、静脈その他の生体認証も機能しない。学校、職場などの関係者も彼らを区別することができない。
逮捕状はあれど、どちらに執行すればいいか誰にも分からない。
捜査一課係長・南条律子は壁にぶつかり続けながら、やがて双子の故郷に眠る一つの冤罪事件に辿り着く。なぜ彼らは黒木を殺し、同じ名で自首したのか。司法は彼らを正しく裁くことができるのか——
第一章 自首
第一話 双貌
テレビの画面には、赤く点滅するパトカーのライトが映っていた。見知らぬホテルの入り口、野次馬を遮る規制線。アナウンサーの告げる「黒木代議士変死」のニュース。
飯塚遠賀警察署は、崩落の予感に怯える蟻塚のようだった。至る所で受話器が鳴り響き、誰もが身内か上司に電話をかけようと回線をパンクさせている。署長室からは、受話器を叩きつける音と怒号が漏れ聞こえてくる。
黒木一郎はこの街の父だった。強大な政治力で大型の公共事業を次々と地元に誘致し、冷え込む地域経済を死守してきた英雄。祖父の代から三代にわたってこの地盤を守り続けてきた、黒木一族の現当主。彼を敬わぬ者はなく、同時に逆らえる者もいなかった。それは地元の警察組織にとっても例外ではない。ここ飯塚・遠賀警察署(正式名称は中黒無し)も複数の管轄区域が統合されて、沿岸部には住宅地域、内陸では河口に繋がる遠賀川流域の工業地帯を抱え、果てはかつての炭鉱区域――今では学園都市になっている――に至る広大な地域を担当し、中央に負けない存在感を発している。最新の庁舎設備、潤沢な予算、職員の破格の待遇——すべては黒木という巨大な影がもたらす恩恵だった。
受付のカウンターに立っていた田村七海巡査部長は、その喧騒から切り離された場所にいた。同僚たちの狼狽ぶりを眺めながら、どこか冷めた心地でいる。就職のために他県から来た自分には、彼らが抱く喪失への恐怖を、何一つ共有できていない。
自動ドアが開く、微かなモーター音。
田村が顔を上げると、二人の男が立っていた。二十代前半ほどの、すらりとした長身。同じ顔、同じ背格好、同じ髪型。一目で一卵性の双子だと分かった。艶のある黒髪は整えられていたが、その瞳の奥には微かな疲労と、それ以上に冷え冷えとした決意のようなものが宿っている。
その片方が、静かに言った。
「私が、黒木代議士を殺しました」
田村はペンを持ったまま手を止めた。周囲の怒号や電話の呼び出し音が、一瞬で遠のいていく。
隣のもう一人は付き添いか——そう思った直後、寄り添うように立っていたその男が口を開いた。
「私が、黒木代議士を殺しました」
同じ顔。同じ声。同じ主張。
田村の思考が、一瞬、白くなった。しかしすぐに頭を小さく振って再起動する。深呼吸をする代わりに、一つ瞬きをして、最初に口を開いた男に向かって言った。
「……お名前を伺えますか」
「遠峰章と申します」
男は、まるで運転免許証の更新手続きにでも来たかのように淡々と答えた。
後から口を開いた男も、表情一つ変えずに告げた。全く同じ早さ、全く同じ発音だった。
「遠峰章と申します」
二人の男は互いを見合わせることもなく、ただカウンターの中の田村だけをじっと見据えている。背後のテレビでは黒木一郎の顔写真が映し出され、アナウンサーが「捜査関係者によりますと——」と続けていた。
「身分証を、お願いできますか」
動揺を悟られないように、努めて平静な声で言った。
一人がスーツの内ポケットからマイナンバーカードを取り出した。もう一人が、同じ動作で免許証を差し出した。
田村は二枚を並べて見た。
遠峰章と、遠峰章。
身分証自体は、どちらも本物だ。
これは、ただの自首ではない。まるで一つの罪が二つに分裂して、目の前に降り立ったかのような錯覚。
彼らの態度は異様だった。殺人を告白しているにもかかわらず、二人の「遠峰章」からは罪の重さや焦燥といったものが微塵も感じられない。
何かが決定的に狂ってしまったような、底冷えする感覚が、広いロビーにゆっくりと満ちていく。田村はペンを握り直したまま、目の前の「双貌」から目を離すことができなかった。
第二話 二人の男
ドアが開いた。
遠峰章は微笑んだ。作り物ではない。十四年間、この瞬間のために生きてきた男の、本物の笑顔だった。
黒木一郎はドアの内側から章を見ていた。確かに、あの女の面影がある。亡霊が現れた、と思った。
「『宮本』です」
「ああ、よく来た」
黒木は章を招き入れた。
同じ時刻、都内の飲食店。午前の気だるさを引きずり、弛緩する空気が流れる中、昼食をとる一団には笑い声が渦巻いていた。
遠峰匠はグラスを傾けながら、隣の同僚の馬鹿話に相槌を打った。どこにでもある週末の風景。
時計の針が、約定の時刻を静かに過ぎていく。匠は目を閉じた。指先で、確かな脈動を感じ取るかのように。
あれは小学三年の秋だった。
職員室の前を通りかかった時、ドアの隙間から声が漏れていた。章のクラス担任の田中先生と、匠のクラス担任の森先生が話している。
「ねえ、『宮本』の双子さ、あなたどっちか分かる?」
「無理無理。名札見ないと絶対分からない。顔も声も同じじゃない」
「私なんて名札見ても自信ない」
二人の笑い声が廊下に漏れた。
章と匠は顔を見合わせた。二人とも、同じことを考えていた。
翌朝、名札だけ交換して、匠が章の教室に座った。章が匠の教室に座った。
誰も気づかなかった。帰り道、二人は走りながら笑った。腹が痛くなるまで笑った。母親に話すと、彼女は呆れながら笑って、先生たちには内緒よ、と言った。
中学に入ると、二人は別々の部活を選んだ。章が陸上部、匠がサッカー部。
入れ替わりを提案したのはどちらだったか、もう覚えていない。この頃の二人の入れ替わりはもはや、かつてのような遊びではなかった。ただ、互いの「欠落」を補うことだけが、彼らの呼吸のようになっていた。
章が陸上の練習に混じった最初の日から三日間、匠は章のフォームを観察してからグラウンドに立った。タイムは章より一秒遅かったが、顧問は何も言わなかった。チームメイトも何も気付いていないようだった。
章はその時、サッカー部の匠のポジションについていた。パスの精度は匠より低かったが、誰も気にするものはいなかった。
次は何を合わせるのか、足りなかったものはないか。他人の目を欺くための誤差を、どれだけゼロに近づけられるか。帰り道はいつもそれだけを話した。
高校二年の春、二人の周りに一人の女の子が現れた。
匠と同じクラスの片桐奈緒。明るく、よく笑う子だった。最初に話しかけたのは匠だった。しかし彼女が好きになったのが章か匠か、今となっては奈緒自身にも分からなかっただろう。
ある日、奈緒が言った。
「あなたって、会う日によって少し違う気がする」
匠は微笑んだ。
「そうかな」
「うん。でも好き」
匠はその夜、章に報告して二人で笑った。何がおかしかったのか、うまく説明はできない。
しかし、そのときの笑い方だけは、小学三年の帰り道に走りながら笑ったあの笑い方と、まだ少し似ていた。
───そして今日に至る。
テーブル越しに見える黒木の姿。六十代のはずだが、大柄で肌艶が良く、白髪は見えない。四十代の後半といっても通りそうな風貌だった。そんな黒木の表情に、一瞬困惑の影が落ちた。
「宮本くん……いや、今はお母さんの方の名字か。」
「はい、『遠峰』と言います」
黒木は微かに頷くだけだった。
章はスーツの内ポケットから封筒を取り出した。黒木が怪訝そうに手を伸ばす。その瞬間───
時計の針が正午を告げた。
第三話 南条律子
タブレットの画面の中で、男は何度目かのエレベーターを降りた。
南条律子は指先で画面をスワイプし、映像を巻き戻した。十六時の通報から四時間。遺体の搬出はすでに終えた。その後も鑑識の作業は続いているものの、現場の客室は少しずつ静けさを取り戻し始めていた。しかし、南条の頭の中はいまだ混乱の中にあった。
画面の中の男は、あまりにも不自然だった。いや、不自然なほど自然だと言うべきか。
二十代前半に見えるその男は、髪をきっちりと整え、体に馴染んだビジネススーツを着こなしている。霞が関の省庁に勤めるエリート、あるいは大手商社の若手社員の雰囲気。いずれにしろ、この高級ホテルの廊下に違和感なく溶け込んでいた。
殺人を犯す人間の姿じゃない、と南条は思った。
男の歩調に迷いはない。周囲を警戒するような視線の動きもなければ、帽子やマスクで顔を隠してもいない。カメラの真下を通る際、男はふと顔を上げたかのようにさえ見えた。まるで、「ほら、ここにいるぞ」と誰かに告げるように。その表情は晴れやかですらあり、これから商談か何かの大事な会合に向かうのだと周囲に思わせるのに十分な雰囲気だった。
「この男が、黒木代議士を殺した……?」
南条は思わず呟いた。
聞き込みを行った秘書たちの言葉が蘇る。黒木本人から「地元の古い知り合いに会う」と言われていたこと。そして、それぞれに別の用事を言いつけて秘書たちを外出させたこと。つまり、黒木自身がこの男との密会を望み、周囲を遠ざけたのだ。人払いをしてまで会う必要のある人物が、この若い男だというのか。
「南条」
不意に背後から声をかけられ、南条は肩を震わせた。振り返ると、捜査一課長の結城が青白い顔つきで立っていた。手にしたスマートフォンを握りしめる指先が白い。本来なら一課長が地方の所轄のように現場の部屋まで臨場することなどあり得ない。だが、国家レベルの大物政治家が絡む今回ばかりは話が違うのだろう。
「課長、今映像を確認していたんですが、被疑者らしからぬ挙動で……」
「サッチョウ(警察庁)から、俺に直電だ」
結城の張り詰めた声が、南条の言葉を遮った。警察庁の、それも上層部からの直接の介入。黒木ほどの大物政治家となれば当然——。
「たった今、福岡の飯塚遠賀署に黒木一郎の殺害犯を名乗る男が自首してきた」
一瞬の思考停止と再起動。南条の脳のギアが強制的に切り替わる。福岡は被害者の地元。そこで自首?何か符号めいたものを感じる。しかしその意味までは分からない。
「どんな男ですか。身元は?」
「それが、まともじゃない」
結城は喉の奥を鳴らし、信じられないものを見るような目で南条を見つめた。
「……双子だそうだ」
「 双子?」
「ああ。二人並んで受付に現れ、二人とも全く同じ名前を名乗っている。『遠峰章』だと」
「冗談でしょう。どちらかが付き添いか、あるいは身代わり――」
「二人とも『自分が東京のホテルで黒木を殺した』と供述している。全く同じ主張だ」
南条の指先が、タブレットの縁を強くきしませた。
「そもそもなぜ、都内で殺して福岡で自首なんです?そんな面倒な真似をしなくても、 都内で自首すればいいだけでしょうに。わざわざ黒木氏の地元に行って罪を告白する意味があるんですか?」
「南条係長!」
その時、所轄の丸の内署の刑事、佐伯警部補が息を切らして南条に駆け寄った。手には南条の持つものより新しいタブレットが握られている。
「新しい防犯カメラの映像です! ホテルのエントランスと、正面玄関前です」
南条は受け取ったタブレットに目を落とした。画面の中の男は、やはりどこか非現実的だった。犯罪者の陰惨さとは無縁の、まるで清涼飲料水のCMに出てくる俳優のような佇まい。
「航太、ちょっと」
南条は、目の前で床に這いつくばってカーペットの微物採取の手伝いをしていた、部下の遠藤航太を呼んだ。
「この映像の顔データをすぐに福岡へ送って。本人たちと照合してもらって」
「了解!」
遠藤が弾かれたように動き出すのを見送りながら、南条の胸の奥で、冷たい不安がじわじわと広がっていた。
第四話 捜査第五係
結城が苦渋をにじませた声を出した。
「警察庁は身柄をすぐにこちら(警視庁・丸の内署)に送るよう福岡県警に指示したんだが……現地の飯塚遠賀署が、妙な理屈をつけて突っぱねているらしい」
「突っぱねる? たかが地方の所轄が、県警や警察庁の命令に逆らうというんですか?」
南条は眉をひそめた。警察組織は完全な縦社会だ。国のトップ(警察庁)や、県警察本部(福岡県警)からの要請を所轄署が拒絶するなど、通常ではあり得ない。
「向こうの言い分はこうだ。『自首してきた二人は現在、容疑が確定していないため【任意】の段階である。かつ、任意での取り調べは最初に応対した飯塚遠賀署の管轄下にあり、東京への身柄移送を強制する法的根拠はない』とね」
「……屁理屈を」
南条は吐き捨てた。法律を盾にしているが、要するに「お前たちの思い通りにはさせない」というあからさまな妨害だ。被害者が地元の大物政治家の黒木だからこそ、手柄を東京に渡したくないのか。それとも――何か別の理由があるのか。
「現地の署長が頑固者でな。県警本部からの説得にも首を縦に振らないらしい。現役の政治家が殺された大事件だ、これ以上、お上を待たせて時間を空けるわけにはいかん。南条、お前が直接、福岡へ飛んでくれ。現地のガサツな連中をお前の得意の論理で黙らせて、その双子の身柄を何とかして取ってこい」
「了解しました。……しかし、一癖ありそうな相手ですね」
南条の刑事としての冷徹な本能が警報を鳴らしていた。双子の自首というかつてない状況と、旧態依然とした地方警察。ふたつの壁。
「私は福岡へ飛ぶ。健司は私と一緒に来て」
南条の言葉に、壁際で手帳に目を落としていた川口健司が鋭い目を上げた。四十歳の実力派で、南条の右腕として現場をまとめる主任警部補だ。
「分かりました」
川口は迷わず頷く。その横で、先ほどまで床に這いつくばっていた若手の遠藤も緊張した面持ちで佇んでいる。
「香は?」
「もうすぐ着きます……ああ、今、下にいます」と川口が答えた。増田香は三十代の中堅で、気が強く、頭も切れる巡査部長だ。この現場の引き揚げ作業と、所轄の丸の内署との調整を任せるなら彼女しかいない、と南条は思っていた。
「分かった。香が上がって来たら引き継ぎをお願い。航太、車を回して。タクシーでも何でもいい。空港へ急ぐ。」
遠藤が「任してください」と駆け出すのを見送り、南条は再びタブレットの画面に視線を落とした。
南条はタブレットの中の男――遠峰章の顔を睨みつけた。彼は何を考えてあんな平然とした顔で殺人を犯し、そして福岡で自首したのか。彼、いや、彼らと会って真実を、必ず暴き出してみせる。
エレベーターホールに増田の姿が見えた時、「車、あと七分で着きます!」と遠藤が言った。
「健司、七分…いえ五分で引き継ぎを」
「了解」
「香!」
南条は大声を出してエレベーターホールの増田を呼んだ。長い髪をきりりと結んだ増田が駆け寄ってくる。南条は彼女の胸にタブレットを押し付けた。
「結構、いい男よ」
「そうですか」
増田はニヤリと笑った。
「落としがいが、ありますね」
「あとで連絡する。令状(ふだ)の請求かけるから」
「了解です」
「航太をこき使って」
「それも了解です」
南条は短く告げ、足早に現場を後にした。
羽田からの機内、南条と川口はほとんど言葉を交わさず、それぞれの思考に沈んでいた。
東京のきらびやかな高級ホテルから、わずか数時間。南条たちは目的地である飯塚遠賀警察署の前に滑り込んだ。
夜間照明に照らされて、モダンなガラスカーテンウォールが光り輝いていた。その瀟洒な造りに、南条は驚いた。無意識に、全国どこにでもあるような無骨なコンクリート造の庁舎だと思っていたからだ。
