触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第6章
【第6章 書き換えられる境界】
繁忙期の山を越えたあとも、生活の手順自体は大きく変わらなかった。
朝には紅茶を淹れ、昼には食事の声をかけ、夜には彼女の仕事が終わる気配を待つ。
変わったのは、沈黙の置き方だった。
以前は、測るために置いていた距離があった。
今は、測りきれないまま、
ただ同じ時間にいる。
彼女が業務外に私を「セヴィ」と呼ぶことにも、もう露骨には乱れなくなった。
――慣れただけかもしれないが。
あの繁忙期の朝、私の膝に頭を預けたことを、彼女は最後まで口にしなかった。
私もまた、あえて触れなかった。
触れずに済ませたはずだった。
それでも、消えなかった。
⸻
夜のダイニングは、昼よりも静かだった。
照明は落としてある。
光は、必要な分だけ。
テーブルの上には、彼女のお気に入りのカップをひとつ。
自分の分は、まだ出していない。
――彼女は、まだ戻っていない。
時計を見る。
今夜はクララと飲みに行く、と聞いている。
クララと一緒なら、心配する理由はない。
――と、思いたい。
問題ではない、はずだった。
私の業務時間は終わっている。
食事も、シャワーも済ませている。
それでも、自室に戻る気にはなれなかった。
ケトルに水を入れ、湯を沸かす。
その間に、ティーポットを用意する。
茶葉はいくつかのストックの中から、彼女のいちばんのお気に入りを手にしていた。
ティーカップの取っ手の向きを整える。
砂時計に触れかけて、やめた。
今夜の紅茶は、時間を測るためのものではない。
彼女が帰ってきたとき、すぐに出せるように。
ただ、それだけだった。
――それだけで、十分に業務の外側だった。
我ながら、相当だと思った。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
「あら、少し飲ませすぎちゃったかしら」
悪びれた気配のないクララの声が先に届く。
私は返事を後回しにして、彼女の方へ歩み寄った。
「……ただいま、です」
「おかえりなさいませ」
彼女はクララの腕にしがみつき、上機嫌だ。
視線が合う。
クララから彼女を引き取るため、さらに一歩踏み出す。
差し出された彼女の手を取る。
空気一枚分の距離を保ったまま、ゆっくりと引き寄せた。
距離は、いつもと同じはずだった。
それなのに、近い。
彼女の手は思ったより熱かった。
酔っているせいか、外気に触れていたせいか、判断はつかない。
ただ、指先から伝わる体温だけが妙に鮮明だった。
覚えるべきではないと知りながら、一度触れてしまった温度は、なかったことにはできない。
彼女はゆっくりと私を見上げた。
「ただいま、セヴィ」
そう言って、紅い顔で花が綻ぶように微笑む。
その呼び名自体は、もう業務外の時間だけ許された呼び名になっていた。
それでも、今夜のそれはまるで別物だった。
「セ・ヴ・イ」
クララが声には出さず、口の形だけで楽しそうに復唱する。
それから、盛大に吹き出した。
最後まで面白がる顔を隠さないまま、ひらひらと手を振る。
その軽さの奥に、ほんの一瞬だけ、こちらを確かめるような目があった。
彼女がどこまで私へ身体を預けるのか。
私がそれをどんな顔で受け取るのか。
それを見ていたのだと、遅れて気づく。
私は一言も返さず、クララを閉め出して施錠した。
私に身体を預け、ゆらゆらと揺れる彼女を前に、何を優先すべきかだけは考えるまでもない。
いずれ私はここを去る。
そう決まっているはずなのに。
惑わせない。
揺るがせない。
私的な感情を引き起こさない。
感情ではなく職務として扱う。
雇用契約時に口にした原則が、
今夜は遠い。
「……セヴィ」
彼女が私の袖を摘んで、緩く引く。
私は彼女を誘導し、ソファに座らせた。
「夜遅いのに、出迎えてくれてありがとうございます」
「お出迎えって、なんだか……嬉しい」
普段よりゆっくりとしたその声音に、保っていたはずの距離が一歩ぶんだけ曖昧になる。
「優しい執事さんには、ご褒美がありまぁす」
