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片想いの、答えあわせ

私は勉強ができない。

そう言うと、根性がないとか、やる気がないとか、甘えているとか、ずいぶん雑に片づけられてしまう。

でも違う。いや、違わないけど、何もしていないわけではない。むしろ、やった跡だけならある。ペンの色を使い分けて文字を並べ、重要語句を蛍光ペンで縁取り、たった数センチの矢印まで定規でまっすぐ整えた、きれいなノートが。

けれど、その熱量が成果につながることは、ついぞなかった。高校も大学も第一志望にはことごとくフラれ、私の想いはいつも空回り。報われなかった記憶だけが、いまも胸の奥でくすぶっている。せめて一度くらい努力と両想いになってみたい。

……なんて思ってみたところで、「じゃあ何がしたいの?」と聞かれれば、途端に目が泳いでしまう。それでも、誰かのひたむきな姿を見ると、どういうわけか自分までやれる気になってくるから不思議だ。

「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」

そんな書き出しの本を読み終えたとき、まんまと心を動かされていた。私もこの1年を簿記に捧げよう、と。確定申告を鼻歌まじりで終わらせたい、という下心つきで。

私の本気は、すぐさまノートへと姿を変えた。買ったばかりの1冊をカフェの小さなテーブルに広げ、簿記のルールをひとつずつ書き写していく。勉強というより写経だ。さして重要とも思えない語句をピンク色で塗っていると、不合格なんて縁のない友だちが「好きだね、きれいなノートつくるの」とニヤつく。

相変わらずイラッとする。大学受験のとき、「なんで受かったの?」と聞いたら「がまんした」、「どうやって?」と突っ込めば「ジッとしてた」と抜かしたやつである。

せめてもの抵抗に、蛍光ペンの色を変えた。黄色で囲んだ文字に、オレンジ色で線を引く。さらに青で矢印を足すと、ノートの上だけは、やたらと勉強してます感が出た。友だちはそれを見て、ふんっと笑いやがった。

「こんなに色を使ったんじゃ、全部大事に見えるだろ?」
「……」

「おまえさ、受かることをしろよ」
「はいはい、わかりましたよ」

いよいよ腹が立ったので、問題を解いてみた。もっと腹が立つことに、間違えた。しかも、なぜ間違えたのか、ノートのどこにも書かれていない。

ならばと、ペンケースから大仏の付箋を引っ張り出し、間違えた理由を書き込む。定規を添えて、まっすぐに。1問解いては貼り、また間違えては貼る。気づけばノートの余白は大仏だらけで、ありがたいというより、もはや供養待ちの行列にしか見えない。

意地になって大仏を貼り続けているうちに、そっぽを向いてばかりだった数字が、たまにデレるようになった。

「あ、また合った」

ノートに赤い丸が3つも並べば、勘違いはもう止まらない。気が大きくなった私は簿記3級の試験に申し込み、勢いで6,000円の電卓まで買った。日数計算機能つきの、やけに頼もしいやつを。

そして迎えた試験当日。はじめてのネット試験にオロオロする私などお構いなしに、試験はしれっと始まった。思いのほか机が狭くて、キーボードも、計算用紙も、妙にでかい電卓も、置き場が決まらないまま画面の端で時間だけが減っていく。

それでも、問題を読み進めるたび、付箋の1枚1枚がよみがえる。涅槃の鼻提灯にピンクで書き込んだやつ、大仏の腹に黄色のマーカーを引いたやつ、阿弥陀仏の頭を青く塗りつぶしたやつ。色と付箋の形で間違えた内容を覚えている自分に、少し笑ってしまう。

ひと通り解き終え、あとは試験終了をクリックするだけ。なのに、指先がふるえる。本当に大丈夫? 解答欄、間違えてない? 念のため、もう1回見直す。最後に仕訳問題をもう1回だけ……。そんなことをしているうちにカウントダウンがゼロになり、画面に100という数字が現れた。ふわふわしたまま受付でスコアレポートを受け取ると、しつこいくらい見返す。満点だ。

