パリ大学修士2年生記録#08|天井抜けの修士論文
人間、意外とやれるものだな。28時間連続でパソコンを見つめながら思う。
1時間に1回、夫にダブルエスプレッソを入れてもらって、手放しそうになる意識を何とか保つ。
日本からわざわざ持ち帰ってきた、大事な大事な栄養ドリンクを飲むのは今しかない。寿命を前借りしているような気持ちで、もう少しだけ頑張れますようにという祈りを込めて、人工的な液体をカラカラの喉に流し込む。
5月上旬から本当に「いろいろなこと」があり、5月の半ば、5月セッションの修士論文締め切り4日前。
私は修士論文の提出を1ヶ月遅らせ、6月セッションで口頭試問を受ける決断をした。
というか、夜中にパソコンを見ていたら「ぷっつりと心が折れてしまった」ので、「それ以上書けなくなってしまった」が正しい。
この3年間、ずっと走り続けていた。
宙ぶらりんの1年目はとにかく家以外に所属できる場所を取り戻すため、院試に向けた準備に奔走していた。文系修士入学要件であるDALF C1が取れるまでは何をしていてもそのことがずっと引っかかっていたし、1月にギリギリC1に受かって3月に出願して、6月に第一志望に受かるまで本当に生きた心地がしなかった。ここですでに帯同から丸一年が経っていた。
院に受かったらすぐオリパラがやってきて、華やかで現実離れした世界で2ヶ月過ごしたら、あっという間に修士1年の新学期が始まって。
8年ぶりの学生生活。交換留学の頃とは比べ物にならない、単位取得と成績要件のプレッシャー。それでも1学期目にやれることを頑張ってやっていたら、博士進学への道が開け、学期間の休暇期間も走り続けてDALF C2を取って。
2学期には授業には慣れたものの、学期末の試験期間と論文の執筆の重複が想像以上にしんどかった。
フランスではM1でも1本論文を書き、それが単位として認められなければ進級できない。
コースワークの成績要件に加え、私の場合は20点満点中、論文で14点が取れないと研究コースに進学できない課程だったので(取れなければ強制的にインターンコースへ進級となり、研究への道が閉ざされる)、M1の成績が出るまで安心できなかった。
夏休みは若干バーンアウト気味だったが、両親のアテンドなどそれなりにやることはあり、あれよあれよと2年生に進級。
2年生で何をしていたかはのちのち書ければ書きたいと思っているが、後期には若干みんなと違うイレギュラーな動きを取ることとなり、その準備・実行にとてつもない忍耐とエネルギーを消費する羽目になった。ここはフランス、イレギュラーの事務対応が非常に弱い国なのだ。
ともかくそのイレギュラーも4月には落ち着いたのだけど、問題はいっこうに「筆が進まない」ことだった。
リサーチはありがたいことにうまくいったので、山のような資料だけは目の前にあった。
それらの先行研究を読めば読むほど、自分のやることがちっぽけに思えてしまって、完璧などというこの世にいるはずはない幻獣を求めて森の中をさまようばかり。
こうして振り返るとずっと何かに追われていて、常に焦燥感が泥のように付きまとう3年間だった。むしろ退職、移住、結婚、進学とすべての環境が目まぐるしく変わる中、ここまで大きく沈まずに進めたほうが奇跡的ですらあったのかもしれない、と今となっては思う。
心身のバランスが一気に崩れたきっかけは指導教員と面談した際に進路の件で意見が分かれ口論になったことと、本文3章中最後の第3章の出来が非常に悪く(逆にそれ以外の2章は指導教員も自分もニコニコだった!)手痛い指摘が飛んできて、とてもではないが一朝一夕では修正しきれない量の赤入れが入ったファイルと「これはさすがにちょっと(意訳)」のようなメールが届いたことだ。
そこに個人や家庭の問題もさまざま絡み、少し持ちこたえて少し書いては、またいろんな問題が噴出し、過眠やら不眠やら明らかな能率の落ち、気分の落ち込みなど、院に入れるかの生殺与奪がかかっていた、DALF C1の1回目と2回目の受験の狭間を超える精神的危機を迎えていた。
この間、もっとも精神的に近く寄り添ってくれたのが、別のパリの名門大学ですでに修士号を取ってこちらに住んでいる、尊敬すべき日本の大学時代の同級生だった。
一度筆を置いてしまったあと、もう一度それを取り直すのに膨大な精神力が必要なこと。
気分が沈んでしまってどうしようもないこと、気分とともに実行機能も落ちてしまうこと。
よく書けている章もたしかにあるのに、批判の苦言だけが耳と心に残ってしまうこと。
