review: アメリカ民謡研究会 - この音楽は実時間に則って構築されるから、私はその演奏方法の備忘録を作る必要がある。 (2018 / song)
「ボカロシーン」というシステム
私はなぜボカロ曲をずっと聴いているのだろうか。音楽性を問わず様々な曲が「ボカロシーン」という同一のシーンに帰属する性質による多様さ、合成音声の人ならざる歌声の魅力、10代前半の頃から10年以上聴いていることによる馴染みのよさ……。いくつか答えが思い浮かぶが、これらと同じくらい本質的だと思う答えに、アマチュアによる文化であること、そして個人による宅録が中心にあることが挙げられる。
改めて言うまでもないかもしれないが、ほとんどのボカロ曲はアマチュアによって作られている。もちろん、その中には有名になってプロになる者もいる。しかし、シーンの基盤は常に無数のアマチュアによって形成されており、著名なボカロPやボカロ曲も、そのネットワークの中に位置づけられる(なお、近年の環境の変化により必ずしもそう言えなくなってきているという指摘はあり得るが、本稿で立ち入ることはしない)。
いわゆるボカロPになるためには、VOCALOIDなどの音声合成ソフトを使った曲を作り、動画サイトなどに投稿すればよい。その上では、実力や才能は必ずしも必要がない。売上や再生数を意識する必要もない。限られた人々によるものでなく、商業主義的でもない、アマチュアによる音楽文化。しかも、それらの曲の多くは、作詞作曲からミックスやマスタリングに至るまでを個人が宅録で制作している。そこにおいては、プロフェッショナルな世界ではまず見られないような様々な表現が現れる。それは仮に、作者が意図しておらず、望まないものであったとしても。
もちろん、実力のあるボカロPや、再生数を意識して創作するボカロPは多くいる。そして、実力と再生数を併せ持つボカロPがシーンの中心になることも事実だと思う。一方で、シーンに中心が存在するならば、必然的に周縁も存在する。言い換えれば、中心があるからこそ、ボカロシーンはその形を保ったまま広がりを持つことができる。私はその広がりがあるからこそ、ずっとボカロ曲を聴いてきた。私にとってボカロシーンとは、広く親しまれるような曲も、マニアックな音楽性の曲も、平凡な曲も、一般的な音楽観からすれば破綻している曲も、作者以外の誰にも求められていないような曲も包摂するシステムである。
私がボカロシーンに見ているものは、数の子ミュージックメイト氏の提唱する「身内音楽」に近いかもしれない。それは、一般的な音楽観からしてみれば取るに足りず、あるいはイレギュラーで、場合によってはエラーとまで言えるような市井の実践を「音楽」として扱い、様々な音楽と同じターンテーブルへと乗せる。
アメリカ民謡研究会が肯定/撹乱するもの
ふと、アメリカ民謡研究会が2018年末に投稿(YouTubeには2019年に投稿)した曲「この音楽は実時間に則って構築されるから、私はその演奏方法の備忘録を作る必要がある。」を思い出した。アメリカ民謡研究会はHaniwaによるソロプロジェクトで、2014年に活動を始めた。現在でこそ幻想的な電子音楽に合成音声のポエトリーリーディングやボーカルを乗せた諸作品で知られるアメリカ民謡研究会だが、その活動初期においては、ポストハードコアやノイズロック、マスロックなどを思わせる激しいロックサウンドを展開していた。本作は結果的に、ロックを中心にした活動の最終期に制作された曲となった。
本作はタイトルの通り、リアルタイムの演奏がそのまま音源となって発表されている。曲を構成する楽器は二つ。一つはギターで、短いフレーズを録音しループさせ、その上に別のフレーズのループを重ね、さらにその上に……というような演奏と、各フレーズの抜き差しによる展開の構築をリアルタイムで行っている。こうした手法は(厳密にはベースではあるけれど)以前からアメリカ民謡研究会の曲において度々見られたものだ。もう一つはソフトウェアのドラムで、これも以前から多用されてきた。しかし、本作は打ち込みとループの操作までもがリアルタイムで行われている点が、それまでの曲と決定的に異なる。MVには全編を通して、その演奏の様子が映っている。
このようなライブ・パフォーマンス的とも言えるコンセプトで制作された本作において、合成音声はあけすけにその制作手法を語る。3分過ぎからの歌詞を見てみよう。
間違いも失敗も、百度繰り返せば正解になる。
事実私はこの音楽の最初のフレーズのいくらかと、
ドラムの録音と、
この後更に機材のループ操作に失敗しますが、
