『ドールズ・ハイ』 第2章『境界の継承』第1話『新たな境界』
―あらすじ―
第七封鎖区画での一連の事件から数日。
教導院には平穏な日常が戻ったように見えていた。
訓練は再開され、
整備区画では結晶核の精製が続き、
生徒たちも普段通りの時間を過ごしている。
しかし、
その「日常」は以前と同じではなかった。
アルトの首元で静かに揺れる
《アイゼン・ガルテン》は時折微かな共鳴を返し、隔離管理下に置かれたノアは、
異常とは思えぬほど安定した同期状態を
維持し続ける。
保守管理区画では不可解な管理記録が増え、
第七封鎖区画へ繋がる痕跡は、
誰にも気付かれぬまま静かに広がっていた。
そして教導院全体で、
ごく僅かな「認識のずれ」が積み重なり始める。
誰も異変とは呼ばないその違和感は、
やがて世界そのものを揺るがす新たな境界の
始まりだった。

第1話『新たな境界』
朝霧が教導院の尖塔をゆっくりと包み込んでいた。
静かな鐘の音が響き、
生徒たちは規律正しく登校していく。
笑い声が交わされ、
訓練場では木剣を打ち合わせる乾いた音が
朝の空気を震わせる。
どこにでもある日常。
少なくとも、
そう見えていた。
だが、
その空気の奥底には、
誰も言葉にできない静かな重みが沈んでいた。
第七封鎖区画で起きた出来事は、
公式には存在しない。
それでも、
その場にいた者たちの胸には
確かな痕跡だけが残っていた。
◇
アルトは制服の襟元へ手を添えた。
銀色の首飾り──《アイゼン・ガルテン》。
冷たい金属は、今日も静かだった。
「……」
何も起きていない。
そう思った瞬間だけ、
ごく微かな振動が首元を伝う。
錯覚か。
そう結論付けるには、
ここ数日あまりにも同じ感覚が続いていた。
リオが隣へ並ぶ。
「顔色、
悪いぞ。」
「寝不足なだけ。」
短い返事。
リオはそれ以上追及しなかった。
互いに知らないふりをすることも、
今では一つの優しさになっていた。
◇
実技棟ではミレイが
静かに《ルミナ・ティア》を整えていた。
淡い光を帯びる装飾具は、
以前よりも僅かに長く余韻を残す。
「また……。」
誰にも聞こえないほど小さな独り言。
隣ではカインが、
《シュヴァル・ボルト》の固定具を
締め直していた。
「調子は。」
「悪くはない。」
短い会話。
だが互いに理解していた。
悪くない。
それは決して「元通り」を意味していない。
班員たちも以前より静かだった。
誰もが戦いを経験し、
それぞれ何かを持ち帰ってしまった。
◇
整備管理棟。
巨大な《ポット》が低い駆動音を響かせる。
精製された結晶核が、
淡い光を宿しながら搬送台へ並んでいく。
エルヴィンは端末を操作しながら眉を寄せた。
「またか。」
記録上の数値は正常。
しかし精製効率だけが、
ごく僅かに上昇している。
原因は不明。
装置異常も確認できない。
フィオナが記録板を覗き込む。
「誤差?」
「誤差なら毎日同じ増え方はしねぇ。」
彼は端末を閉じる。
理由は分からない。
それでも数字だけは嘘をつかなかった。
◇
保守管理区画。
立ち入りを許される者は限られている。
シエラは監視端末へ新しい報告を入力していた。
管理ログ。
封鎖状況。
外周設備。
全て正常。
そう表示されている。
しかし一つだけ。
誰も入力していない巡回履歴が追加されていた。
巡回者名。
──未登録。
時刻。
──存在しない時間。
シエラは黙って画面を見つめる。
削除しようと指を伸ばす。
その瞬間、
履歴は何事もなかったように消えていた。
「……。」
記録だけが、
彼女の中へ残る。
◇
隔離管理区画。
透明な隔壁の向こうでノアは静かに座っていた。
呼吸は安定。
脈拍も正常。
同期波形も極めて穏やか。
それが逆に異常だった。
担当研究員は首を傾げる。
「安定しすぎている。」
通常なら揺らぐ。
崩れる。
乱れる。
だがノアだけは違った。
まるで、
誰かと静かに同期し続けているようだった。
本人は窓の外を見つめている。
遠く離れた訓練場。
その方向へ。
◇
ガルドは教導院外周の巡回を終え、
警備報告書へ目を通していた。
異常なし。
侵入なし。
魔獣反応なし。
完璧な報告。
それでも彼は書類を閉じない。
何か一つだけ足りない。
そんな感覚が拭えなかった。
「気のせいか。」
誰へ向けるでもなく呟く。
返事はない。
◇
エドガーは資料室で古い設計図を広げていた。
建築当初の教導院。
現行図面。
保守管理図。
どれも一致している。
そのはずだった。
「……また違う。」
昨日まで存在した一本の通路。
今日見ると最初から描かれていない。
紙は書き換わっていない。
記憶だけがずれている。
彼は図面を閉じた。
確認する術がない。
だから誰にも報告できなかった。
◇
ダグ班は外壁補修を終え、
資材を片付けていた。
「最近、
風向き変わったな。」
若い整備員が何気なく言う。
ダグは空を見上げた。
確かに風は変わった。
だが違和感は風ではない。
外壁の影。
毎日見慣れたはずの影が、
ほんの少しだけ位置を変えていた。
太陽の角度では説明できない。
しかし翌日になれば誰も覚えていない。
だから報告されることもない。
◇
夕暮れ。
アルトは人気のない回廊を歩いていた。
ふと首元の《アイゼン・ガルテン》が
微かに震える。
一度。
二度。
三度。
その振動は今までで最も長く続いた。
同時に。
教導院中の時計が、
ほんの一瞬だけ止まる。
誰も気付かないほど短い停止。
次の瞬間には何事もなく針が動き始める。
生徒たちは笑いながら歩き続ける。
教師も整備員も警備兵も。
誰一人、
その一秒未満の空白を認識しなかった。
ただ一人。
アルトだけが立ち止まる。
そして遠く、
隔離管理区画で、
ノアも同じ瞬間に静かに目を開いた。
二人は互いを見ることはない。
届くはずもない距離。
それでも。
まるで境界の向こう側で、
何かが再び繋がったかのように。
教導院の最深部。
誰もいないはずの管理端末へ、
新しい文字列が静かに浮かび上がる。
《外周接続準備──継承確認》
表示は三秒後、
跡形もなく消えた。
誰にも知られることなく。
世界だけが、
次の境界へ足を踏み入れていた。