私が今の思いをぽつぽつと母国語で打ち明ける。彼女はそれを遮ることなく聞き、自分自身も苦しみを乗り越えながら修士を終えた身として、私の停滞を否定せずに、ただそこにあるものとして受け取ってくれた。
若さゆえに愚かなことばかりしていた20代の学部時代ではなく、30代の大人として祖国から10000km離れたこの地で彼女にふたたび巡り合えたことは、今のパリ生活においても、今後の人生においても何にも代えがたい財産だ。
彼女の家でメインクーンに見つめられながら、2章の校正まではなんとか進めることができた。書き物のそばに猫がいる。それだけでキーを叩く指が少し楽になる。
でも懸念の3章だけは、ギリギリまで触れなかった。指導教員の刺すようなコメントが、どうしても見られなかった。
そんなこんなで、ついぞ気分が戻らないまま提出前日を迎えてしまった。
学事からは提出3営業日前に「締め切り半日前倒しね~!」というふざけた案内が来ている。本当に時間がない。でも気力はない。仕方なくキーをポチポチ叩き始める。
書き始めて8時間目くらい、ユーロビートが流れるヘッドホンを突き抜けて何か「ドサッ」という音が聞こえたような気がした。しかし多少のことはもう気にしてはいられない状態なので、無視。
ふと気が休まり、コーヒーでも入れるかと立ち上がった瞬間。
キッチンに向かう足が止まった。
天井がない。

足元には、「元・天井」と思しき無数の白い破片が転がっている。

日本に住んでいたらおよそ出くわすことのない光景。
呆然としてすぐに、なぜか笑いがこみあげてしまう。
こんな非現実的なことが、修士論文提出前夜に起こってしまう国。
なんだかもうすべてがどうでもよくなって、完璧もなければ不完全が許容される、そんな国で、良い修士論文を書こうなんて思っていたことがまちがっていたなような気になって。
どんなかたちでもいい。とりあえず出そう。
1時間くらいかけて夫と天井の破片を拾い集めた。
提出前夜の貴重な1時間を費やすなんて、普通は怒りに満ち満ちそうだけど。
不思議と気持ちは穏やかで、5月の沈んでしまった自分の骨を弔うように、白い破片がこなごなにならないよう、両手でやさしく包んで、黒いごみ袋にそっと閉じてゆく。
そこから冒頭の「1時間おきにダブルエスプレッソで意識を保ちながら徹夜でひたすら論文を書く」状態に命からがらたどり着いたわけである。
日々激務で疲弊している夫も、参考文献の整理を手伝ってくれる。
友人からは生存確認のメッセージが定期的に飛んでくる。
たくさんの人が、いろいろな資料や証言を分けてくれた。
これだけの人に助けられていながら「提出できませんでした、ハイ留年!!」なんて許されるわけがない。
指導教員からのコメントをひとつひとつ潰していく。もうそこに嫌という気持ちも価値判断もなくて、とにかく全部のコメントを潰していくことだけを考える。
夫が早朝仮眠を取るために布団に入る。
本当にひとりになってしまって、しばらくしたら絶望の夜明けがやってきた。
こんなにも夜明けを願わなかった日はない。私はまだ頑張れる。
酷暑対策でカーテンを閉め切った薄暗い部屋。
本文の加筆修正を終え、息つく間もなくイントロ、結論、付録部分の修正に入る。各パートを書くごとに、30分、1時間と無情に時間が流れていく。気づけば丸一日寝ていない。肉体はもう悲鳴を上げていたけれど、脳と心は不思議なほど凪いでいた。
提出期限まで残り10分を過ぎた。ようやく各パートを一本化したPDFが生成できた。
最後に目次を整える。しまった体裁がおかしい。もう150ページになっている、元データのWordをいじる暇がない。でももう四の五言っていられない。最悪ゴネて目次だけ差し替えたバージョンを送るしかない!
提出期限2分前。
「アップロードが完了しました」と表示された画面を写真に撮って、夫と友人に送る。
人生ではじめて、本当に「完徹」しながら書いた修士論文が、大学のクラウドに吸い込まれたのだった。
この論文は何点もらえるだろう。
14点が取れなければ、博士進学の道は閉ざされる。
願うところは14点、でも15点が出れば御の字かな。
提出前はそんな弱気なことを思っていたが、アップロードできた瞬間、なぜか「良いものができた」という直感があった。
その直感が正しいかどうか、10日後の口頭諮問ですべてがわかる。
久々の口頭試験は怖いけどどこか楽しみで、かすんだ目でない天井を見つめた。
