『ドールズ・ハイ』 第1章『黒の残響』第52話『不在証明』
―あらすじ―
「何かが欠けている」
その感覚は教導院全体へ静かに広がっていた。
ダグ班は訓練結果の“手応えの欠落”に気付き、フィオナは成績データの整合性の中に説明できない空白を見つける。
ミレイは欠番ログの増加が加速している事実を観測し、カインは《第零隔離事案》の断片から“未定義接触領域”という概念へ辿り着く。
教導院は正常に稼働している。
それでもそこには、「存在しているのに認識されないもの」が確実に混ざり始めていた――。

第52話『不在証明』
晩秋の教導院は、
曇天の白さの下で静かに稼働していた。
授業、
訓練、
整備、
点呼。
どれも正確で、
どれも正常で、
どれも問題がない。
だからこそ、
違和感だけが浮いている。
廊下を歩く足音が、わずかに遅れて響く。
振り返った瞬間だけ、人の輪郭が薄くなる。
誰も説明しないまま、その“ズレ”だけが全員の中に残っていた。
◇
ダグ班は訓練場にいた。
模擬戦は予定通り終了している。
記録も被弾ログも勝敗も、
すべて正常。
だがダグは武器を下ろしたまま動かない。
「……軽い」
誰に向けたわけでもなく、
そう呟いた。
「何がっすか?」
「全部だ」
ダグは画面を見ない。
自分の手を見る。
「当たった感触が薄ぇ。
やってるはずなのに、
返ってくるもんがねぇ」
「ログは正常ですよ」
「知ってる」
即答だった。
問題はそこじゃない。
「勝ってるのに、
勝ってる感じがしねぇ」
その言葉に誰も返せなかった。
◇
フィオナ班は記録整理室にいた。
出席、成績、演習履歴。
すべて完璧に整っている。
フィオナは端末を止める。
「……完璧すぎる」
「何がですか?」
「揃いすぎてる」
淡々とした声だったが、
そこには確かな違和感があった。
「普通はズレがある。
誤差がある。でもこれ……一切ない」
「良いことじゃないんですか?」
「違う」
言い切れないまま、
フィオナは画面を見つめる。
そこには“正しすぎる現実”が並んでいた。
◇
ミレイは解析室でログを追っていた。
欠番データは増えている。
しかし問題はその“増え方”だった。
不規則。
ではない。
揺らいでいる。
「……呼吸してるみたい」
欠番の間隔が、
ある周期で詰まり、
また開く。
まるで何かが、
こちらの観測に合わせて位置を変えているように。
「これ、データじゃない……?」
呟いた瞬間、指先が冷える。
◇
カインは旧資料の奥へ踏み込んでいた。
《第零隔離事案》
その断片はさらに欠けている。
だが新たな語句が浮かび上がる。
『未定義接触領域』
「接触対象が……定義されていない」
意味は成立しないはずだった。
それなのに、
今の状況と一致してしまう。
存在しているのに、
対象として成立しない。
カインは静かに息を吐いた。
「枠の外じゃない……枠そのものが壊れてる」
◇
昼食時。
食堂はいつも通り混雑している。
だが、一人の生徒が箸を止めた。
「……誰か、いた気がする」
隣の生徒が振り返る。
「誰?」
「いや……分からない」
皿は一枚。
椅子は一つ空いている。
それなのに“もう一人いたような感覚”だけが残る。
数秒後、
その話題は自然に消えた。
最初から何もなかったように。
◇
教導院データベースは自動整合を完了する。
『総数一致』
『異常なし』
『正常稼働』
すべて問題なし。
だが画面の隅で、
一瞬だけ表示される。
『∅』
次の瞬間、消失。
ログには残らない。
誰も気付かない。
◇
夜。
アルトは廊下に立っていた。
ポケットの中には、
折りたたまれた紙。
『思い出さないで』
捨てることもできない。
その時だった。
空間が、
わずかに揺れる。
見えないはずの“ずれ”。
人の気配。
距離の定義が曖昧になる感覚。
アルトは動けなかった。
確信だけが残る。
何かがそこにいる。
だがそれは、
“いる”と呼べる形をまだ持っていない。
そこで夜は途切れた。