音が始まってしまったらもう止めることもできないでしょう。
やり直すということがどれだけ面倒なことかしらない。
また演奏に際してギターのチューニングも合わせていませんが、そもそもこの音楽に登場する楽器は一本のギターしかない。
つまりこのギターが例え崩れた調律を持っていたとしてもその調律がこの世界の基準となるのであって私以外の他人と演奏を合わせる気持ちもないのだからチューニングの必要がありません。
そう、この曲は失敗をコンセプトに組み込んでいる。人間が何かを行う上で生じてしまうエラーを否定し排除しようとするのではなく、肯定的に捉え直す。確かに、チューニングをしなければ、A=440Hzの平均律という一般的な調律は奏でられない。その上では、他人との合奏も難しくなるだろう。また、演奏に失敗したならば、その分完璧で模範的な形からは遠のく。それは一般的に見れば「美しく」もなければ、「素晴らしく」もない音楽かもしれないし、もしかしたら誰にも認められないかもしれない。しかし、それの何が問題だというのだろうか。歌詞は次のように続く。
私はただただ騒絶な環境が好きなだけであってそれ以外の誰かに何かを求めているわけではないし衝動を共鳴させたい気持ちもなければ感動を分かち合うつもりもない。
良い音さえすれば何でも良い。
そもそも、そのエラーは本当に「エラー」なのだろうか。ある価値観から見れば異様でエラーとしか思えないものも、音楽として鳴り響いた時、もはやそれを単に「エラー」と評価することは難しくなる。なぜなら、(トートロジーだけれど)それは音楽として成立しているから。本作は、エラーを肯定すると同時に、何かを「エラー」と見なす価値判断を撹乱しようとする。
「存在価値(がない)」に抗う
こうしたコンセプトの曲が制作されるということは、裏を返せば、エラーを否定する価値観が根強く存在することを意味する。そして、その価値観は音楽に限らず、様々なものに適用される可能性を含んでいる。
それでは、この曲は一体どのような意味を持ち得るのか。他の歌詞も見てみよう。
そんな手紙を書きながら、
割れた石ころのことがずっと気になって仕方ない。
とても小さいあの石のことだ。
来た道を戻ったって、もういなくなってしまっているに違いない。
倦み泥を浚う私に、
「そんな汚いものは忘れなさい。」
と笑う。
笑う。
私はすっかり泥だらけになって、
それでも、
「あれは"僕"の星だ。」
と、空嘯く。
幼い頃の風邪を曳き続けている。
それは、這う者の最後の誇りだ。
私達は折れ曲がった螺子を愛そう。
これは私の解釈も入っているけれど、Haniwaは本作における「エラーの肯定/撹乱」というコンセプトを、人生や人そのものと重ねて描写している。本稿でこれまで述べてきたようなことは、人の存在に対しても言えるはずだ。(チューニングのずれのように)一般的な人生や価値観からずれていても、大きな失敗を抱えていても、他人には理解不能でも、それは「エラー」ではなく、排除もされるべきではない。それは一般的に見れば「美しく」もなければ、「素晴らしく」もないかもしれない。しかし、それの何が問題だというのだろうか。
本作のアウトロにおいて、Haniwaは自作のファズ・エフェクター「AMK_FUZZ_01」を踏み、ギターで「騒音」(本作には「私は騒音の中にいる。」という過去曲のタイトルが歌詞として登場する)をかき鳴らす。それまでループされていたフレーズは倍速で再生され、原型を欠き、音質も劣化し、甲高い不協和音となって響く。どんどんと「普通」から逸脱していくその様の、なんと美しいことだろうか!
――断っておくと、アメリカ民謡研究会は人気がある。実力もある。この曲の失敗の度合いも微小だし、かなり実験的ではあるが、破綻の気配はないように思う。ゆえに本作は、私がこれまで述べてきたことを体現している曲ではないかもしれない。しかし、この曲のコンセプトとメッセージは、私がボカロシーンに見ているものをこれ以上なく表現したようなものだった。
優れていなければ、誰かに認められていなければ音楽を作ってはいけない。優れていなければ、誰かに認められていなければ生きている価値はない。そうしたつい飲み込まれそうになる規範に真っ向から対立する価値観をずっと体現しているからこそ、私はボカロ文化を追い続けているのかもしれない。
2026.01.20 修正:「本作は結果的に、ロックを中心にした活動に一区切りをつけた曲となった。」→「本作は結果的に、ロックを中心にした活動の最終期に制作された曲となった。」
