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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第12章

【最終章 半分残ったワイン】

沈黙を破ったのは、私だった。

「本来であれば」

自分の声が、思ったよりも低く響く。

「このような時間を設けるべきではなかったのかもしれません」

彼女は黙っている。

否定もしない。
促しもしない。

私は視線を落とさずに続ける。

「節目だから、という理由をつければ整うのだと思っておりました」

グラスの近くに置いた指先に、わずかに力が入る。

「ですが……」

そこで一度、言葉が止まる。

感謝を述べることもできる。
この半年が有意義だったと伝えることも。
今後の健勝を願うことも。

だが、そのどれもが今の私には薄かった。

「黙したままで去る方が、もはや不誠実だと判断いたしました」

彼女の呼吸が、そこでわずかに浅くなる。

それでも視線は逸れない。

私はひとつ呼吸を整える。

「私は、貴女に対して」

そこまで口にして、声が止まる。

喉の奥で、一度だけ言葉が崩れた。

「……もう、職務だけでは片づけられないものを、抱いております」

口にした瞬間、足りないとわかった。

「いいえ」

私は逃げずに言い直す。

「抱いてしまいました」

その一言だけが、整わなかった。

彼女はすぐには答えなかった。

拒むためではなく、軽く受け取らないための沈黙だとわかった。

ただ、グラスのそばに置かれた指先が、ほんのわずかに動く。

私は続けるしかなかった。

「距離を取るべきだと、何度も考えました」

「契約を守ること。線を越えないこと。それが誠実だと、私は信じておりました」

彼女の視線が揺れる。

「ですから、延長の話も、私からは申し上げませんでした」

そこで初めて、彼女のまつげがわずかに震えた。

「申し出がない以上、これ以上の助けは求められていないのだと……そう判断するのが誠実だと考えました」

「ですが、それは半分しか正しくなかった」

静かな声のまま、言う。

そこで、彼女が口を開いた。

「……私は」

彼女の声は穏やかだった。
けれど、穏やかなままで傷ついている人の声だった。

彼女はしばらく黙っていた。

視線を落とし、グラスの脚へそっと触れる。

「契約延長を言い出せなかったんです」

「言えば、困らせる気がして――それは本当です。でも」

彼女は一度息を継ぐ。

「本当は、それだけじゃありませんでした」

私は何も言わなかった。

「準備を進めているのを見た時」

彼女はそこで一度だけ目を伏せる。

「私のいないところで、もう全部終わっている気がして」

短く息を吐く。

「あぁ、本当にここで終わるのだと、そう思ってしまって」

わずかに声が細くなる。

「……少しだけ、置いていかれる気がしました」

私はすぐには言葉が出なかった。

「それで、あんな言い方をしました」

彼女は続ける。

「褒めるように言えば、ちゃんと終われると思ったんです。仕事がお早いですね、って」

私は静かに首を振った。

「……そう見えたのなら、それは私のやり方が一人よがりだったのでしょう」

彼女が顔を上げる。

「何も言わずに、何も知られずに、整えて去ろうとしていたのは私です」

自分の指先へ一度だけ視線を落とす。

「それを誠実と呼べると思っていたのなら、私はずいぶん都合よく、自分の役割だけを信じていたのだと思います」

彼女はすぐには返事をしなかった。
ただ、視線を逸らさずに私を見る。

「……でも」

彼女はようやく声を出した。

「今、こうして言ってくださったので」

「それだけで全部飲み込める、とは言いません」

私はわずかに目を細めた。

「ですが」

彼女は静かに続ける。

「そう思ってくださっていたのなら、嬉しいです」

私はグラスを持ったまま、すぐには何も言えなかった。

彼女はそんな私を見て、少しだけ困ったように笑う。

「そんな顔もされるんですね」

「どのような顔でしょう」

「……困っているような、安心しているような」

「どちらも近いかもしれません」

そう答えると、彼女の目元がわずかにやわらぐ。

沈黙が落ちる。