夜間通用口の扉を押すと、薄暗い蛍光灯の光の中に、一人の女性警察官がポツンと立っていた。
体にフィットした紺のジャケットに、緩くウェーブのかかった髪をヘアゴム一つで雑に束ねている。年齢は二十代後半。 非常事態だというのに、彼女の目には怯えも、混乱もなかった。ただ気怠げで、どこか冷めた色が瞳の奥に宿っていた。
「警視庁捜査一課、南条です。こちら同じく、川口」
南条たちが手帳を提示すると、彼女はゆっくりと形式的な一礼をした。
「……お待ちしておりました。刑事課の、田村七海です。署長室にご案内します」
エレベーターに向かって歩き出しながら、先を歩く田村の背中に向かって、南条は探るように声をかけた。
「田村さん。こちらの状況はどう。自首してきた二人は、本当に『遠峰章』を名乗って譲らないの?」
田村は歩調を緩めず、前を向いたまま淡々と言った。
「ええ。名前も、生年月日も、住所も、二人の口から出る言葉は寸分違わず同じです。……でも、南条係長」
田村はエレベーターのボタンを押し、そこで初めて、南条を真っ直ぐに見据えた。
「あの二人、違う部屋に隔離されているのに、一言一句違わず、全く同じことを言うんです。同じ声、同じ抑揚で。それから、お互い知らない他人の空似だ、とも。自分の双子の弟の『遠峰匠』は、今でも東京の自宅にいるはずだ、って」
チーン、と間の抜けた音を立ててエレベーターの扉が開く。 南条は息を詰め、凍りついたようにその場に立ち尽くした。
第五話 南条の論理詰め
署長室には、もう一人いた。飯塚遠賀署の刑事課長、相沢。ここまで案内してくれた田村七海の上司にあたる人物である。
署長の荒木は痩せ型で神経質そうな男、相沢は恰幅がよく威圧感がある。二人とも、定年を間際に控えている。両者の顔にはどちらも深い皺が刻まれ、南条たちを迎える目は鋭かった。
「警視庁の南条です。お時間をいただき感謝いたします」
「川口です」
「南条警部、川口警部補、ご苦労様です。遠いところをありがとうございます」
形式的に頭を下げるだけで、敬礼はない。南条たちを歓迎していないことが、その態度にはありありと表れていた。荒木署長はしばらく南条を見つめたあと、相沢に顎で合図した。
「川口警部補を応接室に通してくれ。南条警部はこちらへ」
川口と相沢が出ていったあと、南条は改めて署長と相対した。
署長室は、この庁舎の外観とは輪をかけて不釣り合いなほど洗練されていた。壁一面を覆うウォールナットの造作棚。間接照明に浮かぶ重厚な革張りのソファ。窓際に鎮座する執務机は、国産の一枚板。どこかの高級ホテルのスイートを切り取って、そのまま移植したような空間だった。棚の一角には、黒木一郎と肩を並べて笑う荒木署長の写真が飾られている。
荒木は革張りの椅子に深く腰を落とし、細い目で南条を値踏みするように眺めた。
その視線を振り払うように、南条は話を切り出した。
「自首してきた二人の身柄を、丸の内署へ移送します。ご了承いただけますね?もっとも、それを決めるのは本人たちですが。警察庁からの要請は、すでに届いているかと思います」
「届いておりますよ」
荒木は鷹揚に頷いた。
「しかし、まだこちらでの聴取が終わっていません。今あなたも言ったように、あの二人はあくまで任意でご協力いただいている段階です。逮捕状も勾留状もない。移送を強制する法的根拠がございません」
南条は手帳を取り出し、ペンを走らせるふりをした。
「確認のため、記録させていただきます」
荒木の目が、わずかに細くなった。
「……どうぞ」
「では改めて。警察庁の協力要請を飯塚遠賀署として拒否した判断は、署長の独断ですか。それとも福岡県警本部との協議の上でのことですか」
一瞬、間があった。
「……県警本部とも連携しております」
「承知しました」
南条はペンを動かした。実際には何も書いていないが。
「では次に、被疑者との面会をお願いします」
「それも困ります」
荒木は即座に答えた。
「深夜ですよ、南条警部。彼らは今、署内の仮眠室で眠っています。任意でご協力いただいている方々を、この時間に起こすわけにはいかない。人権上の問題もある。明朝にしていただけますか」
荒木の言うことの筋は通っている。少なくとも表向きは。
南条の心の中で、何かが引っかかり始めていた。警察庁が急かしている重大事件だ。その被疑者を、捜査官が到着したというのに寝かせておく。縄張り意識か。手柄の独占か。だが、それにしては——。
「では」
南条は言った。
「せめて、最初に二人の自首を受けた担当者に話を聞かせてください。事実確認だけで構いません」
「それは、ここにおる田村くんになりますが」
荒木は田村をちらりと見た。
「彼女にも今夜はやるべきことがある。明日以降、改めて時間を取りましょう」
さすがの違和感に、南条はペンを動かすふりを止めた。
任意なのは確かだ。法的根拠がないから身柄の移送が強制できないというのは分かる。人権配慮上、深夜の面会を否定するのも一応は分かる。しかし、担当職員への事情確認を拒むことには、法的根拠も、手続き上の根拠も、組織論上の根拠も、何ひとつ存在しない。
なぜこの男は、田村七海を背後に隠そうとしているのか。これはただの縄張り意識でもなく、手柄の独占とも毛色が違う——。南条の思考が巡る。
南条は静かにペンを置き、手帳を膝に載せたまま、荒木署長をまっすぐ見据えた。
「署長」
南条は努めて平坦な声で言った。
「身柄の移送は法的根拠がないから応じられないとおっしゃいましたが、そもそも法的根拠が必要なのでしょうか。なぜ、このような重大事件であるにもかかわらず、上位機関に進んで協力しないのですか」
荒木の細い目が、ぴくりと動いた。
「……協力していないとは心外ですな。我々は適切な手続きに則って——」
「手続き」
南条は繰り返した。
「警察庁の要請が届いているにもかかわらず、身柄移送の協力を拒否し、面会も拒否し、担当職員へのヒアリングも拒否する。それが飯塚遠賀署の『適切な手続き』ですか。記録しておきます」
荒木の喉仏が、わずかに動いた。
「件の二人を、『任意でご協力いただいている方々』とおっしゃいましたが……はっきり言って、あなたの神経を疑います。自首ですよ。紛れもなく罪の告白だ。現状、防犯カメラでも同じ顔の男が確認できている。人を殺したと言っているワルを、札(逮捕状のこと)がないだけで何だというのです。この署では普段から、自首してきた人間を、こんなにもご丁寧に接待するのですか」
「……言葉を選んでいただきたい」
荒木の声に、棘が戻った。感情が滲んでいる。じわじわと追い詰められてきた男が、ようやく本音をのぞかせた瞬間だった。
「言葉は選んでいます」
南条は静かに答えた。
「だからこそ『接待』と言いました。あなたが今夜この二人にしていることを、ほかにどう表現すればいいのか、ぜひ教えていただきたい」
「……接待とは失敬だな」
荒木の声は低かった。
「我々は、必要な配慮をしているだけです」
「必要な配慮、ですか」
南条は荒木の顔を見て言った。
「警視庁の面会を拒み、担当職員へのヒアリングまで止めることが、配慮だと?」
荒木は何か言い返そうとして口を開き、しかし声にならなかった。
「担当職員へのヒアリングを拒む根拠が、私にはどうしても見当たりません。法律上の問題はない。手続き上の問題もない。組織の慣例として、むしろ当然のことのはずです」
荒木の表情が、完全に固まった。
「田村くんには今夜やるべきことが——」
「具体的に何でしょうか」
荒木は口を開きかけ、また閉じた。そして絞り出すように言った。
「……田村くん、南条警部に協力しなさい。ただし、捜査に関わる情報の開示は私の判断を仰ぐこと。いいな」
「はい」
田村が答えた声は、どこまでも平静だった。
第六話 母親
遠峰花は、近所でも評判の明るい少女だった。名前が示す通り、花が咲くように微笑み、鳥がさえずるように笑った。やがて美しく成長した彼女は、幼馴染みの真面目で一途な青年、宮本誠と結婚した。
誠は花のことを深く愛し、子供たちの目の前でさえ、妻である彼女のことを「花ちゃん」と呼んで憚らなかった。正直で真面目な性格で、家族のために勤勉に働いた。
花は地元のPTA役員を引き受けていた。頼まれると断れない性格だった彼女は、その日も書類を抱えて黒木の事務所を訪ねた。地元の小学校の改修工事に黒木が口利きをしてくれた、その礼状と関連書類を届けるためだった。黒木はこのPTAの名誉会長でもある。それ故に、過去にも何度か、花は書類を届けに黒木の事務所に訪れている。
黒木一郎は花を見るたびに、彼女の美しさに酔っていた。そして下腹部に黒い火が燻ぶるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
茶を飲もう、と言って黒木は花を引き留めた。花は笑って断ったが、黒木は彼女の肩に手を伸ばした。花は驚き、とっさに黒木の手を振りはらった。黒木の中に冷たい怒りが浸透していった。花の笑顔が消えた。黒木は一歩、花に近づいた。
その後黒木が電話をかけた相手は、熊沢勉。当時の飯塚遠賀署刑事課の現役の刑事だった。
第七話 田村七海
南条が案内された小さな応接室には、誰が用意したのか、インスタントコーヒーが二つ、すでに置かれていた。
南条が腰を下ろすと、田村はしばらく手元を見てから、ゆっくりと話し始めた。南条は話を聞きながら、田村という人間を観察していた。
感情的ではない。しかし冷淡でもない。見たものを見たまま言葉にする、その誠実さが伝わってくる。
この子は決して話を盛らない。と南条は思った。自分の記憶を、聞き手の期待に合わせて歪める人間なら、もっと早く断定的な言葉を選ぶ。だが彼女は、自分が見たことと、憶測にすぎないことをきちんと分けている。この署の排他的な空気に、染まっていないだけじゃない。南条は、彼女の聡明さと、物事の本質を見抜こうとする執念のようなものを感じていた。
「身分証は、運転免許証とマイナンバーカードを出したと」
「はい。ですので、別のものはあるか聞いてみたんです。あの、正確に言うと、免許証を出した方にマイナンバーカードはありますか、と聞いてみました」
「持っていないと答えた」
「はい。考えてみれば、それは当たり前ですよね。遠峰章の有効な身分証を二人で分けて持っているだけだと」
「適切な対応だと思います」
田村が、ほんの少し目を瞬いた。褒められることを予期していなかったような顔だった。
「……ありがとうございます」
南条は手帳にペンを走らせながら、何気なく言った。
「二人とも、今もまだ聴取を続けていますね?眠ってはいない。そうなんでしょう?」
田村の瞬きが止まった。南条はそれを見逃さなかった。彼女の反応は——嘘をついている上司をかばいながら、それでも自分は嘘をつきたくない人間のそれだった。
南条は何も言わなかった。手帳に視線を落としたまま、次の質問に移った。
「もう少し詳しく、彼らの供述の内容が知りたいのだけど」
田村は少し困った顔をして答えた。
「一応、捜査の内容に関わることなので……」
「分かりました。それは明日、私が自分で確認します」
廊下の時計は午前二時を回っていた。
「ありがとうございました、田村さん。助かりました」
南条が手帳を閉じると、田村は少し躊躇ってから口を開いた。
「……南条係長」
「なに」
田村は真っ直ぐに南条を見た。しかし、それ以上口を開くことはなかった。
「田村さん、また協力してもらえますか」
南条はそこで、少しだけ声を和らげた。
「無理にとは言いません。でも、あなたが見たことを、見たまま話してくれるなら助かります」
田村の目が、わずかに揺れた。
「はい」
南条は、その声の響きに少しだけ、彼女の体温が感じられるような気がした。続けて言った。
「それから…。今後は、七海さん、と呼んでもいいかしら?」
「はい」
今度は確実に、彼女の熱を感じた。
南条と川口が合流したのは、それから間もなくのことだった。宿の手配を済ませ、夜の街を歩きながら、川口が口を開いた。
「この庁舎、竣工が三年前なんですよ。黒木代議士の口利きで、国の補助金が大幅についたそうで。署員の保養施設も、黒木関連の会社が管理してる。末端の職員まで、見えないところで随分恩恵を受けている」
「よく調べたわね」
「ニュース検索だけでも大分わかりましたよ」
「そんなことを調べていたの、機内で?」
「係長は双子のことを考えていたでしょう。二人して同じことを考えても効率が悪い。ニュースで足りないところは、さっきの相沢課長との雑談で補完しました」
南条は少し笑った。この男を連れてきた判断は間違っていなかった、と思ったからだ。
本来なら、自分に代わって都内の捜査本部を仕切るのが川口の役割だった。ただ、残してきた増田が力不足とは思わないし、遠藤もよくやっている。今回のこの異常事態に際して、必ずこの男の経験と勘が必要になるだろう、と南条は思っていた。
「庇護者を失った、という感じがします」
川口が続けた。
「本来なら県警、さらに言えば警察庁が、この署を管轄するはずなのに、黒木の影響力の方が、ずっと上だった」
それは南条も感じていた。——そういう構造が、この署を動かしている。
「双子は詳しい動機を黙秘しているようですね。だから聴取が長引いてる」
「それを、相沢課長が?」
「いいえ、彼は何も言っていません。俺の予想です。相沢課長は言わなかったのではなく、彼自身も知らないのだろうと感じました」
南条は夜空を見上げた。明日、あの双子に会う。同じ顔をした二人の男。
彼らは、何を話すつもりなのか。
第八話 任意聴取
増田からのメッセージは、現場から指紋は検出されず、微物が若干採取されたという——簡潔な報告だった。
「微物が若干、指紋は無し」
南条は手短に川口に伝えた。
晩秋の福岡の空気は思ったより冷たく、吐く息が微かに白む。南条たちは署の玄関までの短い距離を、あえてゆっくりと歩いた。
「さあ、やりますか」
「落ち着いていこう、こちらのペースで」
「了解」
南条は懐かしさを感じていた。最新の設備に彩られた飯塚遠賀警察署のなかにあっても、取調室だけは普段と変わらない。澱んだ空気、白々しい壁。この部屋は全国どこへ行っても同じ顔をしている。ガラス張りの瀟洒な庁舎に気圧されていた感覚が、ここに入った途端、すうっと引いていく。ここは私の土俵だ、と南条は思った。
男は、すでに座っていた。
体に馴染んだ仕立ての良いビジネススーツを崩さず、長い脚を静かに揃えている。羽田からの機内で何度も見返した、ホテルの防犯カメラの映像そのものの端正な横顔がそこにあった。
南条は男と正面から向き合い、自分の警察手帳を机の上に滑らせた。
「警視庁捜査一課の南条です」
「川口です」
男は二人の手帳に一瞬だけ目を落とし、それから品定めをするような双眸を南条たちに向けた。
薄い唇が、静かに弧を描く。
「遠峰です」
落ち着いていた。
それは最初から分かっていた。それでも、実際に目の前にすると、その落ち着きはどこか異質だった。まるで取調室ではなく、馴染みのカフェにでも座っているかのように、男の佇まいには気負いがない。
「早速ですが」
南条は余計な前置きを排除して切り込んだ。
「昨日、あなたはどこにいましたか」
