考え方だけ教えるつもりが、小学3年生の息子の自由研究に、自分の答えを置いていた
「手伝わない方がいいんだよね」
夏休みに入って最初の日曜日、香織は夫にそう言った。
ダイニングテーブルの端には、学校から配られた宿題の一覧が置かれていた。計算ドリル、漢字練習、読書感想文。それから、自由研究か自由工作のどちらか一つ。
小学3年生の湊は、一覧を一度見ただけで、ソファに戻ってゲームを始めていた。
香織が気になっていたのは、宿題が終わるかどうかだけではなかった。
できることなら、湊自身が身の回りから不思議を見つけ、何を確かめたいのかを考え、実験の方法も自分で組み立ててほしい。うまくいかないところがあっても、最後まで自分の力で形にできたなら、「自分で見つけて、自分でやり切った」という感覚が残る。それが、きれいに完成した提出物よりも、湊の自信になるのではないか。香織はそう考えていた。
親がテーマを決め、手順を教え、最後に文章まで整えたら、見栄えのよい提出物はできるかもしれない。けれど、それでは自由研究を終えたことにはなっても、湊自身が何かを見つけたことにはならないように思えた。
だから、口を出さずに待とうと決めた。
湊が自分から何かを見つけるまで。
待っていれば、問いは出てくると思っていた
一週間が過ぎても、自由研究は始まらなかった。
湊は朝から学校のプールへ行き、帰宅すると濡れたタオルを洗面所のかごへ入れた。昼食のあとには友達の家へ行き、夕方まで遊んだ。家にいる日は、ブロックで乗り物を作ったり、ベランダへ来た小さな虫を眺めたりしていた。
興味がないわけではないように見えた。
けれど、「何か不思議に思ったことはない?」と聞くと、「別に」と答える。
「最近、もっと知りたいと思ったことは?」
「ない」
「学校のプールで、何か気づかなかった?」
「水が冷たかった」
会話はそこで止まった。
香織は、質問の仕方がよくないのだと思った。いきなり「問いを見つけて」と言われても、子どもには大きすぎるのかもしれない。
そこで、コピー用紙を一枚出し、真ん中に「自由研究」と書いた。その周りに、湊が普段好きなものを並べてみた。
水。虫。ゲーム。食べ物。乗り物。
さらに、その下へ四つの言葉を書いた。
くらべる
数える
観察する
ためしてみる
「好きなものと、こっちの考え方を組み合わせると、研究になるんだって。たとえば虫を数えるとか、水で何かを試すとか」
答えを渡すのではない。考え方の枠だけを見せる。
香織としては、そのつもりだった。
湊は紙をしばらく見てから、「ゲームを数える」と言った。
「何を数えるの?」
「分かんない」
「虫を比べるなら、色とか、大きさとか、いる場所とかがありそうだよ」
「じゃあ虫でいい」
その返事を聞いて、香織は手を止めた。
湊が虫を研究したくなったのではない。香織が例として出したものを、いちばん簡単そうだから選んだだけだった。
枠組みを渡せば、本人の中から問いが出てくると思っていた。けれど湊は、その枠の使い方を知らない。何と何を組み合わせれば面白くなるのかも、比べた先に何が見えるのかも、まだ想像できていないようだった。
考えてみれば、問いをつくる途中を、湊はそれほど見たことがない。
学校の問題には、最初から聞かれていることが書いてある。ドリルには答えを入れる欄がある。理科の授業では、先生が今日確かめることを黒板に書く。
完成した枠だけを渡されて、急に自分の疑問を入れてみてと言われても、使い方が分からないのは当然なのかもしれなかった。
「たとえば」を見せるだけのつもりだった
八月最初の土曜日、冷たい麦茶をつくろうとして、湊が製氷皿から氷を取り出した。
一つが床へ落ちた。湊は拾わずに、足元で小さくなっていくのを見ていた。
「早く拾って」と言いかけて、香織は思いついた。
「氷って、置く場所によって溶ける速さが違うよね」
湊は氷を見たまま、うなずいた。
