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死を設計できなくなった社会

いやー。疲れた。山梨の田舎暮らしの親戚のお家にお手伝いという名目で遊びに行っておりまして、庭の手入れやら、片付けなどをしておりました。なんだかんだで、ちゃんとお手伝いもしてきた(笑)

捨てない

どこから持ってきたんだろうと、思うようなものが田舎にはゴロゴロしておりまして。わたしには使い方もわからない。とりあえず、いつか役にたちそうな「風貌」だけは立派なモノたちだ(笑)

彼らはサラリーマンと違って収入もそれほどあるわけではないので、できるだけ地域の中でもらってきたものだとか、祖父母が使っていたモノなんかを大事に保管している。

「みんな何でもかんでも汚れるとすぐ買い替えるのはよくない。」と現代人(特に都会人)の批判をしていたね。

大量生産、使い捨ての時代にあって、モノを大切にするということはなんなのかを、考えさせられた数日だった。

モノに溢れる居心地の悪さ

考えさせられた、、、んだけどさ。

どうも、その田舎暮らしのお家、わたしはもうずーーっと居心地が悪くって落ち着かないんですよ。山があって川があって、湖があって、最高の場所なのだけど、その家だけじゃない、町全体がなんだか寂れていて、居心地がわるい。

最初は、自分に原因があるのだと思った。カッコつきの「きれい」な都会の町並み、使い捨ての真新しいコップ、磨かれたインテリア、そういったものに心地の良さを感じてしまう都会の生活に慣れすぎてしまったのだと。

でも、1泊して、次の日の朝を迎える頃になって気がついた。どうやらそういうことでもなさそうだ。

モノを大切にする

わたしは、100円ショップの使い捨てのお店にも行くし、最近はファストファッションなんていって、Tシャツなんかは2シーズンも着ればよれてしまう。しかも、断捨離気質だから、よくモノを捨てる。むやみにモノを買い込んだり、特に使う目的の見えないものを置くのが好きじゃない。

その反面、自分はモノ持ちがよいとも思う。手元にある道具は5年とか10年とか使い続けているものが意外と多かったりする。楽器、文房具、革靴、カバン。手をかけて、大切に使い続ければ、道具は何年ももつし手に馴染むようになる。たとえ古くっても、心地よさをもたらしてくれるよね。

つまりね、モノを大切にするっていうのはさ、捨てずに持っておく、ことなんかじゃなくって、「モノを使い続ける」ことじゃないかと思ったんだよね。

保管 ≒ 放棄

だってね、ご近所さんから要らなくなったからと、椅子やらテーブルやらをもらってくる。それで、空いた部屋に詰め込んでいるのだけど、もう何年も使われずに、ホコリまみれ。「捨てなよ!」って言っても、「いつか人が来た時に使える」でしょ「まだ使えるのにもったいない」と言う。そうやって、いくつもの農機具、植木鉢、使い道のない資材なんかが、ホコリや土にまみれになって雑草の奥に隠れている。

大切にされている?

こういうモノたちを見ていると、心がひどく痛むんです。

捨て猫が可哀想だからといって拾ってきて、育てられずに多頭飼育崩壊している愛犬猫団体なんかがいるよね。もったいないからといって、捨てられずに放置されているモノたちは、飼育放棄された動物たちと一緒じゃないかい?こういう言い方はアレだけど、モノは死ぬことすら許されない。

きっとそのモノたちは、土まみれ、ホコリまみれのままこの先50年、その子供や孫たちの世代にまでずっと放置され続けるのだろう。

生産され続けるモノ

高度経済成長によって、日本にはモノが溢れた時代がある。その時代はわたしたちの祖父母かその前くらいの時代からずっと今も続いていて、場所のある田舎町では、捨てられずに何十年も前のモノたちが、蔵やら裏庭やらに積み上がっているんだ。

現代経済は「生産」することにしか注目しない。使い続けること、そして、使い続けられなくなったモノを廃棄・循環する術を持たない。

モノを使い続けるということは、ただ長く持つことではない。そのモノが役目を終えるところまで引き受けることだよ。生産と廃棄、生と死は、本来ひとつの環の中にある。ところが現代社会は、その環を断ち切り、生み出すことだけを続けている。わたしたちは自然から資源を摘み取るばかりで、その構造美から何一つ学んでいないようだ。

たぶんね、捨てることは悪じゃない。捨ててあげることもモノにとっての愛情になりえると思う。ただ、その捨て方が問題なんだよ。現代社会には生産に対して、同等の廃棄の循環テクノロジーが育っていない。

死を設計すること

SDGs?持続可能性?まったくおかしいよね。現代技術の粋を集めたスマホやパソコン。こういった電子機器のなかで、5年以上使い続けているものがいったいいくつ家にあるだろう?家具だとか、趣味の道具もそう。新しいものが出たといって、すぐに手に入れたくなる。倉庫やタンスにコレクションを溜め込んで満足する。新築物件だと言って、雨上がりのキノコのように家が立ち上がる。あなたが亡くなって世代交代したときに、それらの「コレクション」はただのゴミになる。

わたしたちの身の回りに世代を超えて100年使い続けられる可能性のあるものはいくつあるだろう?そういった構造設計をもったモノがどれほど生産されているだろう?たぶん、ほとんどないよね。だって、生産と廃棄の環がそもそも失われているのだから。

最後に少し話題をそらすのだけれど、こういったトピックは実はわたしたち人間の死生観にも影響する。そういう気がする。

今は、とにかく命を失うことだけが、問答無用で悪だという思考停止につながっているように思えてならない。医療にしても、安全基準にしても。でもね、生と死というのは同等に円環するプロセスの中にある。生産だけにしか目が向かないのと同様。わたしたちは、自分たちの死を受け入れることができずにいる。

終活だといって、死後の誰かに迷惑をかけないようにと、死を一つのイベントとしてしかみない。本来は、そうじゃないよね。生と死っていうのは、同等のプロセスのつながりのなかで、みなければいけないと思うんだ。

設計するなどという言葉を使うのは安易な気もするのだけれど、自然がそうであるように、その循環の環があるところに、はじめてわたしたちは今の生活にも居心地の良さをみいだすのじゃないかと思うんだ。

りなる.



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