「丸の内ホテルにいました」
隠す気がない。聞かれたことに、ただ事実だけを返してくる。
「黒木氏に会いましたか」
「はい」
「何のために」
一瞬の間があった。
「復讐です」
部屋の隅でタイピングをしていた書記官の指先が、ピタリと止まった。しかし、南条は眉一つ動かさなかった。目の前の男の顔を、まっすぐに見ていた。
遠峰も視線を逸らさない。説明を加えるでもなく、ただその二文字を、部屋の空気に置いていった。
「復讐、ですか」
南条が繰り返すと、男は小さく頷いた。
「もう少し詳しく話していただけますか」
「今は、それだけです」
今は。その言葉が引っかかった。拒絶ではなく、保留。話す順番は自分が決める、ということか。
南条は角度を変えた。
「黒木氏とはどのようにして接触しましたか」
「後援会のホームページからアポイントを取りました」
答えは返ってくるが、しかし何も増えていない。事実だけが、必要最低限の形で置かれていく。南条が質問するたびに、男は過不足なく答えた。それなのに、取調室を出た時に何が残るか、想像できなかった。
「ホテルの客室で、黒木氏と何を話しましたか」
また間があった。
「特に話はしていません」
「話をしないままで、何をしたのですか」
遠峰は、南条を品定めをするような、何かを確かめるような目で見つめてから言った。
「南条刑事」
空気が少し変わった。
「はい」
「あなたは私のことを、知りたいと思っていますか」
南条は答えなかった。しかし男は続けた。
「私は、答えたくないのではありません。まだ、その時ではないと思っているだけです」
「その時、というのは」
遠峰は口を閉じたままだった。
容疑者と刑事が向かい合っているというのに、そこにあるのは緊張ではなく、奇妙な静けさだけだった。
南条はしばらく黙ったまま、遠峰を見ていた。動揺はしていない、この時、南条の頭の中には、もう一人の遠峰のことが浮かんでいた。二人の男が、同じことを同じ抑揚で喋ると、田村七海が言っていた。目の前の男がこれ以上何を言うのかよりも、南条はむしろ田村の言っていたことがどういうことなのか、確認したいという気持ちになっていた。
「では、今は、ここまでにします」
男は頷いた。会釈に近い、礼儀正しい動作だった。
廊下に出ると、川口が南条の隣に並んだ。二人は言葉を交わさず、しばらく身じろぎもしなかった。
やがて気を取り直すように、川口が軽い声で言い放った。
「たまにいますね、ああいうやつ。特に珍しくもない」
「ええ、そうね」
南条は頷いた。
「健司、次は、あなたから聞いて」
川口が、わずかに眉を上げた。
「同じことを同じように聞いても仕方ないでしょう。今度は順番も聞き方も変えてみるわ。揺さぶれるだけ揺さぶってみましょう」
川口は頷いた。言葉が少なくても伝わる男だった。
扉を開けると、全く同じ男が座っていた。いや——全く同じ、という言葉が、これほど正確に使われる場面が他にあるだろうか、と南条は思った。スーツの皺の寄り方まで同じだとは言わない。だが、座り方、長い脚の揃え方、こちらを見る双眸の角度。隣の部屋に置いてきたはずの男が、先回りしてここに座っているとしか思えなかった。
今度は、川口が先に口を開いた。
「黒木氏とは、どこで知り合ったんですか」
接触の方法ではなく、関係性から入る。一人目には聞かなかった角度だ。
「知り合いではありません」
「では、なぜ会えたんです」
「後援会のホームページからアポイントを取りました」
南条はこのとき初めて背筋がひやりとするのを感じた。こちらの問いかけは違うのに、返ってきた言葉は隣の部屋で聞いたものとそっくり同じだった。その順序も、抑揚も、息継ぎも、声色までも。
「アポイントの内容は?なぜ、黒木氏はあなたに会う気になったんでしょうか」
「ごく一般的な政策に関しての質問です。理由は私には分かりかねます」
答える言葉は変わっても、やはり情報は増えていない。南条はわざと砕けた調子で質問を割り込ませた。
「お腹は空いていませんか。朝食はどうされました?」
「大丈夫です」
一人目も、寸分違わぬ抑揚で「大丈夫です」と答えるに違いない。
川口が間を置かずに突く。
「昨日、あなたはどこにいましたか」
「丸の内ホテルにいました」
その後いくつかの質問を並べたが、南条の手帳は白いままだった。書き留めるべき差異が、どこにもなかったからだ。入口をどれだけ変えても、出口はいつも一つに繋がっていた。
川口の額に、うっすらと汗が滲んでいるのが見えた。この男が取調べで汗をかくのを、南条は初めて見た。
「最後に一つ」
南条は静かに尋ねた。
「黒木氏に、何のために会いましたか」
隣の部屋で感じたのと、寸分違わぬ長さの間があった。
「復讐です」
言葉は、そこで断ち切られていた。続きがあるはずの場所に、ただ深い淵だけが口を開けている。背筋を這い上がってくるものを、南条は奥歯を噛んで抑え込んだ。
まるで、一つの罪が二つに分かれて、別々の部屋で同じ供述を諳んじているかのようだった。
南条は、自分が何を相手にしているのか、まるで掴めなかった。 廊下に出て、扉が閉まる。
南条と川口はまたしても、しばらく口を開かなかった。やがて、川口が誰にともなく呟いた。
「……同じ人間が、二人いる」
二十数年、この仕事をしてきて、取調べのあとに「負けた」と思ったのは、いつ以来だろう。
南条は何も答えなかった。答えられなかったという方が正確か。
ただ一つ。この街の地面の下には、触れてはいけない何かが埋まっている。その気配だけを、南条は嗅ぎ取っていた。
第二章 人定の壁
第九話 再び南条の論理詰め
双子の聴取のあと、南条たちは、署内に特別に用意された会議室へ向かっていた。南条のスマートフォンが鳴った。丸の内署の捜査本部にいる増田だった。
「お疲れ様です。遠峰章の令状が取れました。係長、これ、どうします?」
逮捕状。その言葉を聞いたとき、南条は歯噛みするような焦燥感を感じた。増田の問いに、どう答えていいのか分からない。
「現状だと、執行はできない」
「結城課長から聞きました。いい男が二人いるそうですね」
「二人とも連れて帰る。そっちはどう?」
「現場から採取された繊維片と毛髪を鑑定に出しています。それから遠峰章の職場と出身大学の関係者、交友関係などを当たっています。あと、一応、弟の遠峰匠も探しています。まあ、そちらにいるどちらかが弟なんでしょうけど。それ以外はメールした通りです」
南条は会議室で田村七海の報告を聞いていた。
本籍地を辿ると、遠峰章と遠峰匠が生まれたのはこの街だった。
宮本章、宮本匠——当時はそう呼ばれていた。父の宮本誠は地元の小さな建設会社に勤める普通の男で、母の宮本花は地元の小学校でPTA役員を務めていた。
その家族が壊れたのは、双子が十歳の時だった。母親の花が自宅で死んでいるのを、帰宅した父親の誠が発見した。絞殺。誠のベルトが使われていた。誠はそのまま逮捕された。町内でも特に目を引く、美人妻の浮気を疑った夫婦喧嘩の末の犯行とされた。双子は祖母に引き取られ、この街を離れた。宮本誠はその後、獄中で死んでいる。
双子は高校卒業まで福岡にいたことも分かった。飯塚遠賀署の刑事たちは今、血眼になって彼らの人間関係を洗い出している。不気味な自首から一夜明けても、署内の喧騒は静まっていない。
「当時の捜査記録を見せて下さい」
南条の隣で川口が言った。
「それは出来ません、川口警部補」
即答だった。
署長の荒木は椅子の背にもたれたまま、感情の見えない声で言った。
「過去の事件の捜査資料です。現在の捜査とは無関係であり、外部への開示は適当ではありません」
その瞬間、南条の声が会議室の壁に跳ね返った。
「無関係ですって?」
荒木は黙ったまま椅子に座り直しただけで、淡々とした声で言った。
「被疑者・宮本誠は起訴され、最高裁で有罪が確定している。当時のことが知りたいなら、裁判記録なりを開示請求でも何でもして公的な手続きで取り寄せればいい。なぜわざわざ、うちの署の保管庫を漁りたがる?」
南条の目に静かに火が灯った。
「手続きを踏んでいては『遅い』から言っているんです。手間を省略させてもらえませんかね」
荒木は、今度は不快感を隠そうともせず、板の机を指先で叩いた。それを見た南条は更にたたみかける。
「現職の国会議員が殺害され、その犯人を名乗る男が二人同時に、あなたの署に自首してきた。これは現在進行形のテロにも等しい大事件です。そして、その双子の母親が、かつてこの街で殺され、父親が犯人として服役中に死亡している。……これほどの符号を前にして、過去の事件は無関係だと言い張るおつもりですか?」
「仮に関連があったとしてもだ」
荒木が身を乗り出し、威圧するように声を低くした。
「管轄が違う。ここは福岡県警飯塚遠賀署だ。警視庁の一係長が口を挟んでいい領域ではない。我々には我々の、地元の人間への『配慮』というものがある」
「配慮」
南条の薄い唇が、皮肉な形に歪んだ。
「またその言葉ですか。署長、あなたが守ろうとしているのは、被害者遺族ですか? その被害者遺族は今、取調室にいますよ。同職である私や川口に何の配慮も見せず、あの双子には配慮ですか?」
南条は立ち上がり、荒木の目を真っ直ぐに見据えた。
「終わった事件の捜査記録に、縄張り意識も何も無いはずです。確かに我々は所属する『会社』は違います。ですが、同じ警察官同士、今起こっている事件を解決し、目の前にいる犯罪者を正しく裁くという目的において、何か違いがありますか?」
南条の論撃は止まらない。
「もう一度、言います。手間を省略させて下さい。私たちは一刻も早く犯人を逮捕したい。それこそが、我々の何より優先する義務のはずです」
「しかし……」
「それを否定する合理的な理由をお聞かせいただきたい!」
荒木の絞り出すような声を、南条の鋭い声が完璧に叩き潰した。
そのとき、田村が一歩踏み出した。
「署長。……私が、地下のアーカイブから該当の記録を持ってまいります。南条警部のご指摘通り、現在の事件との関連性を精査することは、本署の不利益にはならないと判断します」
「田村……! お前、誰の部下だ!」
荒木が睨みつけるが、田村は怯まなかった。その冷めた瞳の奥には、組織の犬であることをやめた人間の、確かな覚悟があった。
「情報開示の最終判断は、署長にあります。ですが、書類をここに用意すること自体は、捜査の効率化のために必要な手続きです」
荒木は拳を握りしめ、やがて忌々しそうに顔を背けた。
「……勝手にしろ」
十分後、田村が会議室に持ってきたのは、驚くほど薄い一冊のファイルだった。
不自然なほどの薄さ。捜査の経緯を示す書類なのに、本来あるべき記述がない。父親の宮本誠は第一発見者として通報し、そのまま最有力容疑者として扱われていた。
「なんだ? これが……当時の捜査記録?」
川口がファイルをめくりながら、呆れたように呟いた。
「おいおい、現場の状況、聞き込みの結果、容疑者の特定に至る過程──どれもこれも、肝心な部分がごっそり省かれてやがる」
書類を見つめる田村の目が、更に冷たさを増していった。
まるで、最初から『宮本誠が犯人である』という結論に向けて、最短距離で帳尻を合わせたような書き方。担当者名には、熊沢勉と書いてあった。
「不自然なほどのスピード解決ね」
南条がその薄い紙面を覗き込む。現場に残されていたのは、夫である誠のベルト。第一発見者としての通報。それだけで、周囲の裏付け捜査もロクにせず、一気に起訴まで持ち込まれている。
──この街の地面の下には、やはり何か酷く歪んだ闇が眠っている。南条は確信を胸に、再びあの双子の待つ取調室へと向かった。
第十話 南条の暴走
「ちょっと、やり方を変えてみる。さっきは向こうのペースに乗りすぎた。今度はこっちから仕掛ける」
取調室までの廊下を歩きながら、南条は川口に向かって言った。
「係長……、勘弁して下さい。そういうとき、いつも俺が尻拭いじゃないですか」
川口は天井を見上げ、うんざりしたような声で答えた。
「自分のケツくらい、自分で拭けるわ」
「言いましたね?まあ、止めませんけど。でもその前に一回、過去の俺に謝ってもらえます?」
南条は小さく吹き出した。緊迫した空気のなかでさえ、部下とこうやって軽口を叩き合うのが、いつもの南条班の風景だった。
署長から引きずり出した不自然な過去の事件。双子の背景という「武器」を手に入れた。調子を取り戻してきた、このときの南条はそう思っていた。
「この街で生まれたんですね」
男は相変わらず、仕立ての良いスーツを崩さず、能面のような表情で座っていた。
「はい」
「お母さんのことも、調べました」
「そうですか」
「辛かったでしょう」
男は、同情はいらないとでもいうように、涼しい顔で南条の言葉を受け流した。
「南条刑事、その調子ですよ」
相手のペースには乗らない。南条は静かに反撃した。
「別に、あなたに同情して調べているわけじゃないわ。自首してきた人物の背景を調べる。警察官として当たり前のことをしているだけ」
男は再び能面のような表情に戻った。
「お父さんが逮捕された時、あなたたちはいくつでしたか」
「十歳です」
「この街の警察署に自首したのは、ご両親のことと関係がありますか」
男は少し間を置いて、いたずらっぽく答えた。
「どう思われますか」
「無関係ではないと思っています」
「どう思われるかは自由ですからね」
「お父さんは無実だと思いますか」
「有罪判決が出ています」
「あなたの考えを聞いています」
「私の考えは、捜査に関係ありますか」
「大いに関係あります」
南条は身を乗り出し、あえて語気を強めて言う。
「なぜあなたが黒木一郎を殺したか、なぜ復讐と言ったか——それを調べているんです。あなたの考えを知ることが、捜査そのものですよ。話してくれた方が早い」
男は答えなかった。感情のないガラス細工のような瞳で、ただ南条をじっと見つめるだけだった。
「黒木一郎への復讐、と言いましたね」
「はい」
「黒木とお母さんの間に何かありましたか」
「それは、南条刑事がお調べになることだと思います」
「あなたは私に、いえ、警察にそれを調べさせるために自首したんですか」
男は答えなかった。
「あなた言いましたよね。復讐した理由を話すのは、私がこの街を知った時だと。ですから私は、この街のことを知ろうとして、出身者のあなたに話しかけているんです」
男はまだ黙っている。
「黙っていたら分かりませんよ。あなたの動機は、あなたの言葉以外の事象から察して欲しいということですか?……警察相手に、クイズでも出してるつもり?」
皮肉を投げつけても、男の表情は動かなかった。
廊下に出て、隣の部屋に入った。同じ顔、同じ座り方の男の前に立つ。
「ご両親は今、どちらに」
「母は亡くなっています」
「それは何歳の時ですか」
「十歳です」
「お父さんは」
「母を殺して、服役中に亡くなりました」
一人目は言わなかった「母を殺して」という言葉。事実ではある。初めて引き出した二人の「差異」だ。しかし、それが何か収穫になったかは分からなかった。
「お父さんがお母さんを殺したと聞いて、どう思いましたか」
男は初めて、少し間を置いた。
「事実として受け止めました」
「それを信じていたんですか」