言葉にしなかった時間だけが、そこに残っていた。

まだ何も決着していない。
それでも、同じ誤解の中にはいなかった。

彼女は自分のグラスへ目を落とす。

細い指が、今度はためらいなく脚に触れる。

「セヴィ」

「はい」

「貴方は、どうするつもりですか」

私は息を止めた。

「予定通り、帰国はいたします」

「一度、私自身の生活を、私の手で整え直す必要があります」

彼女の指先が、わずかに止まる。

「ですが、それで終わらせるつもりはありません」

彼女がゆっくりと顔を上げる。

「次に会う時」

ひとつ、息を継ぐ。

「私はもう、貴女の後ろには立ちません」

その瞬間、彼女の目が静かに揺れた。

やがて彼女は、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。

「……でしたら」

「次は、後ろではなく隣に来てください」

許しでも救済でもなく、条件の提示に近い響きだった。

「クララに会うついで、ではなく」

「私が貴方を迎えるのだと、ちゃんとわかる形で来てください」

「私も、貴方を迎える理由は、自分で用意します」

「待つだけには、しません」

静かな決定だった。

「……ありがとうございます」

彼女は小さく首を振る。

「お礼を言われることではありません」

「いいえ」

「私にとっては、十分すぎるほどの言葉です」

彼女は少しだけ目を伏せた。

伏せたまま、口元だけがほんのわずかにやわらぐ。

私はグラスを持ち直す。

だが、その前に。

指先を首元へ運ぶ。

ネクタイの結び目に触れる。

完璧に整えられていた形。

長いあいだ、崩すことを許さなかったもの。

彼女を一度だけ見る。

彼女は何も言わない。
止めもしない。
ただ、静かにこちらを見ている。

「執事としては」

低い声が落ちる。

「これで、最後にいたします」

それは、告白ではなかった。
告白よりも先に必要な、役割の解除だった。

彼女に触れるためではない。
彼女の前で、役割の後ろへ隠れないために。

指先にわずかな力を込める。

結び目が、ほんの少しだけ緩む。

布がほどけるわけではない。
だが、完璧だった形が静かに崩れる。

襟元の空気が、ひと呼吸ぶんだけ変わる。

――その瞬間。

彼女と向かい合っていたのは、もう執事だけではなかった。

役割を崩した。
だが、礼を失ったわけではない。

彼女はそれを理解したのだろう。

笑わない。
茶化さない。

ただ、静かに受け取る。

やがて、ほんの少しだけ口元を和らげた。

彼女の指が、緩めた結び目にそっと触れる。
整え直されることはなかった。

ただ、触れた。

乱れを正すためではなく、
崩したままの形を、確かめるように。

その指先は、私に触れたのではない。
私が守り続けてきた役割の、いちばん脆い場所に触れた。

布越しのわずかな接触だった。
肌に触れたわけではない。
抱き寄せられたわけでもない。

それなのに、私はもう、
この距離を職務とは呼べなかった。

彼女は結び目を直さなかった。
戻そうとしなかった。
ただ、崩れたままの私を受け取るように、指を添えていた。

「……ずるいですね」

「自覚しております」

私はボトルへ手を伸ばす。

「もう一杯、いかがです?」

彼女は首を横に振った。

「まだ、大丈夫です」

少しだけ間を置く。

「帰国されたら」

「今度は、私の方から連絡します」

「待つだけで終わらせたくないので」

「承知しました」

それでよかった。

私はグラスを唇へ運ぶ。

赤は静かに喉を通る。

渋みより先に、温度だけが残る。

向かいで、彼女も同じようにグラスを傾ける。

それだけのことを、私は妙にはっきり見ていた。

彼女はゆっくりとグラスを下ろす。

「……美味しいですね」

「ええ」

その一言で十分だった。

私はボトルの中の赤を見る。

彼女も同じものを見ていた。

「まだ、半分ありますね」

「ええ」

その夜、私たちは最後までそれを飲み切らなかった。

半分残ったワインは、
次に触れる夜のために、静かにそこにあった。



もう戻れない距離を、受け取られたなら。


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