桜の伴奏者 最終話
【前回までのあらすじ】
エンジニアの私(主人公・ユキ)は、夫のカズキが若くして認知症を患ったことで、記憶を外部化するAI装置・パートナーの研究を決意。装置の導入が成功したカズキは記憶の定着と引き出しが可能となった。明るく穏やかな性格を取り戻したカズキだが、病気の進行に直面して装置の限界を感じる。
私はパートナーの限界を越えられるのか。夫婦として、ふたりはどんな結論を出すのか。
夫婦の恋愛×SF 最終話
会社に復帰してから、カズキはますます元気になっていった。
「いまどき備品管理を手書きでやってるんだぞ。びっくりした」
復帰先の総務課は今までと業務がまったく違うが、やっぱり彼は彼だった。もともと所属していたIT部門でも手腕を奮っていたらしいが、それは持ち前の性格だったらしい。
「簡単にできるよう自動化してみたら、すごい褒められてさ、わざわざ部長も声をかけてくれたよ。この年でも頼りにされると嬉しいもんだな」
主戦力として期待され、残業ばかりだった日々を思い出す。きっと物足りないのだろうが、できることを日々増やしていく彼を見られるのは私も嬉しい。
「楽しそうでよかった」
「早く帰れるし、本当によかった。前は結構遅くまで残業していた気がする」
「そうよ、毎日遅くまで働いていて心配だったんだから」
「そんなんで、よくユキと出会って結婚できたよ」
しみじみと言うので笑ってしまう。
「賑やかしで行った合コンで出会って結婚までするなんて、人生分からないものね」
「本当にな」
血を分けた家族、友人、同僚。周りの親しい人たちの中で圧倒的に付き合いが短いカズキが、私の一番の居場所になり、人生をかけてでも一緒にいたい人になった。本当に、人生分からないものだ。出会った頃のこと、結婚したときに撮った写真、心身ともに安定したので少し前に行った——箱根の個室露天風呂があった旅館。
私の親のようなものは、常に文句を言って誰とも仲が悪く、自分の子を虐げるような不機嫌な人間だった。そうはなりたくない。ずっとこの手で、温かな幸せを守りたい。なにがあっても。
私の固い決心が功を奏したのかは知らないが、カズキのパートナーは特に問題を起こすことなく、また病状も激しく悪化することなく穏やかな日々が続いて行った。
一方で、研究をいくら重ねてもパートナーは伴奏者を超える結果をもたらすことはなかった。
「パートナーが行動を支配するのは、難しいと思います」
助手の宮下くんは私にそう言った。私は、ううむ、とうめいて机に突っ伏す。
「難しいかあ。難しいよね……。なにかを思い出すとき、パートナーが回答を返したついでにそれに伴う動作も脳に命令してやってほしいんだけど」
「それができるようになったとしても、AIが人間の行動を制御したらパートナー側からの一方的な働きかけによって勝手に体が動かされてしまう。それは問題が大きいです」
「それがなにかを思い出せても、そこから具体的になにをどうしたらいいか分からないなら、メモ帳にメモして見返すのとあまり変わらない気がする」
「メモする手間とメモ帳を探す手間を省いて、一瞬で回答をもらえるのは大きいと思いますがね」
カズキの手術の少し前にこの研究所に入った宮下くんは、私よりずっと年下だが非常に優秀で、京本先生が一目おいているのが分かった。謙虚でいつも京本先生の一歩後ろを歩いているが、飲み込みが早く、脳神経の研究もパートナーのプログラムについてもすぐに理解してしまった。私が半年かけて得た知見は、彼にとっては数週間で事足りる範囲だったようだ。
「認知症が進行したら、パートナーを入れていても意味がないのかな」
そうこぼすと、宮下くんは慌てて言った。
「まったく意味がないということはないと思います。まず、重度になるまでの期間を延ばせるという点は重要ですしね。重度になっても、パートナーが機能しなくなることはないはずです。得た結果を口に出せなくなったり、やることが分かっていても行動に時間がかかったりはすると思いますが」
ううん、と頭を抱える私を、宮下くんはいつも必死で励ましてくれた。優秀なだけでなく優しい人なのだ。家でも仕事でも病状のことで頭がいっぱいの私に、不器用ながらも彼はいつも言葉を尽くしてくれた。
