田宮俊作『田宮模型の仕事』
田宮俊作氏の訃報に接して。
自分は特に、模型ファンというわけではありません。
しかし「モノを作る人」に対して大きな敬意を持っている。
そのことは、自分自身の誇りでもあります。また「モノを作る人」が、どんな事を考え、何を想っているのかというのは自分の最大の興味の対象でもあります。
この『田宮模型の仕事』は、自分にそんな意識を持たせた、数多くの書物の中でも、最も重要な作品の一つ。
田宮俊作氏のモノ作りに対する意識は、単なる個人的な情熱にとどまりません。模型というモノを通して、人と世界に向き合っているのでした。
飛行機マニアの魂。
昔の模型は、木切れからほとんど自分で作るモノだったと、田宮氏は綴り始めます。小学校の授業でグライダーを作った事が、模型との出会いだったと。飛行機が大好きで、自分の作ったグライダーが誰よりも遠くまで飛んだ事を誇らしく思う、本当にどこにでもいる少年時代の思い出話。
いきなり毛色が変わってドキッとするのは、小学校に戦闘機が飛来するシーン。駿河湾の軍需工場爆撃の戦禍確認に来た三機のグラマンF4Uコルセアが、田宮氏の教室の方に向かってきたという。
大戦末期、アメリカ軍戦闘機による市街への機銃掃射。
長谷川町子『サザエさんうちあけ話』や手塚治虫『カノン』などで、非常に恐ろしいものとして描かれています。
当然ながら、当時の田宮氏や同級生達には、その恐ろしさは生々しい現実。死の恐怖そのもの。学校中が大パニックになるのですが……
私には怖さより感激のほうがまさっていました。敵機だけど、あこがれの戦闘機をこんなに間近で見られたのですから。
(略)
たったひとり、教室にとどまっていた堀内君は、窓のところで微動だにせず食い入るように戦闘機を見ていました。
私は「堀内、逃げろ!」とさけびました。
チラッとこっちを見た彼の目はらんらんとしておりました。生命の危険があったにもかかわらず、冷静に敵機を”鑑賞”している姿に、私は凄味を感じました。
(略)
いまでも「アメリカの戦闘機」と聞くと、あの日の恐怖心と興奮の入りまじった胸の高鳴りと、堀内君の戦闘機への熱いまなざしを思い出すのです。
自分達を殺しに来た相手なのに、見とれてしまう……マニアの業の深さというか……堀内君も大概ですが、田宮氏だって、濃いブルーでガルタイプの翼で高度は百メートルぐらい、パイロットの顔がハッキリ見えたと、しっかり観察しているのでした。
それにしても、このあたりの記述、なんとなく「マニアとして、堀内君に負けた」悔しさがあるような……自分の考えすぎでしょうか?
後に、スケールモデルを産む素養。
その後、大学に通うために親の代わりに債務の取り立てをしたり、働きづめだった母が亡くなるなど、親の製材所を継ぐまで色々あります。そして、製材所の副収入として扱っていた木製模型、その企画と設計の仕事におさまります。
いや、おさまりませんでした。早速、今までやっていた先輩とぶつかります。
もめごとの原因は、模型の縮尺です。私は「軍艦は、1/800なら1/800に、すべて統一しよう」と提案しました。
フミさんは「巡洋艦も駆逐艦も、戦艦と同じサイズでいい」というのです。
「模型はね、大きいほうがお客さんはうれしいんだよ」
と、とりあってくれません。
この先輩は、電池とモーターで動く模型をヒットさせた経験から言っている。間違いではありません。玩具としてなら、大きい方が良いのは正しい。しかし田宮氏は、自分の意志を通すために、新しい木材加工機のテスターまでやる事に。
軍艦の艦首のカーブを出すために、わざわざ新しい工作機械を発注していたというのだから、当時の木製模型への要求の高さが分かろうというもの。
プラスチック産業の黎明期。
そこまで、木製セミスクラッチの模型にこだわっていた田宮氏、アメリカから来たプラスチックモデルに出会って、大きなショックを受ける。最初は「こんな工夫も何もないモノ、模型じゃなくてオモチャじゃないか」と怒りながらも、ディテールの細かさに驚愕する。
結局、プラスチックモデルへ転向する事になるけれど、これもまた手探り。プラスチックの原料も、当時の国産素材は質が悪く、アメリカ製の材料を輸入しなければならなかった。このあたり、終戦直後の日本の製造業の現場の空気が、とんでもなく生々しく伝わってくるのでした。何しろ、プラスチック製品をゼロから開発する工程が、実に簡潔にまとまっている。金型の確保に苦労するあたり、実に生々しい。
工場の事だけではなく、産業として成立していく過程も面白いです。ライバル社からもっと良いのが発売されて大赤字とか。グラフィックデザインという概念すらない時代に、あのロゴマークを芸大の学生だった弟に頼むとか。
しかし、この時代に弟が芸大に行っていたというのは、特に記述はないけれど、決して偶然ではないんだろうなあ……先見の明があったんだろう。そんな背景が想像できるのも、この本の面白いところ。
コンテンツとしての模型。