ゆらりとソファから立ち上がった彼女は、こちらへ一歩踏み出し――そのまま重心を崩した。
咄嗟に受け止める。
不意打ちの重みが胸元にぶつかり、喉の奥で短く息が詰まった。
私を見上げるその表情に。
預けられた身体のやわらかさと温かさに。
まだ名前を与えたくない感情が湧き上がる。
そんな私に構うことなく、彼女は視界の端から指先を伸ばした。
「ご褒美〜」
口元へ何かを押し込まれる。
咄嗟に顔を引く。
彼女の手のひらには、ミツバチの絵の小さなキャンディの袋が乗っていた。
「ご褒美、授与です」
「確かに受領いたしました」
大真面目なやり取りのあと、彼女の肩が先に揺れた。
つられるように、私も息を漏らす。
甘さは舌の上ですぐにほどけたのに、
その軽さだけが妙に長く残った。
包み紙だけは、なぜかすぐに捨てる気になれなかった。
シャツの胸ポケットに入れる。
「お水、ください」
私は冷蔵庫から水を取り出し、フタを緩めてから彼女に渡す。
彼女は両手でペットボトルを受け取り、こくこくと水を飲んだ。
そのまま少しだけ黙る。
ボトルを膝の上に置いたまま、彼女はぽつりと言った。
「セヴィ」
「はい」
「業務外の貴方まで、私のために整っていなくてもいいんですよぅ」
酔っている声だった。
けれど、意味だけは妙にはっきりしていた。
私は返事をしなかった。
返せば、何かを認めることになる気がした。
彼女は私の沈黙を責めるでもなく、ペットボトルを両手で包んだまま、ふにゃりと笑う。
「……でも、整っているセヴィも好きです」
軽い言葉のように落とされたそれが、むしろ逃げ場をなくした。
業務ではない。
指示でもない。
酔った戯れとして処理するには、あまりにまっすぐだった。
私はようやく息を整える。
「……水を、もう少しお飲みください」
彼女は素直に頷き、もう一口、水を飲む。
「水、飲んだらお風呂に入ります」
ペットボトルの水を飲み、彼女はぼんやり笑った。
「明日の朝、味噌汁が飲みたいです」
「かしこまりました」
即答した自分に驚く。
明日は休日、業務外。
それなのに、彼女の願いを叶えるつもりでいる。
「紅茶は明日、一緒に飲みましょう」
「承知しました」
水を飲み終えた彼女を支え、バスルームまで付き添う。
「今夜は湯船はお控えください」
つい注意をしてしまう。
「心配性ですね、セヴィ」
「眠ってしまわれると危険ですから」
そっと彼女の背を押し、ドアを閉める。
そして、リビングに戻りソファに腰を下ろした。
閉じたドアを見る。
本来なら、ここで自室に戻るべきだった。
あとは彼女の自己判断に委ねる。
それが、最も安全な距離だ。
だが、私は動かなかった。
彼女が無事に出てくるまで待つことを、当然のように選んでいる自分がいた。
翌朝。
彼女は少し掠れた声で「おはようございます」と言って、ダイニングの椅子へ腰を下ろした。
二日酔いなのか、表情はいつもより幾分おとなしい。
私は味噌汁を卓上へ置く。
「ご希望通り、ご用意いたしました」
「……ありがとうございます」
「食べられそうなら、朝食もございます」
湯気の向こうで、彼女は一度だけこちらを見る。
その視線が、何かを確かめるように短く止まった。
「昨日、ちゃんとお風呂入りました?」
できるだけ何でもない調子で尋ねると、彼女は少しだけ目を丸くする。
「入りましたよ」
それから、味噌汁の椀に手を添えたまま、小さく続けた。
「セヴィ、待ってました?」
私はひと呼吸分だけ黙った。
「……無事に出てこられるまでは」
それだけ答えると、彼女は椀の中へ視線を落とした。
すぐには何も言わない。
「そうですか」
返ってきたのは、それだけだった。
だが、その短さの奥には、昨夜を軽く済ませないための沈黙が確かにあった。
私はそれ以上を言わず、彼女もまた問い返さなかった。
彼女がその名で私を呼ぶ。
私は返事をする。
それだけで
引いたはずの境界線は静かに書き換えられていった。
あなたなら、この時点で止めますか。
それとも、もう遅いと思いますか。
崩れかけた境界に、気づかれたなら。
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