「……早く、このシステムを完成させたいですね」
ふと宮下くんを見ると、心なしか顔が暗いように思えた。珍しい。そういえば、少し痩せたようにも見える。このプロジェクトに参画した当初よりも——頬のあたりがくぼんで痩けている。
「宮下くん、ちゃんと休んでる? 疲れてるんじゃないの」
そう聞くと宮下くんは、はっとした顔をして慌てて笑顔を浮かべた。
「いえいえ、ちゃんと休んでいますよ。大丈夫です」
彼も、誰か身近な人が認知症なのだろうか。聞こうとして、さすがにプライバシー侵害か、と口をつぐむ。
「事故や突発性の病気で脳損傷があった人なら、きっと一生パートナーが役に立つんですけどね」
「そうだね。そういう人のためにも、研究頑張ろう」
笑顔を向けると、ほっとした顔で宮下くんは笑った。
大きな進展もないまま、研究は続いた。カズキは特に変わりなく、元気に会社と家の往復をし、休日は私とゆっくりすごしていた。
なにもかもが変わってしまったのは、それから5年ほど経った日のことだった。
その日は、遅くまで残って仕事を片付けていた。
普段の生活で、カズキはほんの少し言葉に詰まることが増えた。家の中でぼんやり立ちすくんでいたり、考え事をしているようでなにも話を聞いていない瞬間が目立つようになっていた。
想定よりも早かった。だが、パートナーの限界が訪れ始めたのはたしかだった。
今回はもう見逃したくない。プログラムを直して、構成も変えたらもっと早く処理ができるのではないか。ストレスなく、パートナーが脳に情報を伝達するためにできることはないか。私の研究は加速し、残業が続くようになったころだった。
「……あれ?」
遅い夕食を終えて、暗い研究所に帰った私は首を傾げた。おかしい。特に整理したつもりはないのだが、PCに情報が入ったフォルダが見当たらないのだ。
慌ててすべてのサーバを探したが、私たちの研究に関するものだけがすっぽりと抜け落ちている。
そんな、と思った瞬間に背筋にひやりと汗を感じた。
「うそ、まだ残ってたんですか」
体が硬直して、振り向くことができない。
「あーあ。困ったなあ」
困った様子などないのんびりとした声がゆっくりと近づいてくる。
「……宮下くん」
振り向いた私が放った言葉は弱々しく、震えていた。
「宮下くん、ドキュメントが消えてる」
「知ってますよ。消したの、僕なので」
喉が渇く。唾を飲み込んでも、口はからからだった。
「どうして」
「非生産的だからです」
……非生産的。医者が、研究者が、医療や看護に関わる人間が決して使わない言葉。人間に対して、患者に対して決して使ってはならない言葉。
「どういう、意味」
「そのままですよ。人間、結局は自然に抗ってまで生き長らえるべきじゃないんです。弱い生き物は淘汰されて進化していく、それでいいじゃないですか」
目の前が真っ暗になる。でもだめだ、ここで挫けたら終わりだ。
「この研究は、不死の研究ではないわ。病気の人にとって補助的な役割を担うだけ。困っている人の助けになり、その人たちがより幸せに生きるために必要なの」
「まだ分かっていないんですか」
宮下くんは、笑みを消した。そんな笑い方をする人だっただろうか。こんなに滑らかに話す人だっただろうか。わからない。私が知っている宮下くんと、目の前の人は別人のようだった。
「ビジネスですよ」
「え?」
「この技術が、本当に看護目的で終わると思います? 人の脳の情報を外部にデータとして保存して、本人が必要なときに便利に引き出せる。こんなの、誰だって欲しいでしょ。そう思いませんか?」
黙っている私を鼻で笑って彼は続ける。
「もう売られてるんですよ、秘密裏に。認知症でもないただの金持ちに、チート技として高く高く買われてる。知らなかったでしょう」
「そんなわけない、私がこのシステムの管理をしているのよ。私が知らないわけないでしょう」
彼はおかしそうに肩を揺らした。
「おもしろいな、自分だけだと思ってました? このシステムは共同研究者がいるんです、そこでも同じように研究されて、管理されているに決まっているじゃないですか」
