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自己探求
自己探求とは、ルビコン川を渡ることである。
一度自己の内面という深みに足を踏み入れてしまったら、森を抜けるまでひたすら前に歩み続ける他ない。
老子は「学を絶てば憂いなし」と述べ、賢しらな知性を捨てることが自然に生きるために必要であると考えたが、それはルビコン川を渡る以前の状態にしか当てはまらない。
既にルビコン川を渡ってしまったにも関わらず自己探求を中断すれば、中途半端に立ち往生しているカエサルの軍勢は容易に鎮圧されてしまうだろう。というのも、彼は既に反逆者の汚名を着せられているからである。
したがって、失われた原初の自然は、自己探求の末に再び取り戻されなければならない。それは、既にここにはない理念的な自然であり、引き返すことで見出せるようなものではないだろう。哲学とは郷愁(Heimweh)であるというノヴァーリスの有名な言葉は、失われた自然が高次の次元で回復されなければならないということを意味している。知性は本来自然に反するものであるかも知れないが、既に知性を身につけてしまった以上、かえって我々は知性を導き手として高次の自然を目指す必要があるのだ。知性と自然の統合によって、我々は高次の自然を獲得する。冷静さと豊かな感性、老賢者と永遠の少年、自律と関係性といった互いに相反する要素が統合された先に、我々は失われた自然を再び見出すだろう。
既にルビコン川を渡ってしまった私は、これからも自己探求を続けるだろう。アキレスと亀のパラドックスがそうであるように、私は永遠にローマにたどり着けないかも知れない。森を抜け出て失われた自然を回復することは叶わないかも知れない。それでも、私は歩き続けるしかないのだ。永遠を目指して巡礼の旅を続ける、フリードリヒの絵に描かれた陰鬱で敬虔な旅人たちのように。