「有罪判決が出ています」
「それは答えになっていない」
男は何も言わなかった。
「黒木一郎とお母さんの間に、何かありましたか」
「南条刑事、その調子ですよ」
また同じ言葉だった。全く同じ抑揚。嘲笑うような響きも同じだった。
「この街に自首したのは、それが関係していますね」
「それは、南条刑事がお調べになることだと思います」
また同じ。南条の意地と苛立ちが、言葉になってあふれ出す。
「三文小説じゃないんですよ。父親が母親を殺した事件の被害者が、地元の人間を殺し、地元で自首した。この事実だけで、これらに相関関係があることくらい、刑事じゃなくても、誰にでも分かります」
男は再び、深く沈黙した。
「何か我々にメッセージがあるんでしょう?話してくれた方が早い。手っ取り早く行きましょう」
捲くし立てる南条を、男はどこか憐れむような目で見つめていた。南条は踵を返し、取調室の扉を出た。
冷えた廊下の空気を吸い込んだとき、南条は自分が汗をかいてることに気付いた。隣に並んだ川口も額に汗が見える。南条は川口を見上げて言った。
「どう思う」
「結城課長が聞いてなくて良かった」
「そうじゃなくて」
南条は八つ当たり気味に、川口の胸元を拳で小突いた。川口が真面目な表情に戻って言った。
「崩れたようには見えませんでしたね。……むしろ、こちらの出方を楽しんでいるようにも見えました」
南条は、川口の指先が震えていることに気付いていた。自分もそうならないように、南条は拳を握りしめた。やり方を変えて、責め立てたつもりだった。しかし、結局のところ、あの双子が敷いたレールの上を走らされているだけなのではないか。南条は、背筋に流れる汗の冷たさを感じていた。
第十一話 隠蔽
熊沢勉は、刑事になることが子供のころからの憧れであり、夢だった。そして実際に刑事になってか らは、心の底から天職だと思った。事件を解く、悪を暴く、そのためだけに生きられる。
その熊沢が一度だけ、職を失いかけたことがある。若い頃、酒に酔った勢いで、ある女と一夜を共にした。署員もよく訪れる定食屋の従業員だった。まさかその女がヤクザの情婦だと、熊沢には知るすべもなかった。熊沢はすぐに上司に相談した。しかしその二日後、熊沢は出勤停止の沙汰を受けることになる。組織は、そのことを免職の理由にしようとしたのだ。その時、一言口を利いたのが黒木一郎の父、今は「大黒木」と呼ばれる元国会議員の黒木大吾だった。
「まだ若い、再チャンスをやれ」
大黒木の言葉は、同情でも正義でもなかった。わざわざ使える「兵士」、まだまだ動ける「駒」を潰すのはもったいない、という乾いた判断。熊沢はその実利的な一言を、純粋な恩義として受け取った。
黒木一郎から電話を受けた時、熊沢は迷わなかった。現場に向かい、状況を見て、即座に判断した。長年の刑事経験が、皮肉にも完璧な隠蔽工作を可能にした。若き頃に胸に抱いていた無垢な正義は、黒木家への忠誠という、歪な形に変わっていた。
花の遺体を整え、殺害場所を花の自宅に仕立て上げ、現場に宮本誠のベルトを残した。夫婦喧嘩の末の犯行に見せかけた。帰宅した誠が遺体を発見し通報した時、熊沢はすでに次の動きを決めていた。第一発見者を最有力容疑者にするだけでよかった。あとは組織が動く。地元警察は最初から誠を犯人として捜査を進めた。現場に誠のベルト。誠は起訴され、有罪判決がでた。
第十二話 双子を知る人々
田村たち飯塚遠賀署刑事課の必死の電話攻勢の結果、双子と親しかった関係者と連絡が取れた。僅か一日で結果を出した彼らの姿に、南条と川口は素直に頭を下げた。
陸上部の顧問だった坂本という男は、今は別の高校で教えていた。五十代の半ば、日焼けした顔に白髪が混じっている。呼び出しに応じて署に来た時、その表情に迷惑そうな色はなかった。むしろ、協力したいという気持ちが前面に出ていた。
「よろしくお願いします、坂本先生」
「はい。あの二人のことで、何か——」
「まず確認させてください。遠峰章くんのことは、覚えていますか」
「覚えていますよ。私の陸上部にいました。長距離です。真面目な子でした」
「今日は、その遠峰章くんに会っていただきます。隣の部屋にいます」
坂本の顔が少し引き締まった。
「……分かりました」
観察室から、南条はその様子を見ていた。川口が隣に立っている。
部屋の中では坂本が男の向かいに座り、田村も坂本のすぐ隣に座った。刑事課長の相沢が壁際に控えている。
男は、いつものように椅子に座っていた。背筋が伸びている。視線が、入ってきた坂本に向く。
坂本が懐かしそうに言った。
「章」
「先生」
男の声は穏やかだった。坂本の表情が少し緩む。
「久しぶりだな。元気にしてたか」
「はい。おかげさまで」
坂本は椅子を引いて座った。しばらく男の顔を見ていた。それから、思い出したように口を開いた。
「思い出すのは、三年の予選だな。タイムが伸びなかっただろう。覚えてるか」
「はい、あの日は風が強かったんですよね。十五分四十二秒でした」
坂本が小さく頷いた。
「インターハイは覚えてるか」
「はい、悔しい思い出です。十五分三十一秒。本番には届きませんでした」
坂本は目を細めた。
「本当に悔しがってたよな、お前」
「先生に怒鳴られましたよ」
「怒鳴ってない」
坂本が苦笑した。
「いや……怒鳴ったか」
男は微かに笑った。
南条の隣で、川口が小さく息を吐いた。南条も同じだ。この男が自然に笑うのを初めて見た。
田村が立ち上がった。
「先生、もう一つ隣の部屋にも、同じ方がいます。そちらにも会っていただけますか」
「同じ方とは?」坂本の表情が、止まった。
次の部屋の扉を開けた時、坂本は一歩で足を止めた。彼らを前にする者は、全員同じ反応になるだろう。同じ顔、同じ背筋。同じ視線の角度。
「……章か?」
「先生」
全く同じ声だった。坂本はゆっくりと椅子を引いて座った。しばらく黙っていた。それから口を開いた。
「三年の予選、タイムが伸びなかっただろう。覚えてるか」
「十五分四十二秒です。あの日は風が強かったんですよね。」
坂本の手が、膝の上で静かに握られた。
「インターハイはどうだ?」
「はい、悔しい思い出です。十五分三十一秒。本番には届きませんでした」
「……そうだ」
声が、かすれていた。
「悔しがってたな、お前」
「先生に怒鳴られましたよ」
「……そうだったかもな」
男は微かに笑った。
坂本は長い間、その顔を見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。振り返らずに扉へ向かった。
坂本が観察室に通された。日焼けした手を膝の上で組んだまま、しばらく口を開かなかった。
「分かりません」
絞り出すように言った。
「毎日見ていたのに。タイムも、フォームも、全部頭に入ってる。声も、笑い方も。……全部同じだ。どちらが章なのか、分かりません」
南条は何も言えなかった。ハーフミラーの向こうの、空になった椅子を、しばらく見ていた。微かに見せた笑い顔さえ、全く同じにしか見えなかった。
もう一人、片桐奈緒は、地元のドラッグストアで働いていた。二十四歳。署に来た時、その顔には隠しきれない緊張があった。
「片桐さん、遠峰匠くんとはどういうお付き合いでしたか」
奈緒は少し間を置いた。
「……高校の時、付き合ってました」
「今は」
「別れました。大学に入ってすぐくらいに」
「遠峰章くんのことも知っていますか」
「はい。同じクラスだったので」
田村は手元の書類に目を落とした。
「今日来ていただいたのは、二人のうちどちらが匠くんか、分かるかもしれないと思ったからです。隣の部屋に二人います。一人ずつ会っていただけますか」
奈緒の手が、膝の上でわずかに動いた。
「……はい。あの、どちらかが匠なんですね!?」
奈緒の言葉の勢いに、田村は少し戸惑いながら答えた。
「おそらく……いえ、ほぼ間違いなくそうだとは思います」
最初の部屋に入った時、奈緒は扉の前で一瞬止まった。それから男の前まで歩いて、椅子を引いて座った。男を正面から睨むように見ている。男も、奈緒を見た。
「奈緒……」
なんと男が先に口を開いた。その瞬間、男の眉がハの字に下がり、瞳が僅かに泳いだ。不意の再会に対する、明らかな動揺の影。南条は観察室のガラス越しに息を飲んだ。これまでの能面が、初めて崩れた。 奈緒は黙ったままだ。
「いや、あいつさ、反省してるから……」
「元気なの?」
「匠? ああ、元気だよ」
「そんなに東京の女の方が良い?」
奈緒が急に立ち上がり、机越しに男の胸元へ激しく掴みかかった。 突発的な暴力の衝撃。男は両手を上げて椅子ごと後ろへのけぞり、喉を鳴らして顔を歪めた。その怯え方、 慌てて視線をあちこちに彷徨わせる拒絶の反応。田村と相沢が慌てて割って入り、暴れる奈緒を必死に引き剥がす。
「奈緒、ばか、よく見ろ! 俺は章だよ!」
「うるさい! お前、匠だろ!」
掴みかかられた男は、呼吸を乱しながら乱れた衣服を整えていた。 田村が奈緒を抱きかかえるように一度部屋の外へ連れ出す。
「もう一人に会わせて!」と片桐奈緒が叫ぶ声が響いた。
南条と川口は廊下に出て、二人に近付いた。南条を見て、田村が軽く首を振る。
「片桐さん、あなたの気持ちは今、分かりました」
南条は意識して優しく声をかけた。
「もう少し冷静になってもらえるなら、もう一人に会わせます。私たちは彼らの違いを知りたいんです」
奈緒は一度深く呼吸したあと、力が抜けたように「……分かりました」と答えた。
次の部屋に入った時、奈緒は最初よりゆっくり椅子を引いて座った。男も奈緒を見ている。
「奈緒……」
こちらも男が先に口を開いた。 南条は、喉の奥がカサリと乾くのを感じた。 男の眉の下がり方、 泳いだ瞳の速度。それは、先ほどの部屋の男が見せた「動揺」と、一分の狂いもなく完全に同じだった。このとき、南条は初めて、そして明確に、恐怖した。
「あんたが匠?」
「いや、よく見てくれ、俺は章だよ」
「見たって分かんないわよ、昔っから。今、匠はどこにいるの?」
「都内の自宅にいると思うけど……」
「都内?」
奈緒の声が鋭くなった。田村が腰を浮かせ、相沢が背中を離した。田村が必死に奈緒に目配せをする。
「匠は元気?」
「ああ、元気だよ」
奈緒が再び立ち上がり、激昂して男に掴みかかろうとした。田村が機先を制してその身体を押し留めたが、奈緒の手は男の袖口に届き、爪を立てて激しく引っ掻いた。
「痛い! 奈緒、やめろ! 俺は章だって!」
男が身をのけぞらせ、喉を鳴らした。 南条の背筋に、氷水を流し込まれたような衝撃が走った。 一人目の男と全く同じタイミングで椅子が引きずられ、全く同じ角度で顔が歪み、全く同じ位置に手を振り上げ、同じように視線を散らして、奈緒の暴力を拒絶していた。
準備されたセリフではない。予期せぬ女の狂乱という突発的なアクシデントに対して、二人の肉体と精神が弾き出した「慌て方のコンテキスト」すら、ミリ単位の誤差もなく完全にシンクロしている。 それは調教された人間のそれではない。
この男たちは、魂のレベルで一つの生命体として機能している。 これまで必死に押さえ込んできた、刑事としての冷徹なプライドが、足元から音を立てて崩れていく。 (私は、この男たちに恐怖している—) 南条は、決定的な敗北感を自覚した。
田村と相沢が奈緒を廊下に引きずり出した。南条は、ただ首を振ることしかできなかった。相沢が田村に向かって言った。
「こりゃだめだ、連れて行け。彼女は冷静になれない」
片桐奈緒はまだ何か喚いていたが、田村に連れ去られるようにして廊下の奥へと消えていった。奈緒の行く先を見送りながら、川口が口を開いた。
「相沢さん」
「はい?」
「福岡の女性って……」
「誤解だ。そんなことはない。あ、いや、ウチの女房も……」
南条の耳には、男たちのこの愚かなやり取りは聞こえていない。ただひたすら恐怖を振り払うための深呼吸を、ため息に見せかけることしかできなかった。
第十三話 子供の遊び
父親の宮本誠が服役していたのは、九州北部の刑務所だった。
川口が当時の担当刑務官を調べてきた。その中に、安田敬一という名前があった。すでに退職している。川口が連絡を取ると、安田は話を聞くことを承諾した。
父親はよく手紙を書いていたらしい。双子と祖母に宛てた手紙を、安田は職務として目を通した。差し止めるような内容ではなかった。ただ、読むたびに何か引っかかるものがあったと、後に安田は言う。「この人は、本当にやったのだろうか」と。証拠も確信もない。ただ、手紙を書く宮本の字と言葉に、何かを感じた。
そして、当時の担当刑事の熊沢勉。
熊沢は退職後、黒木の関連会社に再就職していた。いわゆる天下り組だ。黒木の会社で今は「顧問」という肩書きを持っている。ただの再就職ではない。
点と点が、線になりかけていた。
三日目の午後。飯塚遠賀署の刑事課の要請で、双子の母方の祖母、遠峰静江が姿を現した。
七十代半ばというのが信じられないほど、髪は黒く艶があり、背筋はすっきりと伸びていた。美人と謳われた娘の花がそうであったように、静江もまた往年の美貌の残り香を漂わせた女性だった。待合のソファに座って南条と向かい合った時、彼女はまず静かに言った。
「仲のいい兄弟でしたよ。よく入れ替わって遊んでいました」
目を伏せながら語る声は、穏やかだった。
「誠さんが刑務所で死ぬ前後くらいでしょうか。気がついたら、また始めていました」
恩師も、元交際相手も、誰一人として二人を見分けられなかった。肉親ならあるいは——南条は最後の薄い期待を胸に、静江を直接、双子の待つ部屋へ通した。
最初の部屋の扉が開いた。椅子に腰を下ろしていた男が顔を上げる。静江の姿を認めた瞬間、その能面のような表情がふっと和らいだ。南条はガラスの向こうからそれを見ていた。
「ばあちゃん」
穏やかな声だった。これまでの取調室で一度も見せなかった、本物の色が滲んでいた。
「遠いところわざわざごめんね」
静江は机越しに男の顔をじっと見つめ、節くれ立った細い手を、そっとその頬に当てた。
「あんた……章かい。それとも、匠かい」
男はただ、優しく微笑み返すだけだった。肯定も、否定もなかった。
次の部屋の扉が開いた瞬間、もう一人の男の表情も、まったく同じ角度で、まったく同じ速さで和らいだ。
「ばあちゃん。遠いところわざわざごめんね」
声色、抑揚、息継ぎの深さまで、隣の部屋と寸分違わなかった。静江はその男の頬にも手を当て、瞳を覗き込んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
静江の手が、小刻みに震え始めた。それでも彼女は手を離さなかった。男の顔を、まっすぐに見つめたまま、絞り出すように言った。
「あなたたちが呼び合ってくれないと、おばあちゃん分からないの」
男は微笑んだままだった。
「……ごめんね」
涙が、頬に触れたままの手の甲に落ちた。謝罪の向かう先は、静江自身にも分からないように見えた。見分けられなかった十四年への詫びなのか。こんな生き方をさせてしまったことへの詫びなのか。
坂本や奈緒が崩れるのとは、何かが違った。肉親が見分けを拒絶されていたのではない。見分けさせてもらえなかったのだ。自らの意志で、徹底して。