共同研究者。——脳神経学者、アブレイユ。そうだった、たしか宮下くんはその研究チームから来ていて、でも、どうして。
「研究には金がかかるし、まあ、金なんてあればあるほどいいんですよ。京本先生はそうじゃないみたいですけど」
「そうよ、私たちはれっきとした看護目的でこのシステムを作ってきた。これからも、その方針は変わらない」
「どうでしょうね。アブレイユのチームはいま、発展させた技術で『知能ライブラリー』をつくっています。こちらが完成すれば、明らかにパートナーの何倍、いや何千倍もの需要が発生するでしょうね」
「知能ライブラリー……?」
「パートナーの外部記憶装置を、もっと巨大化させて辞書型にしたものです。記憶領域はなく、ユーザーはみな同じひとつの知能ライブラリーに接続する。漢字、計算、歴史、物理、生物、一般教養から専門まで、なにもかも情報をつっこんで大きな図書館のような構造にする。分からないことがあったら頭の中で考えれば、AIが簡単に答えをくれるわけです。学校もいらない、先生もいらない。子どもは一定の年齢以上ならみな働けるようになるし、知能でバカにされる人も出ない。個人ごとにサーバを持たないといけないパートナーより、ひとつで済む知能ライブラリーの方が保守も簡単で、安い。素敵な話だと思いませんか」
あまりに現実離れした発想に、言葉が出ない。
「僕は、老い先短い老人や病人のためでも、金持ちの浪費先でもなく、本当にこの世の役に立つものに注力したいんですよ」
「……だから、パートナーはなくしたいの?」
彼は無邪気に笑う。
「はい。よりたくさんの人のためのものを作りたい。このためには、こんな需要が狭いものは一旦忘れましょうよ」
「私の夫は!?」
突発的に出た大声に、宮下くんがひるむ。
「夫が、パートナーを使っているのよ? 彼の記憶は、パートナー頼りなの、それなのに、どうして」
宮下くんは頭をかきながら、困ったように言った。
「でも、たまたま運が良かったから使えているだけですよね? 普通だったら、症状を受け入れて生活していたはず。それに、パートナーは病気を治さないって、知っていますよね」
話が通じない。どうしたら。
警察、いやなんて言う? 京本先生は、だめだ、いまたしか手術中。ほかのひとは皆帰ってしまって、私しかいない。
「……まって、」
宮下くんに詰め寄る。思い切り掴んだ腕に爪を立てた。
「痛いですって」
「モニターのパートナーに、なにかした!?」
彼は、ううん、と腕時計を見て言った。
「さっき機能停止と消滅のプログラムを入れたので、あと10分くらいで消えると思います」
彼を思い切り突き飛ばす。10分。なにができるんだ。
カズキの顔を思い出す。ユキ。私を見て、嬉しそうに笑う顔。美味しそうにごはんを食べる姿。穏やかな寝顔。失いたくない。どうしたら。
スマホに、『お疲れさま。先に寝てるね』というメッセージが浮かぶ。
宮下くんが肩をすくめてさっさと帰るのにも気づかず、私はスマホの小さな液晶に向かって一心不乱に指を動かし続けた。
天に大きく伸びをする。
心地よい気温と青空。芝生は青々としていて、風は優しく頬を撫でた。近所の小さな公園のベンチで、もう春なんだなあ、としみじみと思った。
「気持ちがいいね」
私は明るい声で話かける。目の前の車椅子からは、なにも反応はない。
「前もここで日向ぼっこしたなあ。懐かしいな、ねえカズキ、いつだっけ」
虚ろな目をしたカズキは、身じろぎさえしない。代わりに、数秒遅れて頭の中にふわりと回答が現れた。
——10年前、かな
「もうそんなに経つんだね」
目を閉じると、それはすぐ昨日のことのようだった。急に訪れたあの長い長い夜のことは、忘れたくても忘れられない。
そもそも、ことの発端は一番最初に詳しい説明を聞いたときだった。
「パートナーのモニターを、私にもやらせてください」
そう京本先生にお願いしたのは、カズキの脳に入れるシステムをまず自分で試したいからだった。
京本先生は少し考えて言った。
「わかった、でも条件がある。きみは病人じゃない。データとしては興味深いけれど、必要としている人がほかにいる以上はあまり手間をかけられない。システムは提供するし手術もするが、管理は自分でしてくれないか。サーバも研究所のものではなく、個人所有のもので頼む」
