ピリカ文庫「深呼吸」
「あら猫がいる」
天井からぶら下がった幾つものドライフラワーが、使い込んでしっとりと飴色になったテーブルに模様を描いている。不揃いのその影の中に、鞠子はふと猫の形を見つけた。ひとつ、大きく深呼吸して、ふと、わたしって気難しい子猫を心の中に飼っているみたい、ボールに戯れて本気で遊んでみたり、プイッと拗ねてみたり、丸くなって眠りこけたり、忙しいったらありゃしない。いつの間にか、ふわふわの子猫を思い浮かべて、うふ、うふ、とひとりで楽しくなっている。
一貴(カズタカ)と出会ったのは2年前のことになる。正確にいうと、2年と5ヶ月くらい前だ。1年目まではちゃんと出会った日を覚えていたけれど、2年目にはあやふやになっていた。それで、はっきりとは言えなくなったけれど、愛情が薄れたからではなく、濃密になったから、出会った日とか記念日とかどこかに行ってしまった。10年前から一緒にいたような、さっき知り合ったようなそんな不思議な気持ちになって、そういうことってあるんだと、43歳にもなって初めて知った。
出会った日がいつだったか曖昧になっても、その日のことは忘れない。初めて会った時、彼はこういった。「俺の兄貴って一郎って言うんだよ。でさ、俺が生まれてくる時に、親父もお袋も女の子が産まれてくると思って、貴子にしようって決めてたんだって。でも結局男が生まれてきて急遽考えたのが一貴。二郎と迷ったらしいよ。」この自己紹介なのかなんなのかよくわからない話に、なぜか鞠子はコロコロと笑いが止まらなくなって、まんまと罠に嵌った、いや恋の罠にかかった。
28歳の時、秘書を勤めていた会社の専務に見染められて、ぜひにと彼の息子に嫁いだ。あまり評判のよくなかった彼。あの時、結婚を決めたのはステータスに惹かれてだったかもしれないと、鞠子はその後何度となく思った。我儘な夫は慎ましい鞠子にすぐ飽き、一方で、義母が友達を家に招くたびに、呼びつけられた。料理からお茶の支度から、片付け、そしてお土産の手配までまるでお手伝いさんのようで、その度に心身ともに疲弊していった。時間が経つほどにますます夫婦仲は冷え切り、孤独が途切れることなく押し寄せた。夫が外で派手に遊んでいたことは知っていた。それでも鞠子は、幸せな仮面をつけたまま、安穏に見える暮らしをしているふりを続けた。
久しぶりにあった友人の愛実がたわいない夫婦の愚痴をこぼしながらこう言ったことがある。「溜息をつくたびに幸せが逃げていくんだって、だから、溜息をついちゃったら深呼吸して幸せを吸うんだ」1歳になったばかりの愛息をあやしながら、おっとりとそんなふうにいう彼女を見ていたら、じりじりと焼けるような気持ちを覚えた。溜息をついたら逃げていく幸せすら自分にはないように思えて。
終わりはあっけなく訪れた。
「子供ができたから別れてくれ」
このたった一言が鞠子の心を粉々に砕いた。33歳を迎える誕生日の前日だった。
深呼吸を何万回もしながら
深い海の底に横たわって
静かに漂い 眠り続けよう
涙も真珠に変わるかもしれない
いつか
人魚姫のように
漂うように暮らしていたある日、愛実から一通の手紙が届いた。愛実も離婚したこと、心が引き裂かれそうに苦しんだ日々のこと、そして、こう結ばれていた。
あの頃、鞠子さんに話せばよかったと思いました。そうすれば、わたしもあなたももしかしたら、もう少しだけ孤独ではなかったかもしれない。とても辛い日々の中で、私は知ったことがあります。笑顔の美しい人は本当の悲しみを知っているっていうこと。鞠子さんの笑顔はとても美しかったよ。いつかまたお会いできるといいですね。お互い笑顔で。
ほろほろと頬を伝う涙を感じながら、鞠子は大きく一度だけ深呼吸した。
私の涙は
真珠じゃなくて
笑顔に変えてみようか
泳げないから
人魚にはなれないもの
小さくくすりと笑いながら、鞠子はその深く吸い込んだ空気で心がふっくらと膨らんでいくのを感じた。
慰謝料を全て使って、調理学校に通い、調理師免許を取り、小さなカフェを開くまで、そこから3年かかった。幸い、鞠子の小さなカフェを隠れ家のように好んでくれる客たちに恵まれ、ひとり暮らしていくには問題ないほどに経営は安定した。40歳になった時、鞠子は自分のために焼いた小さなバースデーケーキを食べながら「もう一度恋をしよう。それがわたしへの誕生日プレゼント」と胸に秘めた。そして、ある日客として訪れた一貴と出会った。あれから3年が経つ。離婚してちょうど10年。
カランコロ〜ン
閉店後にやってくるのはただひとりだけだ。大きな笑顔を浮かべて鞠子は振り返った。
○
思いがけず、ピリカさんから
ピリカ文庫にお誘いいただきました。
久しぶりにまじめに物語を
紡いでみたものの、視点とか人称とか、
なんだかこんがらがってしまいました。
詩だと思い切って読者任せになる部分が
多いので、とても勉強になります。
ピリカさんありがとう♡
良い時間を過ごしました。
