呪いが解けた話と、その先で

あ、わたしって、お母さんに愛されているんだ。
わたしって、生きていていいんだ。

私が生まれて初めて、強烈にそう感じた瞬間は、24歳の春、母の座る介護ベッドの前で屈んでみせたときだった。

別に、それまで何か冷たくされていたとかではない。
母は、私をずっと愛してくれていた。分かりやすく、正しく、かなりのレベルの愛を注いでくれていた。

ただ、母がくれるその愛を、私は本当の本当の意味では受け止められず、ずっと素通りさせていた、ような気がする。


わたしは、3人兄妹の末っ子である。
4歳のときに両親が離婚して、兄と姉は父方の家に引き取られた。

つまりいわゆる母子家庭で、きょうだいの中で私だけが、母方の家で育った。

もともとの、両親ときょうだいとで一緒に住んでいた家での日々については、幼かった時分のことなので、朧げにしか覚えていない。
ただ、その家から父と兄と姉が出ていった日のことは、ずっと覚えている。

3人が玄関から出ていくとき、4歳のわたしは、「みんな旅行にでも行くのかな、なんで私は連れてってくれないのかな」なんて思っていた。

玄関のドアが閉まって、3人の姿が見えなくなった瞬間、母が泣き崩れた。
その母の姿を見て、私は何も知らないまま、本能的に、「ああ、もうみんな二度と帰ってこないんだ」と理解した。

なんでかは分からないけど、もう、みんなは帰ってこないんだ。

母はずっと泣いている。でも私には、なんて声をかければよいのか分からない。だって、何が起きているのか分からないのだから、慰めようもない。
一緒に泣いてあげることすらできない。分からないのだから。
でもとりあえず私は、母にティッシュ箱を差し出した。母は眼鏡を外して、ありがとうと言って、ますます激しく泣き出した。


主観的な体感から言っても、客観的な状況から見ても、
たぶんその瞬間からずっと、わたしは母にとって、世界に唯一残された心の支え、のようなものだったのだろう。
と思う。


わたしと母は、母方の祖父母の家で暮らすことになった。

祖母は小学校までは勉学に厳しく、祖父は性格にちょっと難があって、つらいと思うことはあったけれど、それでも祖父母は2人なりに私を大事にしてくれていたし、金銭や生活面ではとくに不自由もなく過ごせた。

なにより母は、ずっと私のことを一番に考えて動いてくれていた、と思う。
フルで働きながら、家事もして(母が家事をしていると祖母が『私がやるのに』と交代したがった)、休日も私と出かけたり。
あの頃、母自身の趣味やプライベートのための時間なんて、実質まったく無かったんじゃないだろうか。


そんな風に大人3人に可愛がられて、何不自由なく育ちながら、
いっぽう心のどこかで、わたしは、
「わたしは生まれるべきではなかったんじゃないか」
みたいなことを思っていた。 

離婚してからもずっと、母は遠方の父方の家にいる兄と姉にこまめに手紙を書き、郵送するプレゼントを選び、2人の写真を大切に部屋に飾ったままにしていた。
いつか2人に会いに行きたいね、と、私と母はよく話していた。
でも、なんで今すぐ2人に会えないのかは、誰も教えてくれなかった。

だから私は、
「わたしが生まれてしまったせいで、両親は離婚したんじゃないか」
「そのせいで兄と姉も、母から離れなければいけなくなってしまったんじゃないか」
と、思ったのだ。

だって、どうして離婚したのか、どうして3人きょうだいの中で私ひとりだけが離されたのか、教えてもらってない。
教えてもらってないものは、分かんない。
自分に分かる範囲のこと、見える世界にあるものの中で、どうにか理屈をつけるしかない。

母に大事にされているのは分かっていたけど、それは関係がない。だって、父が私をどう思っているかが分からないのだから、そっちが原因という可能性があるだろう。

もし本当に私のせいだったのだとしたら、時間を巻き戻して、そもそも私が生まれてこなかった世界線にしたほうがいいんじゃないか。
父と母と、兄と、姉で、4人でずっと暮らしてもらうのだ。
きっとその世界のほうが、みんな幸せだったのだ。