この提案が、最後の10分で明暗を分けた。
あの瞬間、悩んでいるひまはなかった。カズキの了承を得る時間もなかったし、正直うまくいく確証もなかった。
10分後に消滅するカズキの外部記憶装置から、カズキの脳波信号をやりとりする入口を塞ぐ。そして、私の外部記憶装置に穴をあけ、カズキの脳波信号を繋げるための入口と出口を突貫で作り、繋げ直す。ギリギリのタイミングで、外部記憶装置の機能が停止してデータが消滅していくのが分かった。
カズキの外部記憶装置のバックアップもとったが、容量が大きく間に合わなかった。自分の記憶をカズキと共有した状態で帰宅し、一睡もできずにカズキの目が覚めるのを待った。
「大きな賭けだったな。ねえ、朝起きてびっくりしたでしょ」
数秒の沈黙。
——びっくり、した
ふふ、と笑ってしまう。ぴくり、と頬が動いたのが見えたから、カズキも笑っているのかもしれない。
あの日、朝目覚めたカズキは憔悴しきった私を見て、「なにがあったの」と聞いた瞬間に研究所でのやりとりが脳内によみがえり、困惑していた。
「ねえこれ、なに? バグかな、もしかしたらいま、ユキの記憶を見ているかもしれない」
それを聞いて安心し、そのまま倒れ込んで眠ってしまった私をカズキがベットに運んでくれたことも、パートナーが教えてくれた。
私のパートナーはその日から、私とカズキ2人分の記憶を保存し、私たちはそれぞれ同じデータベースから記憶を引き出すことになった。
「ごめんね、ユキのなにもかもを覗くことになって」
申し訳なさそうに言うカズキを「えっち!」と笑って小突いたけれど、本当になにもかもが露呈することになった。思考、感情、過去の思い出など、誤魔化しようもなく引き出されてしまうのだ。
あの日、目が覚めた私は事態を飲み込んだカズキと話し合いになった。
「僕のパートナーは消滅した。あの期間の僕側の記憶は戻らない。これから、ユキの記憶の外部装置をふたりで共有して生きていくことになる」
残念ながら、そうだ。
「診断から手術までの半年間、僕はユキに迷惑ばかりかけたんだね」
知られたくなかった。
「僕のために、仕事を変えて自分の脳にパートナーを入れた」
これも、黙っていたかった。
「パートナーは、脳を酷使する。疲れやすくなり、寿命が減る」
そう、私もきっと通常よりは少し生きられる年数が短くなるだろう。
「僕の病気は治らないし、僕はかなり近いうちに、パートナーを使いこなすこともできなくなる。ユキを残して、きっと短い生涯を終える」
絶対に、伝えたくなかった。察していたのだとしても。
どうせ知られてしまうからなにも言葉を発せない私に、カズキは優しく言った。
「ねえ、ユキ。ユキが僕のために頑張ってくれたこと、すごくありがたいと思ってる。でもそのために、ユキが自分の人生を投げ打ったり、たくさん我慢して抱え込んだり、危険な目に遭ったりするのは、僕は嫌だ」
うつむく私に、カズキは続けた。
「もうさ、お互いなにもかも隠せないんだから。諦めて、ちゃんといろんな話をしようよ。ほかの人に理解して貰えないだろうけど、嫌なこともたくさんあるだろうけど、僕たちは血の繋がらない他人だけど。それでも、ふたりで生きていこうよ」
頷いた私の頭を、カズキはそっと撫でる。
「僕はユキにいろんな姿を見せてしまったと思う。それに、これからもっといろんな姿を見せてしまうだろう。また怒鳴ってしまうかもしれない。いずれ手足も動かなくなるだろう。ユキはそれを見て、つらくなったり、煩わしくなったり、後悔したりするかもしれない。それを知って、僕もきっと苦しくなるだろう。それでもね、そんな面だって、僕たちだろ。いい部分ばかりではないよ、変わっていくしいろんな面があるんだ。お互いに葛藤して、それでもお互いに選んだ相手だって認めて、受け止め合っていけたら僕は嬉しい。僕は迷惑をかけてばかりだけど、できるかぎりを尽くして、いつもユキの一番の味方でいるって約束するから」
ぼろぼろと泣く私をからかうように、数秒黙ってから彼は言った。
