あの夏のつづき
夕方のオフィスは、どこか現実から切り離されたような
静けさに包まれていた。
蛍光灯の白い光が、机も、書類も、人の顔も、同じ温度で照らしている。
窓の外ではきっと空の色が変わっているはずなのに、その気配はここまで届いてこない。
田島はパソコンの画面を見つめたまま、
手を止めていた。
エクセルのセルに並ぶ数字。
売上の推移、予測値、修正された見込み。
どれも理解できるし、やるべきこともわかっている。
ただ、それを終わらせたいという気持ちが、どこか遠かった。
マウスを握ったまま、しばらく動かない。
画面の中の数字は、意味を持っているはずなのに、
その意味が自分の中に入ってこない。
四十三歳
若いとは言えないが、老いるにはまだ早い。
その中途半端な場所に、気づけば立っていた。
このまま、あと何年働くのだろう。
ふと、そんなことを考える。
二十年。
あるいは、それ以上かもしれない。
同じような朝を迎えて、同じ電車に揺られて、
同じようにパソコンの前に座る日々。
大きな不満があるわけではない。
仕事が嫌いというほどでもない。
けれど、好きかと問われれば、答えに詰まる。
隣の席から、笑い声が聞こえた。
若い社員たちが、何かの話で盛り上がっている。
言葉の端々に勢いがあって、未来に対する疑いがほとんどない。
その声を聞きながら、田島はふと思う。
ーーー自分にも、あんなふうに笑っていた時期があったはずだ。
いつだっただろう。
思い出そうとしても、うまく形にならない。
ただ、確かにあったという感触だけが残る。
キーボードに指を置く。
何かを入力しようとして、やめる。
結局、ファイルを閉じた。
今日はもういいと思った。
やるべきことは残っている。
けれど、それを今やらなければならない理由が、見つからなかった。
椅子をひき、立ち上がる。
軽く頭を下げて、オフィスを出た。
エレベーターの中で、鏡に映る自分を見る。
疲れているわけではない。
ただ、どこか平坦で、起伏のない顔をしている。
一階に降りると、外の空気が肌に触れた。
思ったよりも、柔らかい。
ビルの外に出ると、夕方の気配が残っていた。
空はすでに暗くなりかけているが、完全な夜にはなりきってない。
その中途半端な明るさが、少しだけ心地よかった。
帰り道に、コンビニに立ち寄る。
冷蔵ケースの前で、しばらく立ち止まる。
並んだ缶ビールを眺めながら、
どれを取るでもなく、ただ見ている。
以前なら、迷わず二本、三本と手に取っていた。
最近は、自然と一本で済むようになっている。
理由ははっきりとしない。
ただ、飲んだところで何かが変わるわけではないと、
どこかでわかってしまったからかもしれない。
一本だけ手に取り、レジへ向かう。
並びながら、ふと外を見る
ガラス越しに、小学生くらいの子供たちが走り回っていた。
何かを追いかけているのか、逃げているのか、よくわからない。
ただ、大きな声で笑っている。
その声が、店内の静けさをすり抜けて、耳に届く。
その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
懐かしい、というよりもーーーーー
もっと曖昧で、言葉にならない感覚。
もう触れられないものに、指先がかすったような。
田島は、なにも言わずにビールを受け取った。
外に出る。
子供たちは、もう別の方向へ走っていったのか、
姿はなかった。
けれど、さっきの笑い声だけが、どこかに残っている気がした。
歩き出す。
その足取りは、いつもと同じはずなのに、
ほんのわずかに、違っているように感じられた。
ーーー小学生の頃の夏休み。
不意に、その言葉が浮かぶ。
理由はわからない。
ただ、さっきの笑い声が、どこかで何かを引き寄せたのかもしれない。
朝、目が覚めた瞬間から、一日が始まっていた。
何をするか決めていなくても、外に出れば何かがある気がしていた。
あの頃、世界は確かにきらめいていた。
特別なことなんて、何もなかったはずなのに。
「・・・なんでだろうな」
小さくつぶやく。
答えは出ない。
けれど、その問いは、消えなかった。
田島はそのまま、いつもの帰り道を少しだけ外れて歩き出した。
理由はない。
ただ、まっすぐ帰る気にはなれなかった。
それだけだった。
住宅街の道は、夜に向かってゆっくりと静まっていくところだった。
街灯がぽつぽつと灯り始め、昼間の輪郭を少しずつぼかしていく。
遠くで犬のなく声が聞こえ、どこかの家からはテレビの音が漏れている。
田島は普段なら通らない道を選んで歩いていた。
理由はない。
ただ、まっすぐ帰る気になれなかった。
角を曲がると、小さな公園があった。
昼間は子供達でにぎわう場所だが、この時間になると人影は少ない。
遊具の影が、街灯に照らされて長く伸びている。
ブランコが、わずかに揺れていた。
風なのか、それとも、さっきまで誰かいたのか。
田島はベンチに腰を下ろす。
その瞬間、記憶が静かにほどけていった。
ーーー蝉の声。
耳の奥で、はっきりと鳴り始める。
小学生の頃の夏休み。
朝、目が覚めた瞬間から一日が始まっていた。
時計を見ることもなく、予定を立てることもなく、
ただ、外に出れば、何かが起こる気がしていた。
友達の家に向かう道。
アスファルトの熱。
空の高さ。
駄菓子屋の前で小銭を数えたこと。
アイスの当たりで大袈裟に騒いだこと。