プラスチックモデル第二段は、パンサー戦車を出す。
さんざん語られた、プラスチック製品の開発の難しさが、なぜパンサー戦車になったかの伏線になっていたりする。田宮氏の文章構成の上手いこと。
さらにこのパンサー戦車、モーターライズで走る。コレも、先のフミさんのエピソードが伏線になっていた。
他のメーカーからもちょうど、走る戦車が出ていたために、戦車を走らせるのが流行って「田宮の戦車はよく走る」とか評判になったそうで、この伏線は何十年先かに、ミニ四駆として回収される。
いくら先見の明のある田宮氏でも、発売前はしかし、将来そんな事になるとは知る由もないので、このパンサー戦車を、なんとか成功させなければならないと、アレコレ考えながら雑誌をめくっていたら、当時の売れっ子イラストレーターの小松崎茂氏の投稿を見つけた。
「小松崎氏に箱の絵を描いてもらおう」
と思い、これまでの苦労を手紙に綴って、ダメもとで投函。まさかのOK。「俺がこの田宮の会社を救ってやろう」と、小松崎先生は義侠心の塊のような人だったとか。これは田宮氏の評。
一度話をしてから、という事になって、小松崎邸を訪ねると、軍艦の模型がいっぱい。軍艦の模型の話になり、艦首形状のバスバルバウのネタで盛り上がる。
ひょっとしてコレ、木製模型の艦首形状のために、新型の工作機械を入れたエピソードが伏線だったのかな?
模型には、それを使って遊ぶという側面があり、そこから箱絵などと共に色々なイメージを広げるという側面もあり、元となった船や飛行機について深堀するという側面もある。
コンテンツのハブとしての模型。その始まりはここにあったのかもしれない。
モノづくりはヒトづくり。
小松崎氏のところに出入りするようになると、色々な縁が繋がっていくことになった。田宮氏は謙虚で書かないけれど、氏の人柄とか、仕事への情熱に魅かれての事だというのは、書かれずとも伝わってくるのだった。
田宮氏の方も、自分から動いて人をつくる。
小松崎氏の方は、ホビー系の人脈がメインなので、産業として、技術面での人材の育成。ここまで何度も出て来た金型の苦労話が、ここで伏線として回収されるのでした。
金型を削るタガネの刃の角度の話とか、どんなにCADが優秀でも、最終的には職人の指先の感覚が必要だとか。
良い模型を作るために、どんな技術が必要なのかを、分かりやすく書いている。本当に、実際に手を動かしてモノを作っている人の事を、しっかり見て、大切にしている事が伝わってくる、素敵な文章。
そもそも自分で手を動かしていた人だから、当然と言えば当然かもしれない。こんな社長は、しばらく前にはいくらでもいたと思うけど、最近は……どうなのかなあ。
ちょうど技術者が育ったころ、世界的にスロットカーのブームがあり、世界の模型メーカーと競う事になったというエピソードが、この章のクライマックスだった。
しかしもっと重要なのは、スロットカーのブームが過熱した際に、パーツのカスタマイズその他、とにかくお金をかけた者が勝つようになってしまった。その結果ビギナーの参入が途絶えて、ブームが終わってしまったと。
競技はクラス分けするなど、ビギナーが入りやすい環境を整える。誰もが気軽に、制作や塗装をはじめられるよう、工具や塗料も扱う。
「模型の世界」を楽しんでもらう事を考え、そのための「サポート環境」を作っていく。
この方針は、このときの経験からきているとのこと。
模型の魅力は取材次第?
「模型の世界」を楽しんでもらうためには、模型が上っ面のモノではいけない。
というわけで、社長自ら、世界中の博物館やメーカーを飛び回るお話。これがまた面白くてたまりません。
アバディーン戦車博物館で、全ての始まりであったパンサー戦車を、万感の想いを込めて撫でるシーンで泣きそうになりました。その後、泥まみれになって戦車の下に這いこんで、底面のリベットを数えたり、屋根の写真を撮りたくて戦車に上って警備の兵隊に怒られたり。
イギリスでは館長が実は将軍で驚いたり。小さな車両の前を通り過ぎようとしたら、それはドイツのケッテンクラートという車両で、館長はその車両にまつわる思い出を色々と話してくれたとか。
まだ冷戦の真っ最中、ソ連の戦車の取材がしたい! とソ連の大使館に行って追い返され、日本の公安らしき人に監視されたと言う話も。
戦後のプラスチック産業の話に次いで、この辺は、普通に近代史みたい。ちょうど中東の六日間戦争が終わったタイミングで、鹵獲されたソビエト戦車を見に、イスラエルまで出かける。その旅程や、田宮氏の見た街角の様子など、今にしてみれば貴重な証言だろう。
取材して得られた情報を開陳する『タミヤニュース』が創刊されると、ファンからの要望もさらに募る。特に、同じ縮尺の人形が欲しい、という要望が多かったという。
最初の兵隊のフィギュアのモデルは、体格のいい社員に、軍曹マニアの私物の軍服を着せたモノだったとか……これって、この本で初めて明かされた秘密なのかな?