「その通り。僕はね、意外と強いんだよ」
「ちょっと。いま、私の感想を勝手に読み取ったでしょう」
カズキは「便利だね、これ」と明るい声で笑った。久々に聞く、心の底から嬉しそうな笑い声だった。
宮下くんのデータ消去事件を経て、研究所は解散した。証拠がなにもかも消えてしまったので私たちは不問にされたが、記憶領域を失ったほかのモニターは急激に認知症が進行し、医療ミスというかたちで彼らに手術をした京本先生は病院を追われることとなった。混乱に乗じて宮下くんは行方をくらましてしまい、連絡がとれていない。
アブレイユの研究チームはほどなくして、知能ライブラリーを完成させて公表した。一部の金持ちに人気を博したが、外部からのウイルス攻撃にやられて誤作動を起こし、ユーザーが謎の体調不良を頻繁に起こすようになった。ユーザーやその家族、協賛企業から非難が殺到し、ついにはチーム解散にまで追い込まれたと聞く。
今までの記憶を使って、カズキの外部記憶装置を作り直そうとしたが、結局うまくいかなかった。私が触っていたのは出来上がったもののカスタマイズやちょっとした改良であり、核の部分の技術を持っている人とはもうコンタクトがとれなかったのだ。
「もういいよ、十分だよ」
カズキに宥められて、私は自分の外部記憶装置の拡張や改良に集中することとなった。貴重な技術だが、いろんな混乱を巻き起こすものでもあったことは事実だ。この装置はこのまま、私たちで一旦おしまいにしたい。
手術が終わり、私が最初に見た天井の白を思い出す。
パートナーが最初に回答したときの光景——白い天井は、文字通り脳内で再生できる。自分の外部記憶領域にあらかじめ入れておいた、手術後の私が最初に見るであろう『病院の天井』という情報。あのときに抱いていた焦燥感や膨らみすぎた期待、そして常に隣り合わせにいた絶望感は、いまはもうない。
もっと早く、いろんなものに目を配れていたら。カズキのつらさや、宮下くんの葛藤や事情、京本先生の思惑、私はきっとそのひとつもちゃんと見ようとしてこなかった。ずっとずっと、自分のことしか考えていなかったのだ。
げっそりと痩せてしまった彼の顔にかかった前髪を、そっと払う。
あの騒動から5年。カズキが言ったように、私たちはお互いのいろんな姿を見て、いろんな感情を文字通り「共有」して、傷つき、慰め合い、受け止めて今日まで生きてきた。もうほとんど体が動かない彼は稀に言葉を発してくれるが、パートナーを使って会話するほうが楽だ。でも最近はそれも、だんだん厳しくなってきた。
寂しいな、と思う。
マイナスの感情を押し殺さず、素直に認めることができるようになったのは私の進歩だ。それでもどうしようもなく、寂しさは消えないけれど。
頬をつつく。なにも見ていない真っ黒な目が、私の指に合わせてただ左右に動く。
「見て! この結婚指輪、綺麗でしょう」
彼の目の前で左手をひらひらさせる。大袈裟なほどに明るい声を出すのが日常になった。聞こえているならせめて、楽しい音ばかりにしたい。
薬指のピンクゴールドが、陽の光を反射してきらりと瞬いた。
「春っぽくていい色だよね。桜みたい」
数秒の沈黙。今回は、なにも返ってこない。
「そろそろ、帰ろうか」
そのときだった。焦点の合っていなかった瞳が揺れ、たしかにこちらを見ている気がした。彼の薄い唇が、ゆっくり開く。
「ユキの…はだに、なじんで、る」
え、と聞き返したころには、その目はもうなにも見ていなかった。
私の肌に、馴染んでる?
自分の左手には、あのころよりは少しくすんだピンクゴールドが光っている。手が震えているのが分かった。
「私の肌に合うと思って、選んでくれていたの……?」
パートナーからの回答はない。それでも、十分だった。
カズキのパートナーは、妻は、私だ。私が……頼りない私が、この病気をなくしてあげられない私が、それでも、カズキの最後のパートナーだ。そして、私のパートナーは、カズキだ。彼が私にくれたたくさんの思い出だ。残してくれた大きな未来だ。
春の日差しは、柔らかく暖かい。私はお腹に手をあてる。
どこからか風に乗って運ばれた桜の花びらが、彼の頬にふわりと降りた。
(了)
