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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第10章

【第10章 成立してしまう未来――契約終了 一ヶ月前】

契約終了日は、もう十分に近かった。

必要な手続きは、進めようと思えばいつでも進められる。
航空会社からの確認メールは、未読のまま残っている。
荷物発送の見積もりも出ていた。
帰国後の住まいにも、いくつか候補がある。

仕事も成り立つはずだった。

長期の住み込みではなく、一定期間だけ場へ入り、生活を整え、手順を残して去る。
教育や短期契約を軸にすれば、執事という肩書きの外でも生きていける。

誰の好みにも合わせる必要のない紅茶を自分で淹れ、必要な場所へだけ出向き、整ったところで静かに退く。

合理的だった。
安全でもある。
誰の人生にも深く割り込まずに済む。
ひとりで暮らす分には、何も困らない。

かつての私なら、それを理想と呼んだだろう。

だが今、その先に立つ自分だけがどうしてもうまく想像できなかった。

想像はできる。成立もする。
それでも、そこにはこの部屋がない。

ノックのあと、何秒で返事が返るか。
疲れている日は、椅子を引く音が少しだけ重くなること。
食卓に着いた時の表情で、先に紅茶を淹れるべきか、食事を勧めるべきかを決めること。

半年近くの間に覚えてしまったそうした手順が、帰国後の暮らしにはひとつも存在しない。

成立するのに、私はそこへ行けない。

昼前、リビングで書類を整えていると、彼女が仕事部屋から出てきた。

手には手帳と薄いクリアファイル。
何か言いかけるように口を開き、それから閉じる。

視線は手帳の上に落ちた。
開かれたページの端に、小さく印がついている。
契約終了日より少し前の日付だった。

彼女はそのまま椅子に座り、何気ない顔でページをめくる。
指先が一度だけ止まる。
そして、何かを書きかけて、やめた。

私はその動きを見た。
見たが、見なかったことにした。

「何かご確認が必要でしたら」

できるだけいつも通りの声音でそう申し上げると、彼女は顔を上げ、小さく笑った。

「いえ、大丈夫です」

「承知しました」

それで終わる。
終わるしかなかった。

午後、発送関係の見積もりを印刷していると、背後で足音が止まった。

「準備、順調そうですね」

振り返る。
彼女はそこに立っていた。

笑っているのに、声の底だけが乾いていた。
安心している人の声ではなかった。

「ええ。確認できるものから順に」

「帰国後のご予定も、もうお決まりなんでしょう?」

問いただすのではなく、確認する言い方だった。
その方が、私にはよほど堪えた。

「おおむねは」

彼女は私の手元の書類に一度だけ視線を落とし、言った。

「さすがですね。仕事がお早くて」

その声は、褒め言葉として整えられていた。
皮肉に聞こえるほどの強さはない。
だからこそ、ただ事実として言われる方が痛かった。

「そのように言っていただけるのでしたら」

ようやくそれだけを返すと、彼女は「ええ」とだけ言って視線を外した。

仕事部屋へ戻る背中は、いつもより少しだけ速く見えた。
呼び止めれば、まだ何かは言えたのかもしれない。
そう思ったのに、私はそこで立ち尽くしたままだった。

しばらくして、仕事部屋の物音が止む。
通りがかりを装って廊下へ出ると、半開きの扉の向こうで、彼女は机に向かったまま手を止めていた。

俯いて、何もしていない。
ほんの数歩で届く距離にいるのに、そこへ入る権利だけがもう自分にはないように思えた。

やがて、深く息を吐く気配だけがして、再びキーボードへ指が戻る。

私は足を止めなかった。

それから、食卓では礼だけが残った。

挨拶はある。
食事も用意すればきちんと受け取られる。
礼も失われてはいない。

「ありがとうございます」

「いえ」

それで終わることが増えた。

破綻はしていない。
だからこそ、そこに自分から手を伸ばす理由も見失っていた。

カップを置く音はいつもと同じはずなのに、なぜか少しだけ硬く聞こえる。
視線が合っても、どちらからともなくすぐに外れる。

壊れてはいない。
ただ、少しずつ片づけられている。
私が帰国の荷物をまとめるより先に、
彼女は私のいる生活を、心の中で畳もうとしていた。

正しい距離へ戻したはずだった。
だが、戻った先にあったのは整いではなかった。

互いに礼を失わないまま、互いに一歩ずつ退いていく。
その静けさだけが、かえって不自然だった。

整えて去ること。
何も残さず終えること。
それが誠実なのだと、長く信じてきた。

だが今、その信念の輪郭だけが静かに揺らいでいた。

数日後の夕方、クララから連絡が入った。

開店前に来なさい、とだけ書かれている。
理由は添えられていなかったが、だいたい察しはついた。

開店前の店は静かだった。
落とされた照明が、まだ誰もいないカウンターを撫でている。
私はいつもの席に腰を下ろした。

クララは何も言わず、グラスをひとつ置く。
中には、琥珀色の液体がわずかに揺れていた。

「ねえ、セバス」

「何でしょう」

「あの子のこと、名前で呼ばないの?」

私はグラスへ視線を落とした。

「必要がありませんので」

「……必要がない、ね」

その一言だけで、言い訳に使える理屈がいくつか静かに崩れた。

返答を失う私を、クララはしばらく見ていた。

「特別な呼び方は、あの子に許してるのに」

それ以上は何も言えなかった。

言い訳はいくつでも作れる。
雇用主だから。
線を守るためだと。

だが、そのどれも、この沈黙ひとつに勝てなかった。

クララは小さく息をつく。

「飲まないの?」

私は答えず、ただグラスを見ていた。

触れれば、理由がひとつ減る。
触れなければ、言い訳がひとつ残る。

どちらも、選ぶには中途半端だった。

クララはそれ以上、何も言わなかった。

クララは小さく息をつくと、ワインセラーから一本のワインを取り出し、私の前へ置いた。

見覚えのあるラベルだった。
