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『ドールズ・ハイ』          第2章『境界の継承』第1話『新たな境界』

―あらすじ―


第七封鎖区画での一連の事件から数日。

教導院には平穏な日常が戻ったように見えていた。
訓練は再開され、
整備区画では結晶核の精製が続き、
生徒たちも普段通りの時間を過ごしている。

しかし、
その「日常」は以前と同じではなかった。

アルトの首元で静かに揺れる
《アイゼン・ガルテン》は時折微かな共鳴を返し、隔離管理下に置かれたノアは、
異常とは思えぬほど安定した同期状態を
維持し続ける。

保守管理区画では不可解な管理記録が増え、
第七封鎖区画へ繋がる痕跡は、
誰にも気付かれぬまま静かに広がっていた。

そして教導院全体で、
ごく僅かな「認識のずれ」が積み重なり始める。

誰も異変とは呼ばないその違和感は、
やがて世界そのものを揺るがす新たな境界の
始まりだった。

第1話『新たな境界』


朝霧が教導院の尖塔をゆっくりと包み込んでいた。

静かな鐘の音が響き、
生徒たちは規律正しく登校していく。

笑い声が交わされ、
訓練場では木剣を打ち合わせる乾いた音が
朝の空気を震わせる。

どこにでもある日常。

少なくとも、
そう見えていた。

だが、
その空気の奥底には、
誰も言葉にできない静かな重みが沈んでいた。

第七封鎖区画で起きた出来事は、
公式には存在しない。

それでも、
その場にいた者たちの胸には
確かな痕跡だけが残っていた。



アルトは制服の襟元へ手を添えた。

銀色の首飾り──《アイゼン・ガルテン》。

冷たい金属は、今日も静かだった。

「……」

何も起きていない。

そう思った瞬間だけ、
ごく微かな振動が首元を伝う。

錯覚か。

そう結論付けるには、
ここ数日あまりにも同じ感覚が続いていた。

リオが隣へ並ぶ。

「顔色、
悪いぞ。」

「寝不足なだけ。」

短い返事。

リオはそれ以上追及しなかった。

互いに知らないふりをすることも、
今では一つの優しさになっていた。



実技棟ではミレイが
静かに《ルミナ・ティア》を整えていた。

淡い光を帯びる装飾具は、
以前よりも僅かに長く余韻を残す。

「また……。」

誰にも聞こえないほど小さな独り言。

隣ではカインが、
《シュヴァル・ボルト》の固定具を
締め直していた。

「調子は。」

「悪くはない。」

短い会話。

だが互いに理解していた。

悪くない。

それは決して「元通り」を意味していない。

班員たちも以前より静かだった。

誰もが戦いを経験し、
それぞれ何かを持ち帰ってしまった。



整備管理棟。

巨大な《ポット》が低い駆動音を響かせる。

精製された結晶核が、
淡い光を宿しながら搬送台へ並んでいく。

エルヴィンは端末を操作しながら眉を寄せた。

「またか。」

記録上の数値は正常。

しかし精製効率だけが、
ごく僅かに上昇している。

原因は不明。

装置異常も確認できない。

フィオナが記録板を覗き込む。

「誤差?」

「誤差なら毎日同じ増え方はしねぇ。」

彼は端末を閉じる。

理由は分からない。

それでも数字だけは嘘をつかなかった。



保守管理区画。

立ち入りを許される者は限られている。

シエラは監視端末へ新しい報告を入力していた。

管理ログ。

封鎖状況。

外周設備。

全て正常。

そう表示されている。

しかし一つだけ。

誰も入力していない巡回履歴が追加されていた。

巡回者名。

──未登録。

時刻。

──存在しない時間。

シエラは黙って画面を見つめる。

削除しようと指を伸ばす。

その瞬間、
履歴は何事もなかったように消えていた。

「……。」

記録だけが、
彼女の中へ残る。



隔離管理区画。

透明な隔壁の向こうでノアは静かに座っていた。

呼吸は安定。

脈拍も正常。

同期波形も極めて穏やか。

それが逆に異常だった。

担当研究員は首を傾げる。

「安定しすぎている。」

通常なら揺らぐ。

崩れる。

乱れる。

だがノアだけは違った。

まるで、
誰かと静かに同期し続けているようだった。

本人は窓の外を見つめている。

遠く離れた訓練場。

その方向へ。



ガルドは教導院外周の巡回を終え、
警備報告書へ目を通していた。

異常なし。

侵入なし。

魔獣反応なし。

完璧な報告。

それでも彼は書類を閉じない。

何か一つだけ足りない。

そんな感覚が拭えなかった。

「気のせいか。」

誰へ向けるでもなく呟く。

返事はない。



エドガーは資料室で古い設計図を広げていた。

建築当初の教導院。

現行図面。

保守管理図。

どれも一致している。

そのはずだった。

「……また違う。」

昨日まで存在した一本の通路。

今日見ると最初から描かれていない。

紙は書き換わっていない。

記憶だけがずれている。

彼は図面を閉じた。

確認する術がない。

だから誰にも報告できなかった。



ダグ班は外壁補修を終え、
資材を片付けていた。

「最近、
風向き変わったな。」

若い整備員が何気なく言う。

ダグは空を見上げた。

確かに風は変わった。

だが違和感は風ではない。

外壁の影。

毎日見慣れたはずの影が、
ほんの少しだけ位置を変えていた。

太陽の角度では説明できない。

しかし翌日になれば誰も覚えていない。

だから報告されることもない。



夕暮れ。

アルトは人気のない回廊を歩いていた。

ふと首元の《アイゼン・ガルテン》が
微かに震える。

一度。

二度。

三度。

その振動は今までで最も長く続いた。

同時に。

教導院中の時計が、
ほんの一瞬だけ止まる。

誰も気付かないほど短い停止。

次の瞬間には何事もなく針が動き始める。

生徒たちは笑いながら歩き続ける。

教師も整備員も警備兵も。

誰一人、
その一秒未満の空白を認識しなかった。

ただ一人。

アルトだけが立ち止まる。

そして遠く、
隔離管理区画で、
ノアも同じ瞬間に静かに目を開いた。

二人は互いを見ることはない。

届くはずもない距離。

それでも。

まるで境界の向こう側で、
何かが再び繋がったかのように。

教導院の最深部。

誰もいないはずの管理端末へ、
新しい文字列が静かに浮かび上がる。

《外周接続準備──継承確認》

表示は三秒後、
跡形もなく消えた。

誰にも知られることなく。

世界だけが、
次の境界へ足を踏み入れていた。

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