大塚康生氏がこの人形を評して「決めポーズは静止しているから、この二コマ前のポーズにしないと」「銃を撃った時の反動で、体がブレているように」等々、多くのアドバイスをした結果、人形に命が吹き込まれたというエピソードは有名だけど、その初出もこの本だったはず。
戦車などの仕組みを調べるだけでなく、人間の動きを追求するのも取材、ということか。対象への理解が深まるほど、表現されたモノは、観る者に多くを伝える。それは、美術も模型も、あらゆる表現に通じる事。
しかし、小松崎茂から大塚康生まで繋がるんだから、イラストレーションの歴史にも関わってくるんだなあ。
現実の産業と共にある模型。
戦車などの、過去のモノばかりではない。この、田宮模型が成長していく時期は、日本のモータリゼーションが躍進する時代でもあった。
その象徴として、ホンダのF1優勝がある。
田宮模型は、このホンダのF1マシンの模型を開発。もうこのあたりまで読んでくると、代表的なメカは模型になるのが当たり前みたいな感覚になってくる。
もちろん、そんなことはないので、模型化には苦労する。
ホンダは協力的ではあったけど、何せ海外遠征が迫っていたので、時間がなかったり。また一部、再現不能な部品があったり。ゴムのタイヤを、グッドイヤーのロゴまで再現するために、ゴム整形の新技術を開発する必要があったり。
しかし、最終的にはホンダF1チームにも絶賛される作品になった。
作られた第一号は本田宗一郎氏に贈呈されたそうだ。
ポルシェ911をバラバラにした話も、一部のマニアで有名だけど、その元ネタもこの本。
なぜバラバラにしたかというと、最終的には見えなくなってしまう中身まで、完全な模型を作るため。外見だけじゃない。本当に中身が詰まったボディは、やっぱり違う。それに、本当にポルシェを作っている気分になれる。
ここまでくると、単に一つの車の模型を作る、という事にとどまらない。模型には、何をどこまで表現できるのか? という挑戦だ。
模型には、何をどこまで表現できるのか?
ラジコンというのは、元は小さいエンジンを積んでいた。
それを、電池のモーターにするというアイデアは、一社員が勝手に作ってみたラジコンカーから始まったという。
ガソリンエンジンから、電動になったことで、ラジコンカーは一気に普及したけれど、ストックカーの轍を踏まないよう、タミヤは環境の整備に力を入れる。
『RCカーグランプリ』などのレースイベントの一方で、小さいサイズでコミカルなラジコンカーも出す。パンサー戦車から繋がる、模型が動く事の楽しさ。
パンサー戦車に小松崎茂氏が参加したように、今度は大塚康生氏がデザインを手掛けた、ワイルドウイリスが産まれ……
ここで「もっと速いのが欲しい」という、子供たちの意見が出る。ユーザーの声にいち早く応えるフットワークの軽さ! そして、ついにレーサーミニ四駆が登場する。
そもそも、ミリタリーモデルでリアルを追及していたのに、コミカルになり、レーサーになり、精密な部品を丁寧に組み上げていたのを、簡単なハメ込み式にして、背景のストーリーを持ったジオラマなどの創作から、純粋に速さを競うものとなり、コースがつくられ、パーツや工具、レギュレーションにイベント……
こう書くと、まるでブレまくっているかのようだけど、結局は同じベクトルで統一されているのだ。
「模型に何ができるのか?」
あのカン高い声をあげて走るフェラーリの十二気筒エンジンを目にるることのできる人間は限られていますが、われわれの取材によって作り出されたモデルを組み立てながらフェラーリの「物語」を編み上げることができます。ヨーロッパ戦線で連合軍を手こずらせたドイツ軍のタイガー戦車も、自分の机の上に置いて遠い時間に想いを馳せることができます。
また最近では、子どもたちがミニ四駆に夢中になっている姿をあちこちで見かけます。ミニ四駆では、テレビゲーム世代の現代っ子たちに工具を使うことの楽しさ、工夫をこらしながらモノを作る楽しさを知ったもらうことができた、と自負しています。
故・田宮俊作氏によって開拓され、無限の可能性を示された、模型という存在が、その世界が、これからも、どこまでも広がっていきますように。
