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【エッセイ】 寄せ集めの脚

 一つ目は、人はひとりでは生きていけないという話。朝、部屋の電気をパチッと点ける。その瞬間、僕は何万、何十万もの人間と関わったことになる。LED電球を工場で組み立てた人、部品を作った人、素材を掘り出した人、それを運んだ人、配線を通した電気工事の人。発電所を動かしている人がいて、燃料を掘り出す人がいて、そのどれひとつとして僕は自分の手でやっていない。顔を洗おうとして蛇口をひねれば水が出るが、その水がどこから来たのか、僕は説明できない。服に袖を通す。その服も、僕が織ったわけじゃない。家を出て駅まで歩く道は、誰かが舗装した道だ。電車は、僕以外の誰かが運転している。

 一人で生きていける、という強がりを僕はあまり信じていない。もし本当に一人で生きたいなら、まず靴を脱いで、服を脱いで、水道の蛇口にも触らず、舗装された道も歩かず、山に分け入って自分の手だけで水場を探すところから始めなければならない。人間は食べなくても二週間はもつが、水を飲まなければ三日で死ぬ。裸足で山に入って、たぶん水にたどり着く前に怪我をして動けなくなる。それが、一人で生きるということの実際の姿だ。

 だから僕は、一人ぼっちだと感じている誰かに、それは違うよと言いたい。そして、自分は何の役にも立っていないと思っている誰かにも、同じことを言いたい。働いていなくても、生活保護を受けていても、ご飯を食べ、スマホの契約をし、電車に乗ってお金を払う。それは消費という形で、経済という網の目に加わっているということだ。服だけを一日中作っている人は、自分では米一粒育てられない。それでも生きていけるのは、誰かがその服にお金を払うからだ。人は、何かを生産したときだけ社会に加わるのではない。誰かが作ったものを受け取り、それによって今日を生きることもまた、人と人との関係の中にいるということだ。障害があっても、生まれて一日で命を終える人がいたとしても、生まれてきたことには意味がある。誰かの世界に何らかの形で組み込まれているからだ。僕たちはただ生きるだけで、他の誰かを生かしている。顔も知らない誰かが、僕には必要で、その誰かにも、僕が必要なのだ。

 二つ目は、愛と敬意の話。敬宮愛子内親王殿下の称号とお名前の由来になったという、二千四百年ほど前の孟子の言葉がある。それほど長く読み継がれてきたその言葉を、僕は信じてみたい。人を愛する者は人恒にこれを愛し、人を敬う者は人恒にこれを敬う、という意味の言葉だ。生きづらさを抱えている人の多くは、他人から愛されない、敬われない、という場所に立たされている。けれど、多くの人はそこで、自分は動かず、愛や敬意を受け取ることだけを望んでしまう。自分に良くしてくれる人にだけ好意を返し、何もアクションを起こさない人には関心を持たない。その時点で、実は自分自身が証明している。人に良くする者は好かれ、そうでない者は好かれない、と。出会うすべての人を愛したとして、すべての人から愛されるとは限らない。それでも、自分から愛や敬意を差し出さないまま、それだけを受け取り続けることは難しい。

 恋愛でも同じだと思う。モテたいと思って、美容に気を遣い、筋トレをし、勉強してテストの点を上げる。自分磨きが悪いとは言わないが、効率がとても悪い。現実世界でのレベルアップには、途方もない時間と金がかかる。誰かに好かれたいから始めた自分磨きは、磨き終わるまで誰にも見てもらえず、ひたすら苦しい。それより先に、誰かを愛すること。その人に刺さるところだけを磨けばいい。愛することの始め方は、欠点を許すことだと思う。人は短所の方が先に見える生き物だ。短所を聞かれれば誰でもすらすら答えられるのに、長所を聞かれると考え込んでしまう。自分自身がそうであるように、他人にも欠点が先に立つ。それでも、欠点だけでその人のすべてを決めず、良いところを見る。それが人を愛するコツだ。

