幸せな生活 【023】— 本国に必要とされる日—
本国で暮らし始めて、半年が経った。
毎日、家のことを教えてもらった。 掃除の仕方や、食事の準備の順番。 物音を立てない歩き方。 言葉の選び方。 どれも学校で習ったことと同じで、すぐに慣れた。
家族の方々は優しかった。 男性の方は、仕事から帰ると必ず私の体調を気遣ってくれた。 「今日はどこか痛くない?」と、私の腕や腰にそっと触れて確かめてくれる。 その丁寧さが嬉しかった。
妻の方は、細かい家事のコツを丁寧に教えてくれた。 「あなたの手は小さいから、この持ち方がいいわよ」と言って、 私の指を一つずつ正しい形に整えてくれた。 まるで壊れやすいものを扱うような優しさだった。
男の子は、私の後ろをついて歩きながら、よく笑っていた。 時々、私の髪の匂いを確かめるように近づいてきて、 「いい匂いだね」と嬉しそうに言った。 新しいおもちゃを見つけたときのような目だった。
そんな生活の中で、私は妊娠した。
病院でそのことを告げられたとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。 先生は穏やかな声で言った。
「おめでとうございます。とても順調ですよ」
私はうなずいた。 六年間学んできたことが、 やっと誰かの役に立てるのだと思うと、 胸の奥が静かに温かくなった。
病院の廊下は静かで、白くて、少し甘い匂いがした。 検査室へ向かう途中、ふと昔のことを思い出した。
母が私を抱いてくれた日のこと。 入学式の日。 身体調整の日。 卒業式の日。 そして、本国へ来た日のこと。
どれも私を、今日ここまで連れてきてくれた。
私はそのすべてが、今につながっているのだと思った。
お腹が少しずつ重くなっていく。 家族の方々は、以前よりもさらに優しくなった。
「無理しなくていいよ」 「座っていてね」 「ゆっくりで大丈夫だからね」
私はその言葉が嬉しかった。 必要とされていることが、胸の奥を温かくした。
やがて出産の日が来た。
病院の部屋は静かで、白い光が柔らかく広がっていた。 先生たちは落ち着いていて、優しかった。
「大丈夫ですよ。ゆっくり呼吸してくださいね」
私はうなずいた。 身体調整で教わった通り、深く、静かに息を吸った。
痛みはあったけれど、怖くはなかった。 これが役に立つということだと思うと、むしろ誇らしかった。
やがて、小さな泣き声が聞こえた。
「元気な子ですよ」
先生がそう言って、赤ちゃんを私のそばに置いてくれた。 とても小さくて、温かかった。
私はそっと触れた。 指先が震えた。
女の子だった。
私は思わず笑った。
ああ、 この子も幸せになれる。
胸の奥がすっと軽くなった。 あの日、母が私を抱いてくれた理由が、 少しだけ分かった気がした。
この子は、本国で生まれた。 私よりずっと良い未来を歩くのだと思った。
それが嬉しかった。
家族の方々が部屋に入ってきた。 男性の方は嬉しそうに笑い、 妻の方も静かに微笑み、 男の子は何度も赤ちゃんをのぞき込んでいた。
私は、 ようやく、この家の一員になれたのだと思った。
病室の壁には、淡い色のポスターが貼られていた。
『おめでとう。あなたは義務を果たし、権利を得た。』
優しい書体で、胸がすくような立派な言葉だった。 私はその言葉を、何度も読み返した。
ようやく、 私も本国に必要とされる人になれた気がした。
上を向いて歩くことはしないけれど、 足元に広がる病院の床は、とても綺麗だった。
私は静かに息を吸った。
この子は、本国で生まれた。 私より、もっと幸せになれる。
そう思うと、 胸の奥が静かに温かくなった。
母が私に願ってくれた幸せを、 今度は私が、この子へ渡していく。
そのことを思うだけで、 胸の奥は、静かに温かかった。
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幸せな生活 — 【エピローグ】—