そうか、これが両想いってやつか。スキップしたいのをこらえながら本屋の資格試験コーナーへ向かった。3級のテキストを手に取る人を横目に、何食わぬ顔で2級のテキストを棚から抜く。少しだけ、いい気分だった。

***

安っぽい全能感に浮かされて、新しいノートを開く。最初のうちは、うまくいっていた。「やっぱり私たち相性いいじゃん」なんて思うくらいには。けれど、工業簿記に入ったあたりで、急にそっぽを向かれた。

そこからはもう、バグる、ハマる、クラッシュする。出番を失った大仏たちまで、そろって仏頂面。あんなに頼もしかったのに、いまは見るだけでうんざりする。

思えば3級は、売った、買った、入ってきた、出ていったを、そのまま見せてくれるかわいいやつだった。けれど2級のこいつは、何にいくらかかったのか、どうしてその差が出たのか、いちいち説明を求めてくる。

「ほんと、めんどくさい」

カフェラテの氷をストローでガシガシといたぶりながら、文句をこぼす。向かいで、友だちがテキストの端をトントンと叩いた。

「合ってないんじゃない、これ」

なるほど。悪いのは私じゃない、テキストのほうだってことか。伝票をひったくるようにして席を立ち、友だちを引き連れて本屋へと向かう。

簿記の棚の前に陣取るなり、1冊ずつ取り出してはペラペラめくる。もっと優しいやつ。もっと素直なやつ。もっと私を傷つけないやつ。そんな身勝手な注文を並べていると、ふと隣の棚が目に入った。宅建のテキストが、「私はあなたを振り回したりしませんよ」とでも言いたげに、大人の余裕を漂わせている。

「ねえ、宅建よくない?」
「でた! いつもの病気」

赤い表紙へ伸ばしかけた指先を、冷ややかな声がぴしゃりと止めた。

「1週間もたたないうちに『法律って理屈っぽい』とか言うよね?」
「……」

「『簿記のほうがよかった』って言うよね?」
「……はい」

「それに、2級申し込んだんだろ?」

そうだった。まだ工業簿記の本性を知らなかったころの私は、「受ける日を先に決めれば、やるしかなくなる」なんてSNSの言葉にまんまと背中を押され、試験日まで決めてしまっていたのだ。

たしかに、やるしかないところまではきた。きたけれど、やりたい気持ちは一向についてこない。おまけに受験料は6,050円。なかったことにするには高すぎる。

残された時間は1週間。完全に追いつめられた私は、模試の暗記という最終手段に打って出た。問題のパターンごとに、拾うべき数字をピンク、計算手順をオレンジ、キーワードを黄色に色分けして、ノートを整えていく。

理解が、あとからついてくる気配はない。なぜそうなるのかも、わからない。ただ、ピンクとオレンジと黄色だけは鮮明に残っていく。もはや合法カンニングだ。

頭の中だけやたらとカラフルなまま、私はまたテストセンターへ向かった。席に着くとすぐにキーボードをモニターの下へ押し込む。あいた場所に計算用紙を置き、その左に電卓を並べる。ふーっと息を吐いて試験開始をクリックすると、問題が現れた。模試そのままではない。けれど、見たことのある形だった。

問題文を最後まで読むこともなく、勘定科目を選び、数字を拾い、電卓を叩くと、なぜか答えっぽいものが出た。合法カンペにない問題は迷わずスルー。埋められるところだけ埋めて、ためらいもなく試験終了ボタンをクリックした。

表示された点数は78。合格だ。受付で受け取ったスコアレポートを、そのまま四つ折りにしてバッグにしまう。傍から見れば、理解して解いたのか、暗記した内容を吐き出しただけなのかなんてわからない。

これって両想いなの?