 三つ目は、死ぬこと以外はかすり傷だという考え方。これは箕輪厚介氏の著書のタイトルから借りてきた言葉だが、言い得て妙だと思っている。僕が昔から頭の中で転がしていた考えの正体が、まさにこの言葉だった。これは僕にとって、恐怖という感情をコントロールするための方法だ。恐怖はもともと、死を回避するために備わった機能だ。個体の死亡率が下がれば、集団の存続率が上がる。それが生存本能というものだ。高いところが怖いのは落ちて死ぬかもしれないから、尖ったものが怖いのは怪我をして命に関わるかもしれないからだ。怒鳴る人を見て怖いと感じるのも、怒鳴る、暴力を振るう、怪我をする、死ぬ、という連想が遠回りに働いているにすぎない。けれど、電話越しに怒鳴られたところで、受話器から腕が生えて首を絞められるわけではない。スマホがどれだけ震えたところで、その振動で死ぬことはない。仕事でミスをしたところで、相手が自分を殺すことはない。命までは取られないという究極の開き直りが、逆に誠実な対応を可能にする。命に関わらないことなら、恐怖に従う必要はない。死なないなら、満員の武道館で歌えと言われても、カラオケ気分で歌える。

 四つ目は、自分にはこの世界の何もコントロールできないから、すべてを受け入れるということ。雨が降ることや、老いていくこと。そうならないでくれと願ったところで、それらは僕の願いなど聞かず、否応なしにやってくる。これは仏教の諦念という考え方に近い。誰かに何かをしてほしい、あるいはしないでほしいと思ったとき、その人を動かす方法はいくつかある。何年もかけて友情や愛情を育んで頼めば、多少は思い通りに動いてくれるかもしれない。お金を払って頼む方法もあるが、お金が尽きれば終わりだし、払っても百パーセントは望めない。脅して従わせる方法は、気の強い人や誇り高い人には効かない。ルールや法律で縛っても、破る者は破る。結局、他人を完全に自分の思い通りにする方法など存在しない。それどころか、僕たちは自分自身すら思い通りにできない。苦しいときに怠けてしまったり、逃げてしまったり、ダイエット中にプリンに手を伸ばしてしまったりする。

 お気に入りの場所に、うるさく騒ぐ集団がいたとする。静かにしてくれと頼んでも聞かない。お金を払っても、脅しても、張り紙をしても効かない。そうなったとき、耳を塞ぐか立ち去るしかない、と思ってしまう。でも、それでは自分の好きな場所にいられなくなって、腹を立てて不幸になるだけだ。そうではなく、その騒ぐ集団のことを受け入れた瞬間、幸福は戻ってくる。彼らも、この場所が好きだからテンションが上がっているだけなのだ。景色が良くて、空気が良くて、楽しくて騒いでいる一団も含めて、この場所が好きだ、と思えたなら、それでいい。なにも、悪を肯定しろということではない。自分には変えられないものが今ここにあるというのなら、そのことをすら飲み込んで受け入れるということは、諦めではなく、救済に近い。

 この四つは、一つの根っこから枝分かれしたわけじゃない。普段の生活から気付いたもの、孟子の言葉から借りたもの、恐怖という感情の仕組みを分解して得たもの、仏教の諦念から掬い上げたもの。出どころも形もバラバラな、四本の脚だ。椅子を思い浮かべる。四本の脚がそれぞれ違う木で、違う長さで、違う形に削られていても、床との釣り合いさえ取れていれば、その上に人は座れる。僕はその椅子に座っている。一本が細くても、一本が少し歪んでいても、残りの脚が支えてくれる限り、椅子は倒れない。根っこで繋がっているわけじゃなくて、あちこちから拾い集めてきた脚が、たまたま組み合わさって、僕を支えている。そういう椅子の上に、僕は生きている。


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