論理で詰める。証拠を積み上げる。それが南条のやり方だった。しかしこの静かな部屋で、その強さは根元から折られた気がした。
その夜、増田から報告が届いた。双方の職場と恋人宅の生活用品から、二人の指紋が混在して検出されたという。日常的な入れ替わりの証明だった。しかしそもそも現場には指紋がない。どちらが実行犯かの特定には、届かない。
第十四話 手紙
宮本誠は毎晩、手紙を書いた。
報奨金で最初に買うのは、便箋とペンの替え芯だった。替え芯が尽きると、次の作業賃が入るまで文字を綴ることができなかった。その空白の時間が、誠には何よりも恐ろしかった。思考が暗闇に追いつかれ、そのまま呑み込まれてしまいそうになるからだ。
宛先はいつも同じだった。章へ。匠へ。
『お父さんはやってない』
最初の頃、手紙は何十通もその叫びから始まっていた。だが、どれだけ無実を訴えても、鉄格子の外には届かない。
やがて手紙の内容は、 殺された妻・花の追憶へと変わっていった。黒木の事務所に行くたびに、あの男の目つきがおかしかったこと。あまり行くなと何度も引き留めたこと。なのに彼女は「大丈夫よ」と笑っていたと、何度も、何度も書いた。花が死んだ日、花が黒木の事務所に行ったことも書いた。
取調べを担当した熊沢という刑事の異常さも、執念深く文字に刻んだ。初日から自分を犯人と決めつけ、ありもしない証拠を都合よく「発見」し、言葉の暴力で心をへし折りにきた。なぜ、なぜこれほどまでに俺を犯人に仕立て上げたいのか。
ペンを握る誠の精神は、少しずつ、確実に壊れ始めていた。夜な夜な独房の床で悔し涙を流し、爪が割れるほど壁を掻きむしった。死にたい、消えてしまいたいと思った夜のことも、隠さずに正直に書いた。
『でも、お前たちの顔を思い出すと、もう少しだけ待てる気がする。章と匠に会いたい。それだけが、今のお父さんの全てだ』
手紙の終わりには、いつも絞り出すような一節が遺されていた。
『お父さんは、信じている。いつか本当のことが分かる日が来ると。この街には、おかしいと思っても口をつぐむ人間が多すぎる。でもそれは、人間が弱いからじゃない。そういう空気を作った人間がいるからだ。お前たちはそういう空気に、絶対に負けないでいてほしい』
文字は涙で滲み、筆圧で紙が破れていた。しかし次第に誠の言葉は力を失い、細く、震え、判読するのさえ難しくなっていった。
この狂気とも言える手紙の束は、すべて一人の男の目を経由していた。
担当刑務官の安田敬一。几帳面な男で、規則通りに、誠が綴る一文字一文字に目を通した。外部への暗号や、規律を乱すような内容は含まれていないと判断した。差し止めるべき法的な根拠はどこにもなかった。
だが、読むたびに。 安田の胸の奥には、冷たい澱(おり)のような問いが浮かび上がり、年を追うごとに大きく膨らんでいった。
(この人は、本当にやったのだろうか)
これほど優しく、これほどに壊れそうな男が、深く愛した妻を本当に殺害するような人間なのだろうか。誠の文字から伝わってくる絶望に戦慄を覚える日さえあった。
安田にできたのは、ただ一つ。誠の悲痛な叫びを「差し止めず、息子たちの元へ届けること」だけだった。
第十五話 仕事、友情、恋愛
南条のスマートフォンが鳴ったのは、静江が観察室を出て間もなくのことだった。表示された名前は結城。
「南条、今どうなってる」
一課長の声は低かった。怒りとも焦りとも取れない、平板な低さだ。
「任意聴取を続けています」
「上がうるさい。いつ連れてくる」
「もう少し時間をいただければ——」
「ない。今すぐ動け」
電話が切れた。
南条はしばらくスマートフォンを手に持ったまま、廊下の窓の外を見た。夕暮れが近い。三日目が終わろうとしていた。
坂本も、奈緒も、静江も。この街の誰一人として、二人を見分けられなかった。福岡でできることは、やり尽くした。南条はそれを認めた。
取調室の扉を開けた。一人目の男が、いつものように椅子に座っていた。
「東京に移動していただきたい」
男は南条を見た。
「丸の内署で、あなたたちの職場の方や知人に話を聞きます。任意でお願いします」
「構いません、ですが南条さん。この街のことが分かりましたか?」
男の声に色はなかった。南条は続けた。
「一つ、言っておきます」
男が、わずかに顔を上げた。
「この街のことが、おかしいとは思っています。黒木一郎の影響力、あなたたちの父親の事件の解決の速さ——説明のつかないことが多い。ただし、まだ全部は分かっていない」
南条は一度止まった。自分自身を納得させるように、あえてゆっくりと間を取った。
「川口をここに残します。田村七海という刑事もいる。彼らに調査を続けさせます」
今度は男の方が間を取った。少しの沈黙。
「構いません」
男は静かに言った。それから、更に少し間を置いて続けた。
「南条さん」
「何ですか」
「間に合いませんでしたね」
南条は眉を動かした。
「時間切れです」
それだけ言って、男は口を閉じた。南条はその言葉の意味が分からなかった。脅しでも、挑発でもない。ただ事実を告げるような口ぶりだった。
廊下に出て、隣の部屋に入った。同じことが繰り返された。
翌朝、南条は豪華な飯塚遠賀署のエントランスに立っていた。出発前の細かな指示を川口に伝えていると、肩越しに田村七海の姿が見えた。彼女と初めて話した日、少し熱を持ったように感じたその瞳には、再び冷たい影が差し始めている。
「結局、あの子のことを、一度も七海さんと呼べなかった」
「田村刑事ですか。……あっと、今向こうにいますよ、呼んでみては?」
川口が、少しふざけたような仕草で大げさに振り向きながら言った。
南条はそれには答えず、真剣な顔で言った。
「あの子の目……。健司、気付いてる?」
川口は頷いた。
「あれは、辞めますね、きっと。同じ目をした若いやつを何人も見てきました」
「彼女は優秀よ」
「ですね。……心強いですよ、これからしばらくは彼女と一緒に捜査をすることになりますから」
「絶対に辞めさせないで。健司、あなたが何とかしなさい」
川口は少しおどけた調子で答えた。
「むしろここを辞めてもらって、うちの会社に来てもらうのはどうです?」
南条は少し笑って言った。
「それもいいかもね」
南条は、そのままエントランスで川口と田村と別れ、双子を連れて新幹線に乗った。
三人掛けの座席に並んで座る二人の男は、車窓の景色も見ず、文庫本も開かず、ただ前を向いていた。南条は通路を挟んだ反対側から、その横顔を交互に眺めた。博多を出て、小倉を過ぎ、車内が静かになるにつれて、あの言葉が繰り返し頭に浮かんだ。
時間切れとは、何の時間が切れたのか。
丸の内署に着いたのは昼前だった。
南条は作戦を立てた。同じ質問をするのではなく、時期をずらす。記憶の深さを測る。福岡の関係者は「目の前の男が章か匠か」を見分けようとした。東京では違う角度から崩す。二人の間に、どこかに、必ず微細なズレがある。そう信じるしかなかった。
最初に呼ばれたのは、双子の直属の上司だった。四十代の、几帳面そうな男だ。事情を説明すると、神妙な顔で頷いた。
南条は一人目の部屋の扉を開けた。
「遠峰くん、半年前の丸山商事さんとの件なんですが、あの時の経緯を教えてもらえますか」
「ああ、あの件ですか」
男はすぐに答えた。
「先方の担当が小島さんから飯野主任に変わったタイミングで、条件も変わったんです。最終的には単価を三パーセント下げる形で落ち着きました。議事録は共有フォルダに入ってます。こちらは安藤課長に照査を受けています」
廊下に出て、次の扉を開けた。
「遠峰くん、一年前に手伝ってもらった北陸プロジェクトの資料なんですが」
「ああ、あれですか。最終版は越野さんが管理してるはずです。途中で仕様が変わった部分だけ、別ファイルで残してあります。あ、当時の見積書は共有フォルダの見積じゃなくて、増減の方に入ってます」
廊下に戻ってきた上司は、青ざめていた。
「……どちらも、合っています」
声が揺れていた。南条は何も言わなかった。
次はゼミの友人だった。丸顔で人の良さそうな男で、応接室に通される前から落ち着かない様子だった。
一人目の部屋の扉を南条が開けた。
「よう。お前、何やったの…」
部屋の中の男が顔を上げた。
「おう。それよりさ、丸ちゃん。俺、君の飲み代の七千円、立て替えてるんだけど……」
友人の顔が一瞬止まった。
「あ、うん。ああ、ごめん、今ちょっと持ち合わせがなくて」
男は、楽しそうに笑った。
「君は、いつもそうだよな」
友人は次の扉を開けた。南条からは「久しぶりのフリ」をしろと言われていた。
「よう、久しぶり」
「久しぶり?何言ってんだ。丸ちゃん、君、この前の飲み会、ちゃんと帰れたの?終電ギリギリだったろ」
友人は笑いかけて、止まった。
「あ、ああ、帰れたよ……。気付いたら家だった」
男は、楽しそうに笑った。
「君は、いつもそうだよな」
廊下に出てきた友人は、自分の恐怖に怯えるように南条を見た。
「僕、普通に返事しちゃってました。どっちが章か、分からないです……」
「そうですか……。ありがとうございました」
「僕……気づかなかったってことですか?四年間も?」
南条は答えなかった。
他の同僚を呼んでも結果は同じ。別の友人を呼んでも、やはり同じだった。
最後に呼ばれたのは、立花遥香。遠峰匠の現在の恋人だった。
二十六歳。落ち着いた目をした女性だった。遠峰匠を探している、いや章を探していると言われて、指紋採取の説明を受けた時点で、彼女には全てが分かっていたはずだ。自分の家に「二人の男」がいたことを。それでも来た。南条はそのことを、一言も口にしなかった。
「最初に、こちらの部屋に入っていただけますか」
一人目の扉を開けた。男が顔を上げる。遥香女は一歩入って、止まった。
「……初めまして」
男は静かに答えた。
「初めまして。匠から貴女の話は聞いています」
遥香はしばらく男の顔を見ていた。それから南条を振り返った。首を横に振った。言葉はなかった。
次の部屋に入れた。男が顔を上げた瞬間、遥香の肩がわずかに動いた。唇が開きかけて、止まった。遥香は何も言えなくなってしまった」
「匠から貴女の話は聞いています」
男は一言、そう言った。
応接室に戻った遥香を座らせてから、南条は言った。
「航太、ちょっと外してくれる」
部屋にいた遠藤が、一瞬だけ南条を見てから出ていった。残ったのは南条と増田、遥香の三人だった。
南条は椅子を引いて、遥香の正面に座った。
「不快な質問をします。答えたくなければ答えなくて構いません」
遥香は南条を見た。頷かなかったが、目は逸らしていない。
「匠さんと一緒にいた時のことを聞かせてください。身体的なことも含めて」
遥香は少し間を置いた。
「……どこまで」
「全部です」
また間があった。遥香は一度だけ視線を落として、それから戻した。
「抱かれた時のことですか」
「はい」
「違うと思ったことは、なかったか」
遥香はゆっくりと息を吐いた。
「最初は——」と言いかけて、止まった。
増田が静かに扉を閉めた。それを見て遥香は続けた。
「最初の頃、一度だけ、あれ、と思ったことがありました」
南条は手帳を閉じた。ここからは記録に残さないという意志表示だ。
「どんな風に?」
「触れ方が、いつもと少し違いました。順番というか、どこから来るかというか、あと力の入れ方とか……。でも次の時にはまた戻っていて、気のせいだと思いました」
「それは一度だけですか」
「……二度、あったかもしれません」
南条は続けた。
「彼からのアクションではなく、彼の身体的な反射やリアクションの方で、いつもと違うと感じた部分は他にありますか。どんな細かいことでも」
遥香はしばらく考えた。
「いえ、思い出そうとしてますが……。でもやっぱり分かりません……。」
仮に差異があったとして、それで何が分かるのか。それが章なのか匠なのか、それを証明する方法がない。それでも南条は、どんなものでもいいから、違いを見つけたかった。目の前にいる二人が別の人間なのだ、と自分に言い聞かせるために。
「ありがとうございました」
南条がお辞儀をすると、遥香が口を開いた。
「私は、どちらと付き合っていたんですか」
南条は答えなかった。
「両方、ということですか」
増田が顔を上げた。南条は遥香を見たまま、言った。
「現時点では、分かりません」
遥香は小さく頷いた。泣かなかった。それが、かえって南条には重かった。
第十六話 歪んだ忠義
川口らが熊沢の連絡先を調べ始めたのは、南条たちが新幹線に乗った直後のことだった。
田村が相沢の部屋から呼び出されたのは、その三十分後だ。
「田村、今日の予定を見直せ」
相沢は机の前に座ったまま、顔を上げなかった。
「何かありましたか」
「熊沢勉への聴取は、今日は見送れと言ってる」
田村は一瞬、間を置いた。
「理由を聞いてもいいですか」
「署長からの指示だ」
「それだけの理由ですか」
相沢がようやく顔を上げた。
「それだけ?それが全てだろうが!いったい、お前は誰の部下なんだ!」
「飯塚遠賀署の人間です」
「だったら署長の指示に従え」
田村は相沢を見た。相沢は視線を逸らした。署長もこの男も分かっているのだ、この過去を掘り起こすことの意味を。そこに正義は無い。ただの保身だ。過去のことだから関係ない、そうはならないことも分っている。定年を前にして問題を起こしたくない。だから止めようとしている。卒配後、最速のペースで刑事になった田村は、すでに「目」を持っている。怒りの仮面のその向こうにある、おぞましい真の姿を見る目。
「分かりました」
田村は部屋を出た。廊下を歩いて、川口のいる小部屋に入った。川口は田村の顔を見て、手を止めた。
「止められました」
「署長から?」
「相沢経由で」
川口は少し考えてから言った。
「あなたはどうしたいですか」
田村は窓の外を見た。
「正直に言うと」田村は言った。「もうどうでもいいと思ってます、この組織」
川口は黙って続きを待った。
「熱くなって戦おうとか、そういうんじゃないです。ただ、こんな署にいてもしょうがないなって。辞めることになってもいい」
「辞めた後は」
「考えてません」
川口はしばらく田村を見ていた。
「熊沢さんのところへ行きましょう」
田村は川口を見た。
「署長の指示はどうしますか」
「私は南条から直接、聴取の指示を受けています。指揮系統の問題なら、南条に確認を取ればいい」
川口は立ち上がった。
「田村さん、辞めるのはいつでもできる。今日やれることを今日やってから考えても遅くない」
田村は黙ったまま動かなかった。
「七海さん」
「えっ」
「そう呼びかけられなかったことを、南条は悔いていました」
「そうでしたか……」
田村は小さく息を吐き出して、そして一歩踏み出した。
「行きます」
黒木の関連会社は、駅から十分ほどの場所にあった。地方都市の、ありふれたビルの三階。エレベーターを降りると、受付の女性が川口たちを見て一瞬だけ表情を固めた。警察だと分かったのだろう。
応接室に通された。革張りのソファと、低いテーブル。壁に地元の風景写真が飾ってある。しばらくして熊沢が入ってきた。
