鉄は「血の材料」だけじゃない — ミトコンドリア・神経・免疫を動かす「見えない基盤」
「あんなに明るかったお母さんが」
私は小児外科医です。
生まれつきの疾患を抱えた子どもたちの手術に関わり、そのあとの5年、10年という時間を、ご家族と一緒に歩いてきました。手術で治せるものは、治す。けれど手術台を降りたあとに続く長い日々を支えているのは、いつもご家族でした。
その時間の中で、私は何度も同じ光景を見てきました。
初めてお会いしたときは、あんなに明るかったお母さんが、半年後、一年後の外来で、別人のように疲れている。
「私が頑張らないと」と言いながら、その言葉を口にする力そのものが、残っていないように見える。
このマガジンでは、これまで葉酸と1炭素代謝、そしてエピジェネティクスの話をしてきました。どちらも「見えない基盤」の話です。
今回は、もう一つの見えない基盤——鉄の話をします。
鉄は、血液を作る材料。それは事実です。しかしそれは、鉄が担っている仕事の、ほんの一部にすぎません。
はじめに、ひとつだけお断りしておきます。この記事は、学ぶための読み物です。診断をするものではありません。お子さんやご自身の状態で気になることがあれば、必ずかかりつけの先生にご相談ください。
「貧血じゃないから大丈夫」の、大きな誤解
「学校の健診で、貧血じゃなかったので安心しました。」
外来でこの言葉を聞くたびに、私は少し立ち止まります。
安心するのは、まだ早いかもしれません。
ヘモグロビンが正常でも、体の中で鉄が枯渇しているケースは、驚くほど多い。特に、成長期の子どもと、その子を育てるお母さんに。
鉄が動かしている「3つのシステム」
鉄の役割を一言で語るのは不可能です。しかし、臨床的に重要な軸が3つあります。
1. エネルギー工場(ミトコンドリア)
細胞の中にある「ミトコンドリア」は、私たちの体のエネルギー(ATP)を作る工場です。この工場の製造ラインには、電子伝達系と呼ばれる4つの複合体が並んでいます。
そのうち3つに、鉄が組み込まれています。
鉄がなければ、製造ラインは滞ります。ATPが十分に作れない。つまり鉄不足とは、全身の細胞がエネルギーを作りにくくなることです。
朝起きられない。集中が続かない。すぐ疲れる。——やる気の問題として語られがちなことの背景に、この工場の停滞が隠れていることがあります。
2. 神経伝達物質の合成
ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン。脳の中で「やる気」「落ち着き」「覚醒」を支える化学物質です。
これらの合成には、鉄を必要とする酵素が関わっています。
ドーパミン合成:チロシンヒドロキシラーゼ(鉄依存)
セロトニン合成:トリプトファンヒドロキシラーゼ(鉄依存)
鉄が不足すると、脳の中で「やる気を出せ」というシグナルを作る材料が細くなる。
「やる気がない」「すぐイライラする」「気分が落ち込む」——性格の問題として片づけられがちなことの下に、材料の不足が隠れていることがあります。
そこだけが原因だとは考えていません。 心のありようも、環境も、その子が置かれた状況も、すべてが関わっています。ただ——材料が足りないままでは、ほかに何を試しても届きにくくなる。 それが、私が栄養から入る理由です。
3. 免疫の武器庫
白血球が細菌と戦うとき、強力な武器の一つが活性酸素です。これを作るミエロペルオキシダーゼという酵素にも、鉄が必要です。
鉄が不足すると、免疫細胞は武器を持たずに戦場へ出ることになる。
「風邪をひきやすい」「治りが遅い」——これも、鉄の状態と無関係ではないことがあります。
「財布と銀行」— ヘモグロビンとフェリチンの違い
ここが、いちばん伝えたいところです。
ヘモグロビン = 財布の中のお金(今すぐ使う鉄)
フェリチン = 銀行の預金(貯蔵されている鉄)
体は生命を守るために、財布の中(ヘモグロビン)を一定に保とうとします。たとえ銀行預金(フェリチン)がゼロに近づいても、財布だけは減らさないよう無理をする。
そして、一般的な健診で見るのは「財布の中身」だけです。
「ヘモグロビンが正常」=「鉄が足りている」ではありません。
銀行残高がゼロの状態で、毎日を元気に暮らせるでしょうか。預金ゼロの自転車操業。それが、多くの子どもとお母さんの体の中で、静かに起きていることです。
母と子は「一つのユニット」
ここで、現場で強く感じていることをお伝えします。
お母さんが鉄不足のとき、お子さんも鉄不足であることが、非常に多い。
理由は二重です。
一つは、胎児期の鉄の受け渡し。妊娠中、母体の鉄は胎盤を通じて赤ちゃんへ運ばれます。母体のフェリチンが低ければ、赤ちゃんが受け取る「初期投資」が少なくなる。
もう一つは、食卓の共有。同じ家庭で同じ食事を食べていれば、鉄の摂取の傾向は似てきます。鉄の多い食材が食卓に並ばなければ、家族全員が不足する。
だから、お子さんの鉄不足を疑ったとき、私は必ずお母さんにも問いかけます。
「お母さん自身は、最近疲れていませんか。」
子どもを直接変えようとするのではなく、まずお母さん自身が元気になること。それが結果的に、子どもが育つ「環境」を根底から変えていきます。
お母さんが元気になれば、食卓が変わる。食卓が変われば、子どもの鉄の摂取が変わる。そして、家庭の空気が変わる。