ま、いっか。合格は合格だ。にやけたまま、友だちにLINEを送る。

「2級うかったー!」
「おめでとう。次は1級だな」

私は既読をつけたまま、スマホをポケットにしまった。

なのに、だ。気づけば本屋の資格試験コーナーにいた。3級のテキストを手に取る人を横目に、何食わぬ顔で1級のテキストを棚から抜く。かなり、いい気分だった。

***

鼻歌まじりに帰宅し、儀式のように新しいノートとテキストを開く。けれど、そこにいたのは、愛想のひとつもない数字たち。大仏の付箋を貼る前に、こちらが成仏しそうだった。

ひとまずペンを置き、わりばしでポテチをつまむ。袋の中はほとんど空気なのに、なぜか煩悩だけはぎっしり詰まっている。「あと1枚食べたらやる」を10回ほど繰り返し、仕方なくノートに「現金預金」と書いて、グレーのマーカーを引く。ピンクや青で飾り立て、無駄にきれいなノートになったころには、少しだけわかった気になっていた。

できあがった作品をひとしきり眺め、じゃあ問題でも解いてやるかと構えたところで、ピタッと手が止まる。どの数字を拾えばいいのか。どこから計算すればいいのか。そもそも、これはさっきノートに書いた話と同じなのか。なにもわからない。

「……っていう地獄を見てるわけよ」

カフェのテーブルに突っ伏して「もういやだ」と悶える私を、向かいの席から冷ややかな視線が刺す。耐えきれずストローの袋を結び始めると、友だちは少しも同情しない顔で言った。

「で、1級はどうするの?」
「……」

私はただ、カフェラテの氷がカランと鳴る音を聞いていた。

「やるの? やらないの?」

責められた気がして、喉の奥がキュッと縮む。べつに、やりたくなくてやっていないわけじゃない。仕事は降ってくるし、部屋は勝手に汚れるし、洗濯物は増殖する。ご飯だって作らなきゃいけない。こんな面倒な世の中を人様に迷惑もかけず、まっとうに生き抜いているのに、私の毎日は「勉強していない」のひとことで片付けられてしまうのか。

「私だってがんばってるんだけど」

思ったより低い声が出た。

「いや……」
「もういいよ。どうせ私にはムリなんでしょ」

言ってから、ああ私は本気でそう思っていたのか、と気づいた。「やればできる」だの「スキマ時間を使え」だの、そんなありがたいお言葉がほしいわけじゃない。それでどうにかなるなら、とっくにどうにかなっている。なめんなよ、勉強のできない人間を。

「そうじゃなくて……」と言いかけた友だちは、氷のとけたコーヒーをズズズッと飲むと、グラスを端へ押しやりながら話を変えやがった。

「覚えてる? 大学の後輩と焼き肉食べに行ったの」
「だれ?」

「ほら、会計士の勉強してるって言ってた子」

言われて、ぼんやり思い出す。カルビばっかり食べてた子か。

「あの子、ここに来るよ」

会いたくない。反射的に思った。どうせ勝手に比べて、勝手にへこんで、「すごーい」と愛想笑いを浮かべるだけだから。

帰ろうとバッグに手を伸ばしかけたところで、入口のベルがカラン、カランと鳴った。つられて顔を上げると、カルビの子が重たそうなトートバッグを肩にかけたままこちらへ歩いてくる。

「彼女、会計士試験に4回落ちても、まだ諦めていない」
「うそでしょ?」

友だちの言葉が、私の鼓膜をちくちくと刺す。惰性と偶然で拾った合格を握りしめて「倦怠期だわ」なんて言っていた自分が、ひどく薄っぺらな存在に思えてきた。

「バッグ、重そうですね」と私は声をかけた。

「テキストが入ってますから」
「ノートも入ってるんですか?」

「いや、ノートは作ってないんで」

ノートがない? 理解が追いつかない私の前に、どさっと置かれたのは、財務会計論と書かれた鈍器のように分厚いテキストだった。

「くっそ汚いじゃん」

思わず爆笑してしまった。手垢で黒ずんだ小口に、角の折れた表紙。中を見れば、これまたひどい。修正テープで白く隠す手間すら惜しんだのか、間違えた箇所はグシャグシャッと乱暴な筆跡で塗りつぶされている。

「字が汚いほうが頭に入ってくるんですよ」

妙に納得してしまった。そういえば、やたら勉強ができた幼なじみも、ムカつくほど成績のよかった弟も、さっきまで私を追い詰めていたこいつも、字はどうしようもなく汚い。でも、ノートを作らない世界線なんてあるのか。