六十代半ば。顧問という肩書きにしては、背中に余計な肉がついていない。現役を退いて十年近く経つはずだが、目に刑事の光が残っていた。ソファへの座り方、視線の置き場所。場数を踏んだ人間の自然さだった。自分のテリトリーで迎えた余裕もあった。
「わざわざどうも」
熊沢が先に口を開いた。
「お時間をいただいてありがとうございます」
川口が穏やかに返した。
「任意ですので、お答えいただけない部分があっても構いません」
「分かってます」
熊沢の声は低く、乾いていた。
「宮本誠さんの件について、お話を聞かせてください。当時の捜査ファイルを拝見しました。現場の痕跡確認に要した時間が、通常の案件と比べてかなり短い。周辺へのアリバイ確認も、記録が薄い」
「現場の状況がそれを可能にした。珍しくはない」
川口は少し間を置いた。
「そういうこともありますね」
熊沢は川口を見た。動じていない。熊沢の顔を見つめたまま黙っていた田村が、口を開いた。静かに、しかし、力強く言った。
「宮本誠さんは、もしかすると無実だったのではありませんか」
「有罪判決が出ています」
川口が後を引き継いで言った。
「それは聞いていません。あなた個人が、どう思っていたか聞いています」
「私が思うことは関係ない。法が判断した」
川口は頷いた。田村が少し身を乗り出すように座り直した。
「熊沢さん」
田村は熊沢を正面から見据えて言った。
「宮本誠さんは獄中で手紙を書いていました。息子たちへの手紙です。あなたのことも書いています。最初から犯人と決めつけていたと。言葉で心をへし折りにきたと」
「犯人が何を書こうと—」
「あなたがそう思っていても、宮本さん本人はそう思っていなかった」
熊沢は黙った。
「その手紙は、服役中に死ぬ直前まで続いていました」
沈黙があった。
それから熊沢は顔を上げた。
「私は話すことはありません」
声は変わらず低く、乾いたままだった。
「この街を守るために命を削って働いた人間がいる。その人間の名誉を、私が傷つけるわけにはいかない」
「黒木代議士、もしくはその父の黒木大吾氏のことですか」
「この街に住む全ての人のことです」
熊沢は川口と田村を見た。
「あなたたちには分からない。よそから来た人間には。この土地で何十年も生きてきた人間が、何を見て、何を背負っているか」
「私には分かりません」と川口は言った。「ただ、宮本誠さんの息子たちも、この土地で生きていました」
熊沢は答えなかった。
「熊沢さん、当時のことをお聞かせ願えませんか」川口が続ける。
「話すことはない。記録にあることが全てだ」
川口は一瞬黙ったあと、少しだけ砕けたような声色で話し出した。
「熊沢先輩、私もあなたと同じ刑事ですから知っています。事件は……記録に残らないことの方が多い。それは、人間の気持ちです。被害者、遺族、そして私たち捜査する側の気持ちも」
田村が川口を見た。目に少し熱が戻ったように見えた。
「あなたは、この事件で何を思いましたか。被害者のことを考え、犯人を、罪を、憎みましたか。今の私たちと同じ、当時の捜査員の、事件への切なる思いが、あの書類からは読み取れない」
「…………」
熊沢は視線を落とし、黙ったまま腕を組んでいた。
「だからこうして、聞きに来ているのです。話してくれませんか」
もう終わりだ、というように熊沢は立ち上がった。
「話すことはない。帰ってくれ。」
川口が立ち上がった。田村も続いた。
熊沢は微動だにしなかった。川口がドアに手をかけた時、熊沢が低く言った。
「あの子たちは、どうなる」
川口は振り返らなかった。
「逮捕しますよ。これからね」
ドアが閉まった。
エレベーターを待ちながら、田村は川口の横顔を見ていた。川口は少し考える様子を見せてから口を開いた。
「明日、また来ます」
「明日ですか」
「明日でだめなら、明後日も」
「分かりました」
エレベーターが来るまでの間も、田村はずっと川口を見ていた。川口の肩の向こうに、南条の姿が見えた気がした。川口はエレベーターの扉を見たまま動かない。
田村は川口の言葉を思い出していた。捜査記録には残らない、刑事の気持ち——自分は、この事件に何を思って、何を感じているのだろうか。
元刑事、熊沢勉。全部知っている男が、黙っている。証拠がなければ、こちらには何もできない。その事実が冷たく、重く、田村の目の前に影を落としていた。ただ自分の隣に立つ、川口という男が発する熱だけが、今の田村にとっての支えだった。
第三章 世論と制度
第十七話 時限爆弾
書き留めるべき差異が、東京のどこを探しても一つも見つからなかった。身体の相性、声の質、記憶の粒度、仕事の細部。何もかもが完全に一致していた。南条は手帳をコートのポケットに押し込み、廊下に出た。
完全に、手詰まりだった。
廊下に出た時、時計は午後五時を回っていた。
南条がスマートフォンを見ると、通知が画面を埋め始めていた。SNSのニュースアプリ、各社の速報。最初は何のことか分からなかった。タップして開いた瞬間、南条は足を止めた。
動画だった。
白い壁を背に、白いシャツを着た若い男がカメラを真っ直ぐに見ている。
「遠峰章と申します」
男は静かに言った。
「二〇一二年、私の母が死にました。母の名前は宮本花といいます。自宅で首を絞められ殺されていました。父が自宅で母の遺体を発見しました。首には父のベルトが巻かれていました」
男は一度だけ目を伏せた。それからカメラに戻った。
「父の名前は宮本誠といいます。第一発見者として通報した父は、そのままその日のうちに最有力容疑者として扱われました。捜査は異常なほど速く進みました。裁判の記録を見ました。証拠書類の異常な薄さにまず驚きました。周辺への聞き込みも、アリバイの確認、裏取りも、他の殺害方法可能性の検討も、記録にはほとんど残っていません。書類の作成者がほぼ同一人物なこと異常に思えます。その名前は福岡県飯塚遠賀警察署の警部補、熊沢勉といいます。そして父は起訴され、有罪判決を受けました」
男は手元から紙の束を取り出した。
「これは父が獄中から私に送ってきた手紙です。父はこの中で、衆議院議員黒木一郎の事務所に頻繁に出入りしていた母のことを書いています。黒木の目つきがおかしかった、あまり行くなと何度も言ったと。母が死んだ日も事務所に行っていたと。そして熊沢という刑事が、最初から自分を犯人と決めつけていたと、繰り返し書いています」
男は手紙を一枚読み上げた。父親の筆跡を映したまま、声だけが続いた。
『お父さんは、信じている。いつか本当のことが分かる日が来ると。この街には、おかしいと思っても口をつぐむ人間が多すぎる。でもそれは、人間が弱いからじゃない。そういう空気を作った人間がいるからだ。お前たちはそういう空気に、絶対に負けないでいてほしい』
読み終えると、男は束をテーブルに置いた。
「父は二〇一五年、服役中に死にました。自ら命を絶ったのです」
男はそこで少し間を置いた。
「ここからは私の推理です。事実ではないかもしれない。しかし私はこう考えています」
男の声は変わらなかった。平坦で、静かだった。
「その日、黒木の事務所で母の身に何かが起こり、そして死んだ。黒木は熊沢に指示し、母の死を偽装し、父に冤罪を着せて殺した。いえ、正確には父は自死ですが、殺されたも同然です」
男は何かを読み上げることもなく、前を向いたまま淀みなく話していた。
「黒木は当時、地元警察との間に深い繋がりを持っていました。飯塚遠賀警察署の新庁舎建設には黒木が口利きをし、国の補助金が大幅についています。署員が利用する保養施設は黒木の関連会社が管理しています。後援会の名簿と署の幹部OBの名前は、複数重複しています。これらは全て、公開情報から確認できる事実です」
男は続けた。
「担当刑事だった熊沢勉は退職後、黒木の関連会社に再就職しています。顧問という肩書きです。父の事件を担当した刑事が、その事件の被害者の地元有力者の会社に天下りした。これも、事実です」
男はカメラを見た。
「私には証拠がありません。母が何をされたのか、誰が母を殺したのか、父は本当に冤罪なのか。無罪だとしたら、誰によって作られたのか。それらを証明できるものは何もありません。ただ、これだけの事実が重なった時、私には一つの結論しか浮かびませんでした。そしてその結論に十四年間向き合い続けて、私はそれを覆すものを何一つ見つけられませんでした」
男は一度だけ、深く息を吸った。
「だから私は黒木一郎を殺すことにしました。間違っているかもしれない。しかし私には、これ以外の選択肢が見えなかった」
男は最後にこう言った。
「この動画を見ている皆さんに判断を委ねるつもりはありません。これは私の話です。ただ、私が自首した後、警察がどう動くかは見ていてください。それだけをお願いします」
動画は二人の遠峰章の自首の前に予約投稿され、七十二時間眠っていた。そして公開された。
最初に気づいたのもSNSだった。「これ見た?」という投稿が連鎖し、一時間も経たないうちにリンクが拡散した。テレビが取り上げたのは昼前。午後には全局が特集を組んでいた。
飯塚遠賀署の前には、気づけば報道陣が鈴なりになっていた。カメラが並び、中継車が道を塞いだ。署員が出入りするたびにフラッシュが光る。
SNSは二つに割れた。「警察と政治家が結託して家族を壊した」「英雄だ」。「どんな事情があっても人を殺していい理由にはならない」「さっさと逮捕しろ」。どちらの声も大きく、どちらも本気だった。
南条が窓の外を見ていると、スマートフォンが鳴った。結城だった。今度は声が違った。
「南条、動画は見たか」
「見ました」
「警察庁からまた直電が来た。大臣まで動いてる。熊沢という名前が出ている。川口から報告は受けてるが——あれは事実か」
「客観的な事実関係は概ねその通りです。ただし動画はあくまで遠峰章の推理であって、証拠はありません」
「世間はそうは見ない」
結城の声が低くなった。
「南条、今この瞬間、警察は双子の父親を冤罪で死なせた組織として報道されている。分かるか」
「分かります」
結城は言葉を切った。続きは来なかった。
「やれるだけのことはやります」
電話が切れた。
増田が南条の隣に来た。
「次が来るのも、時間の問題ね」
増田は何も言わなかった。窓の外では、中継車のアンテナが夕暮れの空に向かって伸びていた。
第十八話 同一性
翌朝、丸の内署の会議室に南条、増田、遠藤の三人が集まった。モニターの向こうに川口と田村がいる。福岡はまだ朝の光が薄かった。
「じゃあ整理します」
増田が立ち上がった。共有画面をスリーンに投影させながら、手早く始めた。
「現場指紋、なし。手袋着用と見られます。自首時に任意で指紋と掌紋を提出してもらいました。照合しましたが、そもそも現場指紋がないので意味がない」
「次」と南条が言った。
「採取した指紋で個人識別できるかという話ですが、一卵性双生児でも指紋は違います。ただしどちらが章でどちらが匠かという問題に戻るだけ。職場、恋人宅、ガサ状が取れていないので自宅はまだですが、現時点で全ての場所に二人の指紋が混在しています。章しか行かない、触らない、匠しか行かない、触らないというものが存在しない。指紋では判別不能です」
遠藤が天井を見た。
「DNA」と増田が続けた。
「自首時に口腔内から任意採取しました。一卵性のため完全一致。現場に髪の毛が一本落ちていましたが、これも一致。むしろ意図的に落としてあったと考えた方が自然です」
「わざと」と南条が言った。
「わざとだと思います。証拠が増えるほど詰む構造になってます」
川口がモニターの向こうで頷いた。
「エピジェネティクス解析は」と南条が聞いた。
「やりました」増田は間を置かなかった。
「DNAのメチル化パターンを見れば一卵性でも個体差が出るはずでした。科警研に依頼して最速で回してもらいましたが——差異が検出されませんでした。通常、生活環境の違いがメチル化パターンに影響を与えるんですが、この二人は食事、運動、睡眠、全部を意図的に揃えてきた。後天的な差異を十四年かけて徹底的に排除している。……科学が負けました」
誰も何も言わなかった。
「耳介は」沈黙を破って南条が口を開いた。
「二人とも、耳が完全に隠れる同じ髪型を意図的に維持しています。犯行時の映像にも、比較可能な耳介は一度も映っていません」
「骨格、顔認証は」
「骨格には微細な個体差があります。ただし、犯行時の防犯映像から、現在の二人のどちらかに結びつけられるほどの差異は抽出できませんでした。顔認証でも判別不能です」
「虹彩と静脈は」
「それらにも個体差はありますが、そもそも照合元の登録がありません。扉や金庫のように、あらかじめ章として、匠として登録されたデータがあって初めて機能する技術です。登録がない以上、違いがあったとしても意味がない」
「声紋は」とモニターの向こうの川口が言った。
「差異なしです。意図的に揃えていると見られます。筆跡も同様です。どちらの筆跡が章のものか、照合できる登録データがありません」
「歩行分析は」
「防犯カメラの映像を複数解析しました。歩幅、重心移動、ピッチ。差異なしです」と増田は言った。「キーストローク分析も試みましたが、デバイスを日常的に交換して使用しているため、異なる入力傾向が抽出できたとしても、どちらがどちらのものか証明できません」
「体臭は」
「採取時点で僅かな差はあります。ただ、食事や生活環境、体調によって変動するため、人定の根拠にはできません」
「歯列は」
「歯列には微細な差があります。ただし、犯行時の映像や遺留物に歯列を照合できる資料はありません。二人とも治療歴もありません」
遠藤が口を開きかけて、止まった。
「ポリグラフは」と南条が言った。
「本人の同意が必要です。それに、得られるのは質問に対する生理反応であって、二人の身元そのものではありません。仮に反応に差が出ても、それだけでどちらが章かは決められません」
「次に、双方の弁護士から任意提出を受けたスマホですが——」
「弁護士、いつの間に」と遠藤が言った。
「福岡にいる時に接見を求めてた。弁護士経由で自宅からスマホを出させてるはず」南条が言った。
「で、そのスマホを解析したんですが——犯行当日は二人とも持っていませんでした。普段から二台を交換して使っている形跡があります。入っているアプリもデータもすべて同じです。どちらのスマホがどちらの人物のものか証明できない」
「位置情報は」と南条が言った。
「現場周辺の下見と見られる位置情報が、両方の端末に残っています。肝心の犯行当日はどちらも自宅に置いてあったようです。当日の丸の内ホテルに行った履歴はありません」
「指紋の新旧判別は」
「科学的に証明困難です。現場に指紋がないので論点にもなりませんが」
「身体的な記録は」
「あります」増田は画面をスワイプして新しい項目を開いた。
「二人とも、左前腕に縫合痕があります。高校時代、同時期に同じ病院で処置を受けた記録がある。右手の甲に火傷痕、これも同時期。中学時代に左足首を骨折、同じ週に同じ病院に二人で来ています。痕跡の位置、深さ、範囲、全部一致しています」
「一方が怪我をしたら、もう一方も同じ箇所を」と遠藤が言いかけた。
「そういうことです」と増田が答えた。「医療記録で個人を識別しようとしても、どちらがどちらか判別できない」