これは、私がクリニックでスタッフを育てるときに辿り着いた結論と、まったく同じ構造をしています。人を直接変えることはできない。しかし、その人が育つ「環境」を整えることはできる。
母子は、一つのユニットです。 子どもの栄養を考えるとき、お母さん自身の栄養を満たすことは、決して「後回し」にしてよいものではありません。
栄養は「魔法」ではない。しかし「伴走の土台」である
ここで、一人の医師として、そしてかつて「学校に行けなかった子ども」だった当事者として、お伝えさせてください。
私自身、小学1年生から2年生にかけての2年間、学校に行けなかった時期があります。だからこそ、学校に行けない苦しみも、わが子を見守る親の葛藤の深さも、身をもって知っています。
栄養療法は、不登校や心の問題を一発で解決する「魔法のレバー」ではありません。栄養を整えたからといって、明日から突然すべてがうまくいくわけではない。その限界は、日々の診療でも、私たち自身の子育ての中でも、痛感しています。
では、なぜそれでも鉄を整えるのか。
栄養は、「人生を変えるための働きかけが、届きやすい身体条件を整える」ものだからです。
鉄が足りず、細胞のエネルギー工場が滞り、神経伝達物質の材料が細っている状態では、どんなに温かい言葉をかけても、どんなに環境を整えても、本人がそれを受け取る「器」ができていません。
私たちにできるのは、子どもを無理に引きずり出すことではなく、本人が自分のタイミングで扉を開けられるまで、見守り、伴走し続けること。私自身が戻れたのも、母が諦めずに見守り続けてくれたからでした。
その泥臭く、時に身を切られるような伴走を続けるためには、子ども自身の土台はもちろん、伴走するお父さん・お母さん自身の土台が、絶対に必要なのです。
「成功した専門家」としてではなく、いまも皆さんと同じように悩み、もがきながら伴走している一人の実践者として、お伝えします。
鉄は、血の材料である以上に、親子の「伴走」を支える見えない基盤です。
「鉄を入れればいい」ではない — 腸を診てきた者として
ここで、ひとつだけ注意を。
「鉄が大事なら、とにかく補充すればいい」——そう思われるかもしれません。
しかし鉄には、厄介な性質があります。
吸収されなかった鉄は、腸の中で悪玉菌のエサになる。
特に非ヘム鉄(一般的な鉄剤に多い形態)は吸収率が低く、飲んだ鉄の多くが大腸に届きます。そこで遊離鉄として放出され、有害菌の増殖を助け、腸内環境を乱すことがある。
年間5,000組以上の便秘を診てきた小児外科医として、これは見過ごせない問題です。
栄養を入れたい。でも、腸を壊したくない。
この二つを両立させるには、鉄の「種類」と「入れ方」を、腸の状態に合わせて設計する必要があります。何をどう入れるかは、お子さんの状態によって変わります。ここは自己判断せず、かかりつけの先生と相談しながら決めてください。
「何を入れるか」だけでなく、「どこに入れるか」——つまり腸という吸収の現場を知っていることが、鉄においては決定的に重要なのです。
鉄が「すべての土台を横断する」理由
私は栄養療法を学ぶ中で、一つのフレームワークに辿り着きました。
「5つの土台」——お腹(消化・吸収)→ 元気(エネルギー)→ 安定(血糖・メンタル)→ 守り(免疫)→ 成長(骨・脳・ホルモン)。
鉄は、この5つすべてに関わる、数少ない栄養素です。
お腹:腸粘膜の新陳代謝
元気:ミトコンドリアのATP産生(電子伝達系)
安定:ドーパミン・セロトニン合成の補酵素
守り:白血球の殺菌能
成長:コラーゲン合成、甲状腺ホルモンの活性化
鉄が「貧血の材料」としか認識されていないのは、あまりにも、もったいない。
鉄は、人体という建築物の鉄筋です。外からは見えない。しかし、鉄筋がなければ建物は立ちません。
この記事で、覚えてほしい3つのこと
ヘモグロビンが正常でも、鉄が足りているとは限らない。 財布は満たされていても、銀行預金(フェリチン)は空かもしれません
鉄は5つの土台すべてを横断する。 貧血の材料としてだけ見ると、見落とします
母子は一つのユニット。 お母さん自身の預金を、後回しにしないでください
今日の、ひとつだけ
もし今日、ひとつだけしていただけるなら。
次にご家族が血液検査を受けるとき、「フェリチン」という項目が入っているか、見てみてください。
入っていなければ、それは異常なことではありません。一般的な健診では、まず含まれない項目だからです。ただ、「その項目がある」と知っているかどうかで、先生と交わせる会話が変わります。
そしてもうひとつ。今日、ご自身に一度だけ聞いてみてください。
「私自身は、最近どうだろう。」
その問いが、家族の土台を整える最初の一歩になります。
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次回は、妻であり栄養カウンセラーであるちあきが、「鉄」というテーマを暮らしの目線で語ります。
3人の子を育てながら、自分自身の鉄不足にも向き合ってきた経験。サプリメントを飲ませる苦労。食卓での工夫。
「鉄が大事なのはわかった。でも、毎日の生活でどうすればいい?」
その問いに、実践の言葉で答えます。
*この記事は、学びのための読み物です。診断や治療をするものではありません。気になることは、かかりつけの先生にご相談ください。
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