「ノートはなんで作らないんですか?」
「そんな時間があるなら、1問でも多く解きたいから」

「ふぁっ」

喉がおかしな音をたてた。

「だから何回も言ってるだろ」

待ってましたとばかりに、友だちがドヤ顔で割り込んできた。

「だいたい、きれいにノートを作ったら10点もらえるのか?」
「もらえないけど、スペックが違うんだからしょうがないじゃん」

苦しまぎれの反論は、自分の耳にすら虚しく響いた。折れ曲がったただの付箋も、赤と黒の2色で書き込まれたメモも、曲がった線も、汚いのに、かっこいい。

私は目の前のテキストを見つめたまま、「なんで?」を繰り返した。復習はどうやるのか。わからない問題にぶちあたったらどうするのか。やりたくないときはどうするのか。勉強していて不安にならないのか。なにを聞いても、最後に残るのは同じ疑問だった。

「なんで、そんなにがんばれるんですか?」

しょうもない言葉だけど、聞かずにはいられなかった。本当にわからないから。彼女はテキストを見つめながら、唇をほとんど動かさずに答えた。

「私、がんばってないから」
「いや、がんばってない人のテキストじゃないです」

彼女は力なく首を振る。

「合格する人はもっとすごいから」

急に視界がぐらりと揺れ、内側からカッと熱いものが込み上げてきた。4回も叩き落とされながら、立ち止まる時間も、自分を甘やかす逃げ道も、やった気になるまやかしも削って、それでも地を這うようにして戦い続けている。その生き様を「がんばっている」と呼ばない世界があるなら、私は?

返す言葉を失っているうちに、彼女はくっそ汚いテキストを大事そうにトートバッグへしまい、何ごともなかったように立ち上がった。イスを引く音がやけに鋭く響いて、私はそこでやっと顔を上げた。

「じゃ、私そろそろ」

その後ろ姿を見送っていると、友だちがぽつりとこぼす。

「めずらしく素直だな」
「彼女が一発で合格してたら、1ミリも心は動かなかったかな」

新しいカフェラテがテーブルに置かれると、白い泡が私のノートみたいで、なんだか無性に汚したくなった。彼女のテキストには、フラれた跡がたくさんあった。なのに私はずっと、嫌われない距離から「好きだ」と言っていただけ。白い泡にストローを沈めたところで、友だちがこちらを見た。

「で、どうするの?」

「……やめるなんて言ってない」
「へえ、やるんだ」

呆れたような、でもどこか嬉しそうに友だちが言う。返事をするのも癪で、目をそらしたままカフェラテを飲み干すと、グラスの底には白い泡だけが残った。

カフェを出てからも、あの手垢まみれのテキストが頭から離れなかった。あれが勉強ってやつか。ノートはいらない。走り書きでいい。カラフルじゃなくていい。もう、やれそうな気しかしなかった。

家に帰るなりバッグを放り出し、テキストを開いた。彼女をまねて、余白に間違えた理由を書き込む。定規を使わずに引いた線は、ひどくゆがんでいて、不格好だった。

でも、それでいい……わけでもない。

ゆがんだ線を見るたびに思考が止まる。泥臭くやりたいのに、手だけが潔癖だ。

「……やっぱムリ!」

そう叫んで、テキストを閉じた。

***

今日もカフェラテを飲みながら、iPadにペンを走らせる。画面を埋めていくのは、ミミズののたくったような字とゆがんだ線。見ているだけで、こめかみがピクピクする。たまらず画面をタップすると、ヘロヘロの線がシャキーンと直線に化け、ふにゃふにゃの文字たちまで、すました顔で整列していく。

ああ、デジタルってなんて快適で、なんて意思が弱いんだろう。きれいなテキストにうっとりしていたら、友だちの薄ら笑いが画面の端から入り込んできた。

「デジタルだと頭に残りにくいらしいぞ」
「大丈夫。紙でやってたときだって残ってないから」

カフェラテの隣にiPadを置くと、小さなテーブルはそれだけでいっぱいになった。ノートの居場所は、もうない。なのに画面の隅では、大仏だけがちゃっかり座って、きれいに並んだ文字を眺めている。また片想いが始まった。

私は相変わらず、勉強ができない。


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