遠藤が黙った。
「人的捜査は」と南条が言った。
「福岡から報告が来ています」増田はモニターの川口を見た。川口が引き取った。
「陸上部の顧問、元交際相手、祖母。誰一人として見分けられませんでした。東京側も同じですね? 直属の上司、大学の友人、現在の交際相手——全員が両方に対して普通に反応していた。四年間気づかなかった者もいます」
川口が一度止まった。
「根本的な問題があります。仮に誰かが見分けられたとしても、それで『こちらが章』と確定できるわけではない。二人は日常的に入れ替わっていた。過去に章として認識されていた人物が、実際には匠だった可能性が常にある。照合元そのものが信用できない」
会議室が静かになった。
増田はタブレットを机に置いた。画面には項目が並んでいる。全部に斜線が引かれていた。
「以上です。科学も、記録も、人も、全部試して全部だめでした。残るのは自白か、……あとは何があるでしょう」
南条は画面を見ていた。斜線、斜線、斜線。証拠を積めば積むほど、詰む。最初からそういう設計だったのだ。
「つまり」と遠藤が言った。「手の打ちようがないということですか」
増田は答えなかった。答えは全員が知っていた。
その時、廊下から足音が聞こえた。速い、迷いのない足音だった。会議室のドアが開いた。
遠藤が振り返り、すぐに表情を変えた。増田も立ち上がった。南条はドアを見た。
男が入ってきた。五十代、背が高い。スーツの襟に警察庁のバッジが光っている。後ろに二人、部下らしき男がついていた。更にそのうしろに捜査一課長の結城の姿が見える。結城は南条を見つけると、小さく首を振った。
第十九話 鷹野剛
「警察庁審議官、鷹野だ」
男は部屋を見渡した。南条を見つけて、まっすぐ歩いてきた。
「そこをどけ、南条。俺がやる」
南条は動かなかった。
「引き継ぎの話は聞いていません」
「今した」
鷹野は南条を一瞥してから、後ろの部下に顎をしゃくった。部下が分厚いファイルを渡した。警察庁が独自にまとめた捜査資料だった。南条が見たことのない表紙だった。
「五日間で何もできなかった。違うか」
南条は答えなかった。
「違わないな」
鷹野はファイルを小脇に抱えて廊下に出た。南条たちが後を追う前に、取調室の前まで歩いていった。二つある扉を見て、一秒も迷わなかった。近い方のドアをノックもせず、無造作に開けて入った。
椅子に座っていた男が顔を上げた。
「遠峰章。お前を殺人の容疑で逮捕する」
「そうですか」
男は他人事のように答えた。鷹野は男の前に立ったまま、口角をわずかに上げた。
「そうですか、ね」
それから鷹野は話し始めた。南条は扉の外から聞いていた。増田と遠藤が隣にいた。
「DNA鑑定の結果、二人が一卵性双生児であることは確定した。整形や替え玉ではない。どちらかが遠峰章で、どちらかが遠峰匠——これは動かない事実だ。
任意提出された指紋を、二人の職場と匠の恋人宅の指紋と照合した。両方の場所に二人の指紋が混在していた。これにより日常的に入れ替わって生活していたことが証明された。
二人同時に同じ名を名乗って自首してきた。これは現在進行形で警察を欺こうとしている事実だ」
鷹野の声は淡々としていた。感情はなく、ただ論理だけがあった。
「お前たちは普段からお互いの同一性を意識して、他人から区別されないようにしていた。その全ては、この時のためだ。黒木を殺した後、警察がお前たちを区別できないようにするため。何年続けた? 無駄な努力だったな」
男は答えなかった。
「続けよう」
鷹野は構わず続けた。
「二人で自首してきた時点で共犯関係は間違いない。実際に殺していない方も、兄弟が黒木を殺したことを知っていた。なり変わって自首した。日常的な入れ替わりに承諾し、実行した。さらに二つのスマートフォンの位置情報から、現場周辺の下見を協力して行っていたことが分かる。二人は一つの計画のために動いていた。これらの事実によって、殺人の準備に協力したことがほぼ認定される。
知ってるか? 実際に人を殺さなくても、準備に協力したら共犯になる。罪名も同じ、量刑も同じだ」
廊下で南条は奥歯を噛んだ。増田が南条を見た。南条は首を振った。
「仮に、お前たち二人の間に罪の重さの差があったならば、俺たちも頭を悩ませただろう。しかしお前たちの同一性は、その罪まで同一にした。俺たち警察は、お前たちの冤罪の可能性を恐れる必要がなくなる。そうだ、お前らを区別する必要がないのさ」
廊下の遠藤が、小さく息を吐いた。
「お前、遠峰章なんだろ?検察に聞かれても、裁判所で聞かれても、遠峰章だと言い張るわけだ。片方を遠峰章として起訴し、裁判を進め、罪を確定させる。そうすれば、DNAが同じもう一人が遠峰匠だと社会的に認定される。本人が何と言おうと関係ない。その時には遠峰章は既に裁きを受けたわけだからな。自分は章だと言い張っても、ただ嘘をついているだけの愚かな男になるだけだ。ここまでくれば、遠峰匠も殺人の協力者として共同正犯で逮捕起訴できる」
間があった。
「警察はワルを見逃さない。絶対にだ」
鷹野の声が低くなった。
「お前たちが今やっていることは、何の意味も為さない。せいぜい裁判で飯塚遠賀の不当逮捕や父親の冤罪を喋るくらいか。それでどうなると思う? 警察を調べるのも警察なんだぜ。調べたけど何も出ませんでした、で終わりだ。お前たちの期待する結果にはならないだろう。残念だったな」
男の返事はなかった。
「さあ、遠峰章」
紙の音がした。
「これが逮捕状だ」
南条は扉を開けた。
「鷹野審議官」
鷹野が振り返った。
「その逮捕には同意できません。人定が完了していない。どちらに執行するかが確定していない状態では——」
鷹野は南条を見た。
「お前は何日、この男たちと向き合った」
「五日です」
「五日で何もできなかった。俺は今日やる」
「強引な逮捕はかえって——」
「俺が判断する。いや、法が、制度がこいつが誰なのかを決めてくれる」
鷹野は南条に背を向けた。男の前に逮捕状を差し出した。
南条は廊下に出た。扉を閉めた。増田が南条の隣に来た。何も言わなかった。遠藤も黙っていた。
廊下の窓の外、丸の内署の前には中継車が並んでいる。アンテナが空に向かって伸びている。カメラが、この建物のどこかを映し続けていた。
鷹野の声が扉越しに、まだ聞こえていた。
第二十話 弁護士
記者会見は午前十時に始まった。
丸の内署の近くのホテルの会議室。報道各社のカメラが並び、記者たちがひしめいている。前夜のリーク動画から一夜明けて、その熱気は冷めるどころか、むしろものすごい勢いで膨らんでいた。
演台に二人の男が並んで立った。
「弁護士の及川と申します」
及川は五十代、落ち着いた印象の男だった。隣座る木戸はやや若く、四十代半ばか。二人とも、眼鏡をかけていた。
「本日は、私のクライアントである遠峰章氏に関する件で、皆様にご説明申し上げたいことがあり、この場を設けました」
及川が口を開いた。
「遠峰章氏は先日、福岡県の飯塚遠賀署に自首しました。みなさんご存じの通り、昨夜から報道されている例の告発動画の本人です。そしてこの度、警察庁審議官の鷹野警視監が私のクライアントに対し、逮捕状を執行しようとしました。クライアント本人は罪を認めており、自分が遠峰章であると言っております。その点については、異議はございません」
記者たちのタイピングの音が静かに響く。
「ただ、一点だけ、問題がございまして」
及川はそこで隣の木戸を見た。
「……木戸先生」
木戸が静かに引き取った。
「弁護士の木戸と申します。私のクライアントも、遠峰章氏です。いえ、正確に言うと『もう一人の』遠峰章氏です」
会議室がざわついた。
「木戸先生のクライアントも」と及川が続けた。「全く同じ経緯でご依頼をいただきました。私のクライアントと、木戸先生のクライアントは、個別に弁護士を呼ぶよう申し出て、それぞれが遠峰章であると名乗っています」
ざわめきが大きくなった。
「つまり」と木戸が言った。「現在、警視庁丸の内署には、遠峰章を名乗る人物が二人います。警察は自首から五日間、どちらが遠峰章であるか、特定できていません」
会議室が一瞬、静止した。それから蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった」
「なぜ特定できないんですか!」
「五日間もですか?」
「逮捕状はあるんですよね!」
「双子ですか?」
「DNA鑑定は?」
「指紋は?」
及川は手を上げて、声を制した。
「順番にお答えします。まず、一卵性双生児の場合、DNAは完全に一致します。現場から指紋は検出されておりません。虹彩、静脈、その他の生体認証については、事前登録がないため照合できません。声紋、筆跡、歩行分析——いずれも、二人の間に差異は認められませんでした」
「関係者は? 家族とか友人とか」
「お祖母様、恩師、元交際相手、現在の交際相手、職場の上司、大学の友人——いずれも、どちらが遠峰章であるか判別できませんでした」
「全員!?」
「どういうことなんだ!」
またざわめきが起こる。今度は長かった。記者たちは会見中に関わらずスマートフォンを取り出してそれぞれのデスクと連絡を取っているようだった。
「つまり」と一人の記者が言った。「警察は逮捕状を持ちながら、五日間、どちらに執行すればいいか分からなかった、ということですか」
「そういうことになります」
「それで鷹野審議官が強引に——」
「はい」と及川は答えた。「その点が、本日この場を設けた理由です」
及川はしばらく言葉を選ぶように間を置いた。
「私は、この会見は、抗議の会見なのです」
会議室が静まった。
「遠峰章氏はもちろん、罪を償うべきです。それは私も、木戸先生も、異論はありません。私が申し上げたいのは、それとは別のことで……何といえばいいか」
及川は一度、視線を落とした。整理しきれていない、という顔だった。弁護士という職業の人間が、言葉を探している。
「どちらに罪があるか分からないままに、警察は強引に逮捕を進めようとしています。それが問題なのです。罪を問うべき相手を、正しく特定できないまま——それでも、誰かを裁こうとしている」
会議室のざわめきはついに爆発した。それはいつしか怒号に変わり、カメラのシャッター音が、けたたたましく鳴り響いていた。
丸の内署の会議室のテレビに、及川と木戸の並んだ姿が映っていた。
結城、南条、増田、遠藤、そして鷹野。誰も口を開かなかった。
及川の声が続く。
「どちらに罪があるか分からないままに、警察は強引に逮捕を進めようとしています」
鷹野が大きく舌打ちした。
誰もそれに反応しなかった。増田がちらりと鷹野を見て、また画面に視線を戻した。
「これ、全国放送ですよね」
遠藤が言った。増田が遠藤を睨む。遠藤は口を閉じた。
結城がテレビの電源を切った。
「……五日間、何もできていないだとさ。言われてるぞ、南条」
南条は何も答えなかった。
飯塚遠賀署の休憩室では、川口と田村がテレビの前に立っていた。
木戸弁護士の「私のクライアントも、遠峰章氏です」という言葉が流れた瞬間、田村は腕を組んだまま、小さく鼻から息を吐いた。
川口が田村を見た。
「どうかしましたか」
「いえ」と田村は言った。「向こうも大変だなと思って」
川口は少し間を置いてから、苦い顔で笑った。
「南条班の連中の顔が浮かびます」
窓の外では、署の前に張り込んでいる報道陣のライトが増えていった。
第二十一話 炎上
記者会見の映像は、その日の午後には切り取られ、加工され、無数のアカウントから拡散した。
最初に火がついたのは、その見出しだった。
【速報】「遠峰章」は二人いた! 同一人物を名乗る男が同時に自首、警察は五日間人定できず
その見出しが各社のニュースサイトに並ぶと、SNSは再び沸騰した。昨夜のリーク動画から一夜明けても、炎は収まるどころか燃料を得て大きくなっていた。
夜のニュース番組は全局がスタジオを作り直し、コメンテーターを呼び集めた。
「一卵性双生児が同じ名前で自首してきて、警察が五日間、逮捕状を持ちながら誰に執行すればいいか分からなかった——これは前代未聞の事態です」
キャスターが語気を強める。
「しかも、現場から指紋は出ていない。DNAは一致する。関係者は誰一人見分けられない。つまり、あらゆる手段を尽くしても、警察には二人を区別する方法がなかった」
スタジオのコメンテーターが頷く。
「これは警察の敗北ですよ。完全な」
別の局では、法律の専門家が呼ばれていた。
「逮捕状はあるのに執行できない。これは法的にどういう状態なんですか」
「極めて異例です。逮捕状は被疑者を特定して発付されるものですから、その特定ができていない状態というのは——理論上あり得ないはずなんですが、あり得てしまった」
「では鷹野審議官の強引な逮捕というのは」
「問題があります。人定が完了していない状態での逮捕は、冤罪のリスクを孕む。弁護士側が異議を申し立てるのは当然です」
そしてどの局も、必ず「過去」に触れた。
【独自】黒木一郎と飯塚遠賀署の癒着疑惑 補助金、保養施設、天下り
週刊誌が動いた。テレビが追った。動画のリークから独自に取材を進めていた記者たちが、次々と記事を出し始めた。
新庁舎建設への国の補助金。黒木の口利きで大幅についた予算。署員が利用する保養施設の管理会社と黒木の関係。退職後に黒木関連企業へ天下りした元幹部たちの名前。
そして十四年前の事件。
宮本誠・冤罪の疑い 担当刑事・熊沢勉と黒木家の関係を追う
その見出しが出た瞬間、SNSの論調が決まった。
「絶対冤罪だろ」
「黒木が花さんに手を出して、もみ消したんだ」
「夫を冤罪で死なせて、息子たちが復讐するしかなかった——これ、警察が全部悪いじゃないか」
「鷹野の逮捕、また冤罪作るつもりか」
確定した事実ではなかった。憶測を多く含む。しかしマスコミと世論は、すでに結論を出していた。遠峰兄弟の父親は冤罪で死んだ。黒木と警察がそれを作った。双子の復讐は正義だ——そういう空気が、日本中を覆い始めていた。
第二十二話 田村の情緒詰め
翌朝、飯塚遠賀署の廊下で、川口は田村と並んで歩いていた。
「私が署長に話を通します」と田村が言った。
「通りますかね」
「通します」田村が言った。
川口は署長室の扉をノックした。
荒木が顔を上げた。昨夜からの報道を受けてか、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいた。
「川口警部補、用件は」
田村が一歩前に出て言った。
「熊沢勉さんへの任意聴取の許可をお願いします」
「……それは」
「マスコミが動いています」田村は静かに言った。
「熊沢さんの名前はすでに出ています。黒木氏との関係も。警察庁からも、過去の経緯について調査するよう指示が来ているそうです。そうですよね、川口警部補」
「はい、課長の結城に直接電話がありました」
警察庁の一文は田村の咄嗟のブラフだった。しかし川口は表情を変えることなく流れるように呼応した。
「本当に警察庁から」
「これだけ世間を騒がせている案件です。警察庁が黙っていると思いますか」
荒木は川口を見て、それから田村を見て言った。