「窓の近くと部屋の奥で比べたら、どのくらい違うんだろう」
「窓の方が早いでしょ」
「本当にそうなるか、時間を測ったら研究になるんじゃない?」
湊は少し考えてから言った。
「それにする」
香織はほっとした。ようやく決まった。
同時に、また「それでいい」が選ばれたような気もした。
それでも、何も始まらないより、一つやってみた方がよい。実験を始めれば、途中で湊なりの疑問が出てくるかもしれない。最初の足場だけ親が組み、そこから先を本人に渡せばいい。
二人で冷凍庫から同じくらいの大きさの氷を選び、白い小皿へ載せた。一つは日差しの入る窓辺へ、もう一つは廊下へ置いた。
湊はタブレットのタイマーを押した。三分ごとに氷を見て、溶けた水の様子をノートへ書く。
最初の欄に、湊は「まだある」と書いた。
次の欄にも「まだある」。その次にも「まだある」と書いた。
香織は笑いそうになったが、これではあとで違いが分からないと思った。
「大きさを比べて書いたら? 最初より少し小さいとか、角が丸くなったとか」
湊は窓辺の氷を見て、「ちょっと小さい」と書き足した。
「水がどのくらい出たかも見るといいかもね」
「どうやって?」
「同じスプーンで何杯分か測るとか」
「じゃあやって」
香織がスプーンを取りに立った。
考え方を実演するだけ。次は湊が自分でできるように、一度見せるだけ。
そう思いながら、小皿にたまった水を計量スプーンへ移した。
実験らしくなるほど、決めることが増えた
一回目の結果は、窓辺の氷の方が早く溶けた。
湊は「思ったとおり」と言い、ゲームへ戻ろうとした。
「でも、一回だけだと、たまたまかもしれないよ」
香織が言うと、湊は露骨に嫌そうな顔をした。
同じ条件でもう一度行う。置く場所を入れ替えてみる。氷の大きさをそろえる。開始時刻を同じにする。
香織の頭には、確かめた方がよいことが次々に浮かんだ。せっかくなら、少なくとも「実験」と呼べる形にしたかった。
「入れ物が違ったら、溶け方も変わるかな」
金属のボウル、ガラスの器、プラスチックの皿。家にある三種類を並べると、湊は少し楽しそうになった。
「金属が一番冷たいから、氷が長く残ると思う」
それは初めて、湊が自分から言った予想だった。
「どうして?」
「触ると冷たいから」
香織は、その言葉をノートに書くよう勧めた。
実験すると、金属のボウルに載せた氷が、予想に反して早く溶けた。湊は「え、なんで」と言って、三つの器を何度も触った。

その瞬間、香織はうれしくなった。
これこそ自由研究だと思った。予想して、試して、予想と違う結果に出会う。分からなかったことが、次の疑問になる。
「金属は熱を伝えやすいから、部屋の熱が氷へ伝わったのかもしれないね。調べてみようか」
香織はスマートフォンを開いた。
熱伝導という言葉を見つけ、小学3年生にも分かる表現へ言い換えた。湊に器の絵を描かせ、熱が移る方向を赤い矢印で示す案を出した。窓辺と廊下の比較より、入れ物による違いの方が意外性があるから、こちらを研究の中心にしようと提案した。
湊は全部に「うん」と答えた。
気がつくと、最初の「どこに置くと早く溶けるか」という実験は脇へ寄り、研究の題名は「入れ物によって氷のとける速さは変わるのか」になっていた。
予想、実験方法、結果、分かったこと。模造紙を四つに分けると、学校で展示されても読みやすい。写真は同じ大きさに切り、時間の違いは棒グラフにする。結果と理由が混ざらないよう、欄を分ける。
香織が会社で資料をつくるときにしていることと、よく似ていた。
命令はしていない。湊に確認しながら進めている。本人が嫌だと言えば、別の形に変えるつもりもあった。
けれど、小学3年生の湊にとって、親の「こんなふうにすると分かりやすいよ」は、いくつもある選択肢の一つではなかった。
ほとんど、そのまま採用すべき答えだった。
湊が書いたのに、香織の文章に見えた
