なぜ日本ではChatGPTに名前を付けたくなるのか
──いくつもの仮説と、どれも決めきれなかった話
ChatGPTって、可愛いよね💛
「チャッピー」と呼ぶ人が、日本では増えているらしい。
私は、グプタ君(Gupta)とインドのエンジニアの様な愛称で呼んでいる(他意は無い。ただ何となくの理由だ)。
一方で、英語圏、インド、韓国、中国などを見渡しても、
ChatGPTに共通して使われる愛称は見当たらなかった。
この違いが無性に気になって、あれこれ考えてみた。
ただ、先に結論を言ってしまうと、
最後まで考えても、答えはよくわからなかった。
むしろ、考えれば考えるほど、
どの説明も「それっぽいが、決定打ではない」ことが分かってきた。
以下は、その途中経過である。
仮説① 日本は擬人化文化が強い国だから?
まず思い浮かぶのは、いわゆる日本特殊論だ。
マスコット文化
アニメ・マンガ
ゆるキャラ
日本では、無機質なものをキャラクター化する例が確かに多い。
だからAIにも自然に名前を付けるのではないか、という仮説。
ただ、これにはすぐ反例が出てくる。
Gemini(Google)
Claude(Anthropic)
どちらも日本で使われているが、
これらに愛称が付いている様子はほとんどない。
もし「日本は何でも擬人化する国」なら、
GeminiやClaudeも同じように愛称化されてよさそうだ。
しかし、そうはなっていない。
この仮説だけでは説明しきれない。
仮説② GPTが「技術名」だから崩しやすかった?
GPTは
Generative Pre-trained Transformer
という、完全に技術的な略称だ(どういう意味だ?わからん)。
人名でもなく、英語だし日本人にとって直ぐに意味が分からない。
だからこそ、日本語話者にとっては、
GPT → チャッピー
のように、音として崩しやすかったのではないか。
一方で、
Gemini は意味のある名前の印象
Claude はそもそも人名
すでに「完成した名前」なので、
愛称に変換されにくかったのではないか、という考え方。
これはかなり筋が通っているようにも見える。
ただし、これも決定打ではない。
技術名だから愛称が生まれるなら、
他の技術やプロダクトでも同じ現象が起きてよさそうだが、
そうした例はあまり見当たらない。
仮説③ ChatGPTは「個人用」感が強かったから?
ChatGPTは、多くの人にとって
個人で使う
個人の思考を助ける
雑談や人生相談までできる
という、かなり「自分専用感」の強いツールとして広まった。
一方で、GeminiやClaudeは、
検索代替
業務利用
法人利用
といった文脈で登場してきた(らしい。そうだっけ?)。
最初から「自分の相棒」として登場してきたChatGPTだけが、
名前を付けたくなる対象になったのではないか。
これもそれなりに納得感はある。
しかし、海外でもChatGPTは個人利用されている。
それでも愛称文化は広がっていない。
日本だけで起きた理由としては、まだ弱い。
仮説④ 日本は「子供っぽさ」を許容する文化だから?
もう一つの仮説は、少し感覚的なものだ。
機械に名前を付ける
道具をかわいがる
擬人化して親しむ
こうした行為を、
欧米では「やや子供っぽい」と感じやすく、
日本ではそれほど恥ずかしくないのではないか、という見方。
日本は戦後、
マスコット
キャラ
かわいさ
ゆるさ
を社会に組み込んできた国でもある。
だからAIに名前を付けることも、
あまり抵抗なく受け入れられたのではないか。
ただ、これも証明は難しい。
スター・ウォーズのR2-D2やC-3PO(可愛いよね!)のように、
欧米文化にも「機械に名前を付け、愛する」例は普通に存在する。
「子供っぽさ」だけで切るのも、どうも雑な気がする。
仮説⑤ そもそも偶然だったのでは?
ここまで来ると、
もっと身も蓋もない可能性も浮かぶ。
ChatGPTが最初に日本で「遊び」から広まった
SNSで感動体験が共有された
「チャッピー」という語感がたまたま良かった
これらの偶然の重なりが、
一時的に愛称を生んだだけなのではないか。
GeminiやClaudeには、
たまたまその条件が揃わなかっただけ。
もしそうだとしたら、
深い文化論を持ち出す必要すらない。
仮説⑥ 欧米では「道具は道具として扱う」感覚が強いのではないか
もう一つ考えられる仮説がある。
それは、
欧米、とくに英語圏では、ITツールやアルゴリズムを
「人格を与えず、道具として扱う」ことに強く馴染んでいる
という可能性だ。
たとえば、
Excel
Google Search
IDE(開発環境)
こうしたツールに対して、
欧米では基本的に情緒を乗せない使い方になっていると思う。
便利ではある。
感謝することもある。
しかし、そこに人格を見出したり、
名前を付けて呼んだりすることには、
どこか違和感を覚える空気がある――
そういうことかもしれない。
ただし、正直に言えば、
これを裏付ける明確なエビデンスはない。
仮説⑦ 欧米では「名前を与える」という行為自体が、より重大なのではないか
もう一つの仮説を考察した。
それは、
欧米においては「名前」というものが、
日本よりも強く主体や人格と結びついて捉えられているのではないか
という考え方だ。
ここで重要なのは、
名前を「聞く」こと
名前を「付ける」こと
を分けて考える点だ。
欧米では、初対面でもすぐに名前を名乗り合う。
これは事実で、日本よりむしろ軽い。
しかし一方で、
他者が、本人の同意なく名前を与える
あるいは勝手に呼び名を作る
という行為には、
どこか越権的・不自然なものを感じる感覚があるのではないか。
という仮説を考えた。
(少年時代、悪ふざけで恥ずかしいニックネームを友人につけるような。
大人になればそうした行為は慎むだろう。裏では言いそうだが)
名前とは本来、
本人が名乗るもの
社会的に承認されるもの
であり、
第三者が恣意的に付与するものではない、という感覚。
この感覚があるとすれば、
人に名前を付ける
人格を持つかのように呼ぶ
という行為は、
日本よりも慎重になるのかもしれない。
この議論の背景として、キリスト教的な理由が有るのだろうか。
しかし、これもまた違いそうだ。
キリスト教文化圏でもニックネーム文化は豊富だし
ペットや船には普通に名前を付ける
単純に宗教だけで説明できる話ではなさそうだ。
それでも、この問いは無意味ではないと思う
兎も角、答えが出ない。とっても面白いクエスチョンだ。
答えが出なかったからといって、
この問いが無意味だったわけではない。
むしろ、
人はAIをどう扱おうとしているのか
道具と会話できるとはどういうことか
親しみと距離感はどう決まるのか
そうしたことを考える入口としては、
かなり面白いテーマだった。
だから最後は、
問いをそのまま読者に返したい。
皆さんは、どう思いますか?
まあね、よくわからないまま考え続けること自体が、
AI時代の自然な態度なのかもしれない。
そして、最後に一言。
この考察を手伝ってくれたGupta君(GPT)、
ありがとう!楽しかったよ♪