以前、節目の夜に飲むならこういう一本がいいと話したことがある。
まったく同じ銘柄ではない。
だが、近い。

「……これは?」

「餞別じゃないわ。託すの」

クララは瓶の肩を軽く撫でる。

「アンタ、自分じゃ買わないでしょう。こういうの」

「必要がありませんでしたからね」

「今までは、ね」

返事が詰まる。

「節目の夜に飲むんでしょ?」

「……そういうこともあります」

「なら、持っていきなさい」

「クララ」

名を呼ぶと、クララは少しだけ目を細めた。

「いいのよ。アタシが飲みたいんじゃないもの」

それから、ほんの少しだけ真面目な声になる。

「If the night ever comes when you need it, darling, that’s when you uncork it.」
(必要になる夜が来るなら、その時に使いなさい)

私は瓶へ視線を落とす。
まだ受け取るべきではない気がした。
だが、受け取らないままでいられるほど、今の私は無傷でもなかった。

「I intend to go back.」
(帰るつもりです)

ようやく、それだけを言う。

クララはあっさり頷いた。

「Yes. I thought so.」
(ええ、そうでしょうね)

そこで止めることもできたはずなのに、クララは止めなかった。

「Still… going back and being able to leave things behind are not the same, are they?」
(でも、帰るのと、置いていけるのは別でしょう)

慰めではなかった。
私がまだ認めずにいる事実へ、短い言葉で触れてくるだけだった。

私は返答を失った。

クララはワインボトルをこちらへ滑らせる。

「You can always do what’s right.」
(正しいことはいつだってできるわよ)

瓶の底がカウンターを擦る、小さな音がした。

「But whether you can choose the right thing and remain unaffected… that’s a different question, isn’t it?」
(でも、正しい方を選んで平気でいられる人間かどうかは、別でしょう?)

私はようやく、その瓶へ手を伸ばした。

帰り道、細長い紙袋を持つ手が何度も気になった。

紙袋の中で、ガラス瓶が静かに重さを主張している。

帰ることはできる。
正しい方を選ぶこともできる。
それでも私は、それを選んで平気でいられる人間ではない。

そのことだけは、もう曖昧ではなかった。

部屋へ戻ると、ダイニングに灯りがついていた。

彼女は資料を閉じ、こちらを見る。
たったそれだけのことに、胸の奥がわずかに軋む。

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

彼女の視線が、私の手元の紙袋へ落ちた。

「何か買われたんですか?」

「預かりものです」

「クララから?」

「ええ」

それだけ答えて、私は紙袋をキッチンの奥へ置いた。
詳しくは聞かれなかった。
聞けたはずなのに、聞かない。
その引き方が、今の私には堪えた。

「夕食、もう少しでできますよ」

それだけの言葉が、今夜もこの部屋へ戻ってきた理由になってしまう。

彼女は立ち上がり、鍋の火加減を見た。
以前よりずっと迷いのない動きだ。
危なっかしさはもうない。

それでも、どこに何があるかを確認しながら動くその背中を、私は目で追ってしまう。

「では、すぐにお手伝いを」

「今日は大丈夫です」

以前なら遠慮なく役目を渡してきたところで、今日は一歩引かれた。
その差が、むしろ明瞭だった。

少しだけ間を置いて、彼女は振り向く。

「座っててください、セヴィ」

業務外の呼び名だけは変わらない。
そのことが救いなのか、猶予なのか、まだ判断がつかなかった。

私は椅子に腰を下ろす。
彼女がキッチンに立つ姿が見えた。

湯気。
鍋に触れる木べらの音。
時折、細い手首が視界の端を横切る。

たったそれだけのものに、自分の注意が吸い寄せられていると気づく。

「セヴィ?」

「……失礼。見ておりました」

「そんなに危なっかしいですか?」

「いいえ」

少しだけ間を置く。

「きちんと、整ってきました」

それは本心だった。
だからこそ、その整いの中に自分が不要になっていく未来まで見えてしまった。

彼女は背を向けたまま、小さく笑った。

「それ、褒めてくださってます?」

「ええ」

その返事のあと、彼女は何も言わなかった。
ただ、肩の力だけがほんの少し抜けたように見えた。

こういう瞬間を知ってしまったからだろう。

彼女を失う、という言い方だけでは足りない。
失われるのは一人の人だけではない。

朝の声。
夜の足音。
湯の温度。
机の上に残る紙の並び。

半年のあいだに覚えてしまったこの部屋の呼吸そのものが、帰った先にはない。

食後、彼女は食器を片づけながらこちらを見た。

「今日は、少し静かですね」

「そうでしょうか」

「そうですよ」

責めるでも、探るでもない穏やかな声だった。

「考え事をしている感じです」

「……当たっております」

それだけ認めると、彼女は小さく頷く。

「じゃあ、まとまったら教えてください」

「必要であれば」

「必要ですよ」

当たり前のように言う。
その言い方が、困る。

私は返事をせず、洗い終えた皿を受け取った。
布巾で水気を拭いながら、キッチンの灯りの下でようやく認める。

去る未来は、今も成立している。
それでも私は、そこへ自分を連れていけない。

答えは、もう出ていたのかもしれない。
だが、私はそのままにしておくことを選んできた。

彼女が待つこの部屋へ戻ってきた時点で、
何も言わずに去る選択は、もう終わっていたのだろう。



セバスチャンは誠実だと思いますか。
それとも、ただ逃げているだけでしょうか。

正しさだけでは足りないと、思われたなら。


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