大きくなってから、この考えは根本的に間違いだったと知った。
離婚の本当の原因を教えてもらったのだ。
当たり前だけど全然違う理由で、子供にはどうすることもできないものだった。

でも、間違いだったと分かった後でも、染み付いた自己否定はずっと癖になってしまっていて、消えなかった。


その呪いのようなものが、突然すっと薄れたのが、24歳の春だった。

私と母は実家を離れて、二人暮らしをしていた。
前年に母の末期がんが発覚して、通院しながら闘病生活を続けていたけれど、どうすることもできなくて。
お別れの日がすぐそこまで近づいているのだと、お互い自覚していた頃だった。

あるとき、がんによるリンパ浮腫で、母の顔がむくんでしまった。
瞼も開けづらいレベルで、ほとんど前が見えないという状態だった。
母は、「れねの顔が見えない」と嘆いていた。

その次の日、少し眠った母は、むくみがましになって、瞼がちょっと持ち上げられるようになった。
母は介護用ベッドに座ったまま、私に、「顔を見せて」と言った。ので、私は、母から顔が見えやすいように、屈んでみせた。

そのとき母は、「かわいい〜」と、心から嬉しそうに力の抜けた顔で、ふにゃりと笑ったのだ。

私の顔なんて、母にとっては別に、それまでの24年間、ほぼ毎日見ていた顔である。

とくに自分の顔のつくりが良い方だとは思っていないし、その時の私は仕事と介護の両立による寝不足で肌はガサガサで、頬を掻きむしったかさぶたまでできていて、それはもうボロボロだったはずなのだ。
それなのに、たった一日見れなかっただけの私の顔を見て、母は本当に嬉しそうに笑うのだ。


そのとき初めて私は、ああ、こんなにも愛されていたんだ、と思った。

でもたぶん、母の愛は、そのとき初めて与えられたものではなくて、ずっと変わらずにそこにあったものだ。

ただ、私がそれに気づけていなかったのだ。
変わったのは、私のほうだ。


母の末期がんが発覚してからの一年、私は母のために家事をし、ご飯を作り、買い物をし、一緒に思い出を作ろうとした。

家にずっといる母のために、時間つぶしになればと、羊毛フェルトのキットをプレゼントした。母は喜んで、羊毛フェルトでたくさんのマスコットを生み出していた。

母の車椅子を押しながらしばらく歩いて、近所の海を見に行った。
浜辺に車椅子を置いて、夕日と海を一度に眺められる、母だけの特等席を作った。

短期入院の退院祝いに、2人でタコスパーティーをした。

抗がん剤でまばらに抜けてしまった母の髪を、短く整えた。誰かの髪を切ってあげるのは、初めての体験だった。

治療を打ち切ることが決まって、緩和ケアに移行してからは、母の容体はどんどん変わっていった。

毎朝、母の着替えを手伝った。むくんで動かない手を握って、新しいパジャマの袖を通してあげた。
腫瘍をウェットティッシュでぬぐって、軟膏を塗ったガーゼを貼り付けた。

痛みがひどくなったときは、医療用麻薬の鎮痛剤の袋を開けてあげて、それをどうにか飲み込むのを見守った。
薬が効くまでには時間がかかる。母は、痛い、痛い、とすすり泣いている。
私には、なにも言ってあげられる言葉が見つからなかった。母の感じている痛みがどれほど途方もないものなのか、私には分からない。
どうしようもなく無力で、何もしてあげられない。ただ隣で、ずっと母の手を握っていた。

もう、いつ容体が急変してもおかしくない、と言われて、兄と姉に連絡した。
ふたりは遠方から、新幹線と飛行機で、会いに来てくれた。

スーパーで買い物をするときは、母の好きな食べ物ばかりを探して買っていた。
そのうち、母の食欲がなくなってきて、林檎かうどんくらいしか食べられなくなった。大袋入りの林檎を買うようになった。

0時過ぎまでリモートで残業したとある夜、母が「林檎を食べたい」と言うので、私は深夜に林檎を剥いた。
不格好に剥かれた林檎を食べながら、母は「れねが剥いた林檎が一番おいしい」と、笑ってくれた。