「……熊沢さんは我々の先輩だぞ。敬意を払え。今更、終わったことを蒸し返えさせるな、私も記録を調べたが、何もおかしい点はなかった」
川口は見た。田村の目に火が灯った。
「署長、殺人の捜査のご経験はありますか?」
荒木が口を開きかけた。田村は待たなかった。
「被害者の気持ちを救い、遺族の気持ちを救い、世間の気持ちを救う。そして捜査する私たち自身の気持ちをも救う——それが警察官の仕事ではないですか」
荒木は田村を見た。
「署長、あなたは何を思って、何を感じて、警察官をやっているんですか」
「生意気を言うな」
荒木の声に棘が戻った。しかし田村は止まらなかった。その声は荒れてはいない。しかし、抑えきれないものがあった。
「キャリアに傷がつくからですか。定年まで何もなく過ごしたいからですか。あなたが何もなく過ごしたいために、それらの『気持ち』には目をつむると?」
「お前に何が分かる」
「部下の私の気持ちは、どうなりますか」
田村は一歩、前に出た。
「県警や、その上から捜査するなと言われているなら、一定の理解はします。私も組織の人間ですから。ではそういう命令がありましたか。署長の独断ですか」
荒木の喉が動いた。
「仮に過去の飯塚遠賀署が不正をしていたとして、今ここにいる私たちに何の関係があるでしょうか。署長だけではありません。あのニュースがあった日から、この署はおかしいです。調べるべきを調べず、見て見ぬふり、どころか隠そうとさえしています」
田村は荒木を真っ直ぐに見た。
「ここは警察署ですよ。『警察官』はどこにいるんですか!」
部屋が静まり返った。
川口は田村の後ろで、ただ黙って立っていた。
荒木は長い間、田村を見ていた。それから、ゆっくりと視線を落とした。
「……田村、お前が立ち会え」
田村は一礼した。声に感情は出さなかった。
「はい」
その夜、田村のスマートフォンが鳴った。
「南条です」
「係長」
「明日、熊沢に会うでしょう」
「はい」
「一つだけ」と南条は言った。「熊沢が何を守ろうとしているか、それだけを考えて」
田村は少し間を置いた。
「守りたいものを、揺さぶれということですか」
「そう」
「分かりました」
電話が切れる直前、南条の声が続いた。
「健司から聞いたわよ。署長相手に啖呵を切ったそうね」
「……あ」
田村は答えようとして、少し遅れた。
「七海さん、頑張って」
「はい、ありがとうございます」
電話が切れた。田村はしばらくスマートフォンを手に持ったまま、廊下の窓の外を見ていた。署の前には、昨夜から張り込んでいる報道陣のライトがまだ灯っていた。「七海さん」もう一度、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
第二十三話 熊沢の供述
翌朝、熊沢勉は飯塚遠賀署の取調室に通された。
前回と違い、今日は任意ではあっても署の中だった。熊沢はそれを理解した上で来た。革張りのソファではなく、白い壁と蛍光灯の部屋。それでも熊沢の座り方は変わらなかった。背筋が伸びていた。
田村が正面に座った。隣に相沢。記録官が端に座っている。ハーフミラーの向こうに川口がいる。
「熊沢さん、先日はありがとうございました」
田村は前回と同じ、静かな声で始めた。
「今日は改めて、いくつかお聞きしたいことがあります」
「どうぞ」
熊沢の声も変わらなかった。
「先日から、マスコミが様々なことを報じています。黒木家と飯塚遠賀署の関係、補助金、天下り——熊沢さんはご覧になりましたか」
「見ました」
「どう思われましたか」
「事実と異なる部分も多い」
「具体的に教えてください」
熊沢は少し間を置いた。
「私には答える義務はありません」
「そうですか」と田村は言った。「ただ、警察庁からの指示で、これらの事実関係について調査することになっています。熊沢さんにも、任意でご協力いただきたい」
熊沢は田村を見た。
「警察庁から」
「はい」
熊沢はしばらく黙っていた。
「それと」と田村が続けた。「黒木大吾さんにも、近いうちにお話を伺う予定です」
熊沢の目が、わずかに動いた。
「大先生に?」
「はい。黒木一郎氏の事件との関連で、一連の経緯をお聞きしたいと思っています。場合によっては、過去の件についても」
沈黙があった。
田村は熊沢を見ていた。南条の言葉が頭にあった。守りたいものを、揺さぶれ。熊沢が黒木大吾にキャリアを救われたことは、相沢が知っていた。
「熊沢さん」
田村は少し前に身を乗り出した。
「宮本誠さんは、本当に花さんを殺したんですか」
熊沢の喉が、かすかに動いた。
「熊沢さん」
田村は声を変えなかった。静かなままだった。
「あなたが守ろうとしているものが、崩れ始めています。マスコミが暴いています。世論が決めています。証拠がなくても、もう止まらない」
熊沢は机の上に視線を落とした。大きな手が、膝の上で固く組まれた。
「大吾氏まで巻き込まれる前に」
長い沈黙だった。
それから熊沢は、ゆっくりと顔を上げた。
「……宮本さんは、やっていない」
田村は動かなかった。
「若が、いえ一郎氏が——花さんに手を出そうとして、花さんが振り払った。一郎は怒って……首を、締めた」
「黒木一郎が」
「ああ。その後で、俺を呼んだ」
田村は黙って続きを待った。
「俺が着いた時、花さんはまだ——」
熊沢はそこで止まった。
「俺が、とどめを刺した」
相沢が顔を上げた。記録官の手が止まった。
「宮本誠さんの逮捕は」
「俺が担当した。証拠を、……作った」
「黒木大吾さんは」
「大先生は——知らない。今でも。彼は何も知らない。全て俺の独断だ」
熊沢は目を閉じた。
「大先生を、守りたかった。先生を守ることは、この街を守ることにつながる。俺や、君たちも。この街を、守りたかった。……ただ、それだけだ」
田村は何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかった。
ハーフミラーの向こうで、川口が静かに息を吐くのが、田村には何となく分かった気がした。
川口は熊沢の供述を聞いていた。
熊沢は落ちた。だが、熊沢一人にできることには限界がある。
現場の偽装だけなら、一人でもできたかもしれない。だが、その後は違う。最初の現場報告を受け取った上司も、鑑識に入った署員も、作成された記録に目を通した者もいる。
熊沢の示した筋書きに、積極的に手を貸した者がいたはずだ。何も見なかったことにした者も。
――全部、被ったな。
川口は、ガラスの向こうに座る熊沢を見つめた。
場面は東京に戻る。
丸の内署の会議室の中、鷹野のスマートフォンが鳴った。
鷹野は画面を一瞥して、顔色が変わった。出た瞬間から声が低くなった。
「……はい。鷹野です」
その直後に、結城のスマートフォンも鳴った。
結城も電話に出た。二人が同じ部屋で、別々の電話に向かって喋っている。鷹野の声だけが次第に大きくなっていった。
「それは——しかし、現状では——」
南条は二人を交互に見ていた。増田と遠藤は動かなかった。
鷹野が電話を切った。
「……引き下がれと言われた」
誰も何も言わなかった。
結城が電話を切った。
「絶対に逮捕しろ。何としてでも、だそうだ」
全員が沈黙した。
鷹野と結城が、初めて互いを見た。
第四章 二つの魂
第二十四話 繋がる言葉
警察庁長官の声明は、翌朝発表された。
熊沢勉を宮本花殺害の容疑で福岡県警が身柄を確保したこと。飯塚遠賀署における過去の不正について、監察官室が調査を開始すること。鷹野審議官による逮捕執行を「一時」取り消すこと——三点が、簡潔に読み上げられた。
記者たちの質問は途切れなかったが、広報官はそれ以上何も答えなかった。
南条が結城の部屋のドアをノックしたのは、声明発表から二時間後だった。
「一つ、お願いがあります」
結城は顔を上げた。
「二人を、同じ部屋に入れさせてください」
結城はしばらく南条を見ていた。
「……被疑者同士を同室で取り調べるなど、前例がない」
「知っています」
また間があった。
「それをしてどうする。見比べるのか?」
「ただ、話をするだけです」
「それで何か分かるとでも」
「いえ、正直に言ってもう打つ手はありません、私の最後の悪あがきです」
結城は椅子の背にもたれた。天井を見た。それからスマートフォンを取り出した。刑事部長の番号を開いて、画面を見つめた。それから、静かに仕舞った。
「……やれ。ただし、入るのはお前だけだ。若いやつを巻き込むなよ」
南条は一礼して、部屋を出た。
取調室の扉が二つ、同時に開いた。
二人の男が同時に廊下に出て、向かい合った。そして一瞬だけ互いを見たが、何も言わなかった。
南条は二人を、一つの部屋に通した。
男たちを並んで座らせ、南条が正面に立った。
部屋の中は南条と双子の三人だけだった。
南条はしばらく、二人を見ていた。同じ顔が並んでいる。七日間、ずっとこうだった。どちらを見ても同じ顔で、同じ目で、同じ沈黙で返してきた。南条も椅子を引いて座った。
「熊沢勉が、逮捕されました」
南条は静かに切り出した。
双子は南条を見た。感情と呼ぶには淡すぎるが、表情が少し変わった。喜びでも安堵でもない。長い旅が終わった場所に残る、空白のようなものだった。
「飯塚遠賀署にも、監察が入ります」
男たちは黙っていた。
南条は続けた。返事が来ないことは分かっていた。それでも、話さなければならないと思った。この七日間、自分が感じてきたことを。
「最初にあなたたちのことを聞いた時、正直言って意味が分かりませんでした。双子が二人揃って、同じ名前で自首してきた。同じことを言っている。結城課長から電話を受けた時、私は現場で防犯カメラの映像を見ていました。きれいな顔をした若い男が、迷いもなくホテルの廊下を歩いている。これが人を殺した人間の顔かと思いました。でも福岡に飛んで、あなたたちの前に座った時、私はもっと分からなくなりました」
男たちは黙っていた。
「何を聞いても、同じ答えが返ってくる。入口をどれだけ変えても、出口は一つでした。川口が汗をかいていました。あの男が取調室で汗をかくのを、私は初めて見ました。それを見た時、初めて怖いと思いました」
南条は一度、視線を落とした。
「あなたたちのお母さんのことを調べました。遠峰花さん。PTA役員で、頼まれると断れない人だったと聞きました。黒木の事務所に書類を届けに行って——その先のことは、もう分かっています」
男たちは微動だにしなかった。
「熊沢が全部話しました。お父さんは、やっていなかった。あなたたちは十歳でそれを——どこかで感じていたんでしょうか。それとも、ずっと信じようとしていたんでしょうか。どちらかは、私には分かりません」
南条は顔を上げた。
「熊沢に強い怒りを感じました。同じ警察官として、許せないと思いました。証拠を作り、無実の人間を檻に入れ、その人間が死ぬまで黙っていた。どんな正義があってもそれは許されない、と思っています」
南条は少し間を置いた。
「それと同時に、あなたたちが黒木代議士を殺したことも、私には許せない。どんな事情があってもです。我が国の法律では、いかなる場合であっても復讐は許されていません。それに、黒木氏にも子供がいますよ? あなたたちだけが不幸だと思っていませんか? 世界には、親を殺されても、復讐せずに頑張って生きている人がいます。そういう人たちのためにも、法を守らせ、違反するものを取り締まる。それが私の仕事であり、二十数年間変わらなかったことです。あなたたちを逮捕したい。今もそう思っています」
男たちは南条を静かに見つめていた。
「でも」
南条は言った。
「私は、負けました」
南条はゆっくりと息を吐いた。
「人定できない。証拠もない。科学も、記録も、関係者も、全部試して全部だめでした。あなたたちのお祖母さんが、頬に触れて泣いていました。分かりません、と言って。私に見分けさせないように生きてきたんだわ、と泣きながらそう言いました」
南条の声は乱れなかった。ただ、静かに続けた。
「坂本先生と会ったとき、あなたたちは十五分四十二秒と十五分三十一秒というタイムを覚えていました。その数字の精密さに、私の背筋が凍りました。友人の方たちは、皆さん少し笑いながらも、困惑して部屋を出ていきましたよね。片桐奈緒さんは泣きながら取調室を出ていきました。立花遥香さんは、泣かずに帰っていきました。それぞれが、それぞれ違う傷付き方をしていました。あなたたちの計画の中に、彼女たちへの配慮はありましたか」
返事はなかった。
「なかったかもしれない。あったかもしれない。私には分かりません。あなたたちのことを、私はこの七日間でどれだけ知れたでしょうか」
南条は二人を交互に見た。
「一つだけ、聞かせてください」
部屋が静まり返った。
「お母さんなら——」
南条は一度言葉を切って、続けた。
「お母さんなら、あなたたちを見分けられますか」
長い、長い沈黙があった。
窓の外の音も、廊下の足音も、何もかもが遠かった。
部屋の空調の音だけが、微かに聞こえている。
わずかに、二人の肩が動いた。
そしてやっと、片方の男が口を開いた。
「母なら——」
もうひとりが続けた。
「分かると思います」
南条はその言葉を、静かに受け取った。
二人の言葉が繋がって、一つの文になった。「母なら、分かると思う」それは答えであり、告白だった。七日間、誰にも崩せなかった壁が、この一文の中に、ひっそりと亀裂を見せていた。
どちらが章で、どちらが匠か。それは依然として分からない。しかしこの二人は初めて、違う言葉を言った。章がいて、匠がいる。二人は別々の人間だ。母だけが知っている、その事実を、二人は今、南条に向かって静かに差し出した。
南条は立ち上がった。
「ありがとうございました」
扉へ向かって歩いた。振り返らなかった。
廊下に出ると、丸の内署の窓から夕暮れが見えた。世界はまだ騒いでいる。しかし南条の中は、不思議なほど静かだった。
第二十五話 章と匠
捜査は継続中だった。
人定ができない。証拠がない。起訴どころか、逮捕するに至らない——法律はそう言った。二人の男は、丸の内署を出て、家に帰った。
二人が帰ってきた夜、アパートの部屋はひんやりとしていた。七日間、誰もいなかった部屋の空気は、生活の匂いを失っていた。
一人が冷蔵庫を開けた。缶ビールを二本取り出して、一本を差し出した。もう一人が、当然のように受け取った。
冷蔵庫を開けるのは、いつも章だった。受け取るのは、いつも匠だ。それだけが、二人の間にある、誰にも知られていない秘密。
しばらく二人は黙って、リビングに座っていた。
一人が立ち上がって、窓を開けた。ベランダのそばに立つと、夜風が入ってきた。秋の終わりの、冷たい風だった。
リビングに座ったままの男が、缶を傾けながら言った。
「母さん、俺たちを同時に呼ぶとき、いつも『ショウちゃん』って言ってたよな」
窓の外を見ていた男が、懐かしそうに笑って言った。
「ああ、あれ、便利だよな」
夜風が部屋の中に入ってきた。カーテンが静かに揺れた。
「匠は今、どこにいるのかな」
窓辺の男は、夜の空を見ていた。
「さあ」
座っている男が答えた。
少し間があった。
「でも、元気にやってるだろう」
部屋の中は静かだった。缶ビールの、小さな音だけがした。
―了―