川に足を入れた時の冷たさ。
水の流れに逆らって、何度も踏ん張ったこと。
夕方、遊びが終わる頃の空。
オレンジと紫が混ざり合い、一日が静かに閉じていくあの時間。
「・・・なんで、あんなに、、」
言葉が途中で止まる。
あの頃は、何も持っていなかった。
お金も、将来の保証も、社会の中での役割も。
それでも、満ちていた。
今はどうだろう。
あの頃よりも多くのものを持っているはずなのに、
なぜか足りないものばかりが目につく。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
取り出して画面を見る。
仕事の通知だった。
開けば、すぐに現実に引き戻される。
返信をすれば、またいつもの流れに戻る。
田島はしばらくそれを見つめていた。
それから、ゆっくりと電源を切った。
今は、いいと思った。
夜風が頬に触れる。
その感触が、どこか懐かしかった。
完全に失ったわけではないのかもしれない。
あの頃の感覚は、ただ奥に沈んでいるだけで、
こうして、ふとした瞬間に浮かび上がってくる。
田島は立ち上がる。
来た道を戻りながら、
足取りがほんの少し軽くなっていることに気づいた。
部屋に戻ると、静けさが広がった。
靴を脱ぎ、ネクタイを緩める。
冷蔵庫を開ける気にもなれず、コンビニで買ったビールだけをテーブルに置いた。
プルタブを開ける音が、小さく響く。
窓の外を見ると、街の明かりが点々と続いていた。
あのひとつひとつに、それぞれの生活がある。
自分と同じように、なんとなく一日を終える人。
明日を楽しみにしている人。
何かを失ったばかりの人。
その中に、自分もいる。
特別ではない。
けれど、それだけでもない。
ーーーあの頃のきらめきは、どこへ行ったのだろう。
ふと、公園のことが頭に浮かぶ。
もう一度、行ってみようと思った。
部屋の電気を消し、外に出る。
夜は少しだけ深くなっていた。
さっきよりも空気が澄んでいる気がする。
同じ道をたどり、公園へ向かう。
街灯の下、ベンチに人影があった。
田島は一瞬、足を止める。
見知らぬ誰かだと思った。
けれど、その横顔に、どこか引っかかるものがある。
記憶の奥にある輪郭と、かすかに重なる。
「・・・もしかして」
声が自然に出ていた。
相手が顔を上げる。
数秒の沈黙。
「あれ・・・田島?」
名前を呼ばれた瞬間、確信に変わる。
「久しぶりだな」
「ほんとに・・・久しぶりだな」
それ以上の言葉が、すぐに出てこなかった。
小学生の頃、毎日のように一緒に遊んでいた相手。
その記憶と、目の前の現実が、ゆっくりと重なっていく。
二人は少し間を空けて、同じベンチに座った。
沈黙が流れる。
けれど、それは気まずいものではなかった。
「覚えてるか、ここ」
相手がポツリという。
「ブランコ、よく乗ってたな」
「どっちが高くまでいけるか、競争してた」
小さく笑う。
時間が、ほんの少しだけ戻る。
「最近どうだ?」
「まあ・・・普通だよ」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞かなくても、どこかわかる気がした。
「楽しかったよな、あの頃」
空を見上げながら、相手が言う。
「・・・楽しかったな」
田島も、同じように空を見る。
街の光にかき消されて、星はほとんど見えない。
「今日さ、なんとなくここに来たんだよ」
相手が笑う。
「俺もだよ」
しばらくして、二人は立ち上がる。
「じゃあな」
「またな」
連絡先も交換しない。
約束もしない。
それでも、不思議と、それでいい気がした。
それから、しばらく経った。
田島の生活は、大きくは変わらなかった。
朝起きて、会社へ行き、
同じような仕事をこなして帰る。
けれど、ほんの少しだけ違っていた。
早く家を出る日が増えた。
遠回りをすることもあった。
昼休みに外へ出て、空を見上げることもあった。
どれも、小さなことだった。
それでも、一日の中に、わずかな余白が生まれていた。
ある日の帰り道、
駅前の通りは、いつもより少し賑やかだった。
その中で、ふと聞き覚えのある声が聞こえた。
少し先の店の前。
数人の輪の中で、誰かが笑っている。
あの幼馴染だった。
田島は立ち止まる。
相手はこちらに気づいていない。
楽しそうに話し、周りも笑っている。
その空気は、はっきりと伝わってきた。
ーーーああ、あいつの生活は、きらめいてるな。
そう思った。
羨ましいと言うより、少しだけ安心する気持ちだった。
あの頃のように笑える場所が、
まだこの世界にあるということ。
声をかけようかと迷い、やめる。
その距離のままでいい気がした。
歩き出す。
背中越しに、笑い声が続いている。
自分の生活はどうだろう。
大きな変化はない。
けれど、
朝の空気。
遠回りした道。
ふとした風の温度。
そういうものが、少しずつ増えている。
大きな光じゃなくていい。
ただ、かすかでもいい。
「・・・見えてきてるのかもな」
小さくつぶやく。
答えはまだ、はっきりしない。
それでも、前よりは少しだけ、
先のことを考えるのが怖くなくなっていた。
改札を抜け、人の流れに紛れる。
その足取りは、以前よりもわずかに軽い。
あの夏のような強い光じゃなくてもいい。
ただ、今の自分に見える形で________
きっと、この先にも続いている。
まだ見えなかっただけの、
あの夏の続きが。
終