大変なことも色々あったけど、ぜんぶ私自身がそうしたいと思って、そうしていたことだ。
どうしたら少しでも母のつらさを和らげられるだろうって、そればかり、毎日いっぱいいっぱい考えた一年だった。


あのとき、ふにゃりと笑う母の顔を見て私の呪いが薄れたとき、私が母にたくさん愛をあげていたから、それが返ってきたのだろうか。
いや、違う。そうじゃない。
私がどう在ろうと、母はずっと与え続けてくれていた。

私がそれを受け取れるようになったのは、私自身が、『母のためにやれることを、全部やっている』と思えたからだ。

母のために仕事と介護を続けた一年分の私のことを、私自身が、肯定できたからなんだ。



24歳の春の終わり頃、母は、自宅で息を引き取った。

式や色々な手続きで暫くは忙しくて、それがようやく落ち着いてきて仕事に戻って、暫く経って、ふと、からっぽな自分に気がついた。

自分がなんのために生きているのか、分からない。

この世で一番喜ばせてあげたかった母が、もういなくなってしまったのに、まだ生きている私は、いったい何なんだ?

母は、呪いを解いてくれた。生きていていいのだと、教えてくれた。
そう、生きてはいる。それはいい。でも、じゃあ、今の私は、いったい何のために生きているんだ?


遡って、そもそも私が就職したとき、職場を選ぶための必須条件には、「母と一緒に、祖父のいる実家から逃げるために、地元から遠いところで就職して暮らす」が入っていた。
祖父の難のある性格は、ちょっと一緒に住むには耐えきれないレベルになっていたのだ。

そうして就職して、母と二人暮らしをするようになってからは、私は「2人で暮らすお金を稼ぐため」に働いていたし、母の病気が発覚してからは、「母の医療費を稼ぐため」も加わった。

もう、母のためにと思いながら働く必要はない。
祖父から逃げる必要すら無い。祖父も他界したからだ。
戻りたければ、実家、つまり祖父母の家にだって戻れる。今はもう誰も住んでない、空き家だけど。

私に繋がっていたものは、すべてなくなってしまった。もう、行こうと思えば、世界中のどこへだって行けるのだ。
行こうとさえ思えば。


それじゃあ一体、わたしはどうして今ここにいて、なんのために生きて、なんのために働いているんだ?

好きなことを仕事にはしているけれど、他の場所でだってできるのに。
それでもここに居続ける理由は、なんだ?

母がいなくなってしまった今、この世で私が安心できる居場所は一体、どこにあるんだ?

私はいま、ひとりだ。これから、ずっとひとりなのかな?


母を喪ってから生まれてきたこれらの疑問への答えを探し続けて、もう、4年が経つ。

最初の頃は、母がいなくなったことでぽっかり空いた穴を、「母のため」で埋め戻すことで、どうにか人の形を保っていた。

母は私を愛してくれたから、大事にしてくれたから、私が私を大事にしなかったら、母は悲しむだろう。
私は母の代わりになるんだ。
母の代わりに、私が、私自身を大事にするんだ。
そういう風に言い聞かせてた。

それから、こういう考えも浮かんだ。
ただ毎日、おいしいものを食べて、ステキなものを見て、何でもない日常を続けられれば、それでよいのだ。やりたいことも、行きたい場所もなくたって、それで十分なのだ。とも。

今はどちらも、すこし違う。
同じ疑問で悩み続けた4年間だけど、悩みへのアプローチは、少しずつ変わってきている。

いろんな人と会った。趣味のコミュニティに飛び込んでみたりして、うまく行ったり、失敗したりしながら、自分のことや他の人のことを、今までになく真剣に、いっぱい考えた。

離婚から一度も顔を合わせたことのなかった父と、会って話した。
最初は話しながら心がぐちゃぐちゃに荒れ狂ったけれど、時間をかけながら『これが実物の私の父なんだなあ』と受け入れられるようになってきて、静まった。

父方の実家に行った。父が本当はどういう人で、どんな風に生きてきたのかを、なんとなく知った。

すこしずつ、すこしずつ、見える世界が広がっていく。わたしの形が変わっていく。

そうして広がった世界の先で、新しい答えになるものを、ずっと探し続けている。