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〖日本映画の教養〗『浮雲』『女が階段を上る時』『男はつらいよ』――映画から読む戦後日本人の生き方

このテーマは、「教養の全体像地図」でいえば、第2章「思想と文化の土台を学ぶ」の「芸術・音楽・文学」に該当する。同時に、第4章「人生を楽しむための教養」にある「エンタメ・ポップカルチャー」にもつながっている。

映画は、映像、演技、脚本、音楽、美術、衣装などが組み合わさった総合芸術である。それだけでなく、制作された時代の仕事、家族、恋愛、都市、貧困、男女関係まで記録する、社会のタイムカプセルでもある。

今回は、日本映画を通して戦後日本人の生き方を考える作品として、成瀬巳喜男監督の『浮雲』『女が階段を上る時』、山田洋次監督の『男はつらいよ』を取り上げたい。

『浮雲』――成瀬巳喜男が描いた、思いどおりにならない人生

『浮雲』は、林芙美子の小説を原作として、成瀬巳喜男が監督した1955年公開の映画である。脚本は水木洋子、主演は高峰秀子と森雅之。戦時中の仏印で関係を結んだ男女が、敗戦後の日本で再会し、離れようとしても離れられない姿を描いている。なお、二葉亭四迷が明治時代に発表した同名小説とは別の作品である。

物語の中心にあるのは、決して美しく整えられた恋愛ではない。相手が自分を幸福にしてくれないと分かっていながら、関係を断ち切ることができない。新しい生活へ進もうとしても、過去の記憶に引き戻されてしまう。

その背景には、敗戦によって、それまでの秩序や生活基盤が崩れた日本社会がある。登場人物たちは仕事、住居、恋愛のどれにも確かな足場を持てず、目の前の関係にすがりながら生きている。『浮雲』の男女関係は、過去を清算できず、不安定なまま再出発しようとしていた戦後日本の姿とも重なる。

成瀬巳喜男の映画では、努力した人物が成功し、悪人が罰せられるような分かりやすい決着はあまり用意されない。人は自分の弱さを理解していても、必ずしも合理的には行動できない。人生には、正しい選択だけでは解決できない問題がある。その割り切れなさを静かに見つめるところに、成瀬映画の特徴がある。

『女が階段を上る時』――銀座の華やかさを支える労働

『女が階段を上る時』は、1960年に公開された成瀬巳喜男監督の作品である。主人公の矢代圭子は、夫に先立たれ、銀座のバーで雇われマダムとして働いている。圭子が男性客との駆け引きや経済的な制約にさらされながらも、尊厳を失わずに生きようとする姿が、高峰秀子の一人称のナレーションを交えて描かれる。

タイトルの「階段」とは、圭子が働く店へ向かう階段である。階段を上った先には、華やかな銀座の夜が広がっている。しかし圭子にとって階段を上ることは、疲れや不安を隠し、客から求められるマダムとしての顔を身につけることでもある。

この場面は、現代の働き方にも通じる。私たちも会社や店へ向かう途中で、私生活の感情をいったんしまい込み、職業人としての顔に切り替えている。スーツ、制服、化粧、敬語、笑顔は、社会の中で働くための役割でもある。

銀座の華やかさは、圭子のような人々が感情と身体を使って働くことで成り立っている。『女が階段を上る時』は女性の自立を描いた映画であると同時に、華やかな消費空間の裏側にある労働を描いた作品でもある。

社会が豊かになっても、そこで働く個人が自由になるとは限らない。経済的に自立したいという願いと、他者に依存しなければ生きられない現実。その間で尊厳を守ろうとする圭子の姿が、この映画を現在にも通じる作品にしている。

『男はつらいよ』――成功から外れた男と、帰る場所としての柴又

最近、葛飾区の柴又を訪れた。柴又駅から帝釈天へ続く参道を歩くと、団子屋や煎餅屋が並び、町全体に『男はつらいよ』の記憶が残っている。

『男はつらいよ』の第1作は、1969年8月27日に公開された。渥美清が演じる車寅次郎は、露店商として全国を旅し、ときどき故郷の柴又へ戻ってくる。家族と騒動を起こし、旅先や柴又で女性に恋をし、失恋したり自ら身を引いたりした末に、再び旅へ出ていく。シリーズは第50作まで制作され、日本を代表する国民的映画となった。

寅さんは、高度経済成長期の標準的な成功から外れた人物である。会社に勤めず、安定した収入や家庭を持たず、土地や住宅も所有していない。組織への所属、結婚、持ち家といった尺度で見れば、社会的な成功者とは言いにくい。

しかし寅さんには、全国を自由に旅する生活があり、困っている人を放っておけない人情があり、失敗しても帰ることのできる柴又がある。肩書や資産を持っていなくても、人から愛され、帰る場所を持つ人生はあり得る。寅さんは、経済的な成功だけでは測れない人間の価値を体現している。

柴又は単なるロケ地ではない。寅さんが自由に旅を続けられるのは、最後には戻れる場所があるからである。自由とは、どこにも所属しないことだけではない。離れても受け入れてくれる家族や共同体があるからこそ、人は外の世界へ出ていけるのである。松竹の公式サイトも、柴又を訪れる体験について、映画のロケ地を見るだけでなく、寅さんたちの暮らしの中へ入り込んだような感覚を味わえる場所として紹介している。

日本映画は、弱く不器用な人間を切り捨てない

『浮雲』の男女は、幸福になれないと分かっている関係から抜け出せない。『女が階段を上る時』の圭子は、経済的な制約の中で、他者から期待される役割を演じ続ける。『男はつらいよ』の寅さんは、恋愛にも社会生活にも何度も失敗する。

三作品に登場するのは、人生を完全に制御できる強い人間ではない。弱さや矛盾を抱え、同じ失敗を繰り返しながら、それでも生活を続けていく普通の人々である。

そこに、日本映画が長く描いてきた重要なまなざしがある。社会的に成功していない人、合理的に行動できない人、不器用で周囲に迷惑をかけてしまう人にも、その人なりの事情と人生がある。日本映画は、そうした人間を簡単に善悪や勝敗で分類せず、その弱さの中にある哀しさや可笑しさを見つめてきた。

映画の教養とは、有名な監督や作品名を覚えることだけではない。作品に映された街、仕事、家族、恋愛、服装、言葉遣いを通して、その時代を生きた人々の感覚を想像することである。

柴又を歩いた後に『男はつらいよ』を観れば、参道や江戸川の土手が物語を持った風景に変わる。『浮雲』を観れば、敗戦後の日本で生きることの不安定さが見えてくる。『女が階段を上る時』を観れば、銀座の華やかさの背後にある労働と尊厳が見えてくる。

映画を観てから町を歩き、町を歩いてから映画へ戻る。その往復によって、古い映画は過去の娯楽ではなく、現在の自分や社会を考えるための教養になる。

日本映画全体の見方については、「ポップカルチャーの広い教養――漫画・アニメ・ゲーム・映画・ドラマから現代を読む教養」や、「映画――時間と体験の統合芸術」にもつなげて考えることができる。

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