模造紙へ清書する日、湊は途中から何度も手を振った。
「疲れた」
「あと結果と、分かったことだけだよ」
「明日やる」
「明日はおばあちゃんの家に行くでしょう。今日ここまで終わらせた方が楽だよ」
湊はしぶしぶ鉛筆を持ち直した。
「分かったこと」の欄で、また手が止まった。
「金属の入れ物は、冷たく感じるのに、氷が早く溶けた」
香織が言うと、湊はそのまま書き始めた。
「それから、金属は周りの熱を伝えやすいので……」
「待って。そんな言い方、僕しない」
湊が鉛筆を置いた。
香織も黙った。
たしかに、湊は「熱を伝えやすい」とは言っていない。スマートフォンで調べた説明を、香織が短くした言葉だった。
「じゃあ、どう書く?」
「分かんない」
「実験して、どう思った?」
「びっくりした」
「何に?」
「冷たいのに、一番早かったから」
「それを書けばいいんじゃない?」
湊は少し考え、さっきより大きな字で書いた。
さわるといちばんつめたい金ぞくが、いちばん早くとけてびっくりした。
その一文だけは、湊の文章に見えた。
けれど、その下の「その理由」の欄は、また香織が調べた言葉で埋まった。
完成した模造紙には、三種類の器の写真が並び、氷が溶けるまでの時間がグラフになっていた。予想と結果の違いも、なぜそうなったかも書かれている。
小学3年生の自由研究として、十分にまとまっていた。
だからこそ、香織には少し分からなくなった。
湊がしたことと、香織がしたことを、どこで分ければよいのだろう。
氷を選び、タイマーを押し、写真を撮り、絵を描き、文字を書いたのは湊だった。テーマのきっかけをつくり、比較する条件を増やし、研究の中心を選び、理由を調べ、全体の順番を決めたのは香織だった。
手を動かしたのは息子で、考える道筋をつくったのは親だった。
それは、手伝いすぎたということなのだろうか。
一人でやらせていたら、何が残っただろう
夜、帰宅した夫が模造紙を見て、「よくできてるね」と言った。
湊はうれしそうに、金属の器が一番早く溶けたことを説明した。夫が「なんで?」と聞くと、「金属は熱を……」と言いかけて、香織の方を見た。
「周りの熱を伝えやすいから」
香織が小さく助けると、湊はそのまま繰り返した。
夫は納得したようにうなずいた。
香織は、自分が答えを教えたことより、湊がこちらを見るまでの短い間が気になった。
翌朝、ダイニングテーブルには、実験で使った透明な器が一つ残っていた。底に細い傷のような模様が見えた。
湊は牛乳を飲みながら、その器を手に取った。
「氷って、真ん中が白いやつと、透明なやつがあるよね」
「そうだね」
「あれ、なんで?」

香織には分からなかった。
スマートフォンを取れば、すぐに調べられる。白くなる理由を説明し、透明な氷のつくり方を次の実験にすることもできる。
けれど香織は、すぐには手を伸ばさなかった。
「なんでだろうね」
湊も、それ以上は聞かなかった。器を光へ透かし、冷凍庫を一度開けて、中に残っている氷を眺めた。それから学校のプールへ行く支度を始めた。
問いを立てるところまで本人に任せていたら、自由研究は白いままだったかもしれない。
香織がかなりリードしたからこそ、湊は予想と違う結果に驚き、比べる経験をし、もう一つの疑問にも出会えた。その時間まで、親が奪ったものとして片づけたくはなかった。
一方で、完成した模造紙に書かれた問いは、香織が見つけたものだった。湊が最後に見つけた「氷の真ん中はなぜ白いのか」は、どこにも書かれていない。
親がつくった足場がなければ、子どもはまだ歩き始められなかった。
けれど足場をきれいに組みすぎると、歩く方向まで親が決めてしまう。
香織は、完成した自由研究の横へ、透明な器を置いた。
学校へ提出するのは、模造紙の方だ。
湊の問いは、まだ器の中